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ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

ドラッグストアコスメ

2008-11-07 00:01:05 | アート・文化

ドラッグストアコスメといっても、何も特別なものではなく、資生堂とかコーセーとかカネボウとか、その多くが制度品の比較的リーズナブルな価格帯の商品を置いているだけだ。若干薬品系など毛色の変わったメーカーの商品もあるが、すごく個性的ではない。でも化粧品チャネルとしては注目されている。リーズナブルな商品がワンストップで揃うという意味では、以前からよく利用されていたが、最近はドラッグストア側が品揃えを増やして頑張っている感じだ。それは一つに来年の改正薬事法の施行で大衆薬がコンビニでも売れるようになるため、ドラッグストアが薬局として専門特化を追求する道を選ぶか、生活雑貨系、中でも化粧品で活路を見出すかの選択に迫られているためだ。うちの近所のそういう動きに敏感なチェーンストアは、早々に調剤薬局をおいた。一方で化粧品強化に向かう店舗も多い。薬局機能を強化すると、薬剤師を集めるコストと人材不足が課題となるからだ。

一方、消費者の立場でもドラッグストアの品揃えが豊富になり、買いやすくなることは歓迎だ。これまでのデパートや専門店の対面販売に辟易して、セルフ販売に流れる若い女性は増えていた。対面販売もスマートになった今はそうでもなく、使い分けをしている感じだ。私も百貨店コスメ中心で買っているが、随分ドラッグストアで買うものが増えた。マスカラやグロスなどの微妙な色味が関係ないが、消費の早いメイクアップ商品、クレンジングなどテクスチャーにこだわらない基礎化粧品、ブランド品を買うとバカ高い美容マスクなど。安くて済むものは安く済ませてこだわるものはこだわるという風に変わってきていると思う。

よくDMで美容クリームで5万円以上するブランド化粧品の案内が来る。私は買わないし買えないが、そういうものも結構売れているらしい。中途半端が厳しいというのは、他の商材でも言われることだが、化粧品は特にそうだと思う。よく今のように不景気になると、女性の美容への意欲は景気に連動しないので手堅いと言われるが、実際はどうなのだろう。確かに使用するのをやめることはしないが、徐々にシンプルに余計なものは使わないようになっている気がする。ドラッグストアが活況なのは、昔ながら専門店や訪問販売という業態がさまざまな理由で縮小しているという理由もある。街の電器屋さんがなくなっているように、街の資生堂やカネボウショップも少なくなっている。


メディア人ミックス

2008-11-05 23:32:02 | アート・文化

連休中に本を読んだ。恵比寿ガーデンプレイスで時間が空いて、時間を潰せるのが八重洲ブックセンターしかなく、最近めっきり読むことが減った小説を買った。人気作家の東野圭吾の新刊『聖女の救済』だが、別にこの人の本をすべて読破しているわけではないので、これから書くことの真偽のほどはわからない。特にテレビドラマにもなったガリレオシリーズは『容疑者Xの献身』に続いて2冊目。あくまでそこで感じたことだ。『容疑者~』は映画も観ている(読書の随分後)。

新作を読んで思ったのは、小説が映像作品(テレビと映画)の世界に近づいていることだ。そもそも柴咲コウが演じる女性刑事はもともとの原作になかったが、新作では登場している。湯川准教授ももっとダサい男のイメージだったが、完全に福山雅治イメージに変更されている。だから映像化されていない新作を読んでも、柴咲コウと福山雅治と北村一輝のイメージが頭の中でグルグル回る。月9のテレビドラマはほとんど観ていないにもかかわらず。

ベストセラー小説が映像になり、この作品のように女性登場人物が足されたり、あるいは男性登場人物が男になったり(例えば『チーム・バチスタの栄光』の映画)ということはよくある。それで小説ファンは映画を観てイメージが変わったことにがっかりすることが多い。これは映画が小説より下というわけではなく、小説というメディア(といっていいかどうかわからないが)のファンと、映像ファンの分断だったのだと思う。でも小説が好きな人が、映像を下にみていた感性は否定できない。作り手も同じで自分の作品が脚色されることを嫌がり、映像化を望まない人もいる。これは今でもいるかもしれない。

映像の脚色をなぞった小説は、今まであっただろうか?メディアミックスを極め、作り手もミックスしているということか。私は小説も映像も好きなので、この現象に否定的ではないが、一つのメディアではビジネスが成立しにくくなった現状が作家やアーティストといった本来自らが価値を生み出す発信源である人たちにも波及しているということだと思う。出版物が売れなくなったのはいうまでもなく、作品数が増えすぎた映画はもとより、テレビ局も経営的に安泰ではない。インターネットがもてはやされるが、しょせん本来の受益者の財布は開かず、いくらでも増殖できるメディア。ネット単体では経営的にも波及効果も厳しい。

音楽はもっと厳しい。よほどでなければ、YouTubeで十分。むろんそこにも経済行為は介在しているけれど、本来アーティストやクリエーターにとって大切な存在であった大衆やファンが財布を開く必要がなくなったことで、才能は育ちにくくなったのではないか。なぜならばビジネスにかかわるプロが選ぶコンテンツと、人が支持するコンテンツは微妙に違うと思うし、作り手のエンドユーザーへの向き方が微妙に変わるからだ。今でもライブを大切にする音楽家は地道に生きているが、それも会場に足を運ぶ客体があってこそ。ネット配信が当たり前の世代はライブの魅力をいつまで感じ、自身の経済行為が多くの人や社会を支えている意識を育むことができるだろうか。アーティストが米国に流出するプロ野球選手のごとく、日本のマーケットから逃げたり、絶望したりすることがないよう、若い人たちが目に見えないエンターテインメントや情報、情緒的なものに対価を払う気持ちを忘れないように、と思う。


人生最後の旅行

2008-11-03 21:42:44 | まち歩き

出張で国内の飛行機や新幹線、温泉地に向かう特急(残念ながら私は途中で降りるのだが)に乗ることが多い。平日なのだが、出張族以外は私の親世代(60代~70代)が結構大勢乗っている。医療保障や年金問題で政治にいじめられ、一方で振り込め詐欺の標的にされていると、マスコミ的イメージがあるが、むしろ年金が不安なのはこれからもらう世代なのかもしれない。私事で恐縮だが、うちの親もコトあるごとに旅行の話をしている。ギリギリの年金生活者に最近突入したはずだが、そうなると普段はずっと家にいるわけで旅行以外の楽しみはなくなるらしい。でも生活に余裕はないのは確かだし、健康にも自信を失いかけているから、常にこれが「人生最後の旅行」だと言っている。しかし数ヶ月前もそんなことを言って、人生初の北海道に出かけたが、もう次どこに行きたいかという話をしている。悪意なき狼少年、ではなく狼老人だが、ある程度の歳をとると、そんなにこの先長くあちこちに行けるわけもなく、人生最後もあながち本心ではないとは言えない。少なくとも海外はそうだろう。また、本心でなくても、ある日突然現実に行けなくなる日が来る。確率的に若い人より早くその日は来る。

旅行会社や関連業界の人は、まさに今この世代をターゲットと考えているようだ。しかし供給側は意外に複雑なシニアの心理に応えているだろうか。一般的なシニア層が買うツアーがどんなものかよく知らないが、以前に一度だけ1泊の国内旅行ツアーに付き合ったことがある。小刻みにさまざまな名所や物産品店を巡るばかりで、ほとんど何も記憶に残っていない。もちろん安いツアーで贅沢なものを求めることはできないが、もう少し工夫があってもいいと思う。

旅馴れた若い世代や裕福な人たちより、安価なツアー参加者は1回の旅行であちこち行きたいのだろう、名所と言われているところは全部見たいのだろうと考えているのかもしれない。また、価格設定上、土産物屋を含めていろいろなところを引き回して、コスト調整しなければならない事情もあるのかもしれない。でも今のリタイア組は若い人より時間的に余裕があり、旅行頻度が高い。体力と財力(←ギリギリでも)が続く限り、人生最後の旅行と思いながらも、それを何回も繰り返す。むしろじっくり無理のない時間配分で、思い出に残る企画内容の旅を提供し、行き先の数(旅館の料理も同様)は腹八分目くらいにしておいたほうが、また同じ方面に行きたいと思うのではないだろうか。

旅行会社だけでなく、観光集客を見込む地方もまだ工夫の余地があると思う。例えばファミリー層向けにグリーンツーリズムが流行っているが、今さらシニアは農業体験そのものはしたくないだろうが、田舎の素朴な料理の作り方や旬のとれたての食材を食べることには興味があるのではないだろうか。シニアと一口に言っても、育ってきた背景は変化している。リタイア層に戦後世代が増えてくる今後に備え、もはや一括りにはできない。