対話練習帳

私的情報収集、自習ブログ

接続疑問詞を考える。

2014-12-17 10:38:13 | Weblog
接続詞 文章のつながり方は7つのみ (野矢茂樹著「論理トレーニング」より)
付加・累加(そして、また、さらに)、
補足(ただし)、
例示(たとえば)、
転換(しかし)、
解説(つまり、すなわち)、
帰結(だから、したがって、それゆえ)、
理由(なぜなら)

このつながりを問う質問ができるはず。それは本来無意識に行われていて認知されないが、体系的に整理しておけば、論理的に理解し自分の考えを組み立てる手助けとなるはず。文と文の間で必ずこのどれかの質問を投げかけているはずで、何を問いかけてそれに対してどう答えているかを追いかける。

付加・累加(他には? それだけ?)
補足(必ず?)
例示(例えば?)
転換(でも?)
解説(つまり? どういうこと?)
帰結(すると? だから? それで?)
理由(なぜ?)

関連情報の伝え方、自分の意見の組み立て方

仕事や勉強に行き詰まった時の考え方

2014-12-01 17:18:42 | Weblog
 仕事の終わり方は三つある。仕事が完結するか、行き詰まるか、時間切れになるか。

 もしも、新しいことや難しいことに挑戦しているなら、ほとんどの場合、それは行き詰まって中断してしまうか、時間切れで未完成なままに終わる。当たり前のことだから、今現在、未完成でも能力不足でも落ち込む必要はない。何度でもチャレンジし続けて完結するチャンスに近づいていけばいい。未完成だった作業を完成させるには、同じことを繰り返しては終わりに近づかない。何かを変えて、どう変わるか、試行錯誤してみる。

 仕事の終わり方は、仕事に対して自分に不足しているパーツを反映している。時間切れが多くてしかもいつまでに終われるかも見通しがつかないなら、その作業が、まだ自分の能力に対して大きすぎるというサイン。だから、やるべきことは、作業や課題をもっと小さく分解すること。作業を細かく砕いて小さな課題にアタックする仕組みを持っていると、時間切れになってもまた再チャレンジする時間が作れる。時間の見積もりもあまりずれないので計画に組み込みやすい。小さく分解して細かく処理を進めることで解消を図る。

 もう一方の、行き詰まって足踏み状態になっている場合。これは何をどう考えればよいか見失っている状況。このようなとき、まずむやみに別の作業に浮気しない。どのみち考え続けることでしか壁を突き抜けられないので、簡単に考えるのを諦めないということ。集中するモードに入るのは意外と面倒なもの。別の作業に取り掛かると、前に届いていた場所まで思考をもう一度ゼロから積み上げることになって、その先を考え始めるまでに手間と負担がかさむ。もちろん、考えに行き詰まっている場合、そもそも方向性を見誤っている場合も多い。だから、リセットする意味で、一旦別の作業に移るのが有効な場合もある。ただ、考えるということは本当はとてもシンプルなこと。考えるとは、詰まるところ、具体的にイメージすること。現実や実物が目の前にあるなら、それを観察したり利用するのが仕事になるわけで、それができない事情があるから考えるという仕事になっている。考えるということはそこにないもの、目に見えない部分を想像するということに他ならない。そして想像の方向性は二つしかない。どんどんと細かく、深く、ディテールをリアルにしていく。あるいは、世界を広げて、より大きな視野で全体を見渡してみる。目先のことで行き詰まっているなら、そのどちらかに思考を向けてイメージしてみればいい。方向性は時間軸に対しても同様に働く。細かく想像することは一瞬の中での移り変わりをスローモーションでイメージすることにつながる。広く捉えるということは、過去現在未来に渡って、今挑戦している世界を俯瞰するイメージを描くこと。もし考えに行き詰まって仕事が進まないでいるのなら、それは、あらかじめ用意していた想像力を使い果した状況。なので、やるべきことは想像を追加してやること。どちらか、あるいは両方へ向かって、足りない部分を想像することで、打開を図ってみるといい。

 分解して、想像する。その繰り返しが、さらに小さな作業同士を丁寧に順序良く組み上げて大きな仕事を成し遂げる力になる。

情報の伝え方、自分の意見の組み立て方

2014-09-02 14:27:27 | Weblog
言語は情報伝達に使われる強力な道具です。情報提供は質問に対して求められた答えを返すことですが、情報の受け手にも提供者にも根底には必ず主張があります。情報の源は限りなく大きく広げられますし、どこまでも深く細かく追求することができます。境界線はいつも曖昧です。問いかけは求める情報の範囲や深さを指定することです。だから、結論を導くために情報の取捨選択が欠かせません。情報をどこまで詳細に伝えるか、どの立場から発信するか、無数の選択が意図的であれ無意識であれ行われ、情報が発信されます。情報は短く最小限で最大に伝えるほど効果的です。ただし、それが意図した通りに受け手に解釈されなければ意味がありません。伝える情報を最小限に圧縮しつつ、誤解を抑えて最大限伝えるためには、情報の受け手に必然的な解釈がなされるように組み立てることが大切です。他に解釈の余地がないような構成が理想です。解釈を共有する基本的なルールが論理の骨組みになります。論理的であれば無駄な情報を省けます。論理的に適切な順序で情報提供すると、主張に説得力が与えられます。論理的な文章では、文と文の間にはっきりした関係があります。その関係は限られた七つの繋がり方に分類できます。前段まで野主張を引き継いで説得するために、次のような情報を示すことになります。
1)主張の根拠を述べる。
2)主張の例を挙げる。
3)主張を解説する。
4)主張を補足・限定する。
5)主張の帰結を示す。
6)主張を追加する。
7)主張を展開・転換する。(別の主張へ移る)
この繋がりの関係性を示す目印が接続詞です。論理的な文章を組み立てることは適切な接続詞を使うことに等しいです。論理的な文章構成を考えることは、接続詞を正しく、より効果的に使うことに繋がります。その反対に接続詞を正しく配置することで論理的で読み易い文章に仕上げる助けになります。

では論理的に文章を組み立てるにはどうすればよいか。なによりまず主張を述べます。このとき、主張は問いに対する答えでもあるので、主張に対応する疑問も明確になります。これで伝われば最小限で情報伝達は完結します。
「明日は晴れるだろう」(問い)明日の天気はどうなる?
でもそれでは話は片付きません。それは次の二つのいずれかの場合に当てはまります。。
1)主張に説得力が足りない。
2)もっと主張したいことがある。

そこで説得力を増すために言葉を継ぎます。それが根拠であり、例であり、解説であり、補足です。
そう主張する理由が足りなければ根拠を述べる。
(なぜなら、天気予報士がそう言っていた)。
何の話なのか曖昧でイメージがわかないなら例を挙げる。
(例えば、今日も晴れた。昨日も晴れた。先週も同じように晴れていた)。
主張をより正確に記述するために解説を加える。
(つまり、雨が降らないだけでなくしっかりと日が射すだろう)。
主張が及ぶ範囲が広すぎて正確さが足りないから限定する。
(ただし、夜まで晴れ間が続くかはわからない。この地域は晴れるだろうが他所では曇るところもあるだろう)。

一方、新しい主張を継ぎ足して、話を展開するために、帰結を示し、追加し、転換させます。
例では、「明日は晴れるだろう」という主張が完結しました。それを継いで新しい主張を登場させます。ここにも対応する問いかけが潜んでいますが、それは先の主張を汲んだものになります。
明日は晴れるだろう。だから、外に出る人が多いだろう(晴れたらどうなる?)。
明日は晴れるだろう。さらに、日中はかなり暑くなるだろう(どんな晴れの日なんだろう?)。
明日は晴れるだろう。しかし、晴れるからといって洗濯物が乾く陽気じゃない(晴れるってことは乾いてる?)。

単純だけど正しい主張を、一つずつ正しく繋ぐことで、もっとややこしい主張を相手に伝えることができます。

承前(話の継ぎ方。会話を繋ぐトレーニング。
承前(「論理トレーニング」を逆手にとって質問を探り出す。

Mayは気遣いの助動詞

2014-06-17 15:48:04 | Weblog
~するかもしれない。きっと~するだろう。推量を表現するmayやwill。推測は未確定事項だから、自信の程度はその都度違う。

気配りの基本理念は、相手がこう望むかもしれない、あるいはそれを望まないかもしれない、どちらでもいいというmayの予測。そのスタンスで相手の望むだろうことを予測する作業が原点となる。未来の相手の思考を読んで、相手に先んじてリアクションするわけだから、他人の思考を予測する作業は欠かせない。そして、予測したなら、予測は当たっていてほしい。だから当然そうなるべきと思い込みがちなのもまた自然な心の動きだ。

でも、相手はきっとこうしてほしいだろう、こうするだろう、というのはwillの発想。willで予測していると、こうしてあげたいという気持ちの裏で、こうなって欲しいという自分の願望に支配されてしまう。予測の実現を願ってしまうと、相手の発想や思考がこちらの思った通りにならなければ不安になったり不快になったりする。相手の思想を制御したい欲が表れ、相手の自由な選択肢を絞ってしまいかねない。そのような配慮は失礼だし過保護だし、もはや相手に対する敬意が損なわれている。敬意のない気遣いは、相手からすれば見下されているようなものだろう。

予測はいつでもmay or may notだとフラットな気持ちを確認してからアクションを起こしたい。

例の騒動についてちょっとだけ

2014-03-17 17:16:18 | Weblog
以前いたアメリカのとある研究所では、NIHから予算が出ていたので、研究倫理について数ヶ月ごとに研修会参加が必須だった。毎回全員が参加できる訳でないから、ペナルティこそなさそうだったけど、ちゃんと出欠の記録は取られていた。そこでは当然、剽窃・盗用・捏造についても取り上げられて、過去の具体的な事例を挙げながら、どこまでが許容範囲か、どこまでを引用と見なすかについて、学歴や肩書きに関わらず、研究スタッフ全員で問題意識を共有していた。見解が必ずしも一致するわけではなく、最終的には各個人の倫理観に委ねられるものとはいえ、この研修会によって少なくとも組織として倫理面で論文の質を担保するものがあった。これがあるから博士であろうがなかろうがやってはいけないことを「知らなかった」とは言えなくなる。言えば研修を理解していなかったということになり、そこで能力不足が問われることになる。

「知らなかった」というコメントが組織を通して出されたので、組織の権威に対するリスクマネジメントのずさんさに驚いた。実態はよく知らないけれど、少なくとも法制的・行政的にみれば、日本はアメリカよりもっと厳しく研究室での安全管理や品質管理がなされているとことあるごとに聞かされていたので、ひどく妙な気持ちだ。