民俗学者の柳田国男に『先祖の話』という著作があります。
そのなかに「自分はそのうちご先祖様になるんだ」と言って、そのことだけを頼りに生きている老人の話が出てきます。柳田は不思議なことに、その老人を感動して見ているのです。
『先祖の話』が書かれたのが昭和20年の4月から5月にかけてなので、東京大空襲の時期に重なります。ちょうど桜が満開の時期でした。
満開の桜の下で、累々と続く死者の列に、柳田は「ご先祖様」のリアルな姿を見ていたのでしょうか。
この作品を読んでから、桜の時期が近づくと、ご先祖様や死者のことについて考えるようになりました。
死者を弔うというと、先祖累代のお墓を守るというイメージが浮かびます。
相続の仕事をしていると、墓守りをするのだからそれだけの見返りが欲しいとか、嫁ぎ先の墓には入りたくないとか、思いもよらぬ本音を聞くことがあります。それだけ人の気持ちの機微に触れる問題なのでしょう。
しかし、先祖累代の墓に遺骨を安置するというお墓のシステムは、「火葬」が一般的になったごく最近に確立したものなのだそうです。厚労省の統計によると、今でこそ100%近くの人が火葬に付されますが、1970年代には火葬率は8割弱に過ぎませんでした。つまり、ほんの半世紀前までは、5人に1人は土葬されていて、累代のお墓に入る余地すらなかったのです。
今のように「お墓を守る」という考え方を「家」単位で考えるならば、人口が減少するにつれ、その担い手が少なくなってゆくのは、社会保障制度と同じなりゆきです。
かといって、経済原理にまかせて「弔うこと」そのものが手薄になっていくのは、人間の霊性を衰退させることにほかなりません。
墓の継承者がいない高齢者たちが、累代の墓を合葬墓に改葬し、永代供養をするという話題も、寂しいだけの話ではないと私は思います。
「そのうちご先祖様になる」と言っていた老人は、死者とともに生きる人だったのでしょう。自分の一生が「けし粒」の様なものであることを老人は知っていたからこそ、柳田国男はその老人に感動したのだと思います。そして人間の霊性とは、そうした慎ましい態度にこそ宿るのだと思うのです。