犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

マルシェに出向く

2023-04-29 13:22:05 | 日記

今年6月に開業予定のリッツ・カールトン福岡の裏手が芝生広場になっていて、そこで数日前「福マルシェ」というイベントをやっていました。「オーガニック」や「地産地消」をテーマにしたマーケットで、地ビールやジビエの出店が軒を連ね、賑わっていました。

リッツ・カールトンの開業には伏線があり、福岡市は2019年のG20誘致で大阪に敗れました。この時の理由のひとつが、要人を迎えるに相応しい宿泊施設が少ないというものでした。そこから福岡市では豪華ホテルの建設が相次ぎ、目玉とも言われたのがリッツ・カールトンです。
そういう経緯もあって、今年のG7サミットに福岡市は意気込んで立候補しましたが、岸田首相のお膝元である広島に敗れています。

さて、このホテルは少子化で閉鎖された「大名小学校」の跡地に建っていて、マーケットが開かれていた芝生広場は昔の「校庭」に当たる場所です。ここは半世紀以上昔、私が通っていた小学校なので、新しく生まれ変わった芝生広場に出向いたときの感慨もひとしおでした。
なお、校舎の主要部分は残されていて、福岡市がスタートアップ企業を支援する施設に変わっています。

そういうわけで、芝生広場を挟んでリッツ・カールトンと旧小学校校舎が対峙する格好なのですが、旧小学校は地上25階ガラス張りのホテルに見下ろされ、ホテルのネームバリューにも気押されているようです。毎日仰ぎ見ていた校舎の屋上があまりに低く感じて、我が母校が萎縮しているように見えるのが寂しくもあります。お洒落な「マルシェ」なんて柄でもないよねえ、と芝生の下の校庭に話しかけたりもしました。

「うちのほうが、よそよりも魅力があります」とアピールするための、豪華さを競うドライブはこれからも続くのでしょう。支店経済で支えられる地方都市から、福岡は脱却する必要もあるのでしょうが、懐かしい故郷が遠くなっていくように感じるのは、正直な感想です。
願わくば、金儲けだけに振り回されるような、浮ついた街づくりから自由であってほしい。そのためには外国や東京の資本の思惑に従うのではない、若い人たちが牽引役になれるような街づくりであってほしいと思います。


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『目的への抵抗』を読む

2023-04-22 23:07:17 | 日記

だいぶ前に読んだ、玄侑宗久さんの著書『禅語遊心』(ちくま文庫)に、こんな話が載っていました。

セメントを作るため、砂利を一輪車で運んでいる人に向かって、代わってあげようと言えば、その人は喜んで受け入れるかもしれない。しかし、砂場で一心に砂遊びに興じている子どもに、大変だろうから代わってあげようと言っても、無視されるだけだろう。
会社の仕事の基本形というものは、前者の作業と同じではないか。つまり入れ替えがきくことが、会社において層の厚みになっており、どの社員も「かけがえのない」人ではないのだ。しかし、それだけにとどまるならば、悲しすぎる。我々は入れ替え可能な役割を引き受けつつ、「遊び」の心によってその仕事を賦活させなければならない。

多少違っているかもしれませんが、そんな内容だったと思います。

國分功一郎さんの近著『目的への抵抗』(新潮新書)を読んで、真っ先に思い至ったのが、この玄侑さんの話です。我々の行動の全ては、いつのまにか何らかの「目的」のための手段になり下がっていて、知らないうちに窮屈な生を生きている。この目的と手段の関係から逃れる言葉が「遊び」なのだと、國分さんは言います。
『目的への抵抗』は、高校生、大学生を対象にした講演会の語りを起こしたもので読みやすく、読後の印象も清々しいので、一読をお勧めします。

上記の論点からはずれてしまいますが、私が同書の中で深く感銘を受けたのは、聴衆である学生達に向けて語ったイントロ部分でした。少し長くなりますが、引用させて頂きます。

僕がよく学生に言っているのは、とりあえずまずは目の前にある短期的な課題に一生懸命に取り組みなさいということです。(…)
その上で、自分の人生においてものすごく遠くにあること、将来についてのものすごく漠然としたことを、何となくでいいので考えておいたらいい。(…)
つまり、ものすごく近くにある課題とものすごく遠くにある関心事の両方を大事にする。なぜこんな話をするのかというと、その間にある中間的な領域のことはなかなか思い通りにならないんですね。どんな大学に行きたいとか、どんな会社に行きたいとか、そういったことはなかなか思い通りにはなりません。ですからそこに目標を置いてしまうととても苦しいことになる。(…)
短期的な課題を一つ一つこなしていくと、課題で求められていたこと以上の何かが身につきます。人の話の聞き方だったり、自分の特性についての理解だったり(…)短期的な課題はたくさんのことを教えてくれる。その上で、遠くにある自分にとっての大切なことをボンヤリとでも思い描いていたら、人生におけるブレを不必要に大きくしないで済むように思います。先ほど言った、中間的な領域での思い通りにならないことによって必要以上に振り回されずに済む。(20-21頁)

これは若い人にだけ当てはまる言葉ではないと思います。私がお会いする優れた経営者の多くは、遥か遠くの理念を追うと同時に、短期的な課題にも決して手を抜きません。そして、いつお会いしても同じ態度で接してくださる。それは「中間的な領域」のことに一喜一憂しないからなのでしょう。
そして、その人たちの多くはまた、場を和ませるような「遊び」の雰囲気を醸し出しているように思います。


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一生(ひとよ)の一日(ひとひ)

2023-04-16 14:03:23 | 日記

通勤時間に大勢のリクルート姿の若い人たちとすれ違います。
去年引っ越した自宅の近くに、銀行の研修施設があって、新人研修が行われているようなのです。
それぞれに大きな夢をいだいているのだろうか、あるいは大きな屈託を抱えているのかもしれないなどと思いながら、若い人たちを眺めていました。
今年大学3年生になった双子の娘たちが、東京でのインターンの話などをしているので、研修所に向かう彼らの姿は他人事ではないのです。

面接の終わりしビルは夕あかり
一日(ひとひ)で決まる一生(ひとよ)はなけれど

(吉川宏志『青蝉』)

大事な面接とはいいながら、たった一日で人生が決まってしまうものでもないだろうと、突き放して考えようとする若者の姿です。同時にこの歌は、一日が一生であったような眩しい世界との訣別をも感じさせます。そんな眩しい世界を詠った歌を、想起させるからです。

観覧車回れよ回れ想い出は
君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)

(栗木京子『水惑星』)

娘たちには、リクルートスーツで身も心も固めてしまう前に、栗木の歌の「一生」のような得難い経験を重ねてもらいたいと思います。楽しいことばかりではないだろうけれども、そうやって魂を鍛えていてほしいと。

そして誠に情けないことを白状すると、娘たちと旅行ができるのは、あと何回だろうと思ってしまう切ない男親の気持ちも、栗木の歌に重ねてしまうのです。


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咲き定まる花

2023-04-09 16:18:30 | 日記

茶道の稽古場の床の間には、薄桃色の牡丹が活けてありました。木曜の稽古の時には蕾だったものが、週末には大輪の花になったのだそうです。
この時期、この立派な花を見ると、必ず思い浮かぶ歌があります。

牡丹花は咲き定まりて静かなり はなの占めたる位置の確かさ
(木下利玄『一路』)

四方に大きく広がる花弁は、周りの空気をも震わせているようで、その位置の確かさは侵し難いものです。少し前に、命懸けで生に向き合おうとする茶の花のことや、静かに震える薔薇の花のことを書きましたが、そのいずれの姿とも違う、圧倒的な存在感です。
こうやって、揺らぐことのない大輪の花を、人も咲かせることができるだろうかと思いました。主義主張は人の借り物で済ませることができるかもしれませんが、そうではない、もっと確かなもの。

前回ご紹介した、坂本龍一さんと福岡伸一さんの対談集『音楽と生命』のなかで、坂本さんが9・11のあと、線形でない音楽を求めるようになったと述べていました。
世界はおのずから民主化されて、より自由になって行くという意味での、直線的な考え方から離れることを指しているのではないでしょうか。それで坂本さんがシニシズムに引きこもったのではなく、むしろ愚直なほどに社会活動に取り組んでいました。私は、坂本さんの心に「咲き定まる」花が咲いたのではないかと思います。

こんな話も思い出しました。
鶴見俊輔さんがバタヴィアの海軍事務所にいたとき、捕虜が病気になって与える薬も乏しいので、殺してしまえという話になりました。鶴見さんの隣室の同僚に命令が下り、捕虜に毒薬を与えて墓地の穴に放り込みました。ずっと生きているといけないと思い、その人は被せた砂の上からピストルを撃ち込んだのだそうです。鶴見さんはこのことがあって、もし自分に命令が下っていたらどうしただろうと、戦後ずっと考え続けました。
戦後十年くらい経って、ようやく結論を得たと鶴見さんは言います。「俺は人を殺した。人を殺すのはよくない」と、ひと息でいえるような人間になりたいと思った、と。
私はこの言葉にも「咲き定まる花」を見るような思いがします。

自分は弱い存在で、いつ利害得失に流されるような行動をとってしまうかもしれない。そう思うからこそ、将来の弱い自分に向けて、強い命令を発する自分がいるのだと思います。そうやって咲き定まった花を心に抱いていることで、外からのどのような命令にも屈しない自分を保てるのではないでしょうか。
そうだとすると「自由」とは、目先の利益に釣られて勝手気ままに振る舞うことではなく、咲き定まる花を心に抱くことではないかと思います。

咲き定まる牡丹の花を見て、坂本さんの晩年の活動を思い起こし、そんなことを考えました。


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坂本龍一さん亡くなる

2023-04-05 12:23:32 | 日記

左上の図は、生物学者の福岡伸一さんが、生命の営みを分かりやすく描いた「ベルクソンの弧」というものです。この図は、坂本龍一さんとの対談集『音楽と生命』(集英社)に載っています。
同書の奥付を見ると2023年3月29日第一刷発行とあって、奥付の日付のうえでは坂本さん死後の刊行となります。
図の詳しい説明は、本書や『新版 動的均衡 生命はなぜそこに宿るのか』(福岡伸一著 小学館新書)などを参照して頂きたいのですが、かいつまんで説明すると、以下のようになります。

坂の上におかれた円弧は、「エントロピー増大」の力に抗って、生命がおのれの姿を維持している様子を表しています。坂を転がり落ちることから免れるために、生命は接点Kより下の部分を「分解」してバランスをとろうとします。分解だけでは生命はやせ細っていくので、円弧の上部で「合成」を行うのですが、これが下向きの動きを加えるので円弧は坂をずり落ちないように、「合成」よりも「分解」をほんの少し多くします。
分解の方が大きい円弧である生命は、いずれ小さくなって消えてしまうか、バランスを崩して坂を転げ落ちるかして死んでゆくのです。

さて、この対談集のちょうど「ベルクソンの弧」の箇所を読んでいたところで、坂本龍一さんの訃報に接しました。そして、坂の上にようやくとどまっていた大きな円が、静かに消えていく様子を思い浮かべました。

同書のなかで坂本龍一さんは「ベルクソンの弧」について触れながら、生命に限界がある理由がこれでよく理解できるが、病で死ぬということはどうとらえればよいのかと質問したり、漢方の考え方でバランスを改善することなどについても述べているので、まだまだ生きたいという気持ちが強かったのでしょう。

坂本さんは本書のなかで、自分がこれから目指す音楽について、次のように述べていました。

僕は9・11をきっかけに、線形でない音楽を求めるようになりました。ああいう虚実がはっきりしない出来事を体験すると、人類に対する先が見えないし、希望があるのかもよくわからないという感じがして、二〇世紀の批判をより良い二一世紀につなげようというような線形の時間感覚を持てなくなってしまったんです。それは自分の音楽にも影響していると思います。
直線的な時間の中できちんと「終わり」を決める西洋音楽が一神教的なものだとすると、元々の音楽はもっと多神教的、アニミズム的で、「終わり」がなくてもいい、タイムフレームからはみ出すようなものだったと思います。
(中略)
一神教的な、始まりがあって終わりがあるもの、歴史には目的があるといった、人間が考え出した発想から、できるだけ遠ざかりたいという気持ちが、僕の中ではどんどん強くなっています。(50-53頁)

「ベルクソンの弧」の円弧は揺らぎながら平衡を保ちます。その揺らぎの生み出す律動のようなものがあって、多くの生命の律動と響きあう姿を想像しました。そして、それが坂本さんの目指していた、終わりも目的もない音楽というものと共振するのではないかとも考えました。


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