旅のウンチク

旅行会社の人間が描く、旅するうえでの役に立つ知識や役に立たない知識など。

旅と宗教

2001年05月31日 | 旅行一般
 1987年5月、バイクでパキスタンからヨーロッパを目指していた私は、ペシャワールに程近い道路で敬虔なイスラム教徒の警官たちに囲まれていました。
 別に悪事を働いたわけではなく、ワイロを要求されているわけでもなく、珍しいバイクに乗った日本人旅行者として食事をおごってもらったり、親切にされていたのですが、さまざまな質問をされているうちに”宗教は”と尋ねられて答えに窮することに・・・・。
 私個人は、母親の実家及びその親族がほとんどお寺、通った高校は天台宗総本山比叡山に属する仏教高校だったため、珍しく自ら”仏教徒”と自信をもって発言できるだけの仏教観を持っていますが、私の知識ではイスラム教と仏教は天敵。というか、イスラム教徒にとって、仏教は撲滅しないといけない宗教。”キリスト教”が無難な答えだけれど、その後の話の展開では知らない宗教を語るのは問題の根源になる可能性もある。さらに”無宗教”なんて答えたら、これはどの宗教を信ずる人に対しても最悪の答えになるのは間違いありません。
 で、結局、仏教と心中するつもりで”仏教”と答えた。もちろん、”でも、イスラムの教えでは仏教は邪教だよね。どうする??”と付け加えておきました。
 パキスタン人警官は”我々はイスラム教徒であり、仏教徒になりたいとは思わないし、仏教の教えを認めるつもりもない。でも、仏教徒の存在を認めないわけではない。”と答えた。そして、我々の会話から宗教の話題が再度出ることはありませんでした。
 若かった私にとって、忘れられない”剣の上を渡る”ような瞬間でした。
 その後、ムルターンという町の安宿で、隣に泊まっていたバイクの輸入(密輸かも)を仕事にしているパキスタン人に、”お守り”として、コーラン(簡易版のようですが)をもらって、パスポートケースに挟んでいました。
 イランで警官隊に所持品検査で止められた際、パスポートの提示を求められて、パスポートを渡すと、イラン人の警官はそのコーランを見つけて、”なんだ?これは”といいながらページを開きました。”コーランだよ”と答えたら、警官は非常に慌てて恭しくコーランを額に当て、丁寧にパスポートケースに戻して私に返してくれました。
 現代社会の日本人にとっては宗教の存在は希薄でも、多くの国では、みんながある程度共通の価値観を持って生きていく上で宗教は不可欠なものであり、生きていく上での法律以前のすべての規範となっていて、それだけに大切にされているものだと思います。
 タリバーンのバーミヤンの石仏爆破。爆破に反対していた日本や他の国の政治家は”文化財”としての仏像を守ろうとしたに過ぎず、マスコミの報道も同様の視点に立ったものでした。
 タリバーンは自分たちの宗教理念を守ろうとしたのであって、そりゃ、爆破を中止させることはできませんよ。仏教に対する確たる宗教理念があって、それに基づいてあの石仏を守りたいという心があり、それを説明できたならタリバーンは石仏爆破を中止したのではないかと思います。
 さて、皆さんが異国の地で、異教の宗教建造物を見学する際、それを”文化財”として見学するのでしょうか。その宗教理念を少しでも理解し、自らの宗教観、宗教的立場を決めた上で”宗教建造物”として見学するのでしょうか。いずれにしてもその宗教をよりどころとしている人々の”心”を踏みにじらないよう心がけることは、人間対人間の最低限の礼儀ではないでしょうか。

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