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やってみなければ分からない?

2008-11-30 21:26:50 | Weblog
映画やケータイ小説、政策、あらゆるものについて、いろんな立場で様々な人が批評をする。それに対して、

「やってみなければわからない」
「やったことがない人に批判する資格はない」

という反論が見られる。いわゆるカルト/マルチ的勧誘の決まり文句の一つでもあるようだ。ここだけを取り出せば正論っぽく聴こえる。しかし、感覚的に全く受け入れ難い。やらなくても分かることがあると言えるかどうか。やったことがなくても批判する資格/能力が得られると言えるかどうか。そういった考察が抜け落ちた発言だからだろう。

たとえば犯罪について、あるいは戒めについて、それをしたことがない人に、その犯罪を犯した人を批判する資格はないといえるのか。論理的に隙無く考察する為には、対偶を取ったりするべきなのかな。

「やってみなければわからない」の対偶について考える。
命題 やらないとわからない   (やらない→わからない)
逆  わからないならばやってない(わからない→やってない)
裏  やればわかる       (やる→わかる)
対偶 わかったならばやっている (わかる→やった)

やってみなければわからないという命題が真ならば、対偶も真となる。ということは、
「犯罪者の心理は犯罪を犯した者にしか正しく理解できない」
「理解できるならば、その人は犯罪を犯している」
こういうロジックを支持していることになる。

それだけではない。
 やらなくても分かることがある。
 やっていても分かっていないことがある。
 やっている人には分からないことがある。
 やらないからこそ分かることがある。
そういう可能性も全て考慮した上で、相手の批判を受け止めたとき、果たして「やってみなけらばわからない」という発言が出来るものであろうか。

(12月3日追記)
医者は自分がかかったことのない病気を理解することはできないだろうか、そして治療や求められる処置をとることはできないだろうか。そのようなことはないと私は思う。

考えを整理するのに時間がかかりすぎて、考え始めたきっかけを容易に忘れてしまう。対偶だのなんだのの言葉遊びをした理由は、「やればわかる」という言葉を「やってみなければわからない」に摩り替えているような主張の仕方が見受けられたからだった。これは上に掲げた通りで、正しくない。「やればわかる」に対する対偶は「わからなかったならば、それはやっていない」であって、やってみなくてもわかることを否定しない。やっていない人からの批判をやっていないからということで否定することはできない。

そこで、本来の主張に戻して、「やればわかる」を主張することの妥当性がどれほどあるのかということが、気にかかった次第。
やればわかるのだからやってみよ、と相手に押し付けることはできないだろうということを、下の引用記事を読んで考えたという話に繋がったのでした。
(追記ここまで)

プレイもしないで「暴力ゲーム」を非難しないで
説得の手段として、実際にやってみて欲しいと相手に依頼はできても、非難している相手に義務として押し付けられるものではない。そもそも、それじゃあとやってみたところで、親子なり友人同士なりのパーソナルなコミュニティではそれもありだが、それはあくまで個人的な体験の範疇に収まってしまうものであり、客観的評価にはならない。社会的な認知の共有を求めて議論するつもりならば、確認の為に費やされる労力は無駄である。

必要なのは、今実際に「やっている人」「やっていない人」の変化やパフォーマンス、周りへの影響などを客観的な指標で測定して、統計的に分析し評価した上で、予想される結果についての妥当性を議論すること。これとて、多量のリソースを要するものであり、じゃあそのコストは誰が負担するのかという問題になる。

世の中には分からないことの方が遥かに多い。ましてや個人の目に届く範囲等たかが知れている。関心の程度も異なる。全員が全ての知識や思想を共有することが実質不可能だ。だから、それぞれ専門があり、優先順位の違いがあり、社会では各々がそれぞれを分担することで、補い合っているのである。いちいち理論理屈から入らなくても、誰でも気軽に携帯電話が使用でき、社会生活でのマナーやルールや常識として説明抜きの判断でリスクを避けることが可能になっているのは、それぞれの専門分野で、技術やルールが社会全体に還元されているからこそである。つまり、リソースは限られているのである。そのような状況で、確認の為に当事者以外から無駄にリソ-スを割く訳にはいかない。基本的には、やりたい側、支持する側が説明するべきだろうと考える。やらない人、即ち当事者でない人に伝える努力が専門家に要求される所以だろう。

だから、「やらなくても分かる」方向で説明の努力がなされるべき余地がまだ残っているのに、「やってみなければ分からない」と言ってしまうのは、その時点での議論の対象に対する支持責任の放棄と看做される。しかし、重要度が低ければ、説明する側も確認する側もそこで議論を放棄すること自体は、なんら非難されることではない。議論を放棄しつつ支持、承認を要求する行為や、自分が払うべき労力を相手に要求するならば、それは非難されるべきである。ニセ科学しかり、多くの議論紛糾の現場では、説明を果たすべき側が、その責任を負う姿勢を見せない不誠実さが常に非難されているのである。

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