羊蹄学園大学社会学部講義集

北の大地に突如としてできた架空の大学。
かつてないテーマで綴る社会学とは?

喜茂具理佐の沖縄論第6回~愛・地球博の年に想う(5)~

2005-09-01 15:37:17 | 沖縄論第1章
(5、転回のサミットと愛・地球博)
では講義を進めていきますが…そうですね、まだ回も浅いですし、いつもと同じ注意事項を言っておきましょう。

まず、今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…聴講生は一人でも多いほうがいいので、ここでどんどん宣伝してください。
まぁ宣伝といっても、ここクリックするだけなんですが、とにかくよろしくお願いします…併せて何度も足を運んでいる人には同じことばかりですいませんね。

さてさて…前の時間では「海洋博覧会とは」で話を進めました。
この時間では海洋博覧会を見た上で、沖縄サミットと愛・地球博を見ていきます。

そうですね…まぁ、これは私個人の感慨になるのですが…この海洋博覧会から約25年後、私は私の沖縄論に関する見聞を広めているころ、2000年の「沖縄サミット」(主要国首脳会議)の開催決定のニュースを目にしました。
そのとき私は、瞬時にそのサミットが、海洋博覧会にタブって見えてしまいました。

確かに政治的行事であるサミットと国際的イベントの海洋博覧会の比較は妙かもしれません。
しかし実際にサミットと海洋博覧会はダブルところが多くあったんですね。
だって政府に対して誘致活動を行い、要人がやってくるために過剰な警備をし、多大な設備投資と周到な事前準備に明け暮れ、経済効果に期待し…って、まるっきり同じでしょう?何が違うかといえば、期間が長いか短いかの違いくらいじゃないかと言いたくなるくらいです。
米軍基地に苦しむ、沖縄県と沖縄県民のご機嫌取りにやる国策という点まで一緒なんですし。

そうなんです…これだと何ら沖縄は海洋博覧会を乗り越えていないように思えてならないんです。
せめて憂慮する県民が多く現れてもいいようなものだが、そういうわけでもなく、世論調査などによるとむしろ県あげての歓迎ムードだったんですね。

では結果はどうだったか。
まぁ、海洋博覧会ほどの悲劇は招かなかったですが、でももたらしたものは似たようなもので、何ら経済の起爆剤になることなかったし、ただのセレモニーで終わってしまったのは否めないでしょう。
テロや大事故が発生しなかったのがせめてもの幸いと言ったところでしょうかね。
そしてそのあげく、このサミットについてその後大きく語られることはなく、今日を迎えているわけです。

で、今年、愛・地球博…二〇〇五年日本国際博覧会の開催です。
私はそこで思わぬ体験をしました。
それは、私の知人が今夏、「愛・地球博」とはまったく別件で、北海道から名古屋へ一泊二日の日程で赴く用事ができて、とりあえず夏、という絶好の行楽シーズンであるにもかかわらず、中部国際空港までの航空機のチケットは何とか予約できた、と…ところが肝心の宿泊場所の予約が取れず、旅行会社に行っても無理と言われて困っていると、まぁ言う話を聞かされたんですね。
要するに、国際的イベントである「愛・地球博」の集客の前に、個人の旅行者は宿泊できない状況だと言うんです。
私はね…それを聞いて、考えました。
彼らは名古屋のホテルを予約しようとしているから予約がとれないのだ、そこの発想を転換すれば…と。
そしたら!私の考えは的中しました!
インターネットで検索をかけると、中部国際空港の周辺や、空港と名古屋の間にある宿泊施設は、夏真っ盛りだというのに一部を除き、まるで嘘のように空室があるんですね。
料金も場所も部屋も選び放題なんですよ。

…という、まぁ個人的なしかも些細な一件を受けてですね、ふと沖縄のことを思い浮かべたんです。
これじゃあ、海洋博覧会の素通り観光と何も変わらないではないかと。
何もこのようなことは海洋博覧会や愛・地球博に限ったことではないかもしれないけれども…そうですね、自分なりとはいえ沖縄論にとりかかっている私に降りかかったこの出来事は、沖縄の過去を未だに乗り越えていないひとつの現実を見せられたようで、何だか私を重く暗くさせましたね。
まぁ、乗り越えなくてもいいのかもしれません。
たとえば愛知の場合、沖縄と違い、素通り観光状態になったとしても、もともとの産業基盤は沖縄に比べて張るかに強固です。
日本一どころか世界で最も景気がいいという声さえあるくらいです。

でも、沖縄の現実は残ります。
海洋博覧会の後から、今に至るほとんどの期間、沖縄は不況と言われ続けています。
本土復帰以後、本土並みの好況を送ったという痕跡は見当たらないのがよい証拠です。
にもかかわらずサミットにおいて、同じような道を歩んでしまっています。

…私は思います。
海洋博覧会からの歴史は「転回」しています。
「展開」ではないんですね。
繰り広げられ発展していくのではなく、「転回」といういわば回転することで歯車が元に戻ってしまっているような感じです。
なぜ沖縄は転回するのでしょう、なぜ本土は転回させようとするのでしょうか。
基地に、数奇な戦後史に、本土と沖縄の関係に…さまざまな原因があるでしょう。
しかしその原因のどこにおいても、人間が関わっています。
私の沖縄論は、基地や平和といったありがちな目線でなく、人間に照準を当てながら、更に進めていきます。
そのことによって「転回」の深層を見ていきたいと思います。

…第1章「愛・地球博の年に想う」はここまでです。
まぁ少し私の思い入れが先走っていたかもしれませんが、私の沖縄論はいわばここを起点としています。
そのことはおさえておいてください。

今日はここまでです。
次回からは第2章「沖縄のウルトラマン」と題し…そうです、金城哲夫なんかをもう少し掘り下げ、話を進めていきます。

乞うご期待。



喜茂具理佐の沖縄論・第5回~愛・地球博の年に想う(4)

2005-09-01 15:29:58 | 沖縄論第1章
4、海洋博覧会とは)
まずはご無沙汰でした。
再び講義を進めていきます。

えー…講義に入る前に、毎度毎度同じ事を言いますが、今回が初めてという人は、まず最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。
それから…これも毎回同じですが、聴講生は一人でも多いほうがいいので、ここでどんどん宣伝してください。

よろしくお願いします…ってそうですね、このセリフも同じですね、芸が無いですね…。
ま、でもよろしくお願いします。

それと…文字が小さいとのご指摘がありましたので、少し文字を大きくしました。
また何か不都合があれば教えて下さい。


さて…前回は「海洋博覧会への個人的視座」と題して話していきました。
では、「海洋博覧会」とは何なのか、それがこの時間のテーマです。

1972年5月…このとき、沖縄は本土復帰を果たしたわけですが…その前年の八月、国内のほかの開催立候補地を抑え、長年の誘致活動が実って決定したのが、「沖縄国際海洋博覧会」、要するに「沖縄海洋博覧会」です。
これは、本土復帰を盛り上げる補助的なイベント、という位置づけからの開催決定であるという見方もありましたが、日本政府としては本土との格差是正のため、または沖縄振興のためというのが、沖縄での開催を決めた大きな理由でした。
つまり!七〇年代からの本土資本による沖縄開発の一環であり、日本政府による沖縄振興策のひとつであったと言うことができるわけです。
現に、下水道などの生活基盤は本島を中心に順調に整備され続けていました。
ただし、これは日本政府の振興策と、当時の沖縄の政治を牛耳っていた革新陣営が掲げる「豊かな県づくり」というスローガンが合致していたことも背景にあったことも見逃せないのですが…とにかく公共事業が増えたわけです。

とにかく!重ねて言いますが、海洋博覧会もこうした時流のひとつでありました。
そして関連施設建設やそれに伴うインフラ整備のため多額の公共投資が沖縄に注ぎ込まれた、というわけです。
こうした情勢の中、海洋博覧会は1975年7月から翌年の1月まで開催されました。
ところが…です。
海洋博覧会には、前回もいいましたが惨憺たる結果が待ち受けていたのです。

まず、五百万人を見込んでいた入場者数が結局三五〇万人にとどまったということが一つ。
しかもその入場者の多くは素通り観光、すなわち那覇と博覧会会場の行き来に終始し、入場者の長期沖縄滞在を見込んでいた宿泊施設や関連の観光業界にしてみれば大きくあてが外れたということが一つ。
海洋博覧会やその周縁の建設事業に、地元業者ではなく専ら、本土の業者が請け負い、地元業者はその下請けにとどまったことが一つ。
その分、地元にカネが当初考えていたほど降りてこなかったことが一つ。
海洋博覧会名誉総裁として沖縄を訪問した皇太子夫妻(当時)に対し、過激派が火炎瓶を投げつけたことで、開催会場ばかりでなく県土に緊張と不安を招いたことが一つ。
他にもこの類の話はイロイロ挙げることができます。

更に、開催終了後の設計図を国も県が構築していなかったため、海洋博覧会のために作られた施設のその後の利用方法が定まっていませんでした。
前回紹介した手塚治虫のプロデュースした海洋博覧会のシンボル、アクアポリス館も例外ではありませんでした。
未来海洋都市をイメージしたものでしたが、博覧会が終わると使い道が決められず、海上で放置され、海風により侵食され、最後は2000年に鉄くずとして中国に売られてしまうという有様です。

しかし、一番取り上げなければならないのは、環境破壊もそうですが、海洋博覧会開催による瞬間風速的な好況感の後にリバウンドのように沖縄を襲った不況です。
東京商工リサーチ那覇支店の調べでは、一九七六年上半期の県内の企業整理倒産状況では負債総額一〇〇〇万円以上の倒産は七〇件、負債総額が一〇三億三八〇〇万円と記録されています。
前年同期が三五件、負債金額三四億円ですから、一年で件数は二倍、金額で三倍という計算になるわけです。
あまりのひどい県内経済の惨状に堪らず、この年の二月には、全県の観光業者二〇〇〇人が集まり、「沖縄観光危機突破総決起集会」が開かれたほどです。
また、事業・商売の失敗により人生に絶望しこの時期、多くの自殺者も出たといわれています。

このような海洋博覧会を巡る情勢の中、金城も絶望した一人です。
「沖縄の存在を世界のアピールする最大のチャンス」と、当初、海洋博覧会をそう捉え、関与しました。
にもかかわらず待ち受けていたのはこの有様です。
当時、彼には絶望や失意へと追いやるさまざまな要因があったのですが、最終的にはこのことが大きなきっかけとなり、精神を病み酒におぼれ、最後は海洋博覧会閉会直後の一九七六年二月。自宅敷地内での事故で他界してしまいます。
享年三七歳でした。

えー…国策とはいえ、沖縄に関わる人々の期待をそれなりに集めて開催された海洋博覧会ですが、結局沖縄にもたらしたものは何だったのでしょう。
これでは、本土への不信感を増幅させただけ…と言えてしまいそうです。
本来はこの海洋博覧会と、それに関わった金城らの死を糧にして学び、よりよい方向へと歩むのがあるべき沖縄の姿です。
しかしどうでしょうか。
糧にして学び、よりよい方向へと歩んでいるのでしょうか。
次の時間は、「転回のサミットと愛・地球博」と題し、進めていきます。

では…乞うご期待。





喜茂具理佐の沖縄論・第4回~愛・地球博の年に想う(3)~

2005-09-01 11:34:32 | 沖縄論第1章
(3、海洋博覧会への個人的視座Ⅱ)
えー…講義に入る前に、今回が初めてという人は、まず最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…前回も言ったように、聴講生は一人でも多いほうがいいので、ここでどんどん宣伝してください。

よろしくお願いします…ってそうですね…毎回このセリフ言いそうですね。
でもよろしくお願いします。

さて、前回は私が連想する、海洋博覧会に携わった人物2人のうち、手塚治虫を紹介しました。
この時間はもうひとりは誰か、という話です。
それは金城哲夫という人です。
知っている人いますかね…知っている人は知っていると思いますが…まぁそれでも手塚ほどの知名度はありません。
しかし、彼もまたこの頃、高名なシナリオライターでした。
しかも沖縄出身です。
当時の彼は、本土での仕事をたたみ、沖縄に本拠を移し、地元の芝居制作やメディアに関わっていたのですが、丁度このとき本土復帰とこの海洋博覧会にめぐり合い、開閉会式のプロデューサーを見事に務めてあげているんですね。

要するに!
手塚とアプローチの仕方や背景はやや違うが、海洋博覧会が沖縄のためになると信じた点については、手塚も金城も同じだったというわけです。
まぁ…この2人に限らず、当時の本土復帰に沸く沖縄県民の多くが同じ思いでした。
なぜかというと、開催に伴う公共事業や民間投資の増大を目の当たりにして、純粋に沖縄発展に寄与すると考えていたからです。
現に五〇〇万人の入場者数を地元は見込んでいたのですから。

しかし詳細は次回で述べますが、結果は惨憺たるモノでした。

そしてその惨憺たる結果を、本土の人間である手塚は何となく予期し、金城は予期することが出来なかったのです。
何という皮肉でしょうか。

…今日は海洋博覧会への個人的視座と題して講義を進めてきました。
私の沖縄論はここを突破口に幅広くこれから進めて行きます。

次回からは、「愛・地球博の年に想う~海洋博覧会とは~」と題し、海洋博覧会の内容、そしてそれが沖縄に何をもたらしたかを講義していきます。

…とまず、1日目を3回に分けて、こうして進めてみましたが、どうですか?
とっかかりにくいですか?
わかりにくいですか?
まわりくどいですか?
それとも大変興味深いですか?
まだ少し「形」として出来上がっていないと思うので、その辺も含めて感想があれば、是非コメント欄でも、メールでも私のほうにくれると、幸いですし、今後の参考にもなりますので、まぁできればでいいですから、よろしくおねがいします。

…といったところで今日はここまで。
次回も乞うご期待。


喜茂具理佐の沖縄論・第3回~愛・地球博の年に想う(2)~

2005-09-01 11:30:08 | 沖縄論第1章
(2、海洋博覧会への個人的視座Ⅰ)
えー…講義に入る前に、今回が初めてという人は、まず最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…前回も言ったように、聴講生は一人でも多いほうがいいので、ここでどんどん宣伝してください。

よろしくお願いします…ってこれは前回にも言ったことですね。
でもよろしくお願いします。

さて…今回から「第1章」の内容…まずは海洋博覧会への個人的視座について話していきます。
海洋博覧会とは何かという話は後回しにして、最初に私は早い段階から海洋博覧会について考えるとき、それに関わった二人の人物をまず思い浮かべてしまいます。
そのことについてこの時間は話します。

2人のうち、ひとりは手塚治虫です。
言わずと知れた、誰でも知っていると言っても過言ではない、戦後日本最大の漫画家である。
彼についてはここでは多くは語りませんが、ただ大雑把に彼の作風を分析した場合、彼の漫画家人生の前半は子供向けの作品が多かったのに対し、後半になるにつれ大人向けというか、大衆作家のような作風・作品内容が多く、社会や政治や思想に語りかける傾向になっていると言えるでしょう。
1973年に発表された「海の姉弟」もその一つ…しかもテーマは沖縄でした。
内容をざっと述べておきます。

沖縄で漁をして暮らす若い姉と弟がいました。
母親は沖縄戦の最中、逃げ惑い、そのあげくに米軍兵にレイプされ、姉を身ごもります。
戦後、母親はその父親が誰かもわからぬ子供を育てるものの、過去を引きずり、過去を知る住民から蔑視されるようになり、耐えきれず姉と、やはりその姉と同じような経緯で生まれた弟を残し水から命を絶ってしまいます。
成長した姉は本土の人間と結婚します。弟は本土の人間は信用できないとその結婚に反対します。案の定、結婚相手は、海洋博覧会に関わる建設業者の人間で、結婚後海を汚し自然を破壊する工事に何のためらいもなく関わります。
姉は身を挺して工事をやめさせようとするが、最後は汚れた海に沈んでいきます。


…どうでしょうか?
一言で言ってしまえば陳腐かもしれませんが、悲劇と言えますね。
しかしこの悲劇は、“マンガ”ではないのです。
戦中戦後の混乱の最中、沖縄に限らず日本国内ですら少なからず似たような事例は多くありました。
つまりこの作品の内容は事実に近いのです。

私がこの作品を初めて目にしたのは小学生の頃です。
その時は歴史という、大局観に立った上でしかこの作品を見ることはできませんでした。そしてこの作品は戦争の、沖縄と本土の距離感の産物としてもっと深く掘り下げてみなければならないことに気がつくまで多少の時間がかかりました。

手塚はこの作品が発表された当時、沖縄海洋博覧会のシンボルとも言えるアクアポリス館(日本政府館)のプロデューサーになっています。
海洋博覧会の、モロに関係者であるにもかかわらず、その海洋博覧会を通して、沖縄における本土との乖離や自然破壊について触れているんですね。
ヤマトンチュの行為を「悪」と断じているんです。
これは…どうなんでしょう、実際の手塚の行動とは明らかに相反しています。

でも私は思います。
手塚は常に本土復帰を果たした沖縄の発展のために海洋博覧会に関わる自分と、その海洋博覧会が沖縄に何ももたらさない、というジレンマ・矛盾の中でこの当時戦っていたんじゃあないかと。
そしてその矛盾の中でやむを得ずというか、海洋博覧会が沖縄の未来に必ずや役立つと信じ、関わったのではないかと。

この時間はここまでです。

…いきなり手塚治虫という、少し予想外の題材で、しかも話として少し深みがありすぎたかもしれません。
あげくにこの時間の話には「答え」がありません。
あくまでこの時間の話は私の予測が込められているにすぎません。
ですから皆さんの中で「違うんじゃないか」と言う人もいるかもしれません。
そういう人の存在を私はもちろん、否定しません。
むしろ歓迎します。

次の時間はこの「海洋博覧会」に携わったもう1人の人物に焦点を当てます。

それでは…乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第2回~愛・地球博の年に想う(1)~

2005-09-01 11:24:31 | 沖縄論第1章
(1、プロローグ)
えー…講義に入る前に、今回が初めてという人は、まず前回のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから…前回も言ったように、聴講生は一人でも多いほうがいいので、ここでどんどん宣伝してください。

よろしくお願いします。

それではいよいよ、講義…「第1章、愛・地球博の年に想う}をはじめていきます。

まず…
今年はイロイロな意味合いのある年です。
ちょうど今だと衆議院選挙、郵政解散というやつです。
あとは…地震も何回か起こっている。
あぁ、ホリエモン騒動…ニッポン放送株の問題なんかもそうですね。
政治、科学、経済の見地だけでなく、歴史の見地からも…そうそう、戦後60年というやつです。

沖縄論というのをやっている私にとって、2005年の今年、戦後60年の存在と同時に「愛・地球博」の存在が大きくのしかかってきました。
というのも、私が今回、沖縄論にこうして取り掛かろうと思い立った直接の動機は、ブラウン管の向こうから映し出された「愛・地球博」(万国博覧会)開催の模様、が目に飛び込んできたことにありました。
まぁ確かに「自然の叡智」という崇高なスローガンが掲げられ、多くの来場者で賑わう姿が平和裏に映し出されています。
しかし開催にこぎつけるまで、「自然の叡智」とは程遠い、開催地では自然環境破壊の恐れを懸念され続けてきたのも事実です。
私はね、「嗚呼…またか」と、私はこの開催の陰にあることを想ったんです。
国際的で大規模なイベントが起こるたびに「もたらされるもの」は、大きく変わらないではないか、とね。

沖縄論の見地から沖縄の国際的・大規模なイベントを挙げるとすれば、たとえば5年前の沖縄サミットと、沖縄の本土復帰の象徴とされたイベント、沖縄海洋博覧会というのが挙げられます。
さっきも言いましたが、今年の愛・地球博と「もたらされるもの」はさほど変わりません。
そう考えると…まぁ傍から見ると強引かもしれないけれど、でも私はこの愛・地球博が開催されていることに、戦後60年もあいまって私は何か複雑な心境に陥ります。
そしてそれは後で述べますが、ある体験で間違いではなかったと確信していくのですが…

私の沖縄論はこんなところを…つまり海洋博覧会・沖縄サミット・愛・地球博に触れるところを取っ掛かり、「第1章」として進めていきます。

それじゃ、この時間はここまで。
次の時間からは、本格的に第1章の内容を…「海洋博覧会への個人的視座」と題して進めていきます。

乞うご期待。