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犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

アジサイの青

2025-05-28 22:02:07 | 日記

沢沿いにヤマアジサイの花が咲いていました。近所の垣根のアジサイも、やがて、とりどりの色を競わせる季節を迎えます。

アジサイの花の色が青の場合、土壌は酸性であり、赤色の場合、土壌はアルカリ性というのはよく知られています。しかし、これがたまたま、そこに根を下ろした土壌によって左右される色変化かというと、そう単純なものでもないのだそうです。

火山の多いわが国では酸性の土壌が圧倒的に多く、青色のアジサイが多いといいます。酸性土壌ではアルミニウムが溶解しやすく、これが花に含まれる色素と結合し、青色を発色するのです。
ところが、アジサイが老化してアルミニウムを吸い上げる力がなくなると、青みが薄れ、赤みがかった花の色に変わっていきます。七変化とも言われる色変化は、アジサイの老化によって引き起こされる、そういう側面があるのだそうです。

話は変わりますが、最晩年の宮沢賢治は、農業のための土壌改良に尽力しました。「東北砕石工場」の技師となり、みずから「肥料用炭酸石灰(タンカル)」と名付けた商品のサンプルを抱えて東奔西走します。しかしこれが結果として、死期を早めることになりました。
もともと過労からくる急性肺炎で療養中だった賢治にとって、厳しすぎる労働だったのです。しかし、酸性の土壌を石灰で中和して農産物の育ちやすい環境をつくるのが、賢治がみずからに課した使命でした。

酸性の土壌で溶解しやすいアルミニウムは、植物の根の成長を阻害し、養分を吸収できなくします。しかし、アジサイはみずからその毒を取り込んで、澄んだ青色を輝かせます。その毒のせいで根が弱り、毒を吸いきれなくなると、鮮やかな赤色を帯びて花の最期を飾るのです。

あわれでもあり、見事な花の一生ではないでしょうか。
賢治のみずからの命を賭して使命に捧げる最晩年の姿にも、どこか重なるようです。

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ツリガネソウの音

2025-05-26 21:32:01 | 日記

稽古場に「ツリガネソウ」が一枝顔を覗かせていました。赤みがかったものよりも、純白がやはりこの季節に合っているように思います。

「ホタルブクロ」とも呼ばれるのは、花に蛍を入れて遊んだから、といったものや、花の形が提灯(火垂る)の形に似ていたから、という諸説があるのだそうです。それもまた風情がありますが、私は「ツリガネソウ」の方が、この花をよく表しているように思います。
洋名「カンパネラ」は「小さな鐘」を指しているので、ツリガネソウはこの名にも通じます。

カンパネラといえば『銀河鉄道の夜』に登場する、ジョバンニの親友「カムパネルラ」を思い起こさせます。川で溺れそうになった友人を助けようとして犠牲になった少年です。賢治は犠牲者へ鳴らす弔いの鐘の意味を、この名に込めたのではないでしょうか。
そうやってこの花を見ると、静かな音を奏でているようにも思います。

ところで、『銀河鉄道の夜』には、ひとり異質な人物が登場します。登場人物のほとんどは、信仰者であったり、人生について真剣に考える人たちであるのに「鳥を捕る人」だけが、いわゆる俗物として描かれています。

途中から列車に乗り込んできて、ジョバンニやカムパネルラに何かと話しかけたり、二人が持っている切符を見てはしきりに感心してみせたりして、軽薄な印象を与える人物です。ジョバンニたちも波長の合わない会話に辟易しているうちに、気がつくと「鳥を捕る人」は消えていました。ジョバンニは、そのときになって「どうしてもう少しあの人に親切に物を言わなかったのだろう」と後悔するのです。

吉本隆明は、著書『宮沢賢治の世界』のなかで、この賢治の「こだわり」について繰り返し言及しています。法華経や大乗仏教の教義をはみ出したところで、なお宗教的なものがあって、それが賢治の文学の底に流れているのだと。賢治の常不軽菩薩に対する向き合い方も、その人に帰依するというよりも、日常経験していて問題にしたがらないことがらに、こだわらざるを得ない、そういう覚知をもたらす存在として捉えているのだと、吉本は述べています。

前に賢治の常不軽菩薩について書いたことを、「ツリガネソウ」を見ていて思い出しました。賢治のこだわりは、日常経験している風景から、反転した景色を見てしまうことではなかったか、と考えます。

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もてなしの「三心」について

2025-05-24 20:58:50 | 日記

前回、親の子に対する眼差しを、円の内と外との関係にたとえて、愚考を重ねました。そこで思い出した話があります。

道元禅師は『典座教訓』という書物の中に、修行僧が食事を作る際の心構えとして大切なものとして、「喜心、老心、大心」の三心を挙げています。玄侑宗久さんが、著書(『中途半端もありがたい』東京書籍)のなかで、これをわかりやすく解説していて、もてなしの心について大いに考えさせられたことがあります。

道元は、もてなしにあたり、人は三つの心を持たなければいけないと語ります。ひとつめが「喜心」であり、もてなす側の喜ぶ心です。二つめが「老心」で、親が子どもを慈悲深く見つめる心のことを指します。三つめが「大心」であり、これは三心の要石のような重要な心です。

「大心」とは、春の鳥の声を聞いて心躍る気持ちがあっても、沢まで出ていって喜びを発散させたりはしない、秋の景色に寂しさを感じても、心の中まで寂しくなりはしない。そういう一歩退いて全体を眺める大きな心を指します。

ひとつ覚えのように、同じ道具立てを持ち出してきて恐縮なのですが、丸い円のなかにいて、子どものように心を開くのが「喜心」、円の外にいて、子を慈しむように見つめるのが「老心」だととらえ直して見ると、それは幸せな一枚の絵のように映ります。

しかし「喜心」は放っておくと、もてなしの喜びに耽溺してしまうことになりかねません。「老心」は相手を愛おしむあまりに疲弊してしまうことにも通じてしまいます。事実、ホスピタリティを目指して、消耗しきっているひとをわたしは何人も見てきました。

それでは「大心」とは何かというと、喜ぶ自分、人を慈しむ自分をも、どこかで突き放してみることで、幸せの絵のなかに「浸りきらない」構えではないかと思います。

そこで、その「大心」をもって人に接するようにするためにはどうすればよいのか。「老心」や「喜心」を何度も繰り返し経験して、言い換えればいろいろなタイプの親や子になってみることで、「あるべきホスピタリティ」というものへの執着から離れることが、ひとつの手段ではないかと考えます。

境界線の円のたとえで言うと、それが外部に通じる回路であるならば、その回路は常に更新されるべきものなのだ、という教えではないかと考えました。これもまた、ひとつ覚えの由無しごとではあります。

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われ汝を軽んじず

2025-05-22 22:53:57 | 日記

新幹線のトンネルで思いついた話から、なかなか外に出ることができません。

たとえばこんなことを考えます。

宮沢賢治が「雨ニモマケズ」に書いた「デクノボウ」は常不軽菩薩を表していると言われます。しかしこの菩薩は、はたから見れば厄介者です。道ゆく人ごとに「わたしはあなたを敬って軽んじません、菩薩の修行を行なって、ついにはみ仏となられるからです」と語りかけるので、気味悪がられるのです。杖で叩かれ石を投げられても、遠くから「我なんじらを軽んじず」と唱え続けます。

さて、これは美談として人々に感動を呼び起こす話ではありません。おそらく、近くにそのような人物がいれば、せいぜい「敬して遠ざける」のが良心的な対応でしょう。
他者との距離を適正に見極め、その人が必要なときに必要な言葉をかけてあげれば、たとえ社会的身分が低くとも、静かな尊敬を集めたはずです。菩薩の行為は美談と讃えられたのではないでしょうか。

それでは、常不軽菩薩は、後者のようにふるまえばよかったのか。
紙の上に円を描いて、その内部を「じぶん」と捉える見方からすると、後者は間違いなく「美談」であり、尊敬の対象であるはずです。それはしかし、じぶんの利益やロールモデルといったものに回収される、円の重力の圏内のものではないかと思います。

常不軽菩薩の行為はどう捉えればよいのか。
これは禅僧の南直哉さんの受け売りなのですが、何ものも欲望しないまま相手を肯定する行為は、その相手が自己を肯定する究極的根拠を作り出します。ちょうど「亡くなってから知る親の恩」のようなものです。

親は子が生まれてからしばらくの間、子どもの視線におおいかぶさるように覗き込み、語りかけていたのではなかったでしょうか。
子は、丸い円の内側にあって無条件の肯定を与えられていました。わたしたちの心の中には、このときの充実感が棲みついていて、この視点が反転し、あたかも円の外にいるじぶんから、円の内側を覗き込むように振る舞うことがあるのではないかと思います。

常不軽菩薩は、円の外に身を置いて、円の内側の「汝ら」に無条件の肯定を与えていたのではないかと思います。

こうやって図式化して捉えようとすればするほど、肝心なところから遠のいているようにも思うのですが、こんなことをとりとめもなく考えています。

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永田和宏『寄り添う言葉』

2025-05-19 22:51:07 | 日記

歌人、永田和宏の対談集『寄り添う言葉』(インターナショナル新書)は、伴侶を失った者どうしが、その悲しみをどう受け止め、どのように乗り越えることができたのか、について語り合ったものです。

対談のなかで何度か言及された、妻、河野裕子の終末期に「ありきたり」の言葉をかけなかったという歌人としての矜持と、ありきたりな言葉でも届けるべきだったという伴侶としての心残りの、引き裂かれるような姿には、痛ましいものを感じました。

さて、この本はホスピスケアを行う徳永進医師との対談で結ばれています。その対談の中で、徳永医師は永田和宏の専門分野である細胞生物学を引いて、次のように問いかけています。

人間が一つの食細胞だとすると、年を取ったり、がんや死の悲しみ、あるいは家族という異物(問題)を、人間のこの膜はどうやってこなしていくんでしょう。永田さんが細胞生物学者なので食細胞にたとえましたが、自分ではないものが、入ろうとしてくるわけです。大事な人を失うという死別、不在という悲しみを、非常に抽象的な考え方なのですが、この膜はどうやって外に出せたのだろう(後略、pp.230-231)

これに対して永田は次のように答えています。

今のお話に答えると、自分の伴侶というのは、いくら親しくても別の個体で、膜で隔てられているものでした。けれど今の実感としては、河野を包みこんでしまって、自分の中で同化している感じですね。もう自分の一部というか、自分が食べちゃったのかもわからないけれど。(p.232)

このくだりを読んで、こんなことを考えました。人間は膜に包まれて恒常性を保っているけれど、その膜が異物を包み込んで、これを包摂したまま内部に取り込むことで「外」(自分の皮膜)の「外」(異物)が「内部」になります。

これは、先だって述べた、「自分が円の外側にいて、誰か大切なひとが円の内側にいる」ような様子に似てはいないでしょうか。いささか牽強付会めいた解釈ではありますが、円の内側にいる大切な人は、円の外側の自分に消化分解されることなく、外へと通じる回路として残されているのではないかと思います。

永田は、死者という存在が、少なくともそうすることで、その人のなかで生きている、自分はそのように感じるのだと述べています。

ちなみに、本書は先週の鹿児島出張のときに、鞄に忍び込ませていた一冊で、内部・外部というものの考え方も、本書に触発されたように思います。

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