円覚寺日記 四季綴り

このお寺が建っている環境のごとく、ゆったりとした気分で書いていきたい。
浄土真宗本願寺派 円覚寺の日記帳です。

秋季彼岸讃仏会 お勤めいたしました。

2011年09月25日 | 日記


今月21日より23日まで、円覚寺におきましては、「秋季彼岸讃仏会」をお勤めさせていただきました。




ご講師は田川郡川崎町の真道寺ご住職、中村芳道師。
3日間を通して阿弥陀如来のご本願の真実たる所以、そのご本願をいただく私たちの歩みとは、御恩報謝の本当の意味について、ありがたいお取り次ぎを頂戴いたしました。





皆様、ご参拝誠にありがとうございました。



このご法要が終わると途端に秋色が深まっていくような気がいたします。

それと同時に親鸞聖人750回大遠忌法要も後半の日程に入ってまいりましたね。

お念仏申しましょう。

秋季彼岸讃仏会(秋の彼岸法要)を明日21日からお勤めいたします!

2011年09月20日 | 日記
なんだかんだでご案内が遅れてしまって申し訳ございません。


明日21日から23日まで、円覚寺におきましては、

『秋季彼岸讃仏会』(秋の彼岸法要)をお勤めいたします!


21日 昼座 午後1時
21日 夜座 午後7時半(仏教壮年会定例会かねる)

22日 朝座 午前10時
22日 昼座 午後1時

23日 朝座 午前10時
23日 昼座 午前1時(初彼岸追悼会を兼ねる)


ご講師は、

田川郡川崎町の真道寺様より、中村芳道師でございます。


お誘い合わせの上、お参りくださいますよう、お願い申し上げます。

称名

定例法座十六日講

2011年09月19日 | 日記
ご報告が遅くなりましたけれども、去る16日の午後1時より「定例法座十六日講」をお勤めさせていただいた。



今回も真宗教団連合カレンダーの法語より、9月は「如来 一切のために つねに 慈父母となりたまえり」をテーマにお話しさせていただいた。

これは『涅槃経』(親鸞聖人はご自身の著書『教行信証 信巻末』にてかなりのスペースを割いて引用される)の中で説かれる「王舎城の悲劇」の登場人物、阿闍世(アジャセ)がお釈迦様を讃える言葉である。

※ちなみに「王舎城の悲劇」は仏説観無量寿経にも説かれております。




お釈迦さまの最晩年、インドで最も栄えたマガダ国に一大悲劇が起こった。

皇太子である阿闍世が、お釈迦さまの弟子の提婆達多(ダイバダッタ)にそそのかされて、父の頻婆娑羅王(ビンバシャラオウ)を殺し、王位を奪ったのである。

しかしその後、阿闍世は猛烈な後悔に襲われ、激しく苦しむようになる。しかし名医耆婆(ギバ)のすすめもあり、お釈迦さまにあうことによって、阿闍世は救われていく。

阿闍世は、苦しむからこそ救わずにはおれない如来の慈悲の前に、「如来 一切のために つねに 慈父母となりたまえり・・・」と讃嘆されたのである。




さてさて「王舎城の悲劇」における阿闍世の救われる姿に関しては、梯實圓和上が広島教区の若手僧侶の会「春秋会50周年記念公開講座」にてお話しされた「アジャセの救い」のご法話がとても詳しく、また大変ありがたい。

ネットでPDF化されたものがございましたのでリンクさせていただきました。↓
http://www.hicat.ne.jp/home/junjo/2008-07-04.pdf

9月の雲林俳句会

2011年09月15日 | 日記
昨日14日午後1時より、円覚寺門信徒会館にて、9月の雲林俳句会が行われました。

今だ残暑厳しき中ではありますが、皆さん早くも秋の風を感じてらっしゃいます。

それでは皆さんの俳句をご紹介。



初成りの 光一と粒 棗(なつめ)の実 《井上一子》
庭石の 灼けて枝折戸 痩箒(やせほうき) 《櫻井達子》
秋藁の 匂う畦道 深呼吸 《花田弘子》
妻転び 慌て手を貸す 栗拾い 《栗田武》
旬もとめ イチジク売場 道の駅 《栗田愛子》
芋の傘 いつの間にやら 目の高さ 《許斐浩三》
新涼や 鶏の声聞く 朝まだき 《白石実枝》
一輪の残花色濃く 夏送る 《高木タエ子》
思ひ置く ことの数々 秋灯下 《松野賢珠》
祝宴の にごり酒に師 酔いてをり 《松野幸子》
梨むきて 客をもてなし 孫のをり 《山内博子》
里山の 陰の近くに 秋近し 《栗田早苗》
捨案山子 泥をかぶりて 笑ひ顔 《松野淳信》



次回は10月6日(木)午後1時からです!

興味のある方はぜひご連絡を!



そして、明日は午後1時より『定例法座 十六日講』です。

皆様のお参りをお待ちしております。



月愛三昧

2011年09月13日 | 日記

昨晩は中秋の名月であった。

今年の中秋の名月はちょうど満月でもあり、円覚寺からもきれいなまん丸お月さんを眺めることが出来た。

カメラでの撮影も何とかうまくいった。(1/8000秒、F8)

ただでさえ静かな夜の円覚寺であるが、月明かりがさらに幻想的に境内を照らし出した。




さて、『涅槃経』には、「月愛三昧(がつあいざんまい)」ということが説かれている。


お釈迦さまの最晩年、インドで最も栄えたマガダ国の王子阿闍世(アジャセ)は、提婆達多(ダイバダッタ)にそそのかされ、父王のビンバサーラを殺害する。後に過去の悪業を深く悔いるようになるが、罪の意識から心を病み、やがて身体じゅうに皮膚病を生じ、激しい痛みに苦しめられる。そんな阿闍世王の苦悩を知ったお釈迦さまは、彼を救うために「月愛三昧(がつあいさんまい)」という瞑想に入られた。すると不思議なことに、お釈迦さまから放たれた清涼な光が王をつつみ込むように照らすと、全身を覆っていた皮膚病はすっかり癒え、身体の痛みも消え去ったのである。


「〈たとへば月の光よく一切の優鉢羅華(うはつらけ)をして開敷し鮮明ならしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく衆生をして善心開敷せしむ。このゆゑに名づけて月愛三昧とす。大王、たとへば月の光よく一切、路を行く人の心に歓喜を生ぜしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく涅槃道を修習せんものの心に歓喜を生ぜしむ。このゆゑにまた月愛三昧と名づく。{乃至}諸善のなかの王なり。甘露味とす。一切衆生の愛楽するところなり。このゆゑにまた月愛三昧と名づく〉と。」(『涅槃経』※『教行信証 信巻末』 引用)

※意訳
「昼間の炎熱から解放されて、月光のふりそそぐ静寂な夜。清涼な月の光を浴びて、あらゆる青蓮の花が美しく開きます。—ちょうどその月の光のように、お釈迦さまの深い瞑想(月愛三昧)から生じる慈悲の光は、あらゆる人びとを照らし、かれらに「善心」という花を咲かせるのです。」


お釈迦さまは、阿闍世に対し、罪を告げ責め立てるのでなく、月の光がやさしく人を包み込むように、ただ慈悲を注いでいかれたのであった。

罪業深重だからこそ救わずにはおれない、という仏の救いの本質を示してくださる一節である。




写真を撮りながら、しばしこのエピソードを思い出しつつ、静かなひとときを過ごした。



そして、部屋に戻ると・・・・・、



子どもたち、思いっきり部屋を散らかしまくっており、



「コラーッ!!片付けんかーっ!!!」


月愛三昧どころか、思いっきり大声あげとるし。






ジタバタ

2011年09月10日 | 日記
夕方、保育所に子どもを迎えに行くと、たまに帰りたがらない時がある。

「なしてこげん早か時間に迎えに来るとか!こっちはまだちかっぱ遊ぶことがあるっちゃけん!ほんなこつ」と言わんばかりにムスッとすねてくれる。

で、最後の抵抗は

「保育所の柱にしがみつき離れんばい!」




ま、それくらい思いっきり遊んでいるということ、
それは逆に考えるならば、間違いなく帰る家があることに安心しきっているということなのかもしれない。

帰る家があるかどうか心配していたら思い切って遊べないだろうし。


我々にも阿弥陀様からお浄土という世界がすでに用意してあって、その上で今を思い切ってジタバタできるのかもしれない。


鞍手組一泊研修会

2011年09月02日 | 日記
8月31日~1日の二日間、鞍手組同朋教学部主催の一泊研修会に参加。

ご講師は以前より「かんばれ仏教! お寺ルネサンスの時代」等の著書、メディアを通じて、
これからの仏教・寺院のあり方の提言を続けていらっしゃる、文化人類学者の上田紀行先生。

最近では、ご門主との対談をされてその対談集「今、ここに生きる仏教」が平凡社より発刊された。
この本の発売も一つのきっかけとして、また鞍手組同朋教学部スタッフの皆さんのご尽力をいただき、このたびのご縁にあうことができた。

「生き残れるか、仏教」という研修テーマのもと、仏教・寺院再生のキーワードを紐解いていく二日間。
内容については、僧侶にとっては大変耳の痛いご指摘もあったが、しかしそこにはこれからの仏教に対する期待感があふれている。


ついつい「がんばっているんだけれども、なかなかお参りが少ないなあ・・・」
「いろいろやってみたいけども、現実は・・・」

と、後ろ向きな考えに陥りやすい。

しかし、南無阿弥陀仏という間違いのない法が、もうすでに私のところに来ていて、支えとしてはたらいてくださっているのだから、もっと前を向いて建設的に行こうよ、と背中をドンと押してくださったような、そんなうれしさがあった。



研修会が終わって、著書にサインをいただいた。そこには・・・



未来へ!