近所の小学校の隣にある、小さな公園の夜桜を見に行きました。
住民の気付かぬうちに、あっという間に満開の花を身にまとっています。週末だというのに花見客はひとりもおらず、夢のなかの出来事のように街灯の光に照らされて浮かんでいました。
ひとりで向き合う夜桜は、超然と佇んでいて、その姿は、時が止まったようにも感じられ、時間の終わりと始まりとを同時に垣間見させてくれるようでもあります。
馬場あき子の歌に、夜桜にひとり向き合ったときのことを詠ったものがあります。
夜半さめて見れば夜半さえしらじらと
桜散りおりとどまらざらん
(『雪鬼華麗』)
この歌は、三十年近く勤めた教師の職を辞して、京都に旅したときに詠んだもので、そのときの様子を作者は次のように語っています。とても美しい文章なので、長くなりますが引用します。
宿泊した宿の中庭の桜を、夜半に起き出して眺めていた。灯火のほのかな明りの中に浮かび出た桜は、人々の寝しずまった静かな闇に佇んで、誰の目にも見られないまま、自ずからなる摂理に従って、白い花びらをはらはら、はらはらと惜しみなくこぼしつづけていた。四十九歳で職を捨てた私の感じている、惜しまずにはいられない時間の、刻々の消滅のようにも、私という存在を残して過ぎてゆく非情な時間のようにも感じられた。(歌林の会「さくやこの花」)
ただひたすらに「自ずからなる摂理に従って」人知れず咲き誇り、惜しむ人の心を知らぬように花を散らす、その高貴さとも傲岸さとも知れぬ姿こそが、夜桜の妖しさなのでしょう。この歌の作者の場合、職を辞した不安のなかで夜桜と対峙し、「私という存在を残して過ぎてゆく非情な時間」を感じます。
ところが、この歌の下の句「桜散りおりとどまらざらん」には、過ぎてゆく非情な時間だけではなく、それを見ている作者自身の「とどまらない」思いが重ねられているように思います。
人知れず一歩を踏み出すとき、それは決意の一歩であるよりも先に、もうすでに始まっていることへの、静かな受容の感覚をともなうのではないでしょうか。それは、いままでの平板な時間が止まって、違う世界の時間が始まる瞬間なのだと思います。