羊蹄学園大学社会学部講義集

北の大地に突如としてできた架空の大学。
かつてないテーマで綴る社会学とは?

佐山武雄の塾戦争第15回~中部戦争史(5)~

2005-12-29 12:11:15 | 塾戦争光の第2章
(5、愛知県から全国進撃)
こんにちは。

今年最後の講義も1コマだけです。
今日は愛知進出以後の話ですね。

結論から言うと…静岡という隣の県から来た、よそ者の佐鳴と秀英でしたが、愛知県の塾業界に瞬く間に衝撃を与えます。

たとえば、愛知県内の既存の他塾がしてこなかった、全県での校舎展開を佐鳴が推進したという点です。

愛知県では大手塾として、
名古屋とその周辺で校舎展開する「明倫ゼミナール」
尾張北部の津島で誕生した老舗の「野田塾」
名古屋での私立中学受験に自信を持つ「名進研」
名古屋発の全国展開の個別指導塾「がんばる学園」
などがありますが、個別指導塾の「がんばる学園」は別にして、一斉指導を柱とする学習塾で全県で満遍なく校舎展開しているところはありませんでした。
どうしても尾張地域(愛知県西部)のみだったり、名古屋市周辺だけだったり三河地域(愛知県東部)オンリーだったりと、偏りがあり、そしてそのことが圧倒的な県下ナンバー1の学習塾の存在をなくし、群雄割拠の状態を作り出していました。
そのような中で、佐鳴は1989年の静岡県境の豊橋地区進出以来、県の東から西へと順を追ってではありますが、校舎展開を進め尾張の西部や北部といった岐阜県境の地域にまで、県全体にネットワークを広げることに腐心し、そして時間はかかりましたが一応の達成にこぎつけたのです。
これは愛知県の塾業界ではなかったことですし、今もなおないことです。
この結果、佐鳴は、県内では後発の、しかも県外から乗り込んだ塾にもかかわらず、三河地方の都市部を中心に高校合格実績ではナンバー1の座を築き上げ、今なお堅持しています。

対称的に秀英の愛知県進出は、一足飛びに名古屋に拠点を作り、その後尾張地域のみの校舎展開にとどめるのみとなっており、西は一宮犬山津島方面、東は豊田までと、佐鳴の愛知県の牙城である三河地区への進出を控えてきました(今冬から本格進出を開始したがこれは後述)。
しかしひとつの地域に集中して校舎展開したことが功を奏し、名古屋以北の一宮周辺では佐鳴のみならず地場の学習塾にも引けをとらない高校合格実績を誇っていますし、名古屋市内でも健闘しています(この背景には、北海道進出時と同様、最初の講習会の授業料を無料にするなどの話題性から生徒が集まった、という面も否めないが)。

けれどもそれでもやっぱり、佐鳴の与えた衝撃の方が大きいと言えるでしょう。
その証拠に1999年に、本社機能を浜松から名古屋に移すべく、名古屋の中心部である栄に本社ビルを建設したことが挙げられます(写真は以前に掲載済み)。
もともとこの栄と隣接する千種は、名古屋生まれの大手予備校「河合塾」の総本山とされている地域であり、塾業界とは無縁の地域ではなかったのですが、それ以外の塾関連の建物はほぼありませんでした。
そのような地区に佐鳴は本社を建てました。
本社は非常に立派で、地下に高級割烹料理店まで兼ね備えています(系列の飲食店が同居しているのは佐鳴の場合、ここに限らず沼津本部や以前写真掲載した東京総本社もそうである)。
そしてこの本社ビルの存在が契機となって、佐鳴に地盤を侵食されていた「明倫ゼミナール」が同じ栄地区にあった中古ビルを買い取って本社ビルを構えたり、津島周辺の校舎展開が中心でそれまでどちらと言えば地味な存在だった「野田塾」が、名古屋とその周辺での本格的な校舎展開を決意し、栄の近くの千種近辺に、そのための本拠として名古屋本部ビルを完成させたり、昨年(2004年)に至っては、それまで小中学部のみだった秀英が大学受験部を始めるため、名古屋本部が手狭になり新しい名古屋本部校舎が完成…と、佐鳴の本社移転後、一気に各学習塾が動きだすようになりました。
それこそマスコミが、栄・千種地区は「塾銀座」であるといつしか呼ぶようになったくらい、それまで飲食・風俗の繁華街だった地域の一角が一変したのです。
この一連の動きのきっかけはひとえに、佐鳴にあり、同時に愛知県における存在の大きさを示す事柄と言えるでしょう。

また、各県別の公立高校入試、その入試の直後に佐鳴は発祥の静岡県(フジ系のテレビ静岡で放映)のみならず、愛知(日テレ系の中京テレビで放映)でも、精鋭講師陣が出演のテレビ解答速報を放映しています。
県内で力があることをこの点からも言えると思います(ちなみに二つの県の入試解答速報を放映している塾は全国でも佐鳴だけではないか)。

…群雄割拠の愛知県で戦い抜くということは、塾として会社として鍛えられることに他なりません。
言い換えれば愛知県で成功すれば他でも成功できる、という自信が経営者や上層部にできます。
佐鳴は、愛知県の校舎展開が峠を越したと見たのか、隣県の岐阜、そして石川県に進出し、2003年には大阪に進出します。

一方秀英は、各都市での大学受験部の充実を意識しつつも、小中学部の校舎展開を先行で推し進め、神奈川県や山梨県、2004年には岐阜県への進出を果たします。
生徒も各地で順調に増えています。
しかしいずれにしても、佐鳴や秀英の他県への進出の背景には、紹介してきたように静岡でがっぷり四つで戦い、愛知の群雄割拠の中で生き抜いた、という背景があるわけです。

そして…何度も言いますが、秀英は北海道に今年(2005年)進出しました。
一足飛びになぜ北海道なのか?という疑問はありますが、しかし中部地方における塾業界のシビアな戦いを戦い抜いてきた秀英の進出だけに、進学会などの地元の塾は焦りだすのは当然のことだと、お分かりいただけるでしょうか。

…といったところでこの「光の第2章」は終わります。
それは同時に「光」…つまり表層の話が終了したことを意味します。
年明けから「影」…つまりこの表層の裏にあることを丹念に話していきたいと思います。

それでは、また。
よいお年を。
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沖縄論担当の喜茂具理佐氏による、新春特別企画をこの「塾戦争」講義の狭間を縫い、新年早々に行います。
題して、喜茂具理佐、「沖縄」に会う(仮題)。
全4回を一挙更新します。
乞うご期待。




佐山武雄の塾戦争第14回~中部戦争史(4)~

2005-12-25 13:39:24 | 塾戦争光の第2章
(4、月は東から昇る)
こんにちは。

クリスマスを迎え、いよいよ今年もあとわずか1週間です。
2005年の最終週も、そして2006年最初の週もいつもと変わらず講義していきます。

今日は1コマのみですが、秀英について語っていきます。

秀英をなぜ「月のような塾」と評するかは後述するとして、佐鳴の後を追うように、しかしその佐鳴を上回るスピードで拡大した、秀英の創業は1977年に、静岡市で個人塾としてで、佐鳴が浜松での校舎展開を着々と進めている頃でした。
しかしたった7年で、すなわち佐鳴の静岡市進出と同じ年の1984年には、「秀英進学塾株式会社」として静岡市内、そして県内全域での校舎展開を始めるまでになります。
佐鳴が豊橋を足がかりに愛知県進出を始めた1989年になると、いきなり名古屋に進出します。
この時、秀英の校舎数は37しかありませんでしたが、秀英は勝負に出て、一気にこの後校舎数を増やしていきます。
翌年、大学受験部を静岡市で開始、小中高一貫教育を始めたことを機に社名を「株式会社秀英予備校」に変更します。
1991年に山梨県に進出(この時の全校舎数は74、約2年間で2倍に増えたことになる)、大学受験部についても静岡県内での校舎展開を進めます。
1997年に静岡市内に現本社が完成、同年には株式の店頭登録を始めます。
1999年には神奈川県に進出、小田原周辺の校舎展開をまず始めます(この時の全校舎数は109)。
翌年には東京証券取引所2部上場を果たし、2002年には1部上場を果たします。
2003年には通信教育事業、「秀英PLS(プラス)」を、静岡県内の中学3年生を対象に始めます(今では対象地域、対象学年ともに拡大)。
2004年には岐阜県し、そして今年(2005年)には前述したように北海道に進出、一気に札幌とその近郊で夏に16校舎開校、というのがここまで秀英の簡単な歩みになります。

数字でも秀英を見てみましょう。
まず、資本金は20億8940万円。
2004年3月期の従業員数は639名で、売り上げは109億7800万円。
同期の経常利益は27億7300万円。
同期まで9期連続で増収総益となっています(この記録は2005年3月期でストップしましたが)。
佐鳴に匹敵する業績と言えるでしょう。

しかし数値上での業績が似ている一方で、人件費のかかると言われている大学受験部を、安易にモニターを見て勉強するだけになりがちな衛星予備校の力に頼らない、自前の態勢で、しかも直接に授業をする姿勢(佐鳴も当初はそういう方針だったが、失敗し高校部は「東進衛星予備校」に加盟することを余儀なくされている)、通信添削事業部という新しい事業の展開、そして業界初の東京証券取引所1部上場…と秀英には佐鳴とはまた違う、特筆すべきことがいくつかあります。
そしてそうした違いの先に、どうしても私は「太陽のような塾」佐鳴の影に隠れるように巨大ながらもたたずむ、いわば「月のような塾」であると秀英を見てしまうのです。

なぜか。
たとえば佐鳴と同じく(というより佐鳴よりも徹底した)、独立した専用校舎で正社員講師陣の充実をはかっていますが、校舎は佐鳴のようなピンクや白を基調とした外観のものではなく、秀英は一貫してガラス張りの無機質な「都市にあるビル」のような外観の校舎で押し通していることや(もっとも最近の佐鳴の新設校舎もその傾向が出始めているが)、テレビCMをはじめとする宣伝物の前面に星野仙一氏を派手に出している佐鳴に対して、秀英はテレビCMもさほど多くは流さず、社員の営業と口コミという地味な手法で生徒獲得をしてきたこと(それでも北海道進出にあたり札幌でテレビCMも連日連夜流しているが)、更にはホームページでわかるように「青」を基調としたクールなカラーを多用する姿勢や
雰囲気がある一方で、佐鳴のように講師が熱血を語り竹刀を持って生徒に気合を起こさせ、生徒アンケートの高評価ひとつで現金を渡すという風土もありません。
要するに佐鳴と比べると、シックで落ち着いている、との印象を持たせるようなことが多く転がっており、だからこそ「月」であると、私は秀英を見立ててしまうのです。

ただその一方で、どちらも静岡県で生まれ、同時期に拡大をし、独立校舎や正社員講師陣の充実を目玉とした、いわば「双子のような」塾と見ることも出来るでしょうが。

とにもかくにも両者は、大井川をはさんだ静岡県の東西の地域で、小中学生の生徒数と高校合格実績でナンバー1を誇り、そして前述した通り、静岡県での勢いそのままに1989年、隣の愛知県にそれぞれ進出します。
それは両者の新たな拡大…全国展開への入り口となったのです。
 
ちなみに…ここまでで、聡明な方なら察しがつくかもしれませんが静岡での覇権争い、そしてその後の愛知県への進出、全国への波及…秀英の拡大の陰にはライバルでありながら必ず佐鳴の姿が見え隠れしており、そのため秀英だけをとりあげるわけにはいかないほど、その存在はあまりにも大きい、という背景があるため、佐鳴について私は執拗に紹介したのです。
そう…敵とはいえ、皮肉にも秀英は佐鳴によって巨大化していった、という側面もあるのです。

この2つの塾は静岡のみで終わるような塾ではありませんでした。
2005年最後の最終講義、
光の第2章のラスト、
そして講義全体の前半最後である次回は、愛知県に進出したこの2つの塾の姿を見ていきます。

それでは、また。
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佐山武雄の塾戦争第13回~中部戦争史(3)~

2005-12-22 12:31:37 | 塾戦争光の第2章
(3、太陽は西から昇る)
今日のもう1コマは、静岡が生んだ太陽のような塾について。
その名は…「さなる」。

1967年、浜松市内学習塾「サトウ塾」を営んでいた佐藤英夫氏という人が亡くなり、息子の佐藤イサク氏が後を継ぎます。
このことが、浜松から生まれ、後に全国の塾業界トップに躍り出る「佐鳴予備校」(以後、「佐鳴」と呼称する)の、実質的なスタートとなりました。

まず、1973年に浜松市内に校舎展開を開始します。
その後、1984年から静岡市に進出し、静岡県全域への校舎展開を進め、1989年より愛知県に進出します。
静岡との県境の豊橋地区から西へ西へと校舎展開を進め、1993年には名古屋市内での校舎展開を開始し、一宮などの県北へもネットワークを広げます。
1996年末より岐阜県、1997年末より石川県にも進出。
1999年には本社を創業の地であった浜松から名古屋に移転。
さらに大学受験科を本格的に開始させ、大学受験分野にも参入。
また自社で開発した、コンピューターによるプリント学習システム『SCPL(スクプル)21』が本格的に始動。
2003年3月大阪に進出、同時に業界初のデジタルコンテンツを活用した、新・体感型授業システム『See―be(シービー)』が本格的に始動(これについては後述します)。
2003年9月全国展開に向けた新拠点として東京・新宿に本社を移転。

…とまぁ破竹の勢いです。
数字でも見てみましょう。
資本金は1億4390万円で、2004年6月期の従業員数は正社員が311名。売上高は105億9320万円となっています。
同期の経常利益が32億4089万円となっており、全国私塾情報センターの調べによると、2004年決算分までだと、学習塾業界所得ランキングで8年連続1位に輝いています(2005年でも同様の結果となり、9年連続1位となった)。
数字を見るだけでも佐鳴は塾業界のリーディングカンパニーと言えるでしょう。

しかし佐鳴について見る場合、特筆すべきなのは業績というよりも、その塾としての指導スタイルではないかと思われます。
特に新・体感型授業システム『See―be』の存在なくして佐鳴は語れないでしょう。

佐鳴は一斉指導の学習塾ではありますが、全校舎全教室には黒板というものは存在しません。
その代わりにホワイトボードと、天井には高性能のプロジェクターが設置されています。
このプロジェクターには、自社開発された対象の全学年全教科全単元の教材がソフトとしては入っており、それを高性能・高画質なプロジェクターでホワイトボードに映し出し、時には講師がリモコンで動かしたり、ホワイトボード上にマジックで書き込んで解説したりしながら、生徒の理解を促す、というシステムです。
大雑把に言うと、30歳前後の方ならご存知だと思いますが、各学校の教室にOHPという機材があったのをご存知ないでしょうか。
あれがもっと機械化自動化されたものと考えてください。
しかも照明の明るい教室でも映像が映るという優れものです。
この存在により、授業は効率よく進みます。
たとえば社会の授業で、わざわざ黒板に時間をかけて世界地図を書かなくとも、一瞬で生徒の眼前にきれいで巨大な世界地図を見せ、そして書き込みながら解説することができるのですから。

ですが、このような指導の独自性は佐鳴にはもともと存在していました。
たとえば講師は体罰目的ではありませんが、気合を生徒に注入するための道具として特に受験シーズンが佳境になるとハチマキを装着するとともに竹刀を携帯するという、他ではなかなか考えられない光景もそのひとつといえます・

また今では秀英などが当たり前のようにやっている、正社員による講師陣容や全校舎が独立した専用校舎という触れ込みですが、そのハシリは佐鳴で、佐鳴が早くからこの方針を採り、静岡県の塾業界を席捲したことにより、他塾も追随せざるを得なかった、という事情があります。
いわば佐鳴が秀英のような大手塾の形を作ったお手本であり、今日の秀英の存在をある意味つくったと言えるのです。

ただ私が佐鳴を「太陽のような塾」と評してしまうのは、浜松という名古屋・大阪の文化圏に近い地域で生まれたせいなのでしょうか、どうしても「行け行け」と言わんばかりの猪突猛進を思わせ、なおかつ派手さがこの塾にはあると見えてしまうのです。
たとえば校舎です。
最近の新築校舎はそれでもガラス張りの無機質なビルのような感じになってきましたが、古くからの校舎などは、白やピンクを基調としたものが多く、教育施設にもかかわらずさながら、「レストラン」「ラブホテル」を思わせる外観となっています。
1995年頃から、当時は東海地方の大スターだった、プロ野球中日ドラゴンズ監督の星野仙一をテレビCMに起用し、世間の耳目を集めたのもそうです。
また徹底した実力主義で、年数回の生徒アンケートによる講師評価で査定が決まり、よければ大金をポンと直接現金で渡すこと、更に講師の福利厚生として休日に使ってもらうために、高い外車や高級クルーザーを所有していることなども、そしてそういったことを「誇り」として何のためらいも無く公表していることも、佐鳴が「派手」と私が見てしまう理由のひとつになっています。

とにもかくにもこの「太陽のような塾」は、静岡の西から昇り、県内を席捲しました。
しかしそれに真っ向から立ち向かう塾が現れます。
東から昇った「月のような塾」、秀英予備校です。

今日はここまで。
それでは、また。
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佐山武雄の塾戦争第12回~中部戦争史(2)~

2005-12-22 12:27:18 | 塾戦争光の第2章
(2、静岡と浜松)
こんにちは。
今日も2コマやります。

今日から中部の塾戦争について語っていくわけですが、その前に秀英を生んだ静岡の土壌についてお話したいと思います。

江戸時代、「越すに越されぬ大井川」などと言われたように、東海道の難所であった、大井川を抱える静岡県。
その大井川の他にも天竜川に安倍川、富士川…と東海道を分断する大河が静岡県には集中しています。

そういった大河の中でも大井川の位置づけは独特です。
大井川は実質的に静岡県を東と西、すなわち県を二分する位置づけの川だからです(もっとも河口近くで分断されていた島田市と金谷町は、この度の平成の大合併で島田市になってしまいましたが)。
ただ、天気予報などでは静岡は四分割されます。
具体的には、浜松を中心とした西部、県庁所在地の静岡や藤枝を含む中部、沼津市や富士市など富士山近辺の東部、そして伊豆半島全域の伊豆、ということです。

しかし大きく二分するとやはり大井川がその境界線になり、浜松中心の西部と、中部・東部・伊豆をまとめた東部に分けられるのです。
「西部」と中部から伊豆までの広い意味での「東部」。

何が言いたいのかというと、この西部と広い東部では同じ静岡県内でありながら、歴史的経緯のみならず今日の状況がやや違うのです。
特に浜松市と静岡市の企業や市民のライバル意識は圧巻で、長年人口では浜松市のほうが静岡市より勝っていたのですが、平成の大合併で静岡市は清水市と合併し、人口で浜松市を抜いたばかりか一躍政令指定都市にまでなる一方、浜松も周辺自治体との合併を推進し、静岡市と都市規模や人口規模で差が出ないように必死になって巻き返しをしています。
また企業で言うと、たとえば静岡の私鉄は静岡鉄道、浜松の私鉄は遠州鉄道で、それぞれの鉄道会社が本業のみならずバスやタクシー会社をグループ経営し(果ては食品スーパーや不動産会社まで)、それぞれの地域の交通ネットワーク、ひいては企業グループを築き上げてきたわけです。
新聞になるともっと顕著で、たとえば静岡の地域新聞と言えば、静岡新聞で、本社は静岡市にあり、県内の大半で読まれており、まさに県民紙、地域紙としてシェアもトップとされているのですが、ところが浜松では意外とそうでもない、というのが現状です。
では何という新聞がはびこっているかと言うと、あの名古屋・東海地方では無敵の地域ブロック紙、中日新聞です(テレビやラジオも愛知の電波を受信することは可能)。
つまり、何が言いたいかというと、浜松市を中心とする西部(大井川以西)とそれ以外の静岡を中心とする大井川以東の地域では生活圏、文化圏の違いというものがあるということをここでは述べたいのです(更に言えば、その背景には大阪や名古屋といった「近畿・東海」との距離の近さが西部にはあり、それ以外の東部の人間は「東京や関東」の距離の近さがあるということがある)。

静岡県の学習塾もまた、西部で受け入れられた塾と東部で受け入れられた塾では全く違います。
たとえていうなら、西は太陽のような派手な塾で、東は月のような落ち着いた塾、と言うべきでしょうか。
静岡県の学習塾の攻防は、その西から昇った太陽のような塾の話から始まります。
そして秀英はその塾の存在を受けて、成長するのです。

今日のもう1コマは、その太陽のような塾について語っていきます。

それでは、また。
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佐山武雄の塾戦争第11回~中部戦争史(1)~

2005-12-19 13:53:55 | 塾戦争光の第2章
(1、イントロダクション)
この章では秀英など中部の大手学習塾の歩みを見ていくのですが、まずは、その秀英が産声をあげた、静岡県について考えてみようと思います。

いきなり何を考えているのだ、という声が聞こえてきそうですが、秀英の発祥の地を探ると言うのも悪くないと思いますので…

…と入る前に、この章でも関連写真資料を見ていただきたいと思います。







1枚目は秀英のライバル、佐鳴予備校の名古屋本社です。
今は総本社は東京ですが、一時期この名古屋のこのビルが総本社でした。
名古屋の中心部、栄にそびえたっています。
写真ではなく、完成予想図みたいなものですいません。

2枚目は同じく佐鳴の東京総本社。
名古屋の総本社機能をまるまるこの建物に移したんですね。
実はこの建物はバブルの時期にある会社が自社ビルとして建てたのですが、完成間近にバブル崩壊で会社が倒産、買い手がつかず何年も放置されていたのを、ウン億円で買い上げたそうです。
東京のど真ん中、新宿にあります。
名古屋も東京も最高の一等地ですね。
近くの歩道橋から撮影しましたが、このアングルは佐鳴の広告物にある総本社の写真アングルと一緒ですね。

3枚目は正面からの東京総本社。
ちょうど真向かいは皇室研究でおなじみの文化女子大学。
その前から撮影しました。
正面玄関が見えますがそこには高さ1メートル、奥行き2メートルほどの迫力あるライオンとサイの木像がお出迎えをしてくれます。

…といったところで、今日はここまで。
次回から「中部戦争」・・・まずは秀英を生んだ静岡の土壌について語っていきます。

それでは、また。
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