犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

花菖蒲の花咲み

2022-05-31 18:30:07 | 日記

お茶の社中から苗を頂いて、プランターに移していた花菖蒲が、待望の花を咲かせました。
つぼみの先が色づき凛としたたたずまいを醸していたかと思うと、その翌々日には大ぶりな花びらを空に向かっていっぱいに広げています。
つぼみの時期にお茶の稽古に持っていければよかったのですが、これではせっかくの花をわが家だけで楽しむことになりそうです。

日本語には「花笑む」という美しい言葉があり、万葉集にも登場します。おもに百合の開花に使われるのですが、花菖蒲のかたく絞ったようなつぼみが色づいて、ゆっくりとほどけるように開いてゆく様は、まさに花笑むという言葉そのままです。
草木の新緑が湧き出て、山を明るく彩る様子を「山笑う」と表現したように、かたい緊張がゆるんで、それまで溜めていた生命の力を開花させる様子を、古代の人たちは「笑う」と感じました。それは、花や山に寄り添って生活する感覚のなせる業だと思います。

「笑い」と言っても、はにかむような微笑から、満面の笑み、そして哄笑へと、自然は姿を変えて行きます。花が咲き誇り、山全体がたくましい緑に包まれる時期には、花も山も哄笑しているように見えますが、人はそこに愛着よりも畏れを抱くのだと思います。「花笑み」という言葉にはやはり、はにかむような微笑が似合います。

茶席でも開ききった花ではなく、つぼみや開き初めの花が選ばれるのも、まだ見ぬ姿を想像することができるからでしょう。茶道の古伝書『南方録』には利休の「侘びの理念」として、藤原家隆の次の歌が掲げられています。

花をのみまつらん人にやまざとのゆきまの草の春をみせばや

咲き誇る花にではなく、雪に埋もれてこれから芽吹こうとする草にこそ、利休は侘びの美を求めました。
数年前、大寄せの茶会で点前を務めたときに、薄茶を差上げた正客から、素晴らしい笑顔で応じて頂いたのを思い出します。あれがまさに「花笑み」であるとするならば、一杯の茶を献じる私は雪間の草のようでもあり、果てしなく遠くにある「侘びの美」に、その時ほんの一瞬でも近づけたように思います。


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名将たちの戦後

2022-05-23 23:35:58 | 日記

「どんこ舟」の行く岸辺に菖蒲の咲き誇る様子が、テレビで放送されていました。柳川の川下りの終点は料亭「御花」です。
もともと柳川藩主立花家の別邸であった屋敷は、維新後に立花家が伯爵家となって洋館を増築し、現在のかたちに整えられたものです。戦後に料亭旅館として生まれ変わった後も、立花家の文化を伝える重要な資料になっています。私にとっては、部下の結婚式で祝辞を述べたこともあって「御花」は特別な場所でもあります。

柳川藩の藩祖 立花宗茂は古今無双の勇将と称えられながら、関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易され浪人を余儀なくされます。その後、多くの大名の仕官の道を断って軍歴を重ね、旧領に藩主として返り咲いた唯一の例になりました。

立花家16代の立花和雄さんは、15代鑑徳さんの次女文子さんと結婚し、婿養子として立花家を継いだ人です。和雄さんの実父は日露戦争で、連合艦隊司令長官東郷平八郎のもと、参謀長を務めた島村速雄です。葉室麟のエッセイ集『曙光を旅する』(朝日新聞社)で知りました。バルチック艦隊が日本海コースをとるか太平洋に回るかで判断に迷ったとき、島村の意見を東郷が採用して対馬海峡で迎え撃ち、大勝を導いた功労者です。

島村はオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に秋山好古とともに出席中、和雄さんの出生を知ります。すでに家族がつけていた「和雄」という名前を聞いて「平和」の「和」の字が入っていたことを、ことのほか喜んだのだそうです。日露戦争の名将は平和を強く望む人でもありました。
小学生の和雄さんが、海軍軍令部長の職にあった父の部長室を訪ねていったことがあります。島村は2人の客に対して烈火のごとく怒っていました。
その時の様子を葉室麟は次のように書いています。

客は特殊潜航艇の設計図らしきものを持ってきていた。島村は真っ赤な顔をして怒気をみなぎらせ、「こんなものを乗せていたら士気に影響する。武器じゃないッ。こんなもの」と言って、手にしていた図面を机の上にたたきつけた。
後の太平洋戦争で使われた特殊兵器「人間魚雷」の原型のようなものだったようだ。(前掲書92頁)

名将であり、戦後処理と平和の維持に情熱を傾けた人ということでは、島村速雄は立花宗茂に通じるところがあります。
「たとえ軍事衝突が起きても、いかに終結させ、平和を構築するかを考えない安全保障の議論は無意味だろう」と葉室は述べており、この指摘は、とりわけ今の時期には重く響きます。このビジョンの欠如が、敵の殲滅だけを目的とした兵器、軍略を生み出すのです。マリウポリの製鉄所を焼き尽くす、白リン弾とも言われる地獄の火は、まさに将来のビジョンを失い、正気を無くすことの恐ろしさを表しています。

ところで、大河ドラマの主人公に立花宗茂を推そうという運動が毎年のように福岡にはあって、たくさんの「のぼり旗」が藩祖ゆかりの地、福岡市の「立花山」近辺にはためいています。私も、毎年期待を裏切られながら、心待ちにしているひとりです。


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ねむらないただ一本の樹となって

2022-05-17 19:44:56 | 日記

すこし古い話になりますが、ようやく再開された有田陶器市に出かけ、十数年ぶりに町外れにある大公孫樹まで足を延ばしました。
子どもたちがまだ小さい頃、陶器屋めぐりばかりでは退屈だろうと、大公孫樹を見に連れて行ったところ、その巨大さと新緑の勢いに圧倒されました。成長した子どもたちと、改めて大樹の前に立つと、若葉が古木から爆発するように吹き出る力強さは昔見た姿そのままです。

私は樹木の前に立って、いつまでも眺めているのが好きです。歌に関しても、木に対面して、あるいは木と一体化して詠まれたものが心に残ります。

ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす
(笹井宏之『えーえんとくちから』

この歌では、詠み手は樹木になっています。樹木は「あなた」に言葉をかける代わりに、身をゆすり実を落として思いを伝えようとします。15歳で身体表現性障害という難病を発症し、寝たきりのまま歌を詠み続けた歌人にとって、思いを伝えることはかくも切実だったのです。
「ねむらないただ一本の樹」は「あなた」を一途に思う姿を表していますが、親の子に対する思いにも通じるように感じます。

同じ歌集には、続けて次の歌が登場します。

拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません

この手紙は、一首目の樹木が落とした実なのでしょうか。こんどは「あなた」が一本の樹になって実を落としており、それを拾ってみると手紙のようで、嬉しくておそろしくて、もう読めないのだと歌人は詠います。

「樹」と「私」、「私」と「あなた」そして「実」と「手紙」、それぞれが入れ替わるように姿を現します。そして、思いを伝えることの豊かさと、豊かさに対する畏れとが、この二首のなかで交差しています。
いつまでも子離れできぬ親の愚かさをも、この二首は包み込んでくれるように感じます。


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キジバトの記

2022-05-10 21:23:58 | 日記

先日の母の日、15年前に亡くなった母の本棚を整理していると『キジバトの記』(海鳥社)という本が出てきました。上野晴子という著者名を見てもピンとこなかったのですが、本の帯に「〈筑豊文庫〉三十年の照る日、曇る日」とあるのを見つけて、思わず姿勢を正しました。
筑豊の炭鉱を舞台とした記録文学作家、上野英信とともに「筑豊文庫」を支え続けたのが上野晴子さんです。
母が、どうやってこの本にたどり着いたのか、今としては知るよしもありません。昨年秋、コロナ禍の一休止の時期に、満を持して直方市立図書館にある「筑豊文庫資料室」を訪ねたばかりだったので、思わぬかたちで冥界の母に接したようでもあり、しばし感慨に耽ることになりました。

上野英信は関東軍に入隊し、将校として配属された広島で被爆しました。戦後復員して京都大学に編入しますが、中退し出奔するように筑豊の炭鉱労働者になります。公安や福祉事務所の手先ではないかと疑われながら、廃坑集落の住民の悩みを聞き、励まし、叱り、共に泣いて、地域に受け入れられた人でした。私はこれを葉室麟のエッセイ集『曙光を旅する』(朝日新聞出版)で知り、『追われゆく鉱夫たち』(岩波新書)など上野英信の一連の著作を読みました。それから、ずっと筑豊文庫の資料を展示している直方私立図書館を訪ねたいと思っていました。

昨年ようやく「筑豊文庫資料室」を訪れたことを当ブログに記すと、筑豊の『無名通信』(森崎和江が創刊した女性のための雑誌)に参加された経験を、遅生さんがご自身のブログに思い出話として紹介してくれました。社会の底辺にある人に手を差し伸べていたはずの運動が、高邁な理想を実現するために、女性ひとりひとりの自立よりも組織を優先せざるを得なかったことなど、その記事で教えてもらいました。

『キジバトの記』は、亡き夫とその志への尊敬の気持ちに満ちた美しい本です。著者没後に、ご子息の上野朱さんが遺稿を出版したものですが、その端正な文章は、熟達の作家の風格を漂わせています。これは若いころ短歌会「形成」の同人として作歌に励んだときから培われた筆力なのでしょう。「形成」は白秋の創刊した短歌雑誌『多磨』が戦後解散して、誕生した結社のうちのひとつなのだそうです。ところが、上野英信は結婚すると妻の作歌を禁じます。「文学の毒が君の総身に回っている」と言って。
上野英信を尊敬する者として、これはとても辛い事実です。晴子さんもどんなにか無念だったことかと思います。しかし、同志としての固い絆で結ばれていた妻の次のくだりを読むと、ほっとしてしまいます。そしてしばらくの間考えさせられるのです。

妻の視覚は偏りやすい。私は自分の心を制御して夫を師として見做すように努めた。自然な夫婦の有りようからはますます遠くなったけれども、この切り替えは私に一種の自浄作用をもたらした。
師として仰げば、彼ほど多くのものを与え得る人は稀であろう。人間の最も基本的な姿勢を彼は自らの生き方によって示した。深い苦しみや悲しみの中にいて、自由に生きることのできる人だった。(73頁)

上野晴子が自身で語るように、理不尽な夫を文字どおり仰ぎみるだけの人ならば、おそらく魅力を感じないでしょう。しかし、次のくだりはどうでしょうか。

英信の作品の中で私が惜しいと思う部分は登場人物の会話のぎこちなさにある。語られる内容ではなく、語る人の息づかいがどれも一律なのだ。そして方言の処理がまずい。長年筑豊にいて多くの人に接しながら、性格や年齢や身分の違い等がどうして書き分けられなかったのかと考えてみると、それは曾て私たちの方言を理解しなかったことと無関係ではないことに気付く。(67頁)

夫の原稿を最初に読んで意見を求められた晴子さんは、褒めることから始めたと書いています。けれども、気分が高まれば、上記のようなことをそのまま言って、激しい夫婦喧嘩をしたのではないか、などと想像してしまいます。これならば、同志の姿に違いありません。

高橋和巳が『邪宗門』執筆のために、炭坑の坑内を見たいというので、坑内見学を準備したエピソードなども載せられていて、晴子さんは物書きのうち「とりわけ高橋和巳さんにはお会いできてよかったと思う」と述懐しています。母の日に母から贅沢すぎる贈り物を受け取ったように感じました。


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下学して上達す

2022-05-04 10:41:08 | 日記

『論語』に「下学して上達す」とあります。
ふつう、しっかりと基礎的なところから研鑽を積めば、高遠な学理に到達するという風に解釈されます。それはそれなりに噛み締めるべき言葉なのかもしれないと思うのですが、孔子はわざわざそんなつまらないことを言おうとしたのかと、常々思っていました。

話は少し逸れますが、普段若い人たちと接していて感じるのは、一様に真面目でおとなしいという印象です。終身雇用制も崩壊するなか、長い老後をひかえて生き延びるためには、手に職をつけなければならないというのが、共通認識なのではないかと思います。私のなりわいによる偏りなのかもしれませんが、資格取得に追われて気の毒な気持ちにもなります。
と同時に、私が若い頃に浸り切った読書体験というものが、彼らにはほぼ無いということを知ると愕然とします。

数年前『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』という本がベストセラーになったとき、とても複雑な思いをしました。こんなふうに、消費者のニーズにものごとを置き直して考える高校生がいたら、とても嫌だろうと思いました。消費者とはなり得ない他人に出会ったとき、彼らはどう考えるのだろう。おとなしい若者たちが、こういう考え方に手もなく感化されるのならば、根深い問題をはらんでいるのではないかとも考えました。

冒頭の論語の言葉のなかの「上達」は、ものごとに上達するという意味とは、だいぶ違う意味があるのではないか。孔子は「君子は上達す、小人は下達す」とも述べています。とすれば、人間は「下達」というものに容易に陥りやすいことでもあり、それは「上達しない」ということよりも、もっとたちの悪い何かです。こんなことをずっと考えていたら、前田英樹が著書『定本 小林秀雄』(河出書房新社)のなかで、鮮やかに解き明かしてくれていました。前田は孔子が「下学」を重んじるならば、否定すべき「上学」を想定していたはずだ、というところから話を始めます。

一年で千冊本を読むという人は、嘘をついているに決まっている。なぜ、多くの物知りがその種の嘘をつくかというと、〈上学〉の可能性を何とはなしに信じ込んでいるからである。わが身を離れた情報の収集だか、整理だか、あるいは研究だかを有効なものと信じている。なるほど、有効な場合もあるにはあるだろう。人を出し抜いて、誰かの思惑の裏をかき、まんまと利得にあずかる、という場合は、みなそうである。孔子は、そういうものを決して君子の学問とは認めなかった。君子の学問は、己のために為されるので、束の間の利を得んがために、まして人を見下すために為されるのではない。
「君子は上達す、小人は下達す」とも孔子は言っている。「下達」とは、つまらぬ事情にむやみに精通することなのだが、小人の学問は、この「下達」からなかなかに逃れがたい。なぜかと言えば、彼の学問は、まず〈上学〉への軽信に赴くことを常とするからだ。身を離れた空想、とほうもない計算、理の上に際限なく積み重ねられる理、そうしたものの権勢に手もなくしてやられる。その先にあるものは、「下達」しかないということである。(前掲書 294-295頁)

「身を離れた空想」とは逆のものとは、いまじぶんがここに生きていることの事実に、どうしてもこだわらざるを得ない態度だと思います。それが若いころの渇くような読書体験となっていました。
手に職を付けなければ生きていけない、というのもまた若者たちの渇くような実感だと思います。そうだとするならば、いま大人が自分たちの若い頃のことを話してあげるべきではないかと考えます。決して自慢げにではなく、そのときの苦しみを話してあげる責任があるのだと思います。


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