どんぴ帳

チョモランマな内容

はくりんちゅ320

2008-10-23 17:51:48 | 剥離人
 残業を一時間してからホテルに戻ると、いつもの事だが下半身にがっくりと疲れが来る。

 駐車場に停めた車からゆっくりと降りると、ノロノロと歩いてフロントに向かう。
「お帰りなさいませ!」
 フロントでは、元テレビ局アナウンサーの支配人が、にっこりと笑って挨拶をしてくれる。
「どーもぉ」
 半分放心状態で部屋のキーを受け取る。
「皆さん、本当に格好イイですよね!」
 支配人は、目をキラキラとさせながら、話し掛けて来た。
「えーと、こういう仕事をしている事がですか?」
「ええ、やっぱり職人さんって、格好イイですよぉ」
「・・・」
 完全にこの世界を誤解している様子だ。
「特にあの正木さん、いかにも職人さんって感じですよね!」
 確かに、素人目に見れば、正木の外見は最も職人っぽい雰囲気を醸しだしている。
「あのぉ…、支配人の夢を壊すみたいですけど、そんなに格好のイイ世界じゃないですよ」
 私は鼻から小さく息を吐き出す。
「いえ、格好イイですよぉ、なんか『男の世界!』って感じで」
「…あのですね、職人の世界は、『男の世界』じゃ無くて、『子供の世界』と同じですからね」
「え?どういう意味ですか?」
 支配人には理解出来ないらしい。
「ほとんどの職人さんは、中身が子供のまんまなんですよ。本人たちに言ったら怒りますけどね。もう思考回路なんか完全に幼稚園児と一緒ですから。もちろんそうじゃない人も居ますけど、大半の職人さんは子供と一緒です」
「…そ、そうなんですか?」
「ま、一緒に仕事をすれば分かりますけどね。じゃあ失礼します」
 私は支配人にそう答えると、二階へ上がる階段を上り始めた。

 風呂に入ってバーカウンターで一杯呑み、レストランで夕食を食べ、最後のコーヒーを飲んでくつろぐ。
「木田さん、なんかまだお腹が空いてるんだよね」
 ハルがコーヒーを片手に、自分の腹を擦っている。
「やっぱりですか…、このホテル、職人の夕食にしてはボリュームが少ないんですよね」
 もちろん普通の人には十分な量の夕食だが、肉体労働者にはちょっと物足りないのだ。
「すぐそこに居酒屋がありましたよね」
「いいねぇ、呑みに行っちゃう?」
「ええ、せっかくだから本村組の二人と、正木さんと佐野さんも誘いますか」
「うんうん」
 ハルはニコニコとしている。時にはそういう事も無いと、きつい仕事はやっていられない。

 歩いて数分の居酒屋に全員で入り、生ビールとウーロン茶(佐野は一滴も呑まない)で乾杯する。
「正木ちゃん、もしかしてハルさんとベース(B海軍基地)で会った事は無いの?」
 佐野が話題を振る。
「あれ?どうして知ってるの?いやね、俺もハルちゃんの事を見てさ、そうじゃないかなぁって思ってたのよ」
 正木は速いペースで、ビールを胃に流し込む。
「そうだよね、俺もそう思ってもんね」
 ハルも同意する。やはり二人は知り合いだった様だ。
「いやぁ、世の中は狭いって言うけど、本当だね!」
 正木は目を見開き、自分の言葉に、自分で頷く。
「僕はてっきり、正木さんは元漁師かと思ってましたよ」
 私はずっと思っていたことを口にした。
「あれぇ?おお、おおお!木田さんは中々鋭いねぇ」
 正木はグイっとジョッキを呷ると、女性店員に大声で生ビールの御代わりを要求した。
「って事は、本当に元漁師なの?」
 いきなり正木は返事の代わりに、腰にぶら下げていた日本手拭を手にすると、スルスルっと頭に巻き付け、鉢巻にしてしまった。
「ま、漁師って言っても、遠洋漁業の船なんだけどね」
「もしかしてマグロ船?」
「そう、正解っ!」
 正木の返事があまりにも大声だったので、生ビールを持って来た若い女性店員が、ビクッとする。
「あ、ゴメンゴメン、おいちゃんはさぁ、酔うとすぐに大声になっちゃうからね」

 正木は我々には見せない、不気味なほどの優しい笑顔を女性店員に向けると、再びビールを胃に流し込んだ。




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