Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

染付 曳舟図 合子

2021年07月19日 13時12分00秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 曳舟図 合子」の紹介です。

 

斜め上から見たところ

 

 

上から見たところ

 

 

蓋を外したところ

本体の口縁部分はかなり欠けています。

 

 

本体、蓋共に裏返ししたところ

 

生 産  地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代中期

サ イ ズ : 上部口径;8.9cm 高さ(蓋共);3.5cm 底部口径;8.2cm

 

 

 なお、この「染付 曳舟図 合子」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介しているところです。

 それで、その時の紹介文を、再度、次に掲載することで、この「染付 曳舟図 合子」についての紹介に代えさせていただきます。

 ただ、その紹介文は、この「染付 曳舟図 合子」の紹介というよりは、主としては、私の東日本大震災での体験の紹介になっていますことをご了承ください(~_~;)

 

 

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       <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー157  古伊万里様式曳舟図合子         (平成23年4月1日登載)

 

 

 なんともノンビリとした図柄である。

 今回の大地震(H23.3.11)で多少なりとも震災を体験し、ライフラインというものが止まることを体験すると、この図柄にあるような時代がなつかしく感じられる。

 この図柄を見ていると、なんとなく安心し、癒される思いがする。それは、この図柄の中には、電気、水道、ガスというようなものの存在が感じられないので、この図柄の風景の中では、仮に、大地震が来ても、地震の後の生活にはあまり困らないのだろうな~と思うからである。

 見てのとおり、舟を人力で上流に向けて曳いているので、電気が切れても影響がなく、モーターを使っているわけでもないのでガソリン等の燃料不足にも左右されない。

 水だって、現代のように水道水のみに頼るというようなことはなかったので、大地震で井戸が枯渇しても、川から水を汲んできて煮沸させて飲料水を確保したのであろう。
 その煮沸用の燃料だって、その辺の枯れ木を利用すれば十分だから、ガスなど止まってもヘッチャラだ。

 鍋か釜の一丁もあれば、そして、米と味噌・醤油の少々もあれば十分で、地震で被災しても、当面、そんなに困らない。

 この合子を見ながら、こんなことを想像していたら、なんとなく愉快になってきた(^_^) そして、今回の地震で多少なりとも心に受けたダメージも癒されてきた♪

 この合子が、「昔は、電気も水道もガスもなかったよ。そんな生活が日常だったんだよ。電気や水道やガスが来ないからといって、そんなに騒ぐことないじゃないの! ノンビリやりなよ!」と我々に語りかけてくる。

 私も、肩の力を抜いて、ノンビリと少しずつ、通常生活に戻っていこうと思う。

 

江戸時代中期   上部口径:8.9cm  高さ(蓋共);3.5cm  底部口径:8.2cm

 

 

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*古伊万里バカ日誌89  古伊万里との対話(曳舟図の合子)(平成23年4月1日登載)(平成23年3月筆)

登場人物
  主    人  (田舎の平凡なサラリーマン)
  和(なご)み (古伊万里様式染付曳舟図合子)

 

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 先日(平成23年3月11日)の14時46分、大きな地震があり、大震災となった。
 主人のところでもかなりの被害を被り、古伊万里では9点を損傷するなど、心身共に大きなダメージを受けたようである。
 時の経過とともに、だんだんとそのダメージも薄れていくようではあったが、更に心を癒してくれるような古伊万里との対話をしたくなったようで、押入れからそれらしい古伊万里を引っ張り出してきては対話を始めた。

 


 

主人: 先日の平成23年3月11日の14時46分のことだった。大きな地震があり、大災害をもたらした。
 当日は、老人会の日帰りバス旅行の日だった。意外とシーズン真っ盛り中に偕楽園の観梅には行ってないので行ってみようということになり、出かけたんだ。

和み: 地元の人は、偕楽園の観梅には、それほど足を運ばないんですか、、、、、。

主人: そういう人が案外多いようだよ。近いから何時でも行けると思うからなのかな~、それに、どうせ行っても混雑しているからいやだと、もう行く前から諦めていたり、あるいは、寒い所へわざわざ風邪をひきに行くようなものだから嫌だとか、何だとか・・・、何かと屁理屈を付けては現実には行っていない人が多いんだよね。
 それで、たまにはシーズン真っ盛り中の観梅に行ってみようということになり、企画されたわけだ。

和み: どういうルートだったんですか。

主人: 朝8時に公民館前をバスに乗って出発した。朝早く出発したのは、なにせ老人が多いわけだから、駐車した場所から偕楽園に行くまでに長い階段を登ったりしないで済むような、条件の良い駐車場にバスを停めるためだった。作戦は成功し、おかげで、長い階段を登らないで済んだ(^_^)
 偕楽園では、初めて、ガイド付きで園内を案内してもらった。ガイド付きで園内を案内してもらっていたら、アッという間に予定時間を大幅に過ぎてしまい、慌てて次の目的地に向かった。

和み: 何処に向かったんですか。

主人: 「茨城県立歴史館」だ。ここでは企画展も行われていたが、観る時間も少なくなってしまったので、駆け足で観てまわり、昼食会場へと向かった。

和み: どちらに行かれたんですか。 

主人: うん。今度の津波で被害を受けた「大洗」だ。その時は、数時間後に津波の被害を受けることになる場所だなどとは夢にも思わなかったから、昼間からアルコールなどもいただきながら、上機嫌での昼食会だった。昼食も済み、街中にある展望台に登って絶景を楽しみ、近くの魚市場に立ち寄って買物も楽しんで高速に乗り、最終目的地の「茨城空港」へと向かった。
 既に高速道路は降りていて、一般道路上を走ってはいたが、「茨城空港」の1~2キロメートル手前だったかな~、あの大地震が来たのは。

和み: どんな状況だったんですか。

主人: バスの運転手さんの話によると、急にパンクしたような感じになったので、思わず止めたそうだよ。周りをを見たら凄い揺れで、道路脇の電柱なんかいまにも倒れてきそうで、バスの上になど倒れてこないようにと、祈るような気持ちだった。
 それで、揺れも収まってきたので「茨城空港」に向かったが、到着してみたら、今度は、空港の灯りが全く消えていて、大勢の人が空港の建物の外に出て何やら騒いでおり、ちょっと異様な雰囲気だった。後日知ったことだが、空港の建物の天井の一部が落下したため、全員が建物の外に避難していたらしい。そして、空港の駐車場も閉鎖ということなので、「茨城空港」の見学は断念し、一路家路へと急いだ。
 家路への途中、まだ旅行気分の余韻も残っていたので、バスの車窓から、各家々の屋根が壊れているのを見たり、塀が倒壊しているのを眺め、「凄いな~!」などと若干高見の見物の気分だった。ところが、だんだんと自宅に近づくに従ってもその光景は同じであることから、一同の旅行気分などは完全に吹っ飛び、各自、家の状況が心配になり、到着するや否や、挨拶もそこそこに散開した。我が家に着いてみたら、外観上からは、屋根もやられておらず、塀も崩れていなかったので、まずはホットした。でも、家の中はかなり被害を受けていて、特に古伊万里が9点損傷していたのには落胆したな(>_<) 中には粉砕に近いものもあった。これは、私の日頃の管理が悪かったために生じたことであり、古伊万里達には申し訳なく思っている。日頃、無防備のまま、相当数の古伊万里を、床の間の違い棚やら本棚などに陳列していたからね~。

和み: でも、その程度の被害で済んでよかたですね。

主人: そうだね。津波で何もかも流され、命まで失った方々に比べたら、ず~っと、ず~っと軽く済んだものね。でも、「大洗」周辺をもう少しうろうろしていたら、津波に巻き込まれていたかもしれないし、「茨城空港」に もう少し早く到着していたら、あるいは空港の建物の天井の落下物に直撃されていたかもしれないことを思うとゾッとするよ。きっと、9点の古伊万里達が私の身代わりになってくれたのだろう。

和み: そうかもしれませんね。そのように思っていただければ、傷付いた古伊万里さん達もさぞや満足することでしょう。許してくれることでしょう。
 ところで、そのくらいの被害を被っただけで、あとは、特に支障はなかったんですか?

主人: 物的損害としては古伊万里9点の損傷が一番大きかったが、それからの、ひっきりなしに襲ってくる余震による生命への恐怖やら生活への不安やらの精神的なダメージが大きかったよ。初めて震災というものを体験することになった。
 ライフラインが失われたことを体験したんだ。まぁ、結果的には短い期間の体験ではあったが、ライフラインが失われるということがどんなにか大変であるかを体験したよ。
 まずは電気が止まった。電気が止まると電話は使えなくなるし、携帯電話も電池切れになっていて、その充電も出来ず、全く通信手段が奪われてしまった。それでもまだ水道は出ていたので、浴槽に水を張り、ヤカンや空きペットボトル等に飲み水を確保した。幸いガスは使えるので、これで2~3日は十分生活出来ると安心したね。
 まだ明るかったし、その時点までは皆さん心にも余裕があったね。たまたまお隣のおばあちゃんが亡くなっていて、その日の夕方から通夜が予定されていたので、道路の陥没や亀裂を避けながらそれぞれ車を運転して通夜会場に集合するほどだった。しかし、結局、電気もきていないので、暗いし、暖房も使えないということで、通夜は中止となった。周りが暗くなってきて、その頃から皆さんだんだんと恐怖を感じるようになってきたと思う。私も同じだったが。
 闇は恐怖心を増幅させるね。家に帰っても電気は点かず、テレビも使えない。心細いこと限りなしだった。懐中電灯が頼りだが、これとて、電池切れが心配で長くは使えない。やむをえず、危険を承知でローソクを使うことにしたが、ひっきりなしにやってくる強い余震のたびにローソクの火を消すべきかどうかの選択にせまられた。ニュースを得ようとしてもラジオ用の乾電池を買ってなかったので使えず、たまに車庫に行って車のラジオでニュースを聞くほかなかった。暖房も石油ストーブ1個だけなので寒いし、また、灯油の在庫も少なくなるのが心配なので、さっさと寝ることにした。でも、しょっちゅう余震があるし、暗いと余計余震が強く感じられるので、よくは眠れなかったな。
 朝になったら、案の定、昨夜まで出ていた水道が止まっていた。水洗トイレには浴槽の水を使ったが、これがまたけっこうな量の水を使うんだよね。このぶんでは浴槽に貯めた貴重な水もすぐに底をつくと思い、即刻、200~300メートル離れた所に流れている用水堀から水を汲んでは運び、汲んでは運びを繰り返し、大きなポリ製のタルやバケツに貯蔵した。これでトイレの水も安心して使えるようになった。
 一夜が明け、トイレ用の水も確保したし、慣れてもきて心にも余裕が出てきたので、周辺の状況の把握を兼ねて散歩に出かけた。
 地震の影響で店内がメチャメチャになったこともあり、停電でもあるので、ほとんどの店は閉まっていた。ゴーストタウンという感じだったね。ガソリンスタンドも停電だから当然閉店だし、鉄道も止まっていた。
 そうした中、ポツリ、ポツリと、レジが使えないので手計算でやっているんだけれど、荒れた店内から商品を持ち出してきては商売を始めるスーパーが現れてきた。パンやカップ麺等の食糧品や「水」等の飲み物が中心だった。もっとも、開いた店の数は少なく、買いに来た者が多かったので長蛇の列だった。
 私は、特に緊急に買うべき物もなかったが、話しのタネにと、長蛇の列の最後尾に並んでみることにした。もしかして、ラジオ用の乾電池が買えるかもしれないと思ったからなんだ。ところがところがだよ、見事、その乾電池を買うことが出来たんだよ。言ってはみるもんだね。店員さんに、「乾電池はありますか?」と言ったら、店に入って行って捜し出してきて売ってくれたんだ(^_^) しかし、並んでいるうちに気付いたんだけれど、皆さん「水」を買い込んでいて、私に番が回ってきた頃には既に「水」は売り切れだったんだ。乾電池が手に入ったのでラジオは聴けるようになったけれど、我が家の飲料水確保は不十分なのかもしれないな~と思うようになってきた。浴槽の水を煮沸すれば使えないこともないけれど、そのまま使える飲料水をもう少し多く確保したくなってきた。それで、当面、その店では、「水」は売り切れなので、「水」に代わる飲み物を買って帰ったがね。
 そのうち、ご近所さんから、「○○に給水車が来ているよ!」という情報を得、さっそく車を走らせ、長時間並んで飲料水を確保してきた。
 三日目に入ったが、発電所が軒並み地震の被害に遭っていることをニュースで知ったので、当分、電気は来ないんだろうな~、長期戦になるだろうな~と覚悟したよ。ところが、その夕方には電気が来たんだ。嬉しかったね。電気が来れば、当地域の水道はポンプで地下水を汲み上げてやっているから、水道が出るようになるのは時間の問題だからね。現代社会では電気がいかに重要かがわかったね。
 明けて14日の朝、やはり水が出ることを知った。さっそく風呂を沸かし入浴した。サッパリとして気持良かったね~。
 そこで、サッパリしたところで、電気も来ているので、ガソリンスタンドも開いているだろうから、そろそろ車のガソリンを補給しておこうと思ってガソリンスタンドに行ったら驚いたね。「こちらは出口です。入口はあちらです! 入口の方に並んでください。もっとも、もう、かなり並んでいますけど・・・・・」とのこと(トホホ)。それで、入口側の車列の最後尾に並んだが、ガソリンを入れるまでに1時間半ほどの時間がかかった。それも、たった2,000円分しか入れられなかった。しかし、それでも入れられたのはいいほうで、私の十台後ろくらいで品切れ打ち切りだった。ラッキーだったというところか・・・・・。
 翌15日。妻の用事で、妻を車で送って行くことになったんだ。ところが、目的地の少し手前で渋滞となり、さっぱり先に進まない。私は昨日のガソリンの件で学習していたので、「ハハン。これは、ガソリンを入れる車での渋滞だな!」と直感したね。それで、そこからは妻に歩いて行ってもらうことにし、私はそのままガソリンを入れる車列に突入した。並ぶこと約2時間、その間に妻は既に用事を済ませて車に戻ってきていて、一緒に帰ることが出来た。そのガソリンスタンドは昨日のガソリンスタンドとは別なガソリンスタンドで、そこでは3,000円分入れることが出来た。偶然、二日間で5,000円分のガソリンを入れることが出来たので、ガソリンに関しては随分と安心したね。

和み: いろいろと大変だったんですね。

主人: そうね。もっともっと被害の大きかった方々に比べたら、私が受けた不安やら不便やらは採るに足りないものだったけれど、けっこうしんどかったよ。
 今日は、お前に愚痴をこぼしてばっかりですまなかった。お前の、電気も水道もないノンビリとした時代の姿を見ていて、随分と癒されたよ。ありがとう!

 

追記: その数ヶ月後、屋根の漆喰部分が、経年劣化とも相まって、随分と劣化しましたので、漆喰部分の補修を主に、屋根全体の補修工事を実施しました。また、塀の一部にも亀裂が生じましたので、その補修工事も実施しました。)

 

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Dr.kさんへ (遅生)
2021-07-19 13:42:19
生々しい震災体験ですね。
すべてが初めての事ですから、大変だったでしょう。
でも、少しずつ、いろんな事が改善されてきたのですね。運も大きいですね。

「染付 曳舟図 合子」は、生活の原点を表していますね。
それをあらためて思い起こさせてくれるわけですから、やはり骨董には価値があります(^.^)
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遅生さんへ (Dr.K)
2021-07-19 15:22:22
当時の記録を改めて読み直して、当時を思い出しました。
この辺は、それほどでもなかったわけですが、それでも、やはり、結構、大変だったのだなと思いました。
この辺でも、まだ、修理代が無いのか、雨漏りしないように、屋根にブルーシートを被せたままになっているところがあります。
まだまだ、生々しい傷跡が残っていますね。
道路は、あちこち、ガタガタでしたが、これは、大部、整備されました。

江戸時代は、動力など限られていましたから、人力が主で、大変と言えば大変でしたが、のんびりとしたものでしたよね。
そんな生活では、日々の生活は大変でしたでしょうけれど、地震などの被害があっても、それほどダメージは受けず、復旧は早かったかもしれませんよね。

今のような文明生活がいいのか、昔のようなのんびりとした生活がいいのか、ちょっと、考えさせられました(~_~;)
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こんにちは (つや姫日記)
2021-07-19 16:56:53
震災のことも
自分のうちではどうだったのか
書いておかないと日々記憶は薄れていきますよね。
ライフラインが切れる恐怖を感じた震災でした。

大切な古伊万里数点が被害にあったのですね。残念でしたが他が助かったのですから仕方ないでしょうか。
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つや姫日記さんへ (Dr.K)
2021-07-19 20:19:56
震災のことを書いておいてよかったと思いました。
今、読み返しますと、生々しさが思い起こされます(~_~;)
記録に残せることは、ブログ等の良さかもしれませんね。

ライフラインが切れるというのは、恐怖ですよね(~_~;)

古伊万里が被害に遭いましたが、その殆どは補修し、既に、最近、ブログで紹介しました(^_^)
私の場合、古伊万里は使用するのが目的ではなく、鑑賞が目的なものですから、補修によって、被害はだいぶ回復されたといってもいいかと思います(^_^)
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