イリアーデの言霊

  ★心に浮かぶ想いのピースのひとかけら★

カプチン派修道士に扮する息子ティトゥス

2014年06月03日 17時01分04秒 | 高橋美由紀

『9番目のムサシ』でタイトルロールの主人公である篠塚高(No.9 / ♀)と並ぶ、もう一人の主人公である事実婚の夫の橘慎悟が作者の陰謀で引き裂かれて数日。読者の現実の時間は1年以上が過ぎようとも作中では晩春の終わりと初夏との境界線ギリギリをまだフラフラしており、雨降って地固まるの喩え通りに慎悟が篠塚とイックの許に戻るのは明白でもまだまだ先のことである。足取りを掴まれることを忌避し幹部派の暗殺者BEVII(♀)の怨念の猛毒に身体を蝕まれても病院に近寄ろうとはしなかった疫病神DIV(♂)が足枷を外すべく激流に身を投げた慎悟を救うべく病院の救急外来に足を踏み入れたため、緊急手術による医師達の努力で慎悟は一命を取り留めながらもICU(集中治療室)のベッドの上だからね。

フード姿はよく描かれるが、レッドスクランブル第10巻の表紙の慎悟(♂)を見ていると何故かパーカーのフードがまるで修道士の僧衣の頭巾のように見える今日この頃。そのため、青池保子『修道士ファルコ』やカプチーノの語源と言われるカプチン・フランシスコ修道会の僧衣を纏うレンブラント最愛の息子ティトゥスを描いた名画「カプチン派修道士に扮する息子ティトゥス」が脳裏に浮かぶ。隠れ潜むということを含めて慎悟は修道士もかくやだからね。


 レンブラントの夭逝した子供達の中で比較的長生きした息子ティトゥス

 この絵の作者にしてモデルの実父であるレンブラントについて。

ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(Rembrant Harmenszoon van Rijn,1606年7月15日 - 1669年10月4日)。1606年、スペインから独立する直前のオランダ、ライデンのウェッデステーグ3番地にて、製粉業を営む中流階級の父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レインと都市貴族でパン屋を生業とする一家の娘である母ネールチェン(コルネリア)・ヴィレムスドホテル・ファン・ザウトブルーグの間に生まれた。レンブラントは夫妻の8番目の子供で、兄は4人、長女と次女は早世し三女の姉1人と妹1人がいた。父は製粉の風車小屋をライデンを流れる旧ライン川沿いに所有しており、一家の姓ファン・レインは「ライン川の(van Rijn)」を意味する。

先妻サスキア・ファン・アイレンドルフ(Saskia van Uylenburgh,1612年8月2日 - 1642年6月14日)との間には4人の子供が誕生したが、1635年末に長男ロンベルトゥスは生後2ヶ月、1638年に生まれたレンブラントの母と同名の長女コルネリア、1640年に生まれた姉と同名の次女コルネリアは1ヶ月で亡くなった。次男ティトゥスが1641年9月22日に生まれて洗礼を受け、サスキアの姉妹ティティア・ファン・オイレンブルフ(Tietje、Titia van Uylenburgh)に因んで命名されたが、その翌年にサスキアは結核により29歳で亡くなった。ティトゥスは僅か8ヶ月だった。サスキアはアムステルダム市内の「旧教会」(Oude Kerk)に埋葬された。

ヨーロッパ美術史における重要人物の1人である。若くして肖像画家として成功し巨匠と呼ばれるほどに高く評価されたレンブラントだが、浪費癖と私生活での度重なる不幸による財政難に見舞われ家族を巻き込んでの赤貧に喘いだ。完成するまで何ヶ月でも依頼主を拘束しておきながら肝心の依頼主のこうして欲しいという希望を無視し、とにかく自身の描きたいように描いて依頼主を激怒させるため、注文する客は減る一方で愛人で後に結婚した後妻ヘンドリッキエと息子ティトゥスの補佐がなければ息子より先に死んでいたに違いない。それでもなお高い評価を受け続け、オランダには比類すべき画家がいないとすら考えられた。

サスキアの死後、幼い息子ティトゥスの乳母として雇い入れた北部出身で農家の未亡人ヘールトヘ(ヘールチェ)・ディルクスと愛人関係になるも彼女との生活は泥沼と化し、若い家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘルを新たに雇い、彼女を愛人として囲い始めたことでヘールトヘとの関係は最悪になり裁判沙汰に発展した。お互いに告訴し合って最終的にヘールトヘはハウダの更生施設での12年の拘禁刑に断じられ、レンブラントは彼女との腐れ縁を断ち切った。ヘールトヘは5年後に出所したが、健康を壊したのか翌年には死亡した。レンブラントとヘンドリッキエの間には1652年に生まれた子はすぐに亡くなったが、1654年に娘コルネリアが誕生した。

1656年7月20日、高等裁判所は法定清算人を指定し、レンブラントに「セシオ・ボノルム(ケッシオ・ボノールム、財産譲渡または財産委託)」を宣告した。セシオ・ボノルムとは、商取引の損失でよく適用される債務者の財産を現金化して全債権の弁済とする方法であり、破産するよりは比較的緩やかな処分である。これを受けてレンブラントの363項目の財産目録が作成された。競売は1656年9月に始まり、翌年までに買い叩かれた。1660年12月18日に売却され他人の手に渡った豪邸を去って貧民街であるヨルダーン地区ローゼンフラフトの街に住み着いたレンブラントに行政や債権者は好意的だったが、アムステルダムの画家ギルドはレンブラントを画家として扱わないように定めたため、1660年にヘンドリッキエと20歳になったティトゥスは共同経営で画商を開業してレンブラントを雇う形態を取り、絵画の注文を受けられるようにした。強欲を剥き出しにし絵のモデルも殆ど務めなかったヘールトヘと違い、ヘンドリッキエはレンブラントを支え彼女を描いた絵画も残っている。しかし、サスキアの遺言に縛られ2人は長らく婚姻していなかった。裁判所は不義の嫌疑を理由に出頭を命じたがレンブラントは拒否し、ヘンドリッキエは2度の聴聞でレンブラントとは別れるように言われたが従わなかった。

1661年8月7日にヘンドリッキエは健康を害したことを機に娘コルネリアが相続する財産をレンブラントが自由に使えるように定めた遺言書を作成した。この中で彼女はレンブラントの妻とされており、「セシオ・ボノルム」による財産譲渡によってサスキアの遺言が事実上無意味になり、2人は遂に結婚したのだった。レンブラントは絵画制作のための美術品蒐集に手を出して借金を作っており、1662年には先妻サスキアが眠るアウデ教会の墓所を売却までして金策に走っていた。これを憂慮した遺言を残したヘンドリッキエは1663年7月末に38歳で亡くなり、彼女は移されたサスキアの棺が安置された西教会に葬られた。

先妻の産んだ4人の子供の中で唯一成人できた次男ティトゥスだったが、1668年2月10日にマグダレーナ・ファン・ローと結婚した同年9月4日に誕生日前の26歳で急死してしまう。晩年のレンブラントは後妻ヘンドリッキエとの娘コルネリアと雇った老女中と生活し「パンとチーズと酢漬ニシンだけが1日の食事」と記される日々だった。ティトゥスが亡くなった翌1669年に息子の忘れ形見ティティアを得るが、同年10月4日にレンブラントは亡くなり、彼の遺体は2人の妻サスキアとヘンドリッキエ、そして息子ティトゥスが眠る西教会に埋葬された。


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