桜の花といえば、馬場あき子の代表作ともいえる歌があります。
さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり
(『桜花伝承』)
この歌は作者が四十七歳のときの歌なので、前回ご紹介した、ひたすら花を散らす夜桜の歌よりも、二年前に詠まれたことになります。
作者の解説によると、文芸評論家の村上一郎が自刃したのを聞いて、村上家に向かったときの思いを「春の水深」と題した二十九首に詠み、その冒頭に置かれたのがこの歌なのだそうです。また、この歌について、こうも記しています。
私の桜の歌については「身に水流の音ひびくなり」が一般的によく伝わらず、「川の辺りにあっての歌」「水流のようにひびく心音」「身を流れる水流のような血潮の音」などと解釈された。私としては「川の辺り」以外の二つであればどちらでもありがたい。一連の後半は村上一郎への挽歌として「無名鬼」の追悼号に出した記憶がある。(歌林の会「さくやこの花」)
永田和宏はこの歌にふたつの時間の交差をとらえました。季節のめぐる円環時間には、行って帰らぬ直線的な時間の流れが交差しており、われわれ人間は直線と円とが織りなす螺旋時間を生きているのだと。来年の桜は螺旋の一つのピッチ分ずれた花の季であり、「幾春かけて」みずからの老いと向き合うことになるのです。
この歌の詠まれた背景を読むと「身に水流の音ひびくなり」と、前回の夜桜の歌の「桜散りおりとどまらざらん」とが重なって聞こえるように感じます。
そうすると、みずからのうちの止むことのない思いと、季節のめぐる円環運動とが、どうにか折り合いをつけていくことが生きていくことなのではないか、とも思います。
それでも折り合いのつかないものと向き合うことで、みずからが「老いゆく」ことと対峙することになる。人の壮絶な死を聞いて駆けつけたときの、作者の思いに重なるように思います。