犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

チャンチンの新芽

2011-02-06 19:10:42 | 日記

Mさんは職場においては常に過つことのない見本であり、あのようになりたいという憧れの対象であり、またプライベートにおいても良き相談相手でした。
そのMさんが検査入院した2週間後、急いで入院先の大学病院へMさんを訪ねて行くようにとの職場の指示がありました。
病室を訪れると、点滴スタンドを引きずりながら待合室に私を誘導したMさんは、いましがたガンの告知を受けたこと、職場復帰は難しいと思われるので仕事の引き継ぎを急いで行ってほしい旨を、淡々と告げるのでした。ご迷惑をおかけして申し訳ないとまで言われるのでした。
数ヵ月後、仕事がひと段落したので、静養されているご自宅まで、仕事の報告かたがたお邪魔した時のことです。顔色もよく、繋ぎの作業着姿で迎えてくれたMさんに、「まるで庭仕事でも始めそうな勢いですね」と軽口を飛ばすと、照れたように静かに笑っていました。
そして窓から見える隣家の桜を指さしながら、「見てください。今年の桜は特にきれいなんですよ。」と言われるのです。
ひとしきり話をした後、いとまを告げようとすると、もう少しいいじゃないですか、と言われます。いつもは気をまわして引き留めることのないMさんにしては珍しいなと思いながら、体に障ってはいけないと思い、その日はそのまま退出することにしました。
思えばMさんにお会いした、これが最後の日でした。

Mさんのお葬式の帰り道、チャンチンという名の中国産の街路樹が淡いピンク色の新芽を吹きだしていました。例年ならばしばらく足を止めて見入る芽吹きの前で、私はわが目を疑いました。浮き立つような彩りを見せているはずの新芽が、まるで薄墨を付けた筆でスッとなぞった跡のように見えたのです。
しばらくぼんやりと歩いていると、満開の桜を背に笑っている繋ぎの作業服を着たMさんの姿が目に浮かんできました。
もう桜を見ても美しいと感じないのかもしれない―そうも思いました。
同時に、余命が幾ばくも無いことを知っているMさんは、満開の桜を見てこれが最後の桜だと悟ったに違いないと思いました。これまで見た桜とは全く違って見えたことだろうと思うと、こらえていた涙があふれてきました。

大ベストセラーになった『バカの壁』の中で養老孟司さんは、ものを知るということは「根本的にはガンの告知だ」と述べています。学生に対して「君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう」と話をされるのだそうです。
もう十年近くも前の話ですが、養老さんの言われる正にその同じことを、私は残される側の立場で経験しました。
世の中が違って見えることを知る、「思い知る」経験でした。


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