マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、カルヴァン派の予定説と資本主義との密接な関係を述べています。誰が救われるかは、神によって予め定められており、お祈りをしたり悔い改めたり、といった「行動」によっては救済は得られないというのが、カルヴァン派の予定説です。
しかしながら、人間は神によって救われていることを、事後的に確認することができるとカルヴァンは説きます。救われることが明確に定められているのならば、救われるよう選ばれた者としての「兆表」(きざし)はつかめるはずであり、勤勉な労働という事実こそがその兆表を示すものである。資本主義の爆発的な推進力となった勤労精神は、予定説のこのような条理によって支えられていた、というのです。
この説明を思い出すたびに、不思議な想いに駆られます。理屈のうえではまったく倒錯していると感じながら、その一方で背筋が寒くなる想いとともに腑に落ちてしまうのです。
自分がどんなに善行を積もうと、地獄に堕とされることが予め定められているかもしれないのだとすれば、救われるよう定められている様な外観を取り繕うことしか人間には許されていないのかもしれません。「不安の底に突き落とされたとき、どのように悪あがきをするだろうか」そう想像してみることしか、人間の自由になることはない。人間が徹底して不自由ならば、このような結論に達すること自体は、かえって合理的だと思えます。
ひとがほんとうに切実に、魂に急き立てられる様に行動するとき、そこには「欠損」の感覚があると思います。それは、負債を負っている感覚であったり、取り返しがつかないほど遅れてしまっている感覚であったり、大切なものを失ってしまった感覚であったり、です。もう覆えされない決定はすでに下されており、取り返しがつかないという感覚も「欠損」のひとつでしょう。
逆のことを考えてみれば、納得がいくかもしれません。しかじかのことを行うと、しかじかの効用があってお得だという「効用」の感覚が、いかにひとの行動から誠実さを奪うものであり、その行為は長続きさえしないものか、と。充足のうえに更なる充足を求めることに、魂の働きがないことを我々は経験的に知っています。
歎異抄の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」は、この文脈でとらえることができるのではないでしょうか。ちなみに、親鸞聖人は自身を「愚禿」と名のり、法然上人も自らを「三学の器にあらず」と言っていたそうで、そこには自己卑下ではない、みずからに対する強烈な欠損を自覚していたと言うべきだと思います。
「時間」という概念を加えることで、欠損の感覚が引き起こす切迫感を、正確に捉えることができるかもしれません。
昨日のあの時の自分は、今現在こうしている自分とは明らかに違う。そう痛感しているのに、この二つの自分が「自分」という枠組みでくくられることに、違和感を感じる。この違和感が襞のように折り畳まれていくのが「時間」の感覚だと思います。時間という概念は、ざわざわと立ち騒ぐ違和感を鎮めるために、無理やりかつぎ出された道具だてに過ぎません。
欠損の感覚は、それが「直ちに」埋められるべし、という感覚です。「時間」というショック・アブソーバーでは、吸収しきれないような、強烈な違和感です。
欠損とその回復の間には、決して時間差があってはならない、それゆえ魂は欠損を通して、ひとを「悪あがき」をするような行動へと駆り立てます。
神の決定からの絶望的な遅れは、神経症的な反応を引き起こします。それがヴェーバーの言う「資本主義の精神」であり、そしてそれが強力な引力を持つことを反省的に捉えることができるならば、私たちはそこにどっぷりと浸からない術も手に入れられるはずです。身近なひととの関係においてどうしようもなく負ってしまう負債の感覚、やるせない喪失の感覚を研ぎ澄ますことによって、きっと違う世界が開けてくるはずです。
そしてそこにしか、人間の自由はないのだと思います。