円覚寺日記 四季綴り

このお寺が建っている環境のごとく、ゆったりとした気分で書いていきたい。
浄土真宗本願寺派 円覚寺の日記帳です。

もいちど京都へ

2011年11月18日 | 日記


京都です。




14・15日の一泊二日で、本山の親鸞聖人750回大遠忌法要に参拝。


鞍手組の団参ですでに参拝してはいるのだが、なにぶんタイトなスケジュールや引率等でゆっくりと本山で過ごすことは出来なかった。

それに、せっかく特別法務員の資格をいただいているのだから、一度は讃嘆衆奏楽員としてご法要に参加したいという思いも日に日に強くなっていた。

また、坊守と子どもも50年に一度の勝縁に遇ってほしかったので、スケジュールとにらめっこしつつ、何とか一泊二日での参拝旅行を思い立ったのだ。

自分自身、泊まりがけで家族旅行をするのは結婚以来実は初めてなのだ。道中の子どもの騒ぎように冷や汗を流しつつも普段と違う雰囲気を楽しんだ。

法要には坊守と子どもたちは御影堂の外陣参拝席で参拝。私は讃嘆衆奏楽員として法要に出勤、親鸞聖人の御真影やご門主様・新門さまのお近くにて雅楽を奏し、声明讃嘆させていただいた。

大変有り難き環境にてお勤めさせていただけるご縁を賜ったことの感動がじわじわと押し寄せ、お勤めしながら感極まってしまった。

法要終了後、着替えをすませ境内に出て家族と合流した頃にはすでに夕暮れ時、団参ならば法要終了後すぐにあわただしく移動となるのだが、今回は違う。




改めて御影堂に入って外陣よりお参りした。法要が終わり誰もいない御影堂は凛とした静けさを保ち、
親鸞聖人の御真影もやさしく我々を見守ってくださっている。

果たして50年後、800回大遠忌に自分はご縁いただけるのだろうかと考える。それと同時に、私の横で無邪気に「まんまんちゃん」と両手を合わせている子どもには出来れば800回大遠忌に遇ってほしいと願う。

いにしえの人たちもたぶんこんな思いを持ち、お念仏してたんじゃないだろうか。




御影堂から出ると更に夕闇が迫っている。そろそろ帰ろうかと歩みをすすめた先に児童向けの記念撮影ボードを見つけた。

面白がって撮影に興じる子どもたち。


50年後、この写真をこの子たちが見られたらいいな。





さて、このたびの法要出勤でいただいた記念品の中啓(ちゅうけい)とよばれる法具。
親鸞聖人ゆかりの花がデザインモチーフとなっており、このたびの法要出勤のために新たに製作されたものだ。

大切に使わせていただこう。

ファミレスで汗だす

2011年11月03日 | 日記
本日3日は休日なのに法事なし。

子どもも保育所がお休み、しかも坊守も風邪でダウン。


子どもの食事をよろしくと坊守に言われ、某ファミレスに子ども二人を連れていく。こんなことは実は初めてだ。
だいたい休日は法務で一日出ずっぱりなのだ。


休日で満員のファミレス、入り口で15分ほど席が空くのを待って、テーブルへと案内された。
おい、店中見渡してもお父さんと子ども二人という組み合わせはウチだけぢゃないか。


若干の気恥ずかしさを感じつつも、ついにアンパンマン仕様のお子様ランチがテーブルに到着した!


よーし、さあたくさん食べろよ~!、と最初は思っていたのだが、次第に「オイ、ちゃんと食べろよ、こぼすなよ、汚すなよ、遊ぶなよ」、と子どもたちに気を取られっぱなし、そんな状態で自分も食事をしていたら・・・、

おかずと白ご飯を食べるバランスをどう間違えたのか、気付けばおかずは早々となくなり、白ご飯だけを延々と食べていたワタシであった。


まあ、気になってしょうがないのも親心かもしれんが、自分の場合は「まわりに迷惑かけるなよ」、と体裁を気にすることも多かった。
体裁を気にするということは結局自分自身が可愛いということかもしれんなあ。


阿弥陀様は自分のことは後回しにしても衆生済度が一番大事。南無阿弥陀仏。


さて、食事の後は車のオイル交換でディーラーに立ち寄り、そこの遊技スペースで30分遊び、
ディーラーを出た後は自宅に戻るつもりが自宅の近所の公園で遊びたいというので立ち寄り30分遊び、
自宅に帰っておもちゃで遊び・・・。

あー、肩いてー。





知恵→智慧

2011年11月02日 | 日記
ああ、結局法務にいっぱいイッパイで更新をサボってしまっている~。


はい、お久しぶりです。


この前の日曜日10月30日19時より、お隣の宗像組第4期連続研修会へ出講。

鞍手組より私を含め3人の法中が講師としてご縁をいただいているこの研修会もまもなく修了。


残り二回となったこの前の日曜日の講義にて講師担当であった。

テーマはこれまでの講義内容を振り返っての話し合い法座。
そこで問題提起15分のお話と、参加者4班に分かれ、それぞれ班別での話し合い法座(座談)70分が終わった後のまとめの法話40分を担当。

3年間にわたる講義を受けて、受講者の皆さんは大変活発な意見交換をしていただけたようでホントありがたい。


さて、話し合い法座後のまとめの法話である。

お念仏のみ教えをいただく私たちが、現実の生活において本当に阿弥陀如来の願いに沿った日暮しが出来ているのだろうか?を問うお話をしようと考えていたのだが、しっかりとまとめることはなかなか難しく、後からこうすればよかった~と後悔しつつ、その日はなかなか寝付けなかった。


浄土真宗のみ教えを聞き、お念仏申す生活となることを願う。
しかしそれが「知識」として浄土真宗の教義を習得することの満足へと方向性が変わってしまうと悲しい。

「助かってくれよ」と阿弥陀如来に願われたそのまんまをよろこぶ私と育てられる。これが大切。
御恩報謝とは阿弥陀如来の願いに沿った私になることである。等価交換の如くいただいたご恩をきっちり返していかなければ怒られる、といったものでは決してない。

私を、そして私を取り巻くこの世界をありのままに見抜き、一切の生命の尊厳を認める阿弥陀如来のご本願をいつも仰ぎつつ、ありのままをそのまま認め遇えるような私にならせていただくことが念仏生活というものであろう。


自己中心の「知恵」から、阿弥陀如来の真実を見抜く「智慧」にいつも自らを問うていくことへの転換、このことをもっと言いたかったのだが。


あと一回講義がある。私は講義担当ではないが今回伝えることが出来なかったことを何とか伝えることが出来ればと思う。
そして鞍手組連研においてもこの反省を生かしていきたい。