羊蹄学園大学社会学部講義集

北の大地に突如としてできた架空の大学。
かつてないテーマで綴る社会学とは?

喜茂具理佐の沖縄論第30回~還暦までの人々(8)~

2005-10-21 15:03:21 | 沖縄論第5章
(8、不惑へⅡ)
…ということで4たびこんにちは。
この講義で今日の分は終了です。

講義に入る前に…今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読むこと、それから、ここへのクリックを1度といわず何度でもしてください。
くどいようですが、恒例のお願いですので…。

それでははじめます。

前回はあるエピソードを紹介しました。

私はですね、このエピソードを見て、たとえば沖縄戦に限ってみれば、よく国内で唯一の大規模地地上戦が行われ、住民の四分の一が玉砕し…という話をよく耳にしますが、しかしその悲劇の本質・背景を探ると、これもまたひどい悲劇が見え隠れする、ということを思うのです。

明治期の琉球処分の後、沖縄の人々はひたすら日本国民として認められたいと願うようになります。
それは命を投げ出して国に尽くすことで成し遂げられる、そう考えられました。」戦中の本土の新聞の社説には「戦死者の数が増えれば増えるほど、一級の日本人になれる」と書かれ、命を賭すことをますますあおられます。
大本営は満州への移住も東南アジアとの交流経験のある沖縄が率先してやるべきだと言い放ちます。
それは先祖伝来の土地を離れ、慣習を捨てアイデンティティを抹殺することでありましたが…それでも耐えて、従ったのはヤマトンチュになりたいという一心からくるものでした。
沖縄戦を見るとき、一番の悲劇は地上戦とそれに伴う惨劇でしょう。
しかしその周縁にあるものはどうだろうか、と考えたとき、日本政府の策動により沖縄の人々が翻弄される姿もまた、悲劇と言えるでしょう。

顧みれば、日本国内での差別の対象は様々あります。
「アイヌ」「被差別」「在日外国人」…そして「沖縄」です。
しかし「沖縄」が他の三つと違うのは、「沖縄」のみ土地の名称であると言うことです。
ということを鑑みても、沖縄そのものが日本という国から歴史的には切り離されてきた、ということをうかがい知ることができます。

その切り離された沖縄の人々の多くは、本土復帰を願いました。
しかし、歴史的にはその本土に切り離され、差別の対象とされた、という事実もあります。
その矛盾にさいなまされ続け、今なお米軍の基地とそれに伴う問題を抱え込まされている…私はここで言う「沖縄の心」の真意ではないかと思います。
いかにも中央直結政治をする保守陣営の人間の言葉であるものの、自分の過去の足跡も含めて考えたとき、整理のつかないヤマトへの感慨が口をついて出たのではないかと思うのです。

西銘は結局、1990年の知事選挙で太田昌秀に破れてしまいます。
それは保守県政でもなお、中央政府に翻弄されるだけで、経済は好転せず基地負担は軽減されないという、現状に、票の目減りを余儀なくされてしまったからであり、それは革新陣営が県民世論をつかんだと言うよりは、保守陣営のやはり勝手な自滅と言わざるを得ません。

しかし沖縄は西銘県政の経験で、保守・革新双方の県政を体験しました。
その結果県民がつかんだものは何だったのでしょうか。
学んだものは何だったのでしょうか。

そして…県民ひとりひとりの思いはどこにあるのでしょうか。

これでこの講義も30回。
この後佳境に入っていくわけですが…私はこの疑問を持って突き進んでいきたいと思います。
その答えは見つかるのでしょうか。

次回からは新しい章に入ります。

それでは乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第29回~還暦までの人々(7)~

2005-10-21 15:02:12 | 沖縄論第5章
(7、不惑へⅠ)
今日3度目のこんにちは。
さすがにちょっと疲れています。

えー…これも3たび、毎度同じことですが、今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読むこと、それから、ここへのクリックを1度といわず何度でもしてください。
くどいようですが、恒例のお願いですので…。

それでは、はじめましょう!

えー…沖縄の戦後史をさらに進めます。

そうですね…三〇歳代というのは、多くの人にとって「働き盛り」の年代と言うべきなのでしょうか。
終戦から30年以上、1975年以降は、沖縄もまた生活基盤の整備がかなり進んだ時期でありました。
しかし同時に弊害もおこりました。

屋良からバトンを受け継いだ平良幸市知事の病気辞任による、1978年の県知事選挙は保守陣営の推す、西銘順治が革新陣営の推す候補を破り当選を果たしました。
この頃、海洋博覧会終了後から続く、雇用・失業問題に対し解決の糸口が見えないことへの県民の不満が鬱積していました。
その解消に積極的な企業誘致と開発を推し進めることで事態の打開を図ると主張した保守陣営に対し、革新陣営は従来の反戦反基地問題の主張に終始し、抜本的な打開策を提示できなかったことが、勝敗の分かれ目となり、保守陣営が県政を握ることとなりました。
しかし、これは要するに革新陣営の戦略ミスです。
それでなくとも現に候補者擁立に難航したり、この頃発生した大量に解雇された基地労働者などを革新陣営に引き込めなかったことなど、敗因は数多く挙げられます。
ということは、これは保守陣営の絶対的な勝利でなく、革新陣営の勝手な自滅ではないか…もっと言えば、この当選には瀬長や屋良にあった広範で純粋な県民の支持があったとは言いがたいと、私は思います。

西銘は就任後直ちに大規模な開発プロジェクトを次々に展開します。
そこには本土との格差是正、自立的発展という願いが込められていました。
国際交流にも尽力しました。
しかし革新から保守に変わったことで、県政の大きな転換も一方で見られました。
県庁内の軍用地転用室の廃止、土地調整事務局の格下げといった、革新陣営による平和政策の象徴であったものの打消しである。それまで拒んできた自衛隊員募集もはじめました。
八〇年代にはいると、当選を重ね自信をつけたこともありそれは更にエスカレートする。教育現場での国旗掲揚と国歌斉唱の促進や主任制導入、米軍用地の強制使用など…これらは革新陣営の反対を押し切ってのものです。

ですが、保守に推されてとはいえ、もともと西銘は保守陣営を背負って立つようなポジションにはいませんでした。
むしろ反米・革新陣営のど真ん中…たとえば沖縄社会大衆党の創設メンバーに名を連ねたり、また初代県知事の屋良を師としていた過去を持っています。

そのような過去を反映するかのような、有名なエピソードがあります。

知事在任中の一九八五年。朝日新聞記者の取材を受けた西銘は、「沖縄の心とは何か」と聞かれるのです。
そのとき彼は、「それはヤマトンチュになりたくて、なりきれない心だろう」と答えています。
この発言は様々な憶測を呼び、県議会でも取り上げられるほど、物議を醸しましたが、西銘はそれ以上のことを語ろうとはしませんでした。

次の時間はこのことへの私の感慨などを述べてみたいと思います。

それでは…乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第28回~還暦までの人々(6)~

2005-10-21 14:20:58 | 沖縄論第5章
(6、苦悩Ⅱ)
ひきつづきこんにちは。

毎度同じことですが、今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読むこと、それから、ここへのクリックを1度といわず何度でもしてくださいという恒例のお願いをした上で…またはじめましょう!

えー…前の時間では屋良を簡単に紹介したのですが、その屋良は1997年2月に死去します。
ところが、その二年後の1999年夏に彼の日記が公開されるんですね。
これを読むと節目における「沖縄の苦悩」を読み取ることができます。

1971年6月17日(沖縄返還協定署名の日)
涙がにじんできたことは事実。来るべき日が来た。しかし、その内容については非常に不安、憂うべきこと、不満のことがある。平和憲法の下平和な国の保障を受けて生活できるところに意義があるのに、平和憲法とは全く関係の無い米国の戦略的な強烈な基地の中で生活を強いられていることは、確かに理不尽であり憤懣に耐えない。しかし、この協定によって復帰する。ここにまた問題を背負い込んで、またまた茨の道、針の山は続く。悲運の沖縄、悲運とはいえ運命の僕である。
1972年5月15日(沖縄本土復帰の日)
歴史的一日の幕が閉じた。終戦以来、復帰を希求し、実現するとの大前提にたって、一仕事、一仕事を地道に実践してきた私に天はその復帰の締めくくりを完成させた。私の運命でもあり、沖縄の運命でもあったのではないか、私は全く無理没我の状態でこの難苦行にさいなまされてきた。
1972年5月17日(本土復帰後初めて佐藤栄作首相と会談した日)
室に入り、二人だけで話す。特に核抜きに対する不安を訴える。それに対しては大統領と総理との約束である以上それを信頼してもらう外は無い、撤去されたとの公文書も届いている以上それを信頼してもらい、疑わしいことがあったら方法を考える外に措置なし。ベトナム戦争の終わらない今日、自由発信基地に恐れを訴える。それに対しては事前協議によって絶対に自由発信は許さない、あり得ないと断言された。


自分の信条が革新陣営側にシフトしていたとしても、国政が保守陣営である以上、ある種の現実路線、バランス感覚を持って自治を推し進めなければならない…このようなことは往々にして、各地の地方自治体の革新陣営出身の首長に見られたことであります。
屋良もその点では例外ではありませんでした。
しかし沖縄という、ある意味日本国内のどこにもないような特異な地域での現実路線・バランス感覚です。
その困難さは段違いといえるでしょう。
現に望んでいなかった形での本土復帰だっただけに、県民の日本政府に対する不信は残りました。
その点でも多分な苦労があったはずで、この日記からもそれをうかがい知ることができます。
ですが、同時にその苦悩の中で、県民の支持というバックボーンをしっかりと屋良は持っていたのも事実です。
それは終戦直後から沖縄の教育再興の先頭に立ち汗を流してきたという過去を知ってたからで、また一方で瀬長のような強烈な政治家としてのアピール力はなかったにせよ、教育者らしいやんわりとした形で、言いたい事を彼は述べてきました。
それは信条とは違うものの、ありがちな妥協で政治をやっているのではない、ということを県民の多くがきちんと理解していたゆえの結果ではないでしょうか

さて…苦悩から不惑の年頃へ、沖縄はこの後進みます。
今日の講義はこの先についても一気に進めていきます。

それでは…乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第27回~還暦までの人々(5)~

2005-10-21 14:20:17 | 沖縄論第5章
(5、苦悩Ⅰ)
こんにちは。

えー…何だかなぁ…という気分ですが、講義を始めます。

その前に今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んで講義に臨んでください。
それから…もうひとつの連絡は…最後にします。
とっとと講義に入ります。

瀬長の市長辞任以後、強権的なアメリカ軍統治への不満が高まり、幾度かの民衆による「島ぐるみ闘争」を経る中で、沖縄では本土復帰の機運が着実に、しかし地道に高まっていきました。
これに対して困惑の度を深めたアメリカ民政府は、住民の不満ガス抜きとアメリカに有利な形で本土復帰するためのレール作りの一環として、1968年琉球政府主席を公選制にする事を決め、その最初の選挙が行われました。
しかし選挙は、県民の多数の支持を集められない親米・保守勢力を尻目に、反米・革新勢力の推す琉球政府文教部長だった屋良朝苗が圧勝してしまいます。
屋良は本島南部で生まれ、戦前から教師の職にあった人物です。
戦中は台湾師範の教授となり、戦後は知念高校長などを歴任、自ら生徒とともにイスや机をつくり、沖縄の荒廃した教育の再興に尽力していました。

核なし基地なしの本土復帰を願っていた屋良は、当選後直ちに米軍に対して施政権を日本に返上するよう交渉を開始します。
しかし本土復帰の話し合いは屋良の知らぬ存ぜぬところ…すなわち日本政府とアメリカ政府が秘密裏によって着々と両者の直接交渉によって進められていました。
そのため、その交渉の結果決まった、「基地つき」本土復帰を屋良は追随して認めざるを得ませんでした。
そしてそれは当然、選挙時に唱えていた違う形での本土復帰でありました。
本土復帰が決まれば今度は日本政府の意向が沖縄にはたらき、第一章で紹介した「海洋博覧会」の開催が決定したのもこの頃です。
会場設営などは自然破壊であるとの指摘も脳裏をよぎりましたが、これについても屋良は国策である以上、断行しなければなりませんでした。
親米・保守勢力が支配する日本政府に従うこと…それは屋良を支持する沖縄の革新団体の不満の蓄積に他なりませんでした。
翻意ではない分、屋良としてもその狭間で苦しみ、眉間に皴を寄せるようになります。その皴はいつしか「沖縄の苦悩」と呼ばれるようになりました。
結局、屋良は本土復帰後の沖縄県知事も含め、二期八年、沖縄の先頭に立ち続け、最後は「基地のある限り沖縄の復帰が完了したとは言えない」と言い残して引退します。

…とまぁ、表層的な屋良の姿を紹介したところで、次の時間は補足をしたいと思います。
それから最後に…ここへのクリックをいつもながらお願いします。
本当にここにきて順位が低迷しています。
これがすべてとは言いませんが…でも低いより高いほうがいいので…本当にお願いします。

それでは乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第26回~還暦までの人々(4)~

2005-10-19 15:15:54 | 沖縄論第5章
(4、青春Ⅱ)
ひきつづきこんにちは。

毎度同じことを言いますが、今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読むこと、それから、ここへのクリックを1度といわず何度でもしてくださいという恒例のお願いをした上で…とっととはじめましょう!

前回は瀬長亀次郎を那覇市長時代に絞って紹介しました。
ちなみに、この瀬長については、今年発売となった小林よしのりの「ゴーマニズム宣言 沖縄論」などを読むとより詳しく知ることが出来ます。
保守論客などと呼ばれている小林が、共産党の瀬長について描くのも変な話ですが…。

それにしても…このように瀬長の歩みを、那覇市長時代を中心に探ってみて思うのですが、非常に民政府は瀬長に対してナーバス、というよりも瀬長を支持する多くの市民にナーバスになっていたことがうかがえます。
というのも、圧倒的権力をこの当時、民政府が握っている以上、たとえば意に従わないと見るや、瀬長をいつでも強引に罷免することはできない話ではなかったはずなのです。にもかかわらず、その選択肢を選ばず、選挙や法律の改正などという、合法的手段を選んだのはなぜかというと、ひとえに鬱積した市民の不満…それはともすれば「島ぐるみ」になりかねないぐらいのものがあり、そうなると沖縄の混乱は避けられない、と踏んだ背景があったのです。
ご存知のように沖縄は冷戦下の一大軍事拠点です。
特にアメリカ本国としてみればそのような混乱は絶対に避けなければなりません。
ゆえに、このようなナーバスになっていたのです。

一方で瀬長、という人間の持つカリスマ性や存在が光っていたのも見逃せません。納税率の高さなどはその証だろうし、議会で多数派の与党を形成した手腕などは見事です。
ですが、それは瀬長個人への支持と見る向きもあります。
なぜなら瀬長が設立、指導した沖縄人民党は一定の支持を集めたものの、同時にそれ以上の支持はいつも集めることはできず、今では日本共産党の一地方組織として、沖縄の革新勢力の中でともすれば埋没しかかっている状況があるからです。

瀬長辞職後の市長選挙では大混戦の末、瀬長の後継候補が当選します。
しかしその後は保守勢力の台頭もあり、一筋縄ではいかない市政運営が当分続くことになります。

そう考えると、瀬長の那覇市長時代はまさに映画タイトルの「沖縄の青春」の通り、戦後沖縄史における「青春」でした。
ただその「青春」は、若い世代に多くみられる勢いのみの「青春」のように見えます。
なぜなら、瞬間的な民衆の熱さ、そして初めて沖縄において民衆が政治意思をはっきりと表明したという歴史的ポイントはあるものの、持続性の面において欠けることなどが挙げられるからです。
と同時にそれは、この事象の限界を露呈していることにもつながるのですが。
つまり熱病のようなものと言えなくもないのです。

ですが、やはり一瞬でも、市民一人ひとりが何の組織や団体の制約もなしに自分の意志で瀬長の支持を表明しました。
そしてそれまで本土復帰という選択肢は民衆にさほど定着していなかった中で、瀬長が真っ向から反米の姿勢を打ち出したことで民衆に反米そして本土復帰という考えを植え付ける契機を作ったという事実がある以上、瀬長の存在は戦後の沖縄史において燦然と輝いてなりません。
これははっきり言えることでしょう。

さぁこの後、このことを受けてどう沖縄の政治は動くのか、はたまた動かないのか…次回は更に進めていきます。

それでは、乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第25回~還暦までの人々(3)~

2005-10-19 15:13:07 | 沖縄論第5章
(3、青春Ⅰ)
こんにちは。

えー…何だか賑やかになっていますが、それはそれとして講義は進んでいきます。

今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んで講義に臨んでください。
それから…もうひとつの連絡は…最後にしましょう。
今日はとっとと講義に入りましょう。

前回は「沖縄戦後史のスタート」についてやったわけですが、今回は青春…ここでは戦後沖縄の青春期を探っていきます。
その前に実際に「沖縄の青春」という映画があるのをご存知でしょうか。
正式には「カメジロー~沖縄の青春~」といい、本土復帰前のアメリカ統治下の那覇市長を務めた、瀬長亀次郎を描いた作品です。
1998年に沖縄で公開されました。

この映画で描かれた彼が市長に就任したのは1956年。
前の時間で話した当てはめで考えると、ちょうど沖縄が戦後の「青春期」にさしかかる時期です。

瀬長が市長に就任したときの沖縄は、米ソ冷戦が本格化し、アメリカにとって軍事的重要度が増した時期でした。
そのような中で、アメリか民政府の下でとはいえ、初の公選制での市長に瀬長は就任したのです。
瀬長は1907年生まれ。戦前から共産主義運動に携わり、戦後は「うるま新報」(「琉球新報」の前身)の社長に就任したものの、政治活動に傾注し、沖縄人民党(現在の日本共産党沖縄県委員会)の結成に参加します。
戦前のみならず、戦後も共産主義者ということで、アメリカ軍に「危険人物」のレッテルを貼られ投獄される経験を持っていました。
そのため、1956年12月、那覇市長に選挙の末に当選を果たしたことはアメリカ民政府、というよりもアメリカ合衆国そのものにとって衝撃でした。
アメリカ本土の新聞に「RED MAJOR」(赤い市長)と露骨に書かれたのは何よりの証であっただろうし、民政府の圧力により就任翌日から沖縄の経済団体、企業、銀行といった資本が、市の財政への援助を取りやめを、県内の新聞で次々に告知するようになります。
那覇市にとってこの援助取りやめは、当時戦災からの復興にまい進していた流れの中で、非常に痛手となる、はずでありました。
なぜなら復興のための公共事業をストップせざるを得ないのですから。
しかしここで予期せぬ出来事が起こります。
この苦境の中、市民がこぞって納税に市役所に押しかけたのです。
少しでも瀬長による市政、市財政の助け、そしてストップした事業の再開を願っての行動でした。
納税のためにやってきた大勢の市民により市役所は混乱します。
だがこの結果、市民の納税率は96%に達し、公共事業は再開されました。
瀬長は言いました「世界中のどこにこのような市民がいるだろうか」と。

困ったのはこの「世界中のどこにもいない市民」により目論見を崩された民政府でありました。
そこで次の手として市会(市議会)の親米派に不信任案を上程させるように命じます。一回目は失敗しましたが、二回目は成功し、瀬長の市長就任の半年後にあたる、1957年の6月、市会は解散し、出直し選挙となります。
結果は人民党などの反米派が「民主主義擁護連絡協議会」(民団)を結成し、多数派の形成に成功し、またしても民政府の「瀬長外し」は阻止されます。
ちなみに民団は後の県知事選挙などに見られる革新共闘の礎となります。

窮地に立った民政府はなりふり構わず、最後の手段に出ます。
法律、ここでは民政府統治下の沖縄に敷かれていた、「市町村会議員及び市町村長選挙法」の改正に乗り出したのです。
瀬長のために「何人も重罪に処せられ、または破廉恥に関わる罪に処せられた者で、その特赦を受けていないものは、市町村長または市町村議員の被選挙権を有しない」という新たな文言を付け加えたのです。
瀬長は前述の通り、共産主義運動や人民党の結成に関わったことで、民政府に逮捕された経験があり、この文言の内容に該当します。
こうして瀬長は1957年11月、市長就任からわずか一年弱でその職を追われることになりました。

しかし瀬長は市長辞職の際、市民に向けて高らかに演説しました。
「私たちは負けたのでしょうか。私たちは勝ったのです。米軍は自分たちの民主的な法を切り崩すことを余儀なくされ、最後の手段を講じた。それは負けを認めたことなのです」

市長の座を辞した瀬長は、1967年にようやく本土への渡航が許されると、各地で沖縄の実情を訴え、本土復帰直前の1970年の国政参加選挙から1990年までの引退まで連続六期、沖縄選出の衆議院議員となります。
またこれと並行して、最後は委員長まで務めた沖縄人民党を本土復帰の際に日本共産党に合流させ、自身は議員引退まで党の副委員長…いわば「沖縄革新の顔」として働きました。
人柄もよく、2001年の死去まで、県内外・党内外から親しまれ続けました。、

…というところで、この続きは次の時間に。

それはそうと…ここへのクリック、本当にお願いします。
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…といったところで、次も乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第24回~還暦までの人々(2)~

2005-10-17 13:05:31 | 沖縄論第5章
(2、スタートにあるもの)
ひきつづきこんにちは。

今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読むこと、それから、ここへのクリックを1度といわず何度でもしてくださいという恒例のお願いをした上で…とっととはじめましょう!

この時間では、これから前の時間を受けて戦後史を進めていくのですが、その前にスタートとなる話を簡単にしたいと思います。

1945年、日本の無条件降伏を待つまでもなく、アメリカは沖縄戦で勝利し、戦災で荒廃した沖縄での統治を開始しました。
それが沖縄の戦後史のスタートでありました。

アメリカの国務省が中心になってつくった日本占領計画には「沖縄は在日朝鮮人と同じように日本から差別されているから、アメリカ側には協力的になるだろう」と書いてあります。
この楽観的予測を元に、アメリカ…沖縄にいたのは民政府であり駐留のアメリカ軍ですが…それらが沖縄の民衆に対峙したわけです。

確かに戦争で荒廃した沖縄の復興への道筋をつくったのはアメリカです。
しかし沖縄戦終盤から県内の各地に民間人の収容所を作り32万人を押し込め、終戦の翌年までアメリカ軍の指導の中で土木・生産作業に従事させた上に、台湾などからの引き揚げ者も含めた人々の多くは何ら財産を持つことを許されなかったのも事実です。
ここに沖縄の戦後史の出発点があります。

つまり、日本軍でないアメリカ軍の管理下だったわけです。
しかし戦前戦中の仕打ちを考えればまだ、マシではないのか…その意識が沖縄の民衆を覆っていました。
そして翌年には収容所が解放され、アメリカ軍に守られているという安心の中で新しい暮らしをはじめるのです。

ところがその安心が錯覚だったということに気がつくのに、それほど時間はかからりませんでした。
たとえば1953年には、アメリカ軍は軍用地の強制使用を定めた「土地収用令」を公布しました。
反対する住民の土地に対しては、軍用地の買い上げを示唆したりしたが、地代は極端に安く、住民の納得のできるものではありませんでした。
土地に関する闘争は翌年になると大きくなり、“島ぐるみ闘争”と呼ばれる、大規模なものへと発展していきます。
しかしこれに限らずアメリカ軍は兵士の不法行為も含め、住民の反感を買う行為を繰り返します。
第1章で紹介した手塚治虫の「海の姉弟」の話なども、ある意味いい例でしょう。

一方で、アメリカは巧妙な統治体制を沖縄に築いていきました。
1952年、琉球政府をアメリカ軍の指導の下樹立したのがそれです。
建前上は、アメリカや日本と同じ三権分立。
しかし政府トップである行政主席はアメリカ民政府による任命制であったし、琉球政府の承認なしに民瀬府が法律を勝手に作ることも許されていました。
民主主義など存在しなかったのです。

サンフランシスコ平和条約第3条の条文には、沖縄におけるアメリカの策謀…国連の信託統治領になるまでは統治すると定めてあります。
つまり、建前として、つなぎの役割だと国際的には強調しているのですが、実際はとなると信託統治領になどさせる気はなく、永続的な支配を狙っていたのです。
…というしたたかさの中で、沖縄の人々は翻弄されました。
しかし翻弄される中で、沖縄の民度は少しずつ成長をはじめるのでした。

さぁ、次回からこの章が本格的になっていきます。

それでは乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第23回~還暦までの人々(1)~

2005-10-17 12:08:56 | 沖縄論第5章
(1、プロローグ)
こんにちは。
今日から新しい章に入ります。
まぁほぼ後半戦に入ったと考えてもらって結構です。
改めてよろしくお願いします。

そういうことも含めながら諸連絡を。

今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それからここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。
先ほども言いましたが今日から後半戦です。
ビミョーな地位にいるため、佳境を迎えようとしている今、やはり存在を高めておきたいので是非是非お願いします。

2005年の今年、ご存知のように日本は戦後60年の節目を迎えています。
そしてこの講義を発信している北海道であろうと、この講義のテーマとしている沖縄であろうと、その節目への感慨はそれぞれにあるようです。

にもまして、60年というのは、人間で言えば「還暦」にあたります。
ということも含めての感慨もあるようで、テレビの特集などではその絡みで戦後を見つめなおす企画を目にします。
ならばと、私は戦後を人の人生というものに置き換えてみようと思い立ちましたみ。
1945年を出生とするならば、10代から20代とされる1955年から65年にかけて青春期があり、25歳前後の1970年ごろに結婚・就職などの転機で悩み、40歳前後の1985年ごろに不惑と言いながら現実には老いなどによる惑いの年齢を迎え、50歳前後の1995年ごろに還暦・定年を前にして自分を見つめなおし、そして60歳の還暦を2005年に迎える…といったところでしょうか。
そう考えると日本の戦後も、沖縄の戦後もこの置き換えにすんなりあてはまるような気がしてきます。

一方で沖縄の現状を考えるとき、どうしてもそこまでの歴史をたどらなければなりません。
しかしその作業は重く深い作業でもあります。
ここでは半ば乱暴ではありますが、「今」に直結する、沖縄の戦後政治史に的を絞ります。
しかしそれでもなお、重く深い作業にはかわりありません。

沖縄の戦後政治史と、本土のそれと明らかに違うのは、保守・革新の二者択一が極めて明確に存在し続けたということとその狭間で苦悩するリーダーがいたということです。
安易な保守・革新の相乗りで、生温くなった各地の地方行政や、密室政治がはびこってきた国政とは明らかに違うのです。

この章では、青春、苦悩、不惑、還暦直前…それぞれの節目にいたリーダーを取り上げながら、日本では、ともすれば「特異」とされてきた沖縄の戦後政治を見ていこうと思います。

それでは…乞うご期待。