次のエピソードも、恐山菩提寺住職代理 南直哉さんの著書『恐山』(新潮新書)からのものです。
菩提寺の宿坊に、50代年配の夫婦が泊っていたそうです。一泊の後、なかなか帰る様子がないので事情を聴くと、「イタコさんに会えなかった」と答えます。
恐山のイタコとは、恐山に出張営業をしている個人事業であり、いわば縁日の出店のようなもので、南さんとしてはイタコが口寄せをするのを拒むのでもないし、参拝者との仲介をするわけでもない、不干渉の立場を貫いているのだそうです。
南さんが、夫婦に「明後日は土曜日なので来るはずだ」と伝えると、それではもう2泊しますと言うので、詳しい事情を尋ねることにました。
夫婦がポツリポツリと語るところによると、3年前、夫婦とその長男が出かける用事があり3人がそろって玄関を出て、夫婦が玄関のかぎを閉めたりしているうちに、長男だけが門の外に出た。そのとたん、暴走してきた車にはねられて死んでしまったのだそうです。
その後、ご主人は強度のうつ状態に陥り、一歩も外に出られなくなったといいます。3年の月日がたち、心持も変わってきたようなので、奥さんが「恐山まで息子に会いに行こう」と提案して、宿坊に宿泊するに至ったという説明でした。
以下、原文を引用させていただきます。
「和尚さん、私らみたいなものには何もわからないのですが、死んだ者をいつまでも想ったり悲しんだりしていると、それが邪魔になって死者が成仏できないというのは本当でしょうか?」と尋ねてきました。
しばらくは言葉が出てきませんでした。答えに窮していると、旦那さんが「あなたの話は全くもってもっともだが、私はとにかく息子に会って、何で死んでしまったのか、それだけが聞きたい」と訴えてきたのです。
なぜ死んでしまったのか、その理由が聞きたい。
冷静に考えれば、そこに理由などありません。門を出たところで、暴走した車に轢かれてしまった。酷ですが、それだけです。理不尽な死です。それは分かりきったことです。
ところが旦那さんが言いたいのは、そういうことではない。なぜあのとき、あの場所で、他の誰でもなくて、自分の息子が死ななきゃならなかったのか。なぜ私たちから息子が突然奪われなければならなかったのか。それを知りたい。
でも、それは絶対わからないことです。
私は声が出なかった。慰めの言葉も見つかりませんでした。(前掲書72頁)
2日後、宿坊のロビーで南さんはこのご夫婦に声をかけました。イタコさんには会えましたかと訊くと、ご主人は「イタコさんにはありがたい言葉をかけていただきました」とだけ答えたそうです。なんどか言葉をかけても、イタコについては同じ返事を繰り返すだけで、何を話してくれたのかは教えてくれなかったそうです。また「もうちょっといて、修行のまねごとか何かをさせていただいて、息子のことを考える時間がほしいと思いました」と、いくぶん生気の戻った目で語ってくれたといいます。
このご主人にとってみれば、亡くなった長男は自分を初めて「父親」にしてくれた存在です。言い換えれば、そのようなかたちで認めてくれた存在でもあります。
この関係自体は息子さんが亡くなった後でも変わらないため、残された生者だけがそれを抱え込むのはしんどいことです。そこで「死者にその関係性を預かってもらう」場所が必要なのだと、南さんは言います。
恐れと懐かしさのないまぜになった死者の輪郭をはっきりさせて、自分との距離を作ってくれるものが、お墓であったり、位牌であったり、イタコであったりする。そのような宗教の仕掛けが必要なのだと、南さんは語ります。