2002年4月、『ニャロメをさがせ!』執筆の最中、赤塚は脳内出血で倒れ、緊急手術を受けることになる。
手術により、無事一命を取り留めたものの、意識を失い、以後、天寿を全うするその日まで、再び目を覚ますことなく、長い眠りへと就くことになった。
その後、作品はスタッフの手によって、丁寧に仕上げられるが、この『ニャロメをさがせ』が、漫画家・赤塚不二夫にとって、最後の作品となってしまった。
因みに、最後のマスメディアへの登場は、「週刊プレイボーイ」誌上(02年№17)で企画された、全日本プロレスの取締役会長であり、現役の人気レスラーでもある、グレート・ムタこと武藤敬司との対談ページだった。
初対面ながらも、二人は意気投合し、特に赤塚は、クレバーで男気溢れる武藤のキャラクターをことのほか気に入ったという。
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この年の7月、これまで四〇年余りに渡って描かれた、赤塚漫画の約3分の2を収録した『赤塚不二夫漫画大全集DVD︱ROM』が、小学館より発売される。代筆分、凡そ2000ページを含む、52000ページ以上に渡る赤塚漫画のアンソロジーで、このような全集が編纂されたのは、巨匠漫画家としては、講談社の『手塚治虫全集』(全400巻)、中央公論社の『藤子不二雄ランド』(全301巻)、集英社の『ちばてつや全集』(全135巻)に続く、四番目の壮挙となる。
尚、2005年には、オンデマンド形式によって、DVD︱ROMに収録された全てのタイトルが、全271巻(平均192ページ)の内訳により書籍化された。DVD︱ROMを購入しなければ、通覧出来なかった単行本未収録等のレア作品が、気軽に手に取って読めるようになったことは、文化遺産を後世に伝えるという社会的意義を鑑みても、非常に喜ばしい。
因みに、このDVD―ROMの編集にあたったのが、『のらガキ』、『母ちゃん№1』、『不二夫のギャグありき』等、「週刊少年サンデー」で、最後の赤塚番を務めた赤岡進と、この年小学館を定年退職することになる武居俊樹だった。
武居の編集者生活は、『おそ松くん』の編集担当に始まり、この『赤塚不二夫漫画大全集』で終わった。
武居にとって、この『赤塚大全集』は、感慨一入のラストワークだったに違いない。
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翌2003年、妻である眞知子の尽力により、青梅市に、赤塚漫画の生原稿やグッズ、貴重な写真や資料などを展示した常設ミュージアム〝赤塚不二夫会館〟が設立される。
明治時代後期に建てられた病院を改造した館内には、赤塚がクリエーターを志す原点となったジョン・フォード監督の「駅馬車」の看板が掲げられているほか、トキワ荘の一室が再現されているなど、アットホームな空間の中にも、赤塚の足跡を追体験出来る、臨場感一杯の仕掛けが施されていて、興味深い。(但し、2020年3月27日、施設の老朽化により閉館。)
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2000年代は、様々な雑誌メディアで赤塚特集が度々組まれ、90年代にも増して、復刻本、関連書籍が続々刊行されるという、再評価の機運が一気に盛り上がった、赤塚にとって、第二のルネッサンス期でもあった。
赤塚不二夫のDNAを受け継いだ、漫画家、イラストレーター、作家、ミュージシャン、論客といったサブカルチャーの現役の担い手達が、赤塚ワールドから受けた多大な影響やリスペクトを、至る媒体を通して、語るようになり、彼らを支持する若いサブカルファンからも、赤塚は、良しにつけ悪しにつけ、カリスマ的評価を得るに至った。
またこの頃は、パチンコ、パチスロ機の題材に赤塚漫画が使用されたり、赤塚キャラを刷り込んだあらゆるグッズが製品化されたりと、三次媒体における赤塚需要が最も活性化した時期でもあった。
そのため、それらから発生した多額のロイヤリティが、フジオ・プロに転がり込み、この時全ての創作活動を停止していた赤塚の名が、長者番付の上位に食い込むという意想外の余波を生むことになる。
時折、泡沫ブログ等で、師弟関係にあるタモリが、赤塚の高額な治療費、入院費の一切合切を工面したという話が流布されるが、これも事実無根の讒訴であることを、この場にて物申しておきたい。
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