羊蹄学園大学社会学部講義集

北の大地に突如としてできた架空の大学。
かつてないテーマで綴る社会学とは?

喜茂具理佐の沖縄論第15回~創価学会の沖縄席捲(4)~

2005-09-29 09:57:29 | 沖縄論第3章
(4、一粒種からの教団Ⅱ)
ひきつづきこんにちは。

まずは毎度おなじみの諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから前の時間にも言いましたが、強力に聴講生を一人でも多く増やすべくここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。
このブログの内容が内容だけに、キツイ側面もありますがよろしくお願いします。

それでははじめます。

前の時間では表層の沖縄の創価学会・公明党の歴史を大雑把ではありますがたどってみました。
しかしその歴史や記録を見たとき、実は最も目を引くのは、表層ではなく個人的には創価学会と沖縄の土着信仰の対峙ではないかと思います。

たとえば“ユタ”との対峙。
今でこそ学会員にも”ユタ“である人間がいるようになったようですが、そのようになったのは、折伏と呼ばれる強力な布教活動による一方で、”ユタ“の側が創価学会の熱心さに、”ユタ“の力が感応したということもあるようです。
また離島への創価学会伝播により、一九六四年ごろから”アカマタ“の盛んな宮古島などでのトラブルもあったようです。
まぁ、先祖伝来とはいえ、”アカマタ“はそもそも現代には似つかわしい閉鎖性のある行事です。
そのため外部の人間が入り込むことを極端に嫌います。
それが“ヤマト”的なるものの流入があれば尚更でしょう。
だが最も“アカマタ”をやる側が嫌うのは、門外不出のこの行事の内容が外部に漏れることでした。
そのため、にわかに地域の行事に加わらない創価学会の会員が宮古島でも増えたのを受け、彼らに“アカマタの秘密は外に漏らさない”という誓約書を書くように求め、更にはこのことが発端となって、警官隊も巻き込んだ投石騒ぎに発展したという記録が残っています。
それでなくても学会員は少数派のため、村八分状態になることが多かったようです。
特にサトウキビの共同刈り取りというこの地域ならではの、生活の根幹に関わる行事に参加できず、一時期は会員の減少もあったという。やがて学会員は拡大していくが、それでもこういった確執が薄れたのは、八〇年代に入ってからと言われています。

…創価学会は、日蓮正宗の檀家団体として仏教を標榜しているものの、本土ですら新宗教…の類であり、一九六〇年ごろなどは特に得体の知れない存在でありました。
しかしそのような中、沖縄でも、地域としての難しさを抱えながら本土並みに創価学会は定着しました。
確かに歴史を学ぶと、混乱期にはよく人々は不安から新しいものに縋りたがる傾向にあるようで、その結果として新興宗教や新宗教がはびこるといわれています。
そう考えれば、安見が創価学会を伝播した時期も、復興の時期とはいえ、まだまだ沖縄が大変な時期だったことからこの例に当てはまるかもしれません。
しかし、私は思うのです。
ただでさえ、世界的にも数奇な立場、数奇な運命にあり、そしてなおかつ混乱していた沖縄で、この新興宗教団体が定立したのは、やはり「ものすごいこと」ではないかと。
それは、教義をすごいというのではなく、学会で言うところの“一粒種”…すなわち、ただの個人から広まったということが、です。
そこには教団とか組織とか団体とか徒党のにおいが全くなく、個人が個人の思いだけで動き働き広めたという、地味で地道ではあるけれども、人間の行いとしては非常に健全で美しい”個のきらめき“があり、その“個のきらめき”で世界的な苦難の地域での布教を成功させたという事実があるからこそ「すごい」という思いが湧きあがるのだと思います。

では、その「個のきらめき」が今もなお沖縄の創価学会・公明党にあるのでしょうか…といきたいところですが、それは次回にします。

ちなみに今日の講義内容だと、私のことを創価学会員とおもうひとがいるかもしれませんが、学会員ではありませんので、あしからず。

それでは、次回も乞うご期待。


喜茂具理佐の沖縄論第14回~創価学会の沖縄席捲(3)~

2005-09-29 09:55:57 | 沖縄論第3章
(3、一粒種からの教団Ⅰ)
こんにちは。

まずはいつもどおり諸連絡からです。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから、聴講生は一人でも多いほうがいいということで、毎回たくさんここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください、とお願いしています。
回を重ねるごとに物議を醸しそうな内容になっているので、特にここへのクリックをお願いしたいと思います。

では、はじめていきましょう。
前の時間は、新しい章に入るにあたってのイントロダクションでしたが、今回はいよいよ沖縄と創価学会の対峙について話を進めていきます。

創価学会が沖縄にはじめて流入したのは1954年…まだ沖縄は米軍統治下で…そうですね、ちょうど米軍への不満が高まり沖縄全土で“島ぐるみ闘争”が起こった頃です。
で、沖縄の創価学会の話を進める上で、まず特徴的なのは最初に沖縄に創価学会の教えを伝えた創価学会員(学会員)は、幹部や布教することを専門的にやっている立場の人間ではなく、ただの商売を営む一般の会員だったという点なんですね。
学会に限らず、このような人のことを"一粒種“と呼ぶことが多いのですが、その上すごいのは一粒種であることだけでなく、その人が創価学会の会員になったのは沖縄に上陸する二週間前…いわば学会の初心者・新参者の類であったということなのです。
1954年の8月20日に創価学会に入信し、そして、商売を興すためその5日後に横浜港から沖縄行きの船に乗り込み、船中で教義の柱となっている文献を読み込み、9月3日那覇に到着した…というのが入信から上陸までの流れです。
ちなみに沖縄に足を踏み入れたのははじめてです。
当然、本土復帰前なので彼は日本の外に足を踏み入れたことにもなるわけです。
その上彼は何の肩書きも無い、末端の学会員にすぎなかったわけです。
彼は直ちに那覇の国際通り沿いに店を構え、新生活をスタートさせます。
それは同時に一粒種としてのスタートでもあったわけです。

無論、その時は最初ですから沖縄の創価学会員はゼロです。
しかし安見は奔走します。
奔走した結果、1年半で120世帯、4年後には4000世帯の入信を獲得します。
そしてこれは周辺の離島にも普及します。
たとえば、五年後の1959年には久米島には、安見のような一粒種によって創価学会の教えの伝播が早くも始まったことがそうです。
しかし伸長著しい一方で、この頃沖縄の創価学会が様々な苦難にさいなまされたのも事実です。
それは中央(東京)の創価学会の苦難ともリンクしていました。

例えば1958年には、創価学会2代目会長の戸田城聖が死去し、トップである会長のの座が空白となります。
それはちょうど、沖縄の創価学会が軌道に乗り始めた時期と一致するのですが…東京のトップが空白のため、本部の指示や指導を仰ぎたくてもなかなかできない状態になったわけです。
そのため安見は自腹で東京の本部に海を越えて押しかけます。
安見自身も二年目には事業が失敗し一文無しになるなど、そうでなくてもこの当時の沖縄の人々の暮らしは貧しいものでした。
しかしそのような中でも安見を先頭に沖縄の創価学会の伝播は本島だけでなく、離島にも行き渡っていったのでした。

その広がりが大きく、創価学会本部から認められるようになります。
1960年7月、第三代会長に就任し、直ちに全国行脚を開始した池田大作が沖縄を初訪問します。
その際、池田は安見に沖縄支部創設の話を持ちかけ、安見は初代支部長に就任します。
創価学会本部、というより池田にとって沖縄への思い入れはあるようで、1964年の再訪問時には池田は先代の会長、戸田城聖の伝記、というより創価学会のバイブル的存在である「人間革命」の執筆をこの沖縄で開始、巻頭の「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」を、沖縄の創価学会の施設で書いたと言われています。

一方で政教分離の指摘を受けながらも、本土のほかの地域と同じく、政界進出も果たします。
1961年に公明会を沖縄でも結成し、本土復帰直前の1970年2月に本土の公明党の地方組織扱いとなり、1976年に玉城栄一氏が衆議院に当選し、念願の国政進出を果たします。
安見も参議院議員となっています。
政治スタンスとしては創始から稲嶺惠一が現知事となるまでは、中道よりは革新陣営側に位置していましたが、現在は国政と同じく自民党ともに保守陣営の側についており、どの選挙においてもコンスタントに国会議員・や自治体議員を輩出し、当選させています。

…とまぁこれが、大雑把ですが沖縄の創価学会と公明党の表層的なれきしとなります。

では、表層でない部分ではどうだったか。
次の時間はそこに触れようと思います。

では…乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第13回~創価学会の沖縄席捲(2)~

2005-09-26 09:39:07 | 沖縄論第3章
(2、沖縄の信仰)
ひきつづきこんにちは。

まずは恒例の諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから前の時間にも言いましたが、強力に聴講生を一人でも多く増やすべくここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。
伏してお願いします。

あぁ…それから、コメント欄で書き込みをいただいています。
これについてはブログの反応を見る上でも役立っており、感謝しています。
なお、書き込みの文面が長くなるようでしたらメールでも構いません。
dohkun@mail.goo.ne.jpまで、送ってください。

では、はじめます。
前回は新しい章に入るにあたっての私の感慨を述べてみました。
ということで今回はいよいよ創価学会について…としたいのですが、その前提として、非常に大雑把ではありますが、この時間では沖縄の信仰を取り上げていこうと思います。

ちなみにこれからこの時間で話していくことはあくまで概略で、相当不足していることがあると思います。
しかしそれでも本土とは違う、独特の文化を持つ沖縄の一端が宗教の面においても見受けられます。
先祖伝来の傾向が強い土地柄であるため、それを宗教にも取り込んでいるというところがまずそうです。
たとえば、トートーメという位牌を門中…門中というのは一族の単位のことですが…で代々継承し、祈りの対象として拝むのもそのひとつでしょう。
また旧暦をベースに神人…カミンチュと呼ばれていますが、その人たちが中心となって祭事が行われ、霊媒師のユタが人々の悩みを聞き、占いごとをしたりします。
このユタの力によって、先祖の供養が十分に行き届いているかを確認したりもします。また自分の悩みの解決を願うことを“ユタを買う”といいます。
他方、石垣島など八重山地方は、沖縄の中でも民俗学的に独自の文化が残っていて、伝統芸能や祭りが特に盛んな地域と言われています。
中でも“アカマタ”と呼ばれる来訪神信仰の祭りがあり、そこでは海の彼方にあるニライカナイ…理想の地とでも言いますか…そこから稲の豊作をもたらす神がやってくると信じられていました。
またこの儀式は地元の人間だけが参加することができ、そこでの出来事は村以外の人間に語ってはいけないとされていました。

外来からの宗教はというと、たとえば仏教は本土から、中世の頃に中継貿易の全盛とともに流入してきましたが、そのほとんどが禅宗であり、また琉球王国の王族など支配層の信仰にとどまりました。
民衆には民衆の土着の信仰があったから、というのがその原因のようです。

このような歴史の末、戦後の復興期に、当時はまだ本土の新興宗教団体に過ぎなかった創価学会の教えが流入してきました。
それは沖縄の人々にしてみれば異質なヤマト神であり、信仰としてなじまないはずであったわけですが…この先の話は次の講義にしましょう。

では、次回も乞うご期待。


喜茂具理佐の沖縄論第12回~創価学会の沖縄席捲(1)~

2005-09-26 08:52:46 | 沖縄論第3章
(1、プロローグ)
こんにちは。

まずはいつもどおり諸連絡からです。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから、今回から新しい段階に入ります。
しかも非常にクセのある内容です。
そのため今後は、このブログの存在が極端に低下する可能性もあります。
聴講生は一人でも多いほうがいいということで、毎回たくさんここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください、とお願いしていますが、今日からはいつもにも増して、ここへのクリックをお願いしたいと思います。

ということで!
新しい章に入るのですが…まずはそれに先駆けて私の個人的な話をこの時間でしたいと思います。
実は私は大学時代、創価学会員の友人との語らいに多く時間を費やしました。
彼は真摯に、それでいて熱く信仰の炎を燃え滾らせていて、私にも何度か入信を勧めました。
私は、そんな彼の折伏に対し、彼に負けず劣らずの口上とそしてハッタリで、撥ね退け、私は入信することなく今日を迎えています。
しかし創価学会を賞賛するニュースを耳に入れただけで、問答無用に拒絶するようなアレルギーがあるわけではありません。
だけど誤解しないでほしいのは、だからと言って、創価学会に対する最近の雑誌記事などを否定する気もないということです。
いい子ぶる気はないですが、創価学会に対する私の視座は要するに中立・中性だと思っている。
もっと言えば、そうです、ただ単に興味があるだけなのです。

ではどこに興味深さを感じたか…たとえば、社会そのものの前進のみならず、個々人の前進すらないものとあきらめのムードが漂う最近の時勢において、あれだけそのあきらめに対し、束になって抵抗しようとする姿勢を見たからだったり。
また、それは「現世利益」という教義が私の興味を発生させているのかもしれません。
いやもしかしたらよく言われる池田大作という個人への崇拝が原因としてあるのかもしれませんし、はたまた政教分離などといった外部からの学会攻撃を跳ね返す力の強さを目の当たりにして興味が沸き起こったのかもしれません。
いずれしても、一言で言ってすごいのです、あの教団は。
すごくて新鮮だからこそひきつけられ、興味がわいたのです。

でもそもそもの興味の源は、創価学会に限らず宗教や思想を支えるパワー…あくまで他者を制圧する「力」ではなく、他者に訴える「情念」や「情熱」と言った類に限定しているものだけれど、とにかくその類に対してのものだなと私は思います。

そのような大学時代の一片が、ライフワークとしていた沖縄論とクロスしたのは、今思えば全くの偶然でした。
特に沖縄についての見聞をしている最中、沖縄県知事選挙での現職・大田昌秀氏の落選は、有利と言われていたのになぜ?との思いを持たせました。
そしてそれをよくよく分析するとその落選の原因の一端に、公明党・創価学会の動きがあったことを知りました。
後ほど、この講義でも大田の落選について触れていきますが、その前に私はその時、ふとこの直近の事態よりもあることに疑問にたどりつきました。

「沖縄の創価学会」とはどのようなものだろと。
世界中にあるといわれている創価学会ですが、しかし広宣流布のためとはいえ、土着信仰の強い国や地域、とりわけ今でこそ日本国の扱いだが、日本本土とは明らかな運命をたどり全く違う文化を持つ沖縄での広宣流布はどうだったのだろうと。
日本の他地域の創価学会同様の存在感を、沖縄でもまた示すことができているのであろうか。
いやできているとしてそこにたどり着くまでの道のりはどのようなものだったのだろうか。
沖縄の土着信仰や地域性を知る上でも私はこのことについて探求しようと思い立ちました。

ここではこうした経緯…あくまで私の個人的な話からですが…とにもかくにも沖縄の創価学会・公明党そのものについてこの章では見ていきます。
なお、巷で言われている、創価学会と公明党の政教分離の是非などについては、かなり無理があるかもしれませんが触れないし、問わないし、考えないし、ないものとします。
それについて問うことはここでのテーマに沿わないという私の判断からです。
ご了承ください。
とにかく沖縄の創価学会や公明党はどのような道のりをたどってきたか、その時従来の沖縄の宗教はどう彼らに向き合ったか、ここに焦点を絞って進めていきます。
なおその一方で、ご存知の通り先日…9月11日の総選挙の結果、沖縄の公明党は新たな局面を迎えました。
これについては、まだ私なりの検証はできていませんが、しかし極力出来うる限り触れようと思います。

…とにもかくにも、こうした私の感慨をベースにこの章は進んで行きます。

それでは、次の時間も乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第11回~沖縄のウルトラマン(5)~

2005-09-20 12:03:44 | 沖縄論第2章
(5、沖縄の人間としてⅡ)
はい、ひきつづきこんにちは。

まずはいつもどおり諸連絡からです。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…これも毎回同じですが、聴講生は一人でも多いほうがいいので、たくさんここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。
というのも、ここでの存在がやっぱりどう見てもビミョーなんですね、何と言っていいのか…まぁここでの存在を高めることが最大の目的ではないんですがねぇ…それにしても、うーん。

まぁそういうことも含めてよろしくお願いします…ということで、はじめていきましょう。

さて…前回紹介した「私が愛したウルトラセブン」ですが、ここでもう一つ、印象的な場面を紹介しましょう。
それは金城がウルトラセブンの最終回の脚本を書き、上原に見せる場面です。

上:「遺書みたいだね。セブンは金ちゃん(金城)の分身だろ?何か金ちゃんまでどっかに行ってしまいそうだね」
金:「さすがにお見通しだな」
上:「まさか沖縄に引き上げるつもりじゃないだろうね」
金:「沖縄はこれからどこに行ってしまうのかね、いずれは本土に復帰させられるのか、このままアメリカに隷属するのか」
上:「オレはいっそ、琉球国として独立したほうがマシだと思うけどね」
金:「いずれにせよ、あの哀しい島と運命をともにしたいという思いはあるな。そろそろ現実で役に立ってみたいというところかな」


ウルトラセブンの放映は一九六七年から六八年。
ベトナム戦争が激化している頃でした。
そうした世相もあり、市川は後年、「子ども番組なのに明るい話を誰も何一つ作れなかった」と述懐しています。
数々のウルトラマンシリーズの中でこの「セブン」の持つ作品のクオリティーの高さは、突出しており、今でもなお高い評価を受けています。
しかし放映時、それまでテレビ界において、快進撃を続けてきたウルトラマンシリーズには無い、視聴率の悪さ…とは言っても三〇パーセント前後という高水準ではあったのですが…にもみられるように、従来ほどストーリーに対して視聴者から賞賛の声を浴びることはなかったわけです。
金城はこのウルトラセブンでは、メインライターであると同時に、制作を担当した円谷プロの企画調査室長として、このウルトラセブンを放映するにあたってのキーマンとなっていました。
すなわちプロット作りから、全四九話の準備、放送局との折衝などまで「ウルトラセブンの世界」づくりの総責任者となっていたおり、一方で上原は金城の片腕として多くの作品を生み出していました。
しかし金城は実際の視聴者の反応を見て、非常に落胆します。
そして円谷プロでする仕事への情熱を失っていきます。
1971年、ウルトラマンシリーズは復活…「帰ってきたウルトラマン」の放映が決まります。
そこではフリーとなった上原正三がメインライターとなり、金城のように世界観づくりに腐心したのですが…金城の姿はそこにはなく、一作品のみ執筆しただけでウルトラマンとの関わりが消滅していました。
東京での仕事を切り上げ、出身地の沖縄に活動の拠点を移していたのです。
当然、円谷プロも退職しています。
金城はこの頃地元芸能の発展…とくに沖縄言葉での演劇制作などに寄与し、また以前に紹介したように一九七五年の沖縄海洋博覧会の開閉会式のプロデューサーを務めるのですが、海洋博覧会の結果に失望し、最後は自宅での不慮の事故で急死してしまいます。
なお一方で上原はフリーのライターとして今も活躍しています。

私は思います。
こうして二人の歩んだ道を眺めていると、金城も上原も「ウルトラセブン」の放映を機に運命が大きく変わったのだなと。
しかし、金城にしろ上原にしろ「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」といった、草創期の「ウルトラマンシリーズ」での存在感は、資料を見れば見るほど突出しているのがわかります。
彼らの功績は勧善懲悪の子ども番組から逸脱してでも、誰が何が悪なのかという哲学的な問いかけを、制約のある中でできうる限り仕掛けたことだと考えます。
要するに視聴者に暗に社会というものを考えさせる番組を作った、だからこそ今なお評価も高く、そして語り継がれているのであろうと。
そしてその背景には、沖縄…特に戦中、戦後の体験が身に染みている、ということがまずもって見逃せないのではないかと思えてなりません。

彼ら二人の功績を体で感じるたびに私は思いました。
金城や上原を培った沖縄、その沖縄には何が内包されているのであろうか、そしてそれが何なのか、もっともっと見てみたいと。

…私の沖縄論の根源は、この幼少期に見た「ウルトラマン」に他なりません。
今年になってこうして沖縄論を展開することになったのは、以前紹介した「愛・地球博」のことがあったわけですが、全ての始まりはあくまでウルトラマンです。
幼き日に私の全身に飛び込んできたことが、全てであり、そこから始まったのです。

…長い長い前置きのような感じだったかもしれませんが、しかしということは、この沖縄論は、私という人間の心の旅路でもあるわけです。
ここを起点とし、更に心の旅路が進んでいくわけです。
それは私的な話に感じるかもしれない。
でも沖縄という、日本人全体でとらえなければならない「公的」な部分も内包されているのも、今まで見てきたように事実あるのです。

…ということを最後に述べて、第二章「沖縄のウルトラマン」を終えます。
次回からは、「創価学会の沖縄席捲」…今まであまり語られることのなかった沖縄の創価学会と地元信仰の対峙…について触れていきます。

では!乞うご期待。


喜茂具理佐の沖縄論第10回~沖縄のウルトラマン(4)~

2005-09-20 11:41:27 | 沖縄論第2章
(4、沖縄の人間としてⅠ)
こんにちは。

まずはいつもどおり諸連絡からです。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…これも毎回同じですが、聴講生は一人でも多いほうがいいので、たくさんここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。
しかし…ここでの存在が何かビミョーですね、何と言っていいのか…。

まぁそういうことも含めてよろしくお願いします…ということで、はじめていきましょう。

前々回は金城哲夫、前回は上原正三のウルトラマンの作品についてふれました。

触れておいてなんですが、そもそもウルトラマンそのものの評価ってどうなんでしょう?
私は子供向けテレビ番組の類と今もって見られることが多い「ウルトラマン」ではありますが、その一方でシリーズ開始から三〇年以上経過してもなお、幅広い世代からの支持があることもまた見逃せない事実だと、そうとらえています。
これは草創期に、「特撮の神様」とまで呼ばれた円谷英二の下、若手のクリエイターが集まり、手探りではあったけれども、常にクオリティーの高いものを追求していたことが、生きていると私は見ています。
そのクリエイターの中にまだ異国だった沖縄からやってきた、金城や上原がいたのです。
近年ではこの二人の存在が、沖縄の抱える問題がクローズアップされるにしたがって、彼らもまたクローズアップされるようになってきました。

一九九三年二月、NHKで「私が愛したウルトラセブン」というドラマが放映されました。
このドラマの脚本は、金城や上原と同じくこの時期に円谷プロのシナリオライターとして肩を並べていた、市川森一です。
市川という人はワイドショーなどのコメンテーターなどもしている人ですね…まぁ舌禍することも多いですが…まぁ余談ですが。
で、このドラマはどういうドラマかというと、一九六七年から翌年にかけて放映されたウルトラセブンの制作に関わった、市川が自身のことも含めて書き下ろしたセミ・ノンフィクション・ドラマとなっています。

そして!
前・後編合わせて3時間のドラマの中で最も割かれたのは、佐野史郎演じる金城哲夫と仲村トオル演じる上原正三による、沖縄出身者同士のやり取りや、それを取り巻く本土出身者の制作スタッフとの距離感や差異でありました。
いくつか場面を紹介したいと思います。

まず、ウルトラセブン放映開始直後、上原が薩摩に侵略された琉球王朝の悲劇をモチーフにした作品を書いてみせる。しかし監督は作品のよさはわかってもそのような上原の真意を汲み取れない…もしくは汲み取れないフリをしているかもしれませんが、とにかくそのような一方で、皮肉にもテレビ局の人間に至っては、上原の真意に気づいた結果、上原らに対し不快感をあらわにする、という場面があります。
そのやり取りを、テレビ局の人間を「テ」とし、上原を「上」、金城を「金」として紹介します。

テ:「上原さん、これは我々ヤマトンチュへの挑戦状ですか?」
上:「いえ、そういうわけでは…」
テ:「ドラマとしては良いです。しかしこんなもの放送できません。怨念むき出しじゃないですか」
金:「そうですか?単なるラブストーリーじゃないですか?」
テ;「ならばもっと困る。宇宙人というのは侵略者で地球人の敵でしょ?」
金:「原則ではそうですけど…」
テ:「原則を無視するというのは非常に困る…これじゃまるで宇宙人が善玉で地球人やセブンが悪玉じゃないですか」
上:「おっしゃるとおりです。自分でもついついまずいなと思いながら書いちゃったんです…こんなことしたらウルトラセブンのイメージが滅茶苦茶になっちゃう。やめましょう。」
金:「問題点を直せばいいんだ。勝手に止めるな」
上:「この本は直せないよ。直したくないんだ」


この場面の前と後にある、金城と上原のやり取りも併せて紹介します。

(前の場面)
上:「書いても通らないような気がする」
金:「弱気だな」
上:「このところかいても宇宙人が沖縄人になってしまう。ついでに警備隊が自衛隊、ウルトラセブンがアメリカン第7艦隊という図式さ」
金:「そんな本まずいよ」
上:「沖縄人がヤマトンチュに復習する話を俺が書いたら困るだろ?」

(後の場面)
金:「何で簡単に下りたんだよ」
上:「アレはあんたに読んでもらいたくて書いたんだ。あの本は沖縄の者にしかわからないよ。アレを読んで何かを思い出してくれればそれでいいんだ


セミ・ノンフィクション・ドラマ、という位置づけであるため、どこまで本当にあった話なのかをきちんと正確に判別するのは難しい、と見る向きもあります。
しかしこの場面に限って言えば、常々沖縄の苦難の歴史や現実を表現したいと考えていた上原は実際にこの時期に「三〇〇年前の復讐」という、薩摩の侵攻を受ける沖縄の過去をヒントにした作品を書いたものの、ボツにされた、ということがあったそうです。
では「三〇〇年前の復讐」がボツになったのはなぜでしょうか。
その背景として、沖縄を連想させるものを送り出すことを嫌ったテレビ局の姿勢がまずあります。
つまり「沖縄は政治だから」というのが理由で、スポンサーが難色を示すからなのです。更には、子供向け番組である以上、勧善懲悪というルールを崩すことは視聴者の大半を占める子供たちに混乱を招き、あげくにはその親の反発にまで発展しかねないということも当時考えられていました。
そういったことを鑑みると、このドラマの金城・上原とテレビ局の人間とのやり取りの場面は、極端に詰め込んだとは言え、似たようなことが実際にあったのだなと推測することができ、当時の苦労をリアルにうかがい知る…つまりこの場面に限って言えば本当にあった話ととらえることができると私は思います。

次の時間ではやはりこのドラマをテキストに、もう少し踏み込んでみたいと思います。
では…次回も乞うご期待。


喜茂具理佐の沖縄論第9回~沖縄のウルトラマン(3)~

2005-09-16 12:24:20 | 沖縄論第2章
(3、差別への挑戦)
こんにちは。

まずはいつもどおり諸連絡からです。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…これも毎回同じですが、聴講生は一人でも多いほうがいいので、たくさんここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。

よろしくお願いします…ということで、はじめていきましょう。

今日は、上原正三が脚本を書いた「怪獣使いと少年」という作品をとりあげます。
これは一九七一年に放映された「帰ってきたウルトラマン」の中の一作品であります。
このような内容です。

怪獣を念力で地底深くに沈めている老人=宇宙人。その老人を宇宙人と知りながら父のように慕う少年そして彼らを異質な人間として差別する市民。老人は調査のために地球に来訪しただけだったが、地球の汚れた空気に蝕まれ、死期が近くなっていた。少年は地中に隠してある宇宙人の円盤を掘り起こそうとしている。エスカレートする市民の差別。その差別は頂点に達し、老人・少年への暴動・迫害と化し、老人は銃殺されてしまう。念力が解け、怪獣はよみがえる。逃げ惑う市民。ふつうなら怪獣出現とばかりにウルトラマンに変身するはずの主人公は、この市民のために戦うべきか悩むのだった。

やっぱりビデオ等で見てもらうのが一番いいのですが…とにかく「ノンマルトの使者」のときと同じく、印象的なやりとりを同じように紹介していきます。
まず、早く円盤を掘り起こし、宇宙人を故郷の星に帰したい一心の少年に主人公(ウルトラマンに変身する郷秀樹)は「本当の父親は?」と聞く場面で、少年は「父親なんか要らない。自分もその星に行く」と答えます。
ならばと「地球を捨てるのか?」と聞くのですが、「地球は今に住めなくなる。その前に別れを告げる」と少年は言います。
また、少年に対して、市民は“宇宙人の子ども”とレッテルを貼り、あげくには「人間の中にあの種の顔は無い」「変身してみろ」「宇宙人も飯を食うのか」と罵声を浴びせる。店に行けば「後でイロイロ言われるのはいやだ。早く帰ってくれ」と店主に言われ、主人公と少年が一緒にいるところを見れば、「宇宙人を退治する立場なのに仲良くするとは」と怒りの矛先が主人公にまで向けられます。

この他にも印象的な場面があるのですが…総じて…つまり「ノンマルトの使者」でも「怪獣使いと少年」を見ても思うのですが、こうしたシナリオ(お話)がなぜ生まれたかというとまずもって、どちらもライターが沖縄出身者であると言うことが念頭にあると、私は強く思うわけです。
たとえば、この「怪獣使いと少年」は宇宙人ということでひどい差別を受けるという話です。これは沖縄出身者と言うことで本土の人間から差別を受けていた、特に太平洋戦争前の頃とよく似ているように思えるわけです。
現に沖縄出身の詩人である、山之口獏(一九〇三~六三年)の作品や手記を目にすると更にその思いは強くなります。
彼は画家になることを夢見て、戦前の若かりし頃上京しています。
そのときの手記にこのようなことが綴られています。

ぼくはかつて工場の見習い工募集に「琉球人おことわり」とあるのを発見した。それだけの理由はあったろうが、気持ちのいいものではなかった。
ぼくはある娘に結婚を申し込むつもりの間柄になっていたが、ボクを沖縄人だと知ったらどうなることだろうと思わずにはいられなかった。


戦前から、というよりは明治時代の琉球処分以降、本土の人間は沖縄の人間を一つ下の存在としてみる傾向にありました。
それは戦中に、政治的・軍事的重荷を背負わせることにつながり行くのですが、とにかくそういった経緯を直接見ているからこそ、そして実感としてあるからこそ、金城にしろ上原にしろ「ウルトラマン」というブラウン管の向こうにある世界からこれだけの重たいものを描こう、伝えようとしたのであろう、と私は思うわけです。

…深みがある作品であるにもかかわらず、「ノンマルトの使者」「怪獣使いと少年」を簡単に紹介していきました。
次の時間では、この2作品の背景にあるものを探っていきたいと思います。
まぁその前にこの2作品を見てほしいと願うのですが…という思いを前回同様込めながら、今日はこの1回でこの講義を終えようと思います。

では…次回も乞うご期待。





喜茂具理佐の沖縄論第8回~沖縄のウルトラマン(2)~

2005-09-14 14:04:17 | 沖縄論第2章
(2、勧善懲悪への挑戦)
えー…「沖縄のウルトラマン」を本格的に進めていくわけですが、その前に恒例行事を。

まず今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…これも毎回同じですが、聴講生は一人でも多いほうがいいので、たくさんここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。

よろしくお願いします…ということで。

それでははじめていきましょう!

この時間では、金城が脚本を書き、一九六八年のウルトラセブン(以後「セブン」とする)で放送された“ノンマルトの使者”という話を紹介したいと思います。
この話は愛好家や、沖縄研究をしている人の間では大変有名なのですが…とにかく簡単ですが、あらすじを述べておきます。

海底開発に着手する人類と、過去に人類によって海底に追いやられてしまったノンマルトと呼ばれるかつての人類。だが人類はノンマルト制圧に乗り出す。それに応酬すべく怪獣を出現させ襲わせるノンマルト。地球の平和、正義のために戦うウルトラセブンは、両者の間に立たされ悩むが、人類のために戦うことを決意する。

…ここに集う人にはレンタルビデオなどで、何とかしてこの作品に目を通してほしいのですが、この作品では、ノンマルトの使者として登場する少年と、セブンに変身する主人公や人類とのやり取りが目を引きます。
たとえば、少年は人類に海底開発の基地建設を止めないと大変なことが起こると警告します。
しかし人類の側は「海底開発は宇宙開発より身近な問題だ」と意に介しません。
そのためノンマルトは基地を攻撃します。
少年は高らかに「海底はノンマルトのものだ。人間が海底を侵略したらノンマルトは反撃する」と宣言します。
また「ノンマルトとは何か」という問いかけに対して、ノンマルトは本当の人類で、地上の人間は自分たちが地球人だと思っているが、いわば侵略者であると答え、地上の人間に「ずるい、いつだって自分勝手だ。ノンマルトを海底からも追いやるなんて」と切り返します。
人間側は「人間が人間のことを考えるのは当然だ。海底は私たち人間にとって大切な資源なのだ」と返すのですが、少年は「ノンマルトにとって海底はもっともっと大切」と言い張りますが、最後は「人間が人間のことを考えるのは当然だ」と一喝されてしまう。
そしてノンマルトの海底都市も何もかも人類によって破壊されます。
「海底都市を完全に粉砕した我々の勝利だ。海底も我々人間のものだ。これで海底開発の邪魔をするものはいないだろう」と人類は歓喜します。
最後に主人公は思う「ノンマルトが地球の先住民で、もし人間が地球の侵略者だったら…」と。

私はこの作品にまつわる裏話を拾って見ました。
すると、他のウルトラマンの作品と大きく違っていたことが見えてきました。

たとえば今でこそ、先住民族との問題はクローズアップされることは多いですが、この当時、しかも地球球侵略の怪獣・宇宙人を倒す正義のウルトラマン…という勧善懲悪の子供向けテレビ番組の王道において、そのような問題に触れるのは稀有であったこと。
更に言えば、この作品は担当した監督とシナリオを書いた金城の「人間って最初から地球人だったのかな」「いやもっと前に本当の地球人がいて、人間が侵略したのかもしれない」というやり取りから金城がシナリオを書き、できあがったという制作の根本から、もうすでに異例であったという点。
にもかかわらず後年、監督は金城が、彼の出身地が沖縄(当時はアメリカ統治下)であることから何らかのメッセージを作品に盛り込んだからこそ生まれた作品ではないかという質問に真っ向から否定しているという、作品のとらえ方に何とはなしに相違がある点などなど。

しかし私は思います。
当時の沖縄の施政権はアメリカであり、民衆の不満があろうと無かろうと自分たちの正当性を強く主張し、そして沖縄を発信基地としてベトナムに出撃していた、ということを鑑みると、沖縄出身者である金城はこの作品で明らかに既存の単純な勧善懲悪の構図への反論を試み、そしてその反論のために沖縄の現状をこの作品に込めていたのではないか、と。
そして更に当時は異国の民だった本土の人間に挑戦、訴えようとしていたのではないかと。

私はこの見方は決して無理な見方ではないと思っています。

とにもかくにも機会があればこの作品「ウルトラセブン」の「ノンマルトの使者」を見てください。
何かを感じ、思うはずです。

そのような「見てほしい」という願いを込めつつ、今日の講義はここまでとします。
なお次回は、上原正三の作品について取り上げる予定です。

それでは乞うご期待。



喜茂具理佐の沖縄論第7回~沖縄のウルトラマン(1)~

2005-09-14 12:58:34 | 沖縄論第2章
(1、プロローグ)
えー…今日は。
大変なご無沙汰でした。
再スタートのつもりで、心新たに講義を進めていきます。
よろしくお願いします。

それでは最初に…毎回恒例の注意事項を。
まず今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…これも毎回同じですが、聴講生は一人でも多いほうがいいので、たくさんここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。

よろしくお願いします…ってそうですね…って、このセリフも同じですね、芸が無いですね…。
ま、でもよろしくお願いします。

それでははじめていきましょう!

前回までは、「愛・地球博の年に想う」と題し、海洋博覧会や沖縄サミットについて語っていきました。
そこでは金城哲夫という人についても簡単ではありますが取り上げました。
私は金城はシナリオライターであると言いました。
しかし…知っている人も多いと思いますが彼は、海洋博覧会に関わる前は、ウルトラマンなどを生み出した「円谷プロダクション」の人間でした。
更に、出身地の沖縄ではマルチタレントでもありました。

さて!
新しい章…「沖縄のウルトラマン」にこの時間から入るわけですが、この章では金城についてもう少し取り上げるとともに、その金城と同じく沖縄出身で円谷プロのライターであった、上原正三について触れていきます。
彼らは、昭和四〇年代、原則一話完結、三〇分番組の草創期のウルトラマンの話…まぁ私に言わせて見ればひとつの「作品」であったわけですが…とにかくお話を書く、シナリオライターだったわけですが、同時に本土復帰に揺れる沖縄出身者として、更にはテレビが大衆のものになっていったという時代に生きるものとして、何をどのように表現したのでしょうか。
そこに次の時間からはスポットを当てて、この章を進めていきます。

それではこの時間はここまで。
また次の時間を乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第6回~愛・地球博の年に想う(5)~

2005-09-01 15:37:17 | 沖縄論第1章
(5、転回のサミットと愛・地球博)
では講義を進めていきますが…そうですね、まだ回も浅いですし、いつもと同じ注意事項を言っておきましょう。

まず、今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…聴講生は一人でも多いほうがいいので、ここでどんどん宣伝してください。
まぁ宣伝といっても、ここクリックするだけなんですが、とにかくよろしくお願いします…併せて何度も足を運んでいる人には同じことばかりですいませんね。

さてさて…前の時間では「海洋博覧会とは」で話を進めました。
この時間では海洋博覧会を見た上で、沖縄サミットと愛・地球博を見ていきます。

そうですね…まぁ、これは私個人の感慨になるのですが…この海洋博覧会から約25年後、私は私の沖縄論に関する見聞を広めているころ、2000年の「沖縄サミット」(主要国首脳会議)の開催決定のニュースを目にしました。
そのとき私は、瞬時にそのサミットが、海洋博覧会にタブって見えてしまいました。

確かに政治的行事であるサミットと国際的イベントの海洋博覧会の比較は妙かもしれません。
しかし実際にサミットと海洋博覧会はダブルところが多くあったんですね。
だって政府に対して誘致活動を行い、要人がやってくるために過剰な警備をし、多大な設備投資と周到な事前準備に明け暮れ、経済効果に期待し…って、まるっきり同じでしょう?何が違うかといえば、期間が長いか短いかの違いくらいじゃないかと言いたくなるくらいです。
米軍基地に苦しむ、沖縄県と沖縄県民のご機嫌取りにやる国策という点まで一緒なんですし。

そうなんです…これだと何ら沖縄は海洋博覧会を乗り越えていないように思えてならないんです。
せめて憂慮する県民が多く現れてもいいようなものだが、そういうわけでもなく、世論調査などによるとむしろ県あげての歓迎ムードだったんですね。

では結果はどうだったか。
まぁ、海洋博覧会ほどの悲劇は招かなかったですが、でももたらしたものは似たようなもので、何ら経済の起爆剤になることなかったし、ただのセレモニーで終わってしまったのは否めないでしょう。
テロや大事故が発生しなかったのがせめてもの幸いと言ったところでしょうかね。
そしてそのあげく、このサミットについてその後大きく語られることはなく、今日を迎えているわけです。

で、今年、愛・地球博…二〇〇五年日本国際博覧会の開催です。
私はそこで思わぬ体験をしました。
それは、私の知人が今夏、「愛・地球博」とはまったく別件で、北海道から名古屋へ一泊二日の日程で赴く用事ができて、とりあえず夏、という絶好の行楽シーズンであるにもかかわらず、中部国際空港までの航空機のチケットは何とか予約できた、と…ところが肝心の宿泊場所の予約が取れず、旅行会社に行っても無理と言われて困っていると、まぁ言う話を聞かされたんですね。
要するに、国際的イベントである「愛・地球博」の集客の前に、個人の旅行者は宿泊できない状況だと言うんです。
私はね…それを聞いて、考えました。
彼らは名古屋のホテルを予約しようとしているから予約がとれないのだ、そこの発想を転換すれば…と。
そしたら!私の考えは的中しました!
インターネットで検索をかけると、中部国際空港の周辺や、空港と名古屋の間にある宿泊施設は、夏真っ盛りだというのに一部を除き、まるで嘘のように空室があるんですね。
料金も場所も部屋も選び放題なんですよ。

…という、まぁ個人的なしかも些細な一件を受けてですね、ふと沖縄のことを思い浮かべたんです。
これじゃあ、海洋博覧会の素通り観光と何も変わらないではないかと。
何もこのようなことは海洋博覧会や愛・地球博に限ったことではないかもしれないけれども…そうですね、自分なりとはいえ沖縄論にとりかかっている私に降りかかったこの出来事は、沖縄の過去を未だに乗り越えていないひとつの現実を見せられたようで、何だか私を重く暗くさせましたね。
まぁ、乗り越えなくてもいいのかもしれません。
たとえば愛知の場合、沖縄と違い、素通り観光状態になったとしても、もともとの産業基盤は沖縄に比べて張るかに強固です。
日本一どころか世界で最も景気がいいという声さえあるくらいです。

でも、沖縄の現実は残ります。
海洋博覧会の後から、今に至るほとんどの期間、沖縄は不況と言われ続けています。
本土復帰以後、本土並みの好況を送ったという痕跡は見当たらないのがよい証拠です。
にもかかわらずサミットにおいて、同じような道を歩んでしまっています。

…私は思います。
海洋博覧会からの歴史は「転回」しています。
「展開」ではないんですね。
繰り広げられ発展していくのではなく、「転回」といういわば回転することで歯車が元に戻ってしまっているような感じです。
なぜ沖縄は転回するのでしょう、なぜ本土は転回させようとするのでしょうか。
基地に、数奇な戦後史に、本土と沖縄の関係に…さまざまな原因があるでしょう。
しかしその原因のどこにおいても、人間が関わっています。
私の沖縄論は、基地や平和といったありがちな目線でなく、人間に照準を当てながら、更に進めていきます。
そのことによって「転回」の深層を見ていきたいと思います。

…第1章「愛・地球博の年に想う」はここまでです。
まぁ少し私の思い入れが先走っていたかもしれませんが、私の沖縄論はいわばここを起点としています。
そのことはおさえておいてください。

今日はここまでです。
次回からは第2章「沖縄のウルトラマン」と題し…そうです、金城哲夫なんかをもう少し掘り下げ、話を進めていきます。

乞うご期待。



喜茂具理佐の沖縄論・第5回~愛・地球博の年に想う(4)

2005-09-01 15:29:58 | 沖縄論第1章
4、海洋博覧会とは)
まずはご無沙汰でした。
再び講義を進めていきます。

えー…講義に入る前に、毎度毎度同じ事を言いますが、今回が初めてという人は、まず最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。
それから…これも毎回同じですが、聴講生は一人でも多いほうがいいので、ここでどんどん宣伝してください。

よろしくお願いします…ってそうですね、このセリフも同じですね、芸が無いですね…。
ま、でもよろしくお願いします。

それと…文字が小さいとのご指摘がありましたので、少し文字を大きくしました。
また何か不都合があれば教えて下さい。


さて…前回は「海洋博覧会への個人的視座」と題して話していきました。
では、「海洋博覧会」とは何なのか、それがこの時間のテーマです。

1972年5月…このとき、沖縄は本土復帰を果たしたわけですが…その前年の八月、国内のほかの開催立候補地を抑え、長年の誘致活動が実って決定したのが、「沖縄国際海洋博覧会」、要するに「沖縄海洋博覧会」です。
これは、本土復帰を盛り上げる補助的なイベント、という位置づけからの開催決定であるという見方もありましたが、日本政府としては本土との格差是正のため、または沖縄振興のためというのが、沖縄での開催を決めた大きな理由でした。
つまり!七〇年代からの本土資本による沖縄開発の一環であり、日本政府による沖縄振興策のひとつであったと言うことができるわけです。
現に、下水道などの生活基盤は本島を中心に順調に整備され続けていました。
ただし、これは日本政府の振興策と、当時の沖縄の政治を牛耳っていた革新陣営が掲げる「豊かな県づくり」というスローガンが合致していたことも背景にあったことも見逃せないのですが…とにかく公共事業が増えたわけです。

とにかく!重ねて言いますが、海洋博覧会もこうした時流のひとつでありました。
そして関連施設建設やそれに伴うインフラ整備のため多額の公共投資が沖縄に注ぎ込まれた、というわけです。
こうした情勢の中、海洋博覧会は1975年7月から翌年の1月まで開催されました。
ところが…です。
海洋博覧会には、前回もいいましたが惨憺たる結果が待ち受けていたのです。

まず、五百万人を見込んでいた入場者数が結局三五〇万人にとどまったということが一つ。
しかもその入場者の多くは素通り観光、すなわち那覇と博覧会会場の行き来に終始し、入場者の長期沖縄滞在を見込んでいた宿泊施設や関連の観光業界にしてみれば大きくあてが外れたということが一つ。
海洋博覧会やその周縁の建設事業に、地元業者ではなく専ら、本土の業者が請け負い、地元業者はその下請けにとどまったことが一つ。
その分、地元にカネが当初考えていたほど降りてこなかったことが一つ。
海洋博覧会名誉総裁として沖縄を訪問した皇太子夫妻(当時)に対し、過激派が火炎瓶を投げつけたことで、開催会場ばかりでなく県土に緊張と不安を招いたことが一つ。
他にもこの類の話はイロイロ挙げることができます。

更に、開催終了後の設計図を国も県が構築していなかったため、海洋博覧会のために作られた施設のその後の利用方法が定まっていませんでした。
前回紹介した手塚治虫のプロデュースした海洋博覧会のシンボル、アクアポリス館も例外ではありませんでした。
未来海洋都市をイメージしたものでしたが、博覧会が終わると使い道が決められず、海上で放置され、海風により侵食され、最後は2000年に鉄くずとして中国に売られてしまうという有様です。

しかし、一番取り上げなければならないのは、環境破壊もそうですが、海洋博覧会開催による瞬間風速的な好況感の後にリバウンドのように沖縄を襲った不況です。
東京商工リサーチ那覇支店の調べでは、一九七六年上半期の県内の企業整理倒産状況では負債総額一〇〇〇万円以上の倒産は七〇件、負債総額が一〇三億三八〇〇万円と記録されています。
前年同期が三五件、負債金額三四億円ですから、一年で件数は二倍、金額で三倍という計算になるわけです。
あまりのひどい県内経済の惨状に堪らず、この年の二月には、全県の観光業者二〇〇〇人が集まり、「沖縄観光危機突破総決起集会」が開かれたほどです。
また、事業・商売の失敗により人生に絶望しこの時期、多くの自殺者も出たといわれています。

このような海洋博覧会を巡る情勢の中、金城も絶望した一人です。
「沖縄の存在を世界のアピールする最大のチャンス」と、当初、海洋博覧会をそう捉え、関与しました。
にもかかわらず待ち受けていたのはこの有様です。
当時、彼には絶望や失意へと追いやるさまざまな要因があったのですが、最終的にはこのことが大きなきっかけとなり、精神を病み酒におぼれ、最後は海洋博覧会閉会直後の一九七六年二月。自宅敷地内での事故で他界してしまいます。
享年三七歳でした。

えー…国策とはいえ、沖縄に関わる人々の期待をそれなりに集めて開催された海洋博覧会ですが、結局沖縄にもたらしたものは何だったのでしょう。
これでは、本土への不信感を増幅させただけ…と言えてしまいそうです。
本来はこの海洋博覧会と、それに関わった金城らの死を糧にして学び、よりよい方向へと歩むのがあるべき沖縄の姿です。
しかしどうでしょうか。
糧にして学び、よりよい方向へと歩んでいるのでしょうか。
次の時間は、「転回のサミットと愛・地球博」と題し、進めていきます。

では…乞うご期待。





喜茂具理佐の沖縄論・第4回~愛・地球博の年に想う(3)~

2005-09-01 11:34:32 | 沖縄論第1章
(3、海洋博覧会への個人的視座Ⅱ)
えー…講義に入る前に、今回が初めてという人は、まず最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…前回も言ったように、聴講生は一人でも多いほうがいいので、ここでどんどん宣伝してください。

よろしくお願いします…ってそうですね…毎回このセリフ言いそうですね。
でもよろしくお願いします。

さて、前回は私が連想する、海洋博覧会に携わった人物2人のうち、手塚治虫を紹介しました。
この時間はもうひとりは誰か、という話です。
それは金城哲夫という人です。
知っている人いますかね…知っている人は知っていると思いますが…まぁそれでも手塚ほどの知名度はありません。
しかし、彼もまたこの頃、高名なシナリオライターでした。
しかも沖縄出身です。
当時の彼は、本土での仕事をたたみ、沖縄に本拠を移し、地元の芝居制作やメディアに関わっていたのですが、丁度このとき本土復帰とこの海洋博覧会にめぐり合い、開閉会式のプロデューサーを見事に務めてあげているんですね。

要するに!
手塚とアプローチの仕方や背景はやや違うが、海洋博覧会が沖縄のためになると信じた点については、手塚も金城も同じだったというわけです。
まぁ…この2人に限らず、当時の本土復帰に沸く沖縄県民の多くが同じ思いでした。
なぜかというと、開催に伴う公共事業や民間投資の増大を目の当たりにして、純粋に沖縄発展に寄与すると考えていたからです。
現に五〇〇万人の入場者数を地元は見込んでいたのですから。

しかし詳細は次回で述べますが、結果は惨憺たるモノでした。

そしてその惨憺たる結果を、本土の人間である手塚は何となく予期し、金城は予期することが出来なかったのです。
何という皮肉でしょうか。

…今日は海洋博覧会への個人的視座と題して講義を進めてきました。
私の沖縄論はここを突破口に幅広くこれから進めて行きます。

次回からは、「愛・地球博の年に想う~海洋博覧会とは~」と題し、海洋博覧会の内容、そしてそれが沖縄に何をもたらしたかを講義していきます。

…とまず、1日目を3回に分けて、こうして進めてみましたが、どうですか?
とっかかりにくいですか?
わかりにくいですか?
まわりくどいですか?
それとも大変興味深いですか?
まだ少し「形」として出来上がっていないと思うので、その辺も含めて感想があれば、是非コメント欄でも、メールでも私のほうにくれると、幸いですし、今後の参考にもなりますので、まぁできればでいいですから、よろしくおねがいします。

…といったところで今日はここまで。
次回も乞うご期待。


喜茂具理佐の沖縄論・第3回~愛・地球博の年に想う(2)~

2005-09-01 11:30:08 | 沖縄論第1章
(2、海洋博覧会への個人的視座Ⅰ)
えー…講義に入る前に、今回が初めてという人は、まず最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…前回も言ったように、聴講生は一人でも多いほうがいいので、ここでどんどん宣伝してください。

よろしくお願いします…ってこれは前回にも言ったことですね。
でもよろしくお願いします。

さて…今回から「第1章」の内容…まずは海洋博覧会への個人的視座について話していきます。
海洋博覧会とは何かという話は後回しにして、最初に私は早い段階から海洋博覧会について考えるとき、それに関わった二人の人物をまず思い浮かべてしまいます。
そのことについてこの時間は話します。

2人のうち、ひとりは手塚治虫です。
言わずと知れた、誰でも知っていると言っても過言ではない、戦後日本最大の漫画家である。
彼についてはここでは多くは語りませんが、ただ大雑把に彼の作風を分析した場合、彼の漫画家人生の前半は子供向けの作品が多かったのに対し、後半になるにつれ大人向けというか、大衆作家のような作風・作品内容が多く、社会や政治や思想に語りかける傾向になっていると言えるでしょう。
1973年に発表された「海の姉弟」もその一つ…しかもテーマは沖縄でした。
内容をざっと述べておきます。

沖縄で漁をして暮らす若い姉と弟がいました。
母親は沖縄戦の最中、逃げ惑い、そのあげくに米軍兵にレイプされ、姉を身ごもります。
戦後、母親はその父親が誰かもわからぬ子供を育てるものの、過去を引きずり、過去を知る住民から蔑視されるようになり、耐えきれず姉と、やはりその姉と同じような経緯で生まれた弟を残し水から命を絶ってしまいます。
成長した姉は本土の人間と結婚します。弟は本土の人間は信用できないとその結婚に反対します。案の定、結婚相手は、海洋博覧会に関わる建設業者の人間で、結婚後海を汚し自然を破壊する工事に何のためらいもなく関わります。
姉は身を挺して工事をやめさせようとするが、最後は汚れた海に沈んでいきます。


…どうでしょうか?
一言で言ってしまえば陳腐かもしれませんが、悲劇と言えますね。
しかしこの悲劇は、“マンガ”ではないのです。
戦中戦後の混乱の最中、沖縄に限らず日本国内ですら少なからず似たような事例は多くありました。
つまりこの作品の内容は事実に近いのです。

私がこの作品を初めて目にしたのは小学生の頃です。
その時は歴史という、大局観に立った上でしかこの作品を見ることはできませんでした。そしてこの作品は戦争の、沖縄と本土の距離感の産物としてもっと深く掘り下げてみなければならないことに気がつくまで多少の時間がかかりました。

手塚はこの作品が発表された当時、沖縄海洋博覧会のシンボルとも言えるアクアポリス館(日本政府館)のプロデューサーになっています。
海洋博覧会の、モロに関係者であるにもかかわらず、その海洋博覧会を通して、沖縄における本土との乖離や自然破壊について触れているんですね。
ヤマトンチュの行為を「悪」と断じているんです。
これは…どうなんでしょう、実際の手塚の行動とは明らかに相反しています。

でも私は思います。
手塚は常に本土復帰を果たした沖縄の発展のために海洋博覧会に関わる自分と、その海洋博覧会が沖縄に何ももたらさない、というジレンマ・矛盾の中でこの当時戦っていたんじゃあないかと。
そしてその矛盾の中でやむを得ずというか、海洋博覧会が沖縄の未来に必ずや役立つと信じ、関わったのではないかと。

この時間はここまでです。

…いきなり手塚治虫という、少し予想外の題材で、しかも話として少し深みがありすぎたかもしれません。
あげくにこの時間の話には「答え」がありません。
あくまでこの時間の話は私の予測が込められているにすぎません。
ですから皆さんの中で「違うんじゃないか」と言う人もいるかもしれません。
そういう人の存在を私はもちろん、否定しません。
むしろ歓迎します。

次の時間はこの「海洋博覧会」に携わったもう1人の人物に焦点を当てます。

それでは…乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第2回~愛・地球博の年に想う(1)~

2005-09-01 11:24:31 | 沖縄論第1章
(1、プロローグ)
えー…講義に入る前に、今回が初めてという人は、まず前回のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…前回も言ったように、聴講生は一人でも多いほうがいいので、ここでどんどん宣伝してください。

よろしくお願いします。

それではいよいよ、講義…「第1章、愛・地球博の年に想う}をはじめていきます。

まず…
今年はイロイロな意味合いのある年です。
ちょうど今だと衆議院選挙、郵政解散というやつです。
あとは…地震も何回か起こっている。
あぁ、ホリエモン騒動…ニッポン放送株の問題なんかもそうですね。
政治、科学、経済の見地だけでなく、歴史の見地からも…そうそう、戦後60年というやつです。

沖縄論というのをやっている私にとって、2005年の今年、戦後60年の存在と同時に「愛・地球博」の存在が大きくのしかかってきました。
というのも、私が今回、沖縄論にこうして取り掛かろうと思い立った直接の動機は、ブラウン管の向こうから映し出された「愛・地球博」(万国博覧会)開催の模様、が目に飛び込んできたことにありました。
まぁ確かに「自然の叡智」という崇高なスローガンが掲げられ、多くの来場者で賑わう姿が平和裏に映し出されています。
しかし開催にこぎつけるまで、「自然の叡智」とは程遠い、開催地では自然環境破壊の恐れを懸念され続けてきたのも事実です。
私はね、「嗚呼…またか」と、私はこの開催の陰にあることを想ったんです。
国際的で大規模なイベントが起こるたびに「もたらされるもの」は、大きく変わらないではないか、とね。

沖縄論の見地から沖縄の国際的・大規模なイベントを挙げるとすれば、たとえば5年前の沖縄サミットと、沖縄の本土復帰の象徴とされたイベント、沖縄海洋博覧会というのが挙げられます。
さっきも言いましたが、今年の愛・地球博と「もたらされるもの」はさほど変わりません。
そう考えると…まぁ傍から見ると強引かもしれないけれど、でも私はこの愛・地球博が開催されていることに、戦後60年もあいまって私は何か複雑な心境に陥ります。
そしてそれは後で述べますが、ある体験で間違いではなかったと確信していくのですが…

私の沖縄論はこんなところを…つまり海洋博覧会・沖縄サミット・愛・地球博に触れるところを取っ掛かり、「第1章」として進めていきます。

それじゃ、この時間はここまで。
次の時間からは、本格的に第1章の内容を…「海洋博覧会への個人的視座」と題して進めていきます。

乞うご期待。