ゾウさんと暮らす

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二人暮らし。 わたし 82歳。  

南部三閉伊一揆が 小説になっていた

2014年03月03日 00時03分36秒 | ・読書・映画・芝居・TV

今年 1月(かな) 岩手日報 「風土計」に 

 『愛闘』  副題「小説・南部三閉伊一揆の明暗記録」

のことが 書かれてあった。

これは わらび座の 「東北の鬼」の 原作ではないか。

副題を見たとき そう 思った。

近所の図書館から 借り出してもらった。

 

この本は 最初、

今東光 『奥州流血録』として 売れ出されたそうな。

本当の 作者は 生出 仁  (おいで まさし)

当時は 2者 了解のもとに

有名な方の名前で だすことが あったのだそうな。

岩手出版 (岩手県水沢市)1989年版 3500円

生出は 明治三十七年 宮城県に生まれ、

後に 岩手県に移る。 千厩町で育ち、

のち、 県庁で働いたこともある、と。

宮沢賢治との交友もあった。


 

『愛闘』 副題 「小説・南部三閉伊一揆の明暗記録」

「小〇」 の 旗のもとに 闘った、この 一揆と 同じように 

大変な 経過のある出版物である。

xxxxx   図書館には 3月2日に 返す。

 「日本の古本屋」で みつけた。 いま 注文中。xxx

着いたら 茶谷十六 さんの 解説は もう一度読もうと思う。

その時 また。 

今日は どこからか 調べ出した 資料を 貼り付けておく。 

xxxxxxxxxxxx

結構 長いので ご承知おきのうえ お読みください。

     それから 続きは 明日。 も 。


 …… 茶谷十六 さんの 20ページに及ぶ詳細な解説には

「非運の作家 生出仁(おいでまさし)の再生を期す」が 寄せられ、

その読みと 1枚の写真が示され、 生出の生涯も綿密に描かれている。

生出の名前は文学事典の類にも登場していないし、

これが最初のまとまった紹介だと考えられる。

だから 茶谷の記述にそって、生出の生涯を追ってみよう。

大正11年に 盛岡高等農林学校を中退し、県の山林課に勤め、

木炭検査員として県内各地をめぐり歩いている。

彼は宮沢賢治の後輩にあたり、

同じような岩手の文化環境の中にいたのだろう。

この時代から詩を書き始め、『銀壺』や『貌』といった同人誌

に参加し、処女詩集『一冊の詩画帳』を出している。

そして S 14年に 県庁を退職し、

文学活動を飛躍させるために上京する。

高円寺に住み、短編小説を書き、

S 37年  三十七年(みなとし)竜吉 の名前で 詩を発表し、

また昭和2年から 長編小説『奥州流血録』に取り組むことになる。

この嘉永6年に起きた 南部三閉伊一揆を題材とする作品は、

生出自身の木炭検査員の経験の他に、

やはり昭和2年に刊行された

小野武夫編『徳川時代百姓一揆叢談』(刀江書院)に収録の

仙龍軒南石の「遠野唐丹寝物語からの触発、

及びプロレタリア運動の高揚を受けて書き進められたという。

さらに付け加えれば、読後の 私的印象だが、

大正時代から台頭し始めていた 大衆文学と

プロレタリア文學が ドッキングしたとも考えられる。

落合茂は この時期に生出と知り合ったのだろう。

しかしこの無名の新人作家によって書かれた 

四百字詰八百枚近い大作を引き受けてくれる出版社は見つからず、

昭和四年に知り合い、

すでに気鋭の作家と目されていた今東光の名前で出版されることになったのである。

そのことについて、茶谷は書いている。

現在の段階で二人の関係の経過を詳らかにできないが、

「主として販売の都合から、両者の合意の上で今東光の名で世に出された」。

だが 先進社版の「序文」の末尾に

「この物語執筆に当って岩手県人である

生出仁君の労を感謝して置きたい」 という一節が添えられていると。

しかし 生出自身、「あのころ食に詰めていなければ

、『奥州流血録』だけは自分の名で発表したかった」と

痛恨の思いをもらしていたようだ。

その後、生出は文学活動から身を引き、業界新聞の編集長となり、

戦後は『北日本水産新聞』を発刊したが、

昭和二十九年にその生を終えたという。 以上

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