中学や高校の頃というのは、いろいろな情報から自分なりの考え方を形成しはじめる時期でありながら、世間知らずな部分もあって、それが結果として過剰なまでの正義感を呼び起こしたり、あるいは過剰なまでに世の中に不満を覚えたりする時期だと思います。これが反抗期というやつでしょうか。
ずいぶん前になりますが、私にもこういう時期があった事を覚えています。そういう事が昂じてトラブルを起こしてくるたびに、基本的に凶暴だった両親も、この年齢の頃だけは、私の言い分をよく聞いてくれた事に今でも感謝しています。そして、私は必ず自分なりの善悪判断に於て行動した結果起こったトラブルである事を説明させられて、その説明がそれなりに筋が通っていれば釈放されました。いいかげんな言い訳であった場合は、凶暴な両親から激しい罰を受けたのはもちろんですが。
さて、自己弁護に成功した時、母親がいつも語った言葉は、"オマエの言う事は判った。ただし、世の中は他の立場から見れば違って見える場合だってある。色々な角度から見れるようにならないとダメなんだよ。"という言葉でした。
私はその頃、この考え方に猛烈に反発心を持っておりました。私は"善悪"というのはつきつめて行けばどこかで絶対的な善があると信じていましたし、それを知りたくて沢山の本を読んだりしていた妙な子供だったのです。
絶対的な善悪を意識する思いは、その後も長く私につきまとって離れませんでした。こういう風に書くと、私が善なる存在として生きようとする素晴しい人間のように勘違いされるかもしれませんが、自分がそれに従うかどうかというのは全く違う次元の問題。むしろ、たとえば中東の問題について、パレスチナが善かイスラエルが善かとか、そういう自分の身近な問題ではない事を判断する善悪の基準を求めていたわけです。つまり、大人たちが"難しい問題"とか"複雑な問題"と位置付けている物事を一刀両断するような基準を探していたという事です。
私が海外を旅しはじめた頃も、この思いはつきまとい続けます。私がそこで考えたのは、様々な考え方や習慣を持つ人々の中で過ごしながら、彼らなりの善悪を見つめ、その共通項を拾い出していけば"絶対的な善"が見つかるのではないかという事でした。もちろん、それが旅の動機ではありませんが、旅している間、自分が注目している事の一つであった事も事実です。
数多くの全く習慣や文化の違う場所で過ごし、あるいは全く習慣や文化の違う人々と安宿のドミトリーで語り合い、そんな事を重ねながら私は最終的にはこの絶対的な善をついに見つける事ができました。
私が見つけた絶対的な善、それは"絶対的な善が存在しない事を理解する事"。
ずっと反発し続けてきた、母の意見は数多くの体験の中で裏付けられた形になりました。そして、この事に気がついた時に私が思い起こしたのは仏教の、あらゆる物事は相対的な存在であって、絶対的な存在は無いとする思想でした。母が口煩く語ったのは、彼女が仏教に近い位置(お寺)で生まれ育った事から自然と身についた意見だったのかもしれません。
最近になって、私はこの"絶対的な善が存在しない"という事は日本人の多くは意外な程自然に身についているという事に気がつきました。利害が対立する者同士が何かの交渉を行う場合、例えば労組と企業が交渉する場合などに、日本の交渉というのは一応、最初はぞれぞれの要求を最大限主張しますが、主張を出し尽した後でお互いの妥協点を探り合うの事を交渉と考えていますし、多くの場合、"落とし所"を設定して話し合いますね。これは非常に特徴的だなと思うのです。
多くの国の交渉というのは、自分の主張や要求を声高に主張し、それを論理的に説明したり、感情的に押し付けたりして、とにかく相手を屈服させる事が目標とされます。落とし所は自分の主張や要求を100%押し通す事にあるわけです。そして、その論拠として出されてくるのは、やはり"善悪"。自分の主張や要求がいかに正しいかという事が焦点です。例えばイラク戦争などの経緯を見て、"そこまで懸命に正当化しなくても"と思えたりしませんでしたか?
そして、この善悪の根拠というのは信仰を始めとする、その国、その人の文化に深く根差しています。つまり信仰や文化の違う者同士だと微妙なズレを生んで、どうしても話が平行線を辿ってしまう傾向があります。イスラエルとパレスチナの問題などは、我々、善悪の基準があいまいな人間からすれば、"お互い、いいかげん妥協点を見出せば良いのに"と思うかもしれませんが、信仰と文化により絶対的な善悪観を持っている人々には妥協点など存在しません。
人間の生活範囲がある程度限られていた時代であれば、絶対的な善、悪の基準というのは便利な存在であったのかもしれませんが、多くの社会が接点を持つようになってからは、このシステムが上手く機能しなくなっているように思えると同時に、この時代に於ては日本人的な考え方はいちばん上手く機能するのかもしれないと思うのです。
ただ、日本人の多くが、この日本人的な考え方や交渉方法に"ダメ出シ"して、既に上手く機能していない欧米的な善悪観や交渉方法を付け刃的に導入しようと懸命に努力しているようにも感じます。日本的な考え方が全てにおいて良いとは思いませんが、良い点を守り、上手く生かしていく事を考えたいものです。
ずいぶん前になりますが、私にもこういう時期があった事を覚えています。そういう事が昂じてトラブルを起こしてくるたびに、基本的に凶暴だった両親も、この年齢の頃だけは、私の言い分をよく聞いてくれた事に今でも感謝しています。そして、私は必ず自分なりの善悪判断に於て行動した結果起こったトラブルである事を説明させられて、その説明がそれなりに筋が通っていれば釈放されました。いいかげんな言い訳であった場合は、凶暴な両親から激しい罰を受けたのはもちろんですが。
さて、自己弁護に成功した時、母親がいつも語った言葉は、"オマエの言う事は判った。ただし、世の中は他の立場から見れば違って見える場合だってある。色々な角度から見れるようにならないとダメなんだよ。"という言葉でした。
私はその頃、この考え方に猛烈に反発心を持っておりました。私は"善悪"というのはつきつめて行けばどこかで絶対的な善があると信じていましたし、それを知りたくて沢山の本を読んだりしていた妙な子供だったのです。
絶対的な善悪を意識する思いは、その後も長く私につきまとって離れませんでした。こういう風に書くと、私が善なる存在として生きようとする素晴しい人間のように勘違いされるかもしれませんが、自分がそれに従うかどうかというのは全く違う次元の問題。むしろ、たとえば中東の問題について、パレスチナが善かイスラエルが善かとか、そういう自分の身近な問題ではない事を判断する善悪の基準を求めていたわけです。つまり、大人たちが"難しい問題"とか"複雑な問題"と位置付けている物事を一刀両断するような基準を探していたという事です。
私が海外を旅しはじめた頃も、この思いはつきまとい続けます。私がそこで考えたのは、様々な考え方や習慣を持つ人々の中で過ごしながら、彼らなりの善悪を見つめ、その共通項を拾い出していけば"絶対的な善"が見つかるのではないかという事でした。もちろん、それが旅の動機ではありませんが、旅している間、自分が注目している事の一つであった事も事実です。
数多くの全く習慣や文化の違う場所で過ごし、あるいは全く習慣や文化の違う人々と安宿のドミトリーで語り合い、そんな事を重ねながら私は最終的にはこの絶対的な善をついに見つける事ができました。
私が見つけた絶対的な善、それは"絶対的な善が存在しない事を理解する事"。
ずっと反発し続けてきた、母の意見は数多くの体験の中で裏付けられた形になりました。そして、この事に気がついた時に私が思い起こしたのは仏教の、あらゆる物事は相対的な存在であって、絶対的な存在は無いとする思想でした。母が口煩く語ったのは、彼女が仏教に近い位置(お寺)で生まれ育った事から自然と身についた意見だったのかもしれません。
最近になって、私はこの"絶対的な善が存在しない"という事は日本人の多くは意外な程自然に身についているという事に気がつきました。利害が対立する者同士が何かの交渉を行う場合、例えば労組と企業が交渉する場合などに、日本の交渉というのは一応、最初はぞれぞれの要求を最大限主張しますが、主張を出し尽した後でお互いの妥協点を探り合うの事を交渉と考えていますし、多くの場合、"落とし所"を設定して話し合いますね。これは非常に特徴的だなと思うのです。
多くの国の交渉というのは、自分の主張や要求を声高に主張し、それを論理的に説明したり、感情的に押し付けたりして、とにかく相手を屈服させる事が目標とされます。落とし所は自分の主張や要求を100%押し通す事にあるわけです。そして、その論拠として出されてくるのは、やはり"善悪"。自分の主張や要求がいかに正しいかという事が焦点です。例えばイラク戦争などの経緯を見て、"そこまで懸命に正当化しなくても"と思えたりしませんでしたか?
そして、この善悪の根拠というのは信仰を始めとする、その国、その人の文化に深く根差しています。つまり信仰や文化の違う者同士だと微妙なズレを生んで、どうしても話が平行線を辿ってしまう傾向があります。イスラエルとパレスチナの問題などは、我々、善悪の基準があいまいな人間からすれば、"お互い、いいかげん妥協点を見出せば良いのに"と思うかもしれませんが、信仰と文化により絶対的な善悪観を持っている人々には妥協点など存在しません。
人間の生活範囲がある程度限られていた時代であれば、絶対的な善、悪の基準というのは便利な存在であったのかもしれませんが、多くの社会が接点を持つようになってからは、このシステムが上手く機能しなくなっているように思えると同時に、この時代に於ては日本人的な考え方はいちばん上手く機能するのかもしれないと思うのです。
ただ、日本人の多くが、この日本人的な考え方や交渉方法に"ダメ出シ"して、既に上手く機能していない欧米的な善悪観や交渉方法を付け刃的に導入しようと懸命に努力しているようにも感じます。日本的な考え方が全てにおいて良いとは思いませんが、良い点を守り、上手く生かしていく事を考えたいものです。
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