内田樹さんが、中村天風の「七つの勿(なか)れ」について述べています(『期間限定の思想』角川文庫 2011所収)。目の覚めるような卓見ですので紹介させていただきます。
「怒るな、恐れるな、悲しむな、妬むな、悪口を言うな(言われても言い返すな)、取り越し苦労をするな」というのが、中村天風の七つの禁戒です。
内田さんよれば、このうち「怒るな」とは、怒りを我慢するのではなく、そもそも怒るのを我慢する必要さえない状態に達することを指します。怒りを我慢するだけであれば、その先延ばしされたエネルギーはやがてどこかで、誰かに対して爆発させられるだけでしょうから。
しかし、怒りの必要のなくなる状態がいかに難しいかは、なぜ人は怒らなければならないのかに思いを致せば容易に想像ができます。
怒りとは、「非力な人間」が自己主張するときに不可欠なエネルギー源なのです。若年で非力な人間が、他の人より正確な状況判断や、戦略的展望を持っていると確信しており、それにもかかわらずその判断が正確であるという「証拠」を提示できないとき、周りに耳を傾けさせる手段はほとんどありません。
怒りのエネルギーだけが、周囲のおしゃべりを一時的に鎮め、聴衆の注視を確保することができるのです。
したがって、怒りにはそれなりの合理性があるのです。それこそ昔「造反有理」という言葉がありました。
それでは、こう考えて良いものなのか。
自分が弱いことを受け入れましょう、そして思い切り泣きなさい、思い切り金切り声を上げて怒りなさい、思い切りわがままを言いなさい、と。
内田さんは、この手のアドバイスをするセラピストが山のようにいることを嘆きます。彼らは要するに「あなたは子どもであり、非力であり、敬意を払われるだけの価値のない存在であるから、そうでもしない限り、誰一人あなたを見向きもしないだろう」と言っているに過ぎないのです。
思い切り怒ることも、ほんの限られた機会には許されることかもしれない。それ以外には誰も振り向いてくれない時には。しかし、その時には次のような覚悟が必要です。
泣いたり、わめいたり、怒鳴ったりして、総じて「自分の弱さを担保にして」発言する人間は、その発言機会がぎりぎりのワンチャンスであるということをわきまえたほうがいい。そこで一回しくじると、この次はもっと大声で怒鳴り、もっとじたばたぐずってみせないと、もう話は聞いてもらえない。聞いてもらえたとしても、その注視は一片の敬意を含まない(中略)見下しをすでに含んでしまっている。
ある年齢を過ぎたあとに、一度「見下され」てしまうと、もうその状態から這い出ることは困難である。ほとんど絶望的に困難である。(前傾書 176頁)
自らの弱さを認めることに意味があるとすれば、それは強くなることを目指す限りにおいてです。弱さに安住するものは、永遠に泣き続け、怒鳴り続け、怖れ続け、妬み続けるでしょう。
中村天風の七つの禁戒は、ある人間的境位に達した者ならば、当然に避けうる失態と呼ぶべきものなのです。つまりは「このような人になれ」という当為命題では漠然としてしまって、手掛かりがつかめないため、こうあってはならないという逆方向から示した戒律とも言い換えることができます。「このような人になれ」という姿を、内田さんは端的に次のように語ります。
それは、その人が口を開こうと小さく息継ぎをしたとたんに、その場が水を打ったように静まり返り、全員が期待を込めてその人をみつめるような、そのような言葉を語る人間になれということを意味している。きびしい要請だ。それは場を制圧する力だけではなく、ひとを浮き立たせる暖かみと、曇りを払う叡智を備えた人にしか訪れない事況である。(前掲書 176頁)英晴