犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

ご先祖様の話

2023-02-25 17:01:03 | 日記

民俗学者の柳田国男に『先祖の話』という著作があります。
そのなかに「自分はそのうちご先祖様になるんだ」と言って、そのことだけを頼りに生きている老人の話が出てきます。柳田は不思議なことに、その老人を感動して見ているのです。

『先祖の話』が書かれたのが昭和20年の4月から5月にかけてなので、東京大空襲の時期に重なります。ちょうど桜が満開の時期でした。
満開の桜の下で、累々と続く死者の列に、柳田は「ご先祖様」のリアルな姿を見ていたのでしょうか。
この作品を読んでから、桜の時期が近づくと、ご先祖様や死者のことについて考えるようになりました。

死者を弔うというと、先祖累代のお墓を守るというイメージが浮かびます。
相続の仕事をしていると、墓守りをするのだからそれだけの見返りが欲しいとか、嫁ぎ先の墓には入りたくないとか、思いもよらぬ本音を聞くことがあります。それだけ人の気持ちの機微に触れる問題なのでしょう。

しかし、先祖累代の墓に遺骨を安置するというお墓のシステムは、「火葬」が一般的になったごく最近に確立したものなのだそうです。厚労省の統計によると、今でこそ100%近くの人が火葬に付されますが、1970年代には火葬率は8割弱に過ぎませんでした。つまり、ほんの半世紀前までは、5人に1人は土葬されていて、累代のお墓に入る余地すらなかったのです。

今のように「お墓を守る」という考え方を「家」単位で考えるならば、人口が減少するにつれ、その担い手が少なくなってゆくのは、社会保障制度と同じなりゆきです。
かといって、経済原理にまかせて「弔うこと」そのものが手薄になっていくのは、人間の霊性を衰退させることにほかなりません。
墓の継承者がいない高齢者たちが、累代の墓を合葬墓に改葬し、永代供養をするという話題も、寂しいだけの話ではないと私は思います。

「そのうちご先祖様になる」と言っていた老人は、死者とともに生きる人だったのでしょう。自分の一生が「けし粒」の様なものであることを老人は知っていたからこそ、柳田国男はその老人に感動したのだと思います。そして人間の霊性とは、そうした慎ましい態度にこそ宿るのだと思うのです。


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震える弱いアンテナ

2023-02-19 07:40:22 | 日記

花が咲くことについて、考えています。
詩人の吉野弘は、花が咲くためには一定期間の闇をくぐり抜ける必要があると言いました。ぬくぬくと栄養状態の良い環境で育てられて花をつけることをわすれた茶の木が、死期を前にして一斉に花を咲かせることも書いています。私はそれを、命懸けで生に向かい合おうとする力の表れとしてとらえました。

確かに、個体の限界を越えようとする花には、そういうガムシャラなところがあるのでしょう。
しかし、志村ふくみが菩薩のようだととらえた上村松園の描く女性を梅の花に重ねてみると、もっと静かに広がるようなものとして、花は咲くのではないかとも思います。

茨木のり子の詩に「汲む―Y・Yに―」というものがあり、ここに登場する花はまさにそういう存在です。
詩の味わいを殺してしまうのを恐れながら、ここに一部を抜粋します。

そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
********
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
(『茨木のり子詩集 鎮魂歌』より)

咲きたての薔薇は「アンテナ」として、すべてのいい仕事を支えている。年老いてもなお咲くその薔薇は、背伸びをする若者を諭すように静かに咲いていました。それを戒めとして受けた若い詩人は、歳を重ねて、自分もその人と同じように花を咲かせようと思うのです。

命懸けで生に向かい合おうという姿が、花を咲かせることの一面ならば、せっかく命懸けで咲くのなら、より良く生きようと自戒する静かな一面を持っているのでしょう。震える弱いアンテナとして。


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きさらぎの梅咲く空に

2023-02-11 23:56:23 | 日記

福岡城址公園では梅の花が盛りを見せています。これから一層の厳しい寒さを迎えるこの時期に咲く花は、凛々しさと同時に、試練のなかに救いをもたらす力を宿しているようにも思います。

針の穴一つ通してきさらぎの梅咲く空にぬけてゆかまし
(馬場あき子『かりん』)

馬場あき子はエッセイのなかで、この自作に触れたあと、次のように述べています。

針の穴をすっと通すのが得意たっだ。「針の穴は目で通すんじゃない。すっという気持ちで通すのよ」などと大口をたたいていたが、今も眼鏡なしになぜか通せる。(コラム「さくやこの花」『歌林の会』所収)

針の穴にねらいを定めるのでなく「すっという気持ち」で糸を通すことが、無念無想で咲く梅の花に通じるのでしょう。ひたすらにみずからを律し、寒さの中でもいち早く花を咲かせてみせる梅の姿は、気品をたたえながら、ひとの気持ちを落ち着かせる余裕さえ見せています。

針に糸を通す女性を描いた上村松園の絵「夕暮」をみて、まるで菩薩が現れたように思ったと、染織家の志村ふくみは、こう書いています。

「夕暮」の、あの障子のかげからそっと身をよせて黄昏の光に針のめどに糸をとおす女性、私は我を忘れてあの女性にみいっていた。質素な無地の着物をきた庶民の中のひとりの女性がふしぎに菩薩に見えてきてしまったのである。人は菩薩の画を描いて少しも菩薩でない画もある。菩薩を描かずとも菩薩である場合のあることをはじめて知った。(志村ふくみ『語りかける花』)

上村松園は、四十を過ぎて大きなスランプに陥り、ここから抜け出そうと、六条御息所が怨霊となった「焔」という凄まじい絵を描きました。その絵を描くことで白い焔を吐き切ったとき、怨霊は鎮まってふしぎに心がなごんだといいます。その静かな心境で描いたのが、志村ふくみが菩薩と呼ぶ「夕暮」です。

馬場あき子のいう「すっという気持ち」というものが、試練を抜け切った後の、上村松園の静かな心境と重なります。「焔」が乗り越えるべき厳しい冬だとすれば、「夕暮」はようやく訪れた春であり、糸を通す女性は梅の花の化身ではないでしょうか。


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対話の息づかい

2023-02-06 20:37:24 | 日記

学校、企業や自治体などを巡って哲学対話を行っている若い哲学研究者、永井玲衣の著書『水中の哲学者たち』(晶文社)を読みました。対話の場にのぞむ著者の息づかいが伝わってくる清々しい本です。
そのなかで考えさせられたエピソードを紹介します。

ある小学校で「死んだらどうなる」というテーマで対話をした時のこと、小学生たちは生まれ変わりについて議論をはじめ、やがて、生きるとは何か、どのように生きるべきかについても言及し始めます。そうやって議論がゆれているあいだ、じっと眉間にしわを寄せて考えていた女の子がこう発言したのだそうです。

みんなは、生きるということがメインで、そのために死んだり生まれ変わったりするって言っているような気がするんだけれど、そもそも、生まれ変わるということ自体が目的で、そのために死んだり生きてるだけだったらどうする?(36頁)

これは対話なかの誰も考えたことのない論点で、こういう発言が著者の想像を刺激するのです。まるで魂だけになった存在が、風呂上がりのビールを飲み干すひとときに無上の幸せを感じる姿のようで、「生まれ変わること」だけが目的だとするのも、面白い考え方ではないかと。
むろん、著者はそれが正解だと言うのではなく、そうやって相手の言葉がするりと自分のなかに入ってきて、自分自身を揺るがすような経験をこそ愛するのです。

私自身、吉野弘の詩集『花と木のうた』を読んで、花が咲くことについて思いをはせていたので、生きることのなかで花を咲かせる意味を考えるのではなく、たとえば花を咲かせることが目的で、そのために死んだり生きたりしていると考えてみるのも、面白いと思いました。

本書のなかで、「対話」というものについて、バスに飛び乗ろうとする人と、それを引き上げようとする乗客の例をひいて、著者は次のように述べています。

対話というのはおそろしい行為だ。他者に何かを伝えようとすることは、離れた相手のところまで勢いをつけて跳ぶようなものだ。たっぷりと助走をつけて、勢いよくジャンプしないと相手には届かない。あなたとわたしの間には、大きくて深い隔たりがある。だから、他者に何かを伝えることはリスクでもある。跳躍の失敗は、そのまま転倒を意味する。ということは、他者に何かを伝えようとそもそもしなければ、硬い地面に身体を打ちつけられこともない。もしくは、せっかく手を差し伸べてくれた相手を、うっかりバスから引き倒して傷つけてしまうこともない。バスに向けて走るわたしに、誰が手を差し伸べてくれるだろうか。(30頁)

バスに向けて両手をひろげる姿も、その手を引き上げようとする姿も、私にはどちらも植物が懸命に花を咲かせる姿に重なります。花を咲かせて離れた相手にジャンプするのです。そうしてみると、花を咲かせることから振り返って、そこから死んだり生きたりすることを考えるというのも、荒唐無稽なだけのアイデアではないと思えてきます。


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花が咲くために

2023-02-01 22:48:18 | 日記

少し前にふれた吉野弘の詩集『花と木のうた』(青土社)のなかに「闇と花」という一文が収められていて、そこで植物が花の芽をつけるための条件を知りました。

アサガオは一定時間、連続した闇のなかにいないと、花の芽ができません。この闇は必ず継続していなければならず、一瞬でも電灯などで照らしてしまうと、花の芽はできないといいます。花の芽はフロリゲンという植物ホルモンによってでき、この物質が体内に作られるためには8時間から9時間の闇が必要とされるのです。
これが、アサガオ、キク、コスモスなど、夏から秋にかけて次第に日の短くなってゆく頃に花を咲かせる「短日植物」の特徴です。

冷たい夏や温かい冬があるように、気温の変化は気まぐれで頼りになりません。地球の公転という大きな運動によってもたらされる、一定時間の闇の訪れこそが、かれらにとっての大事なスイッチなのです。
自分の力ではどうしようもない闇が訪れたとき、希望を見出そうと闇のなかで身をよじる、花を咲かせるとは、まるでそんな姿ではないかと思います。

吉野は次のように述べています。

太陽をはじめ無数の星だって、宇宙の闇から生まれたものだ。朝顔の花の芽が闇の中でできるのは、不思議でも何でもないことかもしれない。
人間もまた一生を通じて、多くのことを考え、迷い、納得し発見しながら生きてゆく。
そのときどきの発見や到達点をかりに花と呼ぶことができるならば、その花は、おそらくその人の入りこんだ精神的な闇から生まれるのではないか。(前掲書 104頁)

花は闇を抱えてこそ咲くというのです。
それでは、これと正反対の反応を示す「長日植物」の花は、どうやって花の芽をつけるのでしょうか。気になって調べてみました。

ナデシコやムクゲなどの「長日植物」は、闇の時間が短かくなることで花の芽ができます。ただ、それだけでは十分ではなく、一定期間の寒冷期を経ることを必要とします。大地の凍えは命を危険にさらすほどの試練であるがゆえに、それを乗り越えた闇の短さが、時期をたがわず花の芽をつけるためのスイッチになり得るのでしょう。
ムクゲの花のふわりとした感覚は、試練を経たもののみが醸し出しうる、慈悲の力を表しているようにも見えます。


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