犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

柏手を拍つ

2013-02-04 23:16:05 | 日記

『魏志倭人伝』には、古代の日本人が相手に対する敬意を表するのに、中国のようにひざまずくのではなく、柏手を拍っていたという記述があります。

僧侶で作家の玄侑宗久さんによれば、柏手を拍つというのは敬うべき対象があるから、それに敬意を払うための行為ではないのだそうです。そうではなく、柏手を拍つことでそこに「敬う心」を感じ、神さまが降りてくるという仕組みなのです。古代の日本人には、そのようなひとに対する敬い方があった。けれどもやがて、この風習は神に対する接し方に限定されるようになったのです。

玄侑さんが強調するのは、われわれが常識や習慣やしがらみなどで、自分と世界を分かち、世界をこまごまと分節し、分節する自分をさらに窮屈に枠にはめることによって、人間は不幸になっていくのだ、ということです。
ひとはそれを「物心が付いた」「知恵が付いた」といって、当たり前の人格形成、人格維持の過程と捉えますが、そうやってがんじがらめに分節し、くくり込んだ世界をいったん「開いてみる」という作業を意図的にやっていないと、この不幸の連鎖から逃れられないのです。

柏手を拍つとは、ガチガチに結んだ関係をほどくための、仕切り直しの作業に他なりません。
柏手を拍ち、今あなたの前でまっさらな、とらわれのない存在ですよと表明することで、敬意を払われた相手と自分との関係がゼロから始まる。これが神聖なものが降りてくる瞬間、その関係が神性を帯びる瞬間なのです。

玄侑さんは「かみ」の語源は「鏡」ではないかと言います。鏡はいっさい未練なく何を映しても嫌がらず、長く映したいとも思わずにそのままを映します。また映したことさえも上手に忘れていきます。
いわば「私という穢れ」がない鏡は、目指すべき境地であり、永遠に到達し得ない目標であり、それゆえ神性を宿すのです。

とらわれのない心になって、目の前の相手とやりくりしながら、最善を目指す。これがもともとは和語であった「しあわせ」の意味であると玄侑さんは言います。
相手と「仕合わせる」ー 思ってもみない出来事に自分自身が揺らぎながら、その場その場の巡り合わせを楽しむ。古くからわれわれが目指していた尊い人間関係はこのようなものでした。そして、それは普通「幸福」という語で今日思い描かれる、物質的豊かさではなかったのだ、そう玄侑さんは言います。


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