ペーパードリーム

夢見る頃はとうに過ぎ去り、幸せの記憶だけが掌に残る。
見果てぬ夢を追ってどこまで彷徨えるだろう。

「赤い ヒラタ ノ ボウシ」

2011-07-22 04:31:49 | 帽子の小部屋
110624.fri.

あれから、もうひと月も経ってしまった。
青山のスパイラルガーデンで開かれていた展覧会。
「ヒラタ ノ ボウシ」 2011.6.15-26(→好評につき7.3まで延長)

~伝統のフォルム・未来へのエスプリ~
この副題こそが、帽子作家・平田暁夫を見事に表していると思う。


平田先生と私の関係は、
文末の、五行歌誌『ハマ風6月号』に掲載された文章を
読んでいただければおわかりになる。
まさか、ここで再びお目にかかれるとは思わず、
この日はまた私にとって特別な日になってしまったのだ。

銀座教会で友人が開催している「みことば展」を見に行く前に
ちょっとのつもりで立ち寄ったスパイラルガーデンの会場。
そこは、見わたす限り白い帽子の海だった!
何千という数の白い帽子が天上から吊り下がっている中に、
ところどころに浮かぶ色とりどりの個性的な島・・・
その島こそが、平田先生の作られた帽子。
なんて楽しげで、優雅で、個性的で、気取ってて、軽やかな・・・。

下から見上げながら、
壁に沿って通路を上りながら、そして
上からその帽子の海を眺める幸せな時間。

ああ、もっと時間の余裕を見てくればよかった!
なんていつもの後悔をしながら、歩いていくと
まさかの即売コーナーが!
そこで、パッと目に入って、パッと被った帽子が、まあなんて似合うこと!(笑)
でも値札がついてない。
聞けば・・・・あらまあ、納得のお値段。
もう現役ではお造りなっていらっしゃらないし、一点ものだし。
なんたって、孫弟子である私の技術では、何百回ひっくり返っても作れない!

悩む私に、「先生に見立てていただきましょう」とスタッフの女性。
「お目にかかるのは二度目なんですよ」と言いつつ、
平田先生直々に被り方を伝授していただく、これまた至福の時間。

もう一人、購入に悩む女性がおられた。
どうです? 素敵でしょう?
彼女の体に映る帽子の影。この影もまとめて「帽子」なんですよ、とおっしゃる。

「“帽子は額縁”ですね?」という私の言葉に、にっこりされる平田先生。
「帽子は、被る人の洋服や個性に合うように作らなくてはならない」が持論。
3月の東日本大震災の後、被災された方々が、
生活必需品として被っている帽子姿に心打たれて、
もっと帽子を生活に定着させたいと思い今回の展覧会を開いたのだという。
86歳の帽子デザイナーの更なる挑戦だ。

さて、約束の時間に大幅に遅れ、白く四角い帽子の箱を持って現れた私を
年長の友人達はとてもやさしく迎えてくれました。
予約していたイタリアンレストランに向かう道すがら、
人混みで箱がつぶれないようにと、頭の上に担いで歩いてくれたM先生、ありがとう!

美大教授でもあるM先生がいつも言われる
「15年前のイタリア旅行の飛行機から降りてきた、まるでその続きのようですね」という
言葉そのままの夕食会で、「ジャーン!」と、その帽子を披露しました。
人間ドック+「赤い ヒラタ ノ ボウシ」が、今年の自分への誕生日プレゼントだい!
(・・・やや開き直り)



ただでさえ長い日記なのに、さらにおまけがついていてスミマセン。


故郷の先人~『生涯を帽子とともに~平田暁夫(ヒラタ・アキオ)』
                               コバライチ*キコ

 二〇〇八年二月二日(土)、憧れの人に会った。ホテル・オークラで行われた“この春愉しむスプリングハット”ショーの特設会場。ゲストは、平田暁夫氏。皇室関係者の帽子は彼の手から成る、帽子界、いやファッション界の巨匠である。当時、御年八十二歳。トークショーが終わり、たまたま一人佇んでいらした平田先生に、私は思わず話しかけていた。「私の帽子の師匠は平田先生の弟子でした。ですから私は恥ずかしながら先生の孫弟子で、しかも生まれは、先生と同じく信州は伊那谷なのです」と。すると、ダンディな表情がふわっと柔らかく崩れた。「そう。僕の家は飯田の大瀬木にあってね…」。
 飯田市は長野県南部、南アルプスと中央アルプスに挟まれた伊那谷と呼ばれる盆地にある。その外れの小さな村で、一九二五年、アキオは祖父、父ともに指物師の家に生を受けた。豊かな自然に育まれ、腕白な少年時代を送った彼は一四歳のときに、故郷を後にする。当時は口減らしもかねて長男以外は他所の土地へ働きに出ることは珍しくなく、また、たまたま、明治時代に飯田出身の男がアメリカに移民、後に帰国して銀座に帽子店を開いており、その流れで帽子店への丁稚奉公の口があったからだという。
 帽子を被った女性など見たこともなかった少年は、華族や人気女優らに帽子を配達する毎日を送り、得意な図画、工作の才能を生かして、やがて帽子をデザインする立場になっていく。しかし、太平洋戦争が勃発。終戦後、病んで戻った故郷から再び銀座に出たのは、先生とともに帽子作りを再開したからである。帝国ホテルのアーケードで、進駐軍将校夫人たちから洋服の共布で帽子を作る注文を受け始めたことがターニング・ポイントとなり、評判を呼んで、独立。そして、一九六二年、ファッション・エディターズ・クラブ賞受賞を機に、パリへ旅立つ。
 パリでは、大統領夫人や各国王室に顧客を持つジャン・バルテ氏に師事するが、日本で身につけてきた技術は役に立たない。一から出直すことになったものの、師の信頼を勝ち得るのにそう時間はかからず、半年予定の滞在期間を超過して、三年間は瞬く間に過ぎていった。現在、帽子デザイナーとして活躍する一人娘が生まれたのもこの時期で、ヨーロッパで生まれたから「欧子」と名づけた、と聞いたことがある。
 帰国後は美智子妃殿下(現皇后)のご用命を受け、以来、彼の帽子は皇室の妃殿下たちに愛されている。現在、西麻布にある「ブティックサロン・ココ」を開店したのは一九七一年。日本は高度成長期で、アキオの帽子はコマーシャルやファッション誌などからも引く手あまただったが、その技術を後進に伝えるために「平田暁夫帽子教室」を開設。二〇〇〇年に閉じるまでの三十年間で、三千人以上の生徒を育てた。帽子だけではなく、フランスの伝統的な造花作りの技術を身につけ、日本に持ち帰ったのもこの時期である。
 一九八〇年代半ば、衰退したパリの帽子業界を立て直そうと試みるが、健康上の理由で断念。が、七十歳になった一九九五年に、パリで念願の個展を開くと大評判を呼び、“偉大なるモディスト(帽子デザイナー)”、“メートル(巨匠)に脱帽”と讃えられたという。「ヒラタ・アキオ氏は、他の芸術家たちが絵画や彫刻に人生を捧げるように、自らの人生を帽子の創作に捧げた。氏の手によって、最も上品で洗練された素材は、大胆な、独創的な、あるいは軽やかなフォルムに生まれ変わる」と書いたのは、パリのジャーナリストである。このときの作品の一部は永久保存のため、ルーブルはじめ三つの美術館に所蔵されている。
 現在も平田先生は、現役の帽子デザイナーとして、帽子職人として、未来を見つめておられる。私が、ひょんなことから帽子作りを習い始めたのが一九九六年。それ以前に出版された平田先生の本を、なぜ持っているのか、いつから平田先生のことを知っていたのか、記憶にない。単に帽子が好きだったからだけなのだろうか? 偶然教えを乞うた師匠が、平田先生の弟子だとは、もちろん知らず、不思議な縁を感じる。それに何より、信州のあんな片田舎から、なぜ世界的に有名な帽子デザイナーが現れたのか、不思議でたまらなかった。が、今回改めて確認する作業がとても楽しいものだったことは、間違いない。

※参考資料:『AKIO et AQUIRAX 平田暁夫の帽子』(平田暁夫:著/宇野亜喜良:編/ワイズ出版)『帽子』(平田暁夫:著/婦人画報社)

『ハマ風6月号』より
http://hamakazego-hp.web.infoseek.co.jp/
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2 コメント

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楽しみだね~ (アルキメデス)
2011-07-22 15:07:13
楽しみだね、その帽子姿!!!
服はどんなだろう!?
舞台にあげたいねえ~
もうイメージできてるから、たぶん驚かない!

こちらも帽子を買ったぞ~
吉祥寺LL Beanでツバの広い山用の帽子~♬

平田先生は、機関車戦センセイこと柄本明に似ているよね(^^;
返信する
お楽しみに~♪ (kikkoro)
2011-07-23 00:46:31
アルキメデスさま

赤いものを衝動的に買いたい時期ってあるんですよね。
いつご披露しましょうねえ

LL Beanのツバ広山用帽子、
Toy Storyに出てくる(実は見てないけど
カウボーイ人形みたいな感じかなあ?
返信する

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