大学の卒業式を終えた娘たちが、花束をたくさん抱えて帰ってきました。ゼミの後輩たちにもらったものの他に、私たち両親のために彼女たちが用意してくれたものもありました。私たちへの手紙を添えて、長い間お世話になりました、ありがとうございます、と言って渡してくれました。
親としては、子どもに対する責任を果たしたという安堵よりも、娘たちとの関係が新たな展開に入ったことに気付かされて、戸惑っているのが正直なところです。
幼稚園の入園式で、いつまでも泣き止まずにいた長女の手を引いていたのは、私の中ではつい最近のことです。小学生の頃、その長女が特別支援学級「たけのこ学級」の子を、いつも気にかけて声をかけていたことを、その子のお母さんから聞かされたときのことも思い出します。たとえ勉強ができて一番になったとしても、お父さんはそんなことより、ずっと嬉しいんだよと、話をしました。
次女が学校でいじめを目撃して、それが上級生にもかかわらず、猛烈に抗議したことを担任の先生から後になって聞きました。そのことをきちんと褒めてあげていないことが、いまだに心残りです。
この歳になっても、自分のこころがよくわからないことがあります。どんなに善意に行動したつもりでも、打算づくで動いているような、こころ寒さを感じることがあります。
そんなときには、娘たちの魂の炎の、ほんの種火でも自分は宿しているのかも知れないと思うと、少しは気持ちが晴れるのです。
子育ての過程を振り返ってみて、依存していたのは娘たちではなく、私の方なのだとしみじみと思います。
最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て
俵万智の歌ですが、これが「最後」だと思う瞬間もあるのだと思いました。本当に今が子離れの潮時なのでしょう。娘たちの魂の炎は、彼女たち自身がみずからの力で灯していて、親はただ見守っているだけなのだと、自分自身に言い聞かせています。