161001.sat.
在京飯田高校同窓会誌『稲穂(とうすい)』 ができました。
本日は、その発送作業。4000?5000?部の宛名シール貼りと梱包に
40人ほどの同窓生が集合。
初めて会う方の方が多いのに、なぜか懐かしい空気感。(笑)
サクサクと作業も進みます。
縁あって、今年から『稲穂』の編集委員に加わり、
駆け付け一杯?じゃないけれど、いきなりエッセイを執筆することになりまして、、、。
私のページ、こんな感じでカンセイです!σ(^_^;)
午前中だけしかお手伝いできなかったけれど、
今半のお弁当はしっかりいただいてσ(^_^;)、
午後から根津で歌会です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以下、エッセイ掲載します)
私が帽子を作っている理由(わけ)
私の本業は本の編集者。なぜに帽子、という、防寒・日除けに必要な、実用的ではあっても日常生活においてさほど不可欠なものとは言えないモノ作りをするようになったのか? そう問われても、さあ? としか答えられないのが正直なところなのです。
◆運命?の出会いは20年前の骨董市
一九九六年六月も末のこと、骨董品収拾に興味のあった私は、「平和島・全国古民具骨董祭り」の会場をぶらぶら物色していました。今年は買いたいものがないなあ、帰ろうか、と思ったそのとき、アンティークの食器を並べたブースの片隅の、羽根飾りのきれいな帽子に目が留まったのです。
「これもアンティークの帽子ですか?」と聞くと、店主らしい女性が、「それもありますけど、私が作ったものもありますよ」と。彼女がブレードを編んで作った、少し変わった形の夏用の帽子が気に入ったのでそれを買い求め、「来月から、帽子教室を始めますから、よかったらどうぞ」と渡された手書きのチラシを持って、家に帰りました。
祖母が和裁、母が洋裁をする姿を見て育ったため、縫い物には抵抗はなかったものの、 帽子を手作りするなど考えたこともありません。当時、仕事も相当に忙しく、習い事をする時間など捻出できるのだろうか、という考えが過ぎらなかったはずはないのですが、「なんだかおもしろそう!」ただその思いだけで、翌日、その女性に電話をかけていました。
翌週末の七月五日土曜日、35歳の誕生日に、国分寺にある「あらい静枝帽子教室」に向かいました。ミシンを使うのも久しぶりで緊張しましたが、その日、青緑色のベレー帽を完成させた感激は今でも覚えています。週明け、会社に持っていって、皆に見せびらかしたことも鮮明に。
それから8年間、月に3回、土曜日の午後、アトリエに通うことになりました。カリキュラム自体は4年ほどで終了できるものでしたが、私の場合、当時、残業時間が月200時間超えも珍しくないほど、とにかく仕事仕事仕事の毎日で、家で下準備をしていくことが全くできません。すべて、アトリエで一から始めるわけですから、倍の時間がかかります。金曜日の残業に疲れ果て、寝坊して、土曜の昼に、先生から電話で起こされたこともありました。それでも続いたのは、たぶん、これまで縁のなかった、初めてすることばかりの作業がおもしろく、その魅力にいつのまにか取りつかれていたのでしょう。あらい先生や、慣れてくると仲間たちとのおしゃべりも楽しくて、気がついたら8年も経っていた、ということだったのだと思います。
◆帽子デザイナー・平田暁夫先生と飯田との関わり
あるとき、東京は京橋生まれのあらい先生のセカンドハウスが、豊丘村にあることを知ります。一九八〇年代、第一次田舎暮らしブームの頃に移り住み、私の生まれ育った松川町の日赤病院で長男を出産したのだとか。京都で仕入れた骨董品の一時保管場所として、距離的にちょうどいい場所でもあったようです。近所の農家から羊毛を買い、染めて機織りし、軽井沢で売っていたとも聞きました。あの広い長野県の、まさか南信の、しかも豊丘村に…なんとも不思議なご縁です。おまけに、あらい先生が師事した帽子デザイナーが平田暁夫先生だったのです。
世界的に有名な帽子デザイナーが、なぜ伊那谷から生まれたのか不思議に思っていたものの、当時、平田先生は帽子教室を閉じられた頃でしたから、直接習うことはかなわず、私には縁遠いこと、と思っていたら、まさか、こんな風につながっていくとは思いもよりませんでした。
初めて平田先生にお会いしたのは二〇〇八年二月、ホテルオークラで催されたトークショーでした。帽子のかぶり方、アレンジの仕方などの実演の後、ステージを下りてお一人でいらした平田先生に思わず話しかけていました。間接的に孫弟子です、そして先生と同じ飯田の出身です、と話すと、厳しいダンディな表情がふわっと優しい笑顔に変わって、「そう。僕の家は大瀬木にあってね」と。あらい先生に習い始めたいきさつを話すと、おかしそうに笑われたのでした。
二度目にお会いしたのは、二〇一一年六月。青山スパイラルホールでの「ヒラタ ノ ボウシ」展で、偶然に。そこで、パッと目に入った帽子をかぶると、我ながらよく似合います。当然、それなりのお値段で、悩む私に、平田先生が直々にかぶり方を伝授してくれたのです。もう一人、購入に悩む女性に、こうおっしゃいました。「あなたの体に映る影を見て。この影もまとめて帽子なんですよ」。
「帽子は額縁。かぶる人の洋服や個性に合うように作らなければいけない」。平田先生が言われた言葉は、常に頭の片隅にあります。
◆病気で休職しても、休まず通った帽子教室
平田先生仕込みの「伝統的なフランスの手法で作る帽子とコサージュ」を伝授してくれたあらい静枝先生の、印象的な言葉もいくつもあります。その中でもいちばん印象に残っているのが、「何事もなかったように」でしょうか。
例えば、帽子のチップ(原型)を作る作業は気の遠くなるような根詰め仕事。スパットリー(イモギの幹を鉋で薄く削り、さらに細く切ったものを機織り機で織った素材)を使って好みの形にしていくまでに、切ったり、縫ったり、石膏を縫ったり、多くの過程があるのですが、途中いびつになりかけても、根気強く、思う形に修正し、何事もなかったように仕上げる。帽子のトリミング(飾り)で失敗しそうになっても、慌てず、前段階に戻って、最初からそうなるとわかっていたように完成させるのです。
やがて、何でもそうなのだ、と気づきました。丁寧に工程を踏んで、基本にあるものがきちんとしていれば、途中で何かトラブルがあったとしても、完成形は静かで、美しい。いつのまにか、私の座右の銘となっていて、こんな短歌を作ったこともあります。
なにごともなかつたやうに平常のカタチに我れを当てはめる朝
二〇〇一年九月、乳がんの手術をして半年の休職を余儀なくされましたが、このときがいちばん充実した帽子教室での日々だったように思います。何より、抗がん剤で脱毛した私は、このために帽子作りを学んでいたのではなったのか、と思ったほど。自分の分はもとより、病気で悩む人たち用の帽子を真剣に考案した時期でした。
平日の昼間なので受講をあきらめていたコサージュクラスにも通うことができました。布を染めて、花びらの形に切り、アルコールランプで熱した鉄製のコテを当て、花の形に成形していく作業は、予想外に楽しく、この作業に喜びを感じる自分に驚きもしたのでした。
◆かぶる人が笑顔になれる帽子を作りたい
二〇〇四年七月、モディスト(帽子デザイナー)クラスを修了した記念に、築地で、初めての帽子展を開きました。以来、約三年おきに、銀座(三人展)、築地、神楽坂、曙橋で個展を、ここ数年は年に二、三度のグループ展に参加しています。今年は四年ぶり、四回目の個展を、うれしいご縁がつながって、飯田高校の先輩・山岸さんが経営するアートギャラリー道玄坂ですることになりました。
帽子大好き! という人を除けば、なかなかハードルが高い(らしい)普段着の帽子。「かぶっている自分に慣れて、見られている自分に慣れれば、無敵ですよ。帽子は自由です」とは、躊躇する人に私が必ず言う言葉です。帽子展に来られた方の、帽子をかぶった写真を必ず撮っているのですが、最初は尻込みしていた方でも、カメラを向けると、とても可愛らしい表情になるのです。それが見たくて、帽子展をしていると言ってもいいほどです。
十三年前から月に一度、乳がん患者のための病院訪問ボランティアをしていますが、もちろん、帽子をかぶっていきます。病室の中でもとらなくてもいい、主にベレー帽ですが。そうすると、興味を示す方が少なからずいらっしゃいます。かぶってもらって写真を撮ると、パジャマ姿なのに、なんとも幸せそうな表情になるのです。
帽子は不思議です。帽子をかぶると、みんな笑顔になる。そんな笑顔に会いたくて、オーダーしてくださった方によく似合う、喜ぶ顔が見たくて、私は帽子を作っているんだなあ、と思うのです。あれ? それって、私が編集した本で笑顔になってほしい、そう思って本作りをしていることと、実は同じことなのだと、最近、ふと気づいたのでした。
【下平紀代子(高32回)】
松川町出身。出版社、編集プロダクション勤務を経て、現在、フリーランスの編集者。趣味が高じて、ときどき帽子作家。短歌・俳句・五行歌、書道、着物、ゴルフ、伝統芸能鑑賞、美術館めぐり等々多すぎる趣味を抱えて疾走中。
在京飯田高校同窓会誌『稲穂(とうすい)』 ができました。
本日は、その発送作業。4000?5000?部の宛名シール貼りと梱包に
40人ほどの同窓生が集合。
初めて会う方の方が多いのに、なぜか懐かしい空気感。(笑)
サクサクと作業も進みます。
縁あって、今年から『稲穂』の編集委員に加わり、
駆け付け一杯?じゃないけれど、いきなりエッセイを執筆することになりまして、、、。
私のページ、こんな感じでカンセイです!σ(^_^;)
午前中だけしかお手伝いできなかったけれど、
今半のお弁当はしっかりいただいてσ(^_^;)、
午後から根津で歌会です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以下、エッセイ掲載します)
私が帽子を作っている理由(わけ)
私の本業は本の編集者。なぜに帽子、という、防寒・日除けに必要な、実用的ではあっても日常生活においてさほど不可欠なものとは言えないモノ作りをするようになったのか? そう問われても、さあ? としか答えられないのが正直なところなのです。
◆運命?の出会いは20年前の骨董市
一九九六年六月も末のこと、骨董品収拾に興味のあった私は、「平和島・全国古民具骨董祭り」の会場をぶらぶら物色していました。今年は買いたいものがないなあ、帰ろうか、と思ったそのとき、アンティークの食器を並べたブースの片隅の、羽根飾りのきれいな帽子に目が留まったのです。
「これもアンティークの帽子ですか?」と聞くと、店主らしい女性が、「それもありますけど、私が作ったものもありますよ」と。彼女がブレードを編んで作った、少し変わった形の夏用の帽子が気に入ったのでそれを買い求め、「来月から、帽子教室を始めますから、よかったらどうぞ」と渡された手書きのチラシを持って、家に帰りました。
祖母が和裁、母が洋裁をする姿を見て育ったため、縫い物には抵抗はなかったものの、 帽子を手作りするなど考えたこともありません。当時、仕事も相当に忙しく、習い事をする時間など捻出できるのだろうか、という考えが過ぎらなかったはずはないのですが、「なんだかおもしろそう!」ただその思いだけで、翌日、その女性に電話をかけていました。
翌週末の七月五日土曜日、35歳の誕生日に、国分寺にある「あらい静枝帽子教室」に向かいました。ミシンを使うのも久しぶりで緊張しましたが、その日、青緑色のベレー帽を完成させた感激は今でも覚えています。週明け、会社に持っていって、皆に見せびらかしたことも鮮明に。
それから8年間、月に3回、土曜日の午後、アトリエに通うことになりました。カリキュラム自体は4年ほどで終了できるものでしたが、私の場合、当時、残業時間が月200時間超えも珍しくないほど、とにかく仕事仕事仕事の毎日で、家で下準備をしていくことが全くできません。すべて、アトリエで一から始めるわけですから、倍の時間がかかります。金曜日の残業に疲れ果て、寝坊して、土曜の昼に、先生から電話で起こされたこともありました。それでも続いたのは、たぶん、これまで縁のなかった、初めてすることばかりの作業がおもしろく、その魅力にいつのまにか取りつかれていたのでしょう。あらい先生や、慣れてくると仲間たちとのおしゃべりも楽しくて、気がついたら8年も経っていた、ということだったのだと思います。
◆帽子デザイナー・平田暁夫先生と飯田との関わり
あるとき、東京は京橋生まれのあらい先生のセカンドハウスが、豊丘村にあることを知ります。一九八〇年代、第一次田舎暮らしブームの頃に移り住み、私の生まれ育った松川町の日赤病院で長男を出産したのだとか。京都で仕入れた骨董品の一時保管場所として、距離的にちょうどいい場所でもあったようです。近所の農家から羊毛を買い、染めて機織りし、軽井沢で売っていたとも聞きました。あの広い長野県の、まさか南信の、しかも豊丘村に…なんとも不思議なご縁です。おまけに、あらい先生が師事した帽子デザイナーが平田暁夫先生だったのです。
世界的に有名な帽子デザイナーが、なぜ伊那谷から生まれたのか不思議に思っていたものの、当時、平田先生は帽子教室を閉じられた頃でしたから、直接習うことはかなわず、私には縁遠いこと、と思っていたら、まさか、こんな風につながっていくとは思いもよりませんでした。
初めて平田先生にお会いしたのは二〇〇八年二月、ホテルオークラで催されたトークショーでした。帽子のかぶり方、アレンジの仕方などの実演の後、ステージを下りてお一人でいらした平田先生に思わず話しかけていました。間接的に孫弟子です、そして先生と同じ飯田の出身です、と話すと、厳しいダンディな表情がふわっと優しい笑顔に変わって、「そう。僕の家は大瀬木にあってね」と。あらい先生に習い始めたいきさつを話すと、おかしそうに笑われたのでした。
二度目にお会いしたのは、二〇一一年六月。青山スパイラルホールでの「ヒラタ ノ ボウシ」展で、偶然に。そこで、パッと目に入った帽子をかぶると、我ながらよく似合います。当然、それなりのお値段で、悩む私に、平田先生が直々にかぶり方を伝授してくれたのです。もう一人、購入に悩む女性に、こうおっしゃいました。「あなたの体に映る影を見て。この影もまとめて帽子なんですよ」。
「帽子は額縁。かぶる人の洋服や個性に合うように作らなければいけない」。平田先生が言われた言葉は、常に頭の片隅にあります。
◆病気で休職しても、休まず通った帽子教室
平田先生仕込みの「伝統的なフランスの手法で作る帽子とコサージュ」を伝授してくれたあらい静枝先生の、印象的な言葉もいくつもあります。その中でもいちばん印象に残っているのが、「何事もなかったように」でしょうか。
例えば、帽子のチップ(原型)を作る作業は気の遠くなるような根詰め仕事。スパットリー(イモギの幹を鉋で薄く削り、さらに細く切ったものを機織り機で織った素材)を使って好みの形にしていくまでに、切ったり、縫ったり、石膏を縫ったり、多くの過程があるのですが、途中いびつになりかけても、根気強く、思う形に修正し、何事もなかったように仕上げる。帽子のトリミング(飾り)で失敗しそうになっても、慌てず、前段階に戻って、最初からそうなるとわかっていたように完成させるのです。
やがて、何でもそうなのだ、と気づきました。丁寧に工程を踏んで、基本にあるものがきちんとしていれば、途中で何かトラブルがあったとしても、完成形は静かで、美しい。いつのまにか、私の座右の銘となっていて、こんな短歌を作ったこともあります。
なにごともなかつたやうに平常のカタチに我れを当てはめる朝
二〇〇一年九月、乳がんの手術をして半年の休職を余儀なくされましたが、このときがいちばん充実した帽子教室での日々だったように思います。何より、抗がん剤で脱毛した私は、このために帽子作りを学んでいたのではなったのか、と思ったほど。自分の分はもとより、病気で悩む人たち用の帽子を真剣に考案した時期でした。
平日の昼間なので受講をあきらめていたコサージュクラスにも通うことができました。布を染めて、花びらの形に切り、アルコールランプで熱した鉄製のコテを当て、花の形に成形していく作業は、予想外に楽しく、この作業に喜びを感じる自分に驚きもしたのでした。
◆かぶる人が笑顔になれる帽子を作りたい
二〇〇四年七月、モディスト(帽子デザイナー)クラスを修了した記念に、築地で、初めての帽子展を開きました。以来、約三年おきに、銀座(三人展)、築地、神楽坂、曙橋で個展を、ここ数年は年に二、三度のグループ展に参加しています。今年は四年ぶり、四回目の個展を、うれしいご縁がつながって、飯田高校の先輩・山岸さんが経営するアートギャラリー道玄坂ですることになりました。
帽子大好き! という人を除けば、なかなかハードルが高い(らしい)普段着の帽子。「かぶっている自分に慣れて、見られている自分に慣れれば、無敵ですよ。帽子は自由です」とは、躊躇する人に私が必ず言う言葉です。帽子展に来られた方の、帽子をかぶった写真を必ず撮っているのですが、最初は尻込みしていた方でも、カメラを向けると、とても可愛らしい表情になるのです。それが見たくて、帽子展をしていると言ってもいいほどです。
十三年前から月に一度、乳がん患者のための病院訪問ボランティアをしていますが、もちろん、帽子をかぶっていきます。病室の中でもとらなくてもいい、主にベレー帽ですが。そうすると、興味を示す方が少なからずいらっしゃいます。かぶってもらって写真を撮ると、パジャマ姿なのに、なんとも幸せそうな表情になるのです。
帽子は不思議です。帽子をかぶると、みんな笑顔になる。そんな笑顔に会いたくて、オーダーしてくださった方によく似合う、喜ぶ顔が見たくて、私は帽子を作っているんだなあ、と思うのです。あれ? それって、私が編集した本で笑顔になってほしい、そう思って本作りをしていることと、実は同じことなのだと、最近、ふと気づいたのでした。
【下平紀代子(高32回)】
松川町出身。出版社、編集プロダクション勤務を経て、現在、フリーランスの編集者。趣味が高じて、ときどき帽子作家。短歌・俳句・五行歌、書道、着物、ゴルフ、伝統芸能鑑賞、美術館めぐり等々多すぎる趣味を抱えて疾走中。