犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

緑を醸すふたつの色

2021-04-18 23:51:51 | 日記

思いもかけない朝の寒さに、仕舞おうとしていたストーブのスイッチを入れます。窓の外には隣家のツツジが咲き誇り、灌木の新緑が輝いているのも関わらず、これが最後の冷え込みなのでしょう。

新緑の低き庭木にさす朝日 ひかりとかげの濃き綾を織る (窪田空穂)

新緑の眩しさは「ひかり」によって姿を現すとともに、「かげ」によって紡ぎ出される色の綾が、いのちの深みを私たちに伝えてくれます。それは「織る」ように、私たちの前に現れます。決して混ざり合うのではなく。

染色家の志村ふくみさんによると、緑色を植物から引き出して、糸に染め出すことはできないのだそうです。
緑色の糸を作るには、太陽の光をいっぱいに浴びた、刈安などの植物から引き出した黄色に、藍色を掛け合わせます。光の色に最も近い黄色に、ちょうど真逆にある深い藍色を掛け合わせることで現れるのが緑色なのです。
志村さんは次のように語ります。

黄色の糸を藍甕につける。闇と光の混合である。そして輝くばかりの美しい緑を得るのである。(『ちよう、はたり』ちくま文庫)

ここで注目したいのは、黄色と藍色とを「混ぜ合わせる」ことによって緑色が出現するのではなく、いわば「交わる」ことでようやく染め上がるということです。それぞれの色が、その本来の色味を失うことなく、いやむしろ引き立て合うように醸し出すのが緑という色なのだそうです。
志村さんは次のようにも語っています。

やはり緑は生命と深いかかわり合いをもっていると思う。生命の尖端である。生きとし生けるものが、その生命をかぎりなくいとおしみ、一日も生の永かれと祈るにもかかわらず、生命は一刻一刻、死にむかって時を刻んでいる。とどまることがない。その生命そのものを色であらわしたら、それが緑なのではないだろうか。(『色を奏でる』ちくま文庫)

生者はどこまでいっても死にはたどり着くことができません。つまりは混じり合うことは不可能です。しかし、死者を悼むことで「交わる」ことは可能です。
そういえば、フランソワ・トリュフォー監督の映画で、みずから主役を演じた『緑色の部屋』も、死者の肖像や写真が飾られた部屋で、死者へ愛情を傾ける話でした。緑は死者との「交わり」をも、強く発信する色なのかもしれません。


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