羊蹄学園大学社会学部講義集

北の大地に突如としてできた架空の大学。
かつてないテーマで綴る社会学とは?

喜茂具理佐の沖縄論第17回~創価学会の沖縄席捲(6)~

2005-10-03 09:38:32 | 沖縄論第3章
(6、人の顔は見えないⅡ)
ひきつづきこんにちは。

まずは諸連絡。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから聴講生を一人でも多く増やすべくここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。
皆さんのワンクリックがこの講義の力になります。
よろしくおねがいします。

前の時間は、「ですが、知事選挙に限って言えば「基軸」と言って、旗幟を鮮明にしない行動はわかりにくいのも確かでしょう。この組織に座する人々は不可解と感じないのでしょうか。」と言って終わりました。
この時間はその続き…この疑問に私なりに考えてみます。

まぁそうですね…思えば、政教分離をここでは問う気はないものの、この政教分離とともに、創価学会は宗教団体としての組織の閉鎖性を問題視されることが多いとされています。
この県知事選挙もまた然りです。
組織でどういう力がはたらいて、「基軸」などというわかりにくい方針をとり、そして票集めをしたのかまったく見えてきません。
否、その前に末端の学会員、党員が見えてきません。
「基軸」などという曖昧模糊な言葉に、疑問を感じなかったのでしょうか。

だけれど、重ねて言いますがそういった末端の人間の顔は見えないし、声は聞こえてきません。

安見が創価学会を沖縄に広め始めたときを紐解けば、安見をはじめとする信仰に思い巡らす人間の様が外部にも知れ渡っています。
生活の苦しさの中で、村八分とされる覚悟で入信するのは二重の苦しみでありました。
だがその苦しみの中で生きた人々が、沖縄にある種の地殻変動をもたらせた。記録に残らないわけがないのです。

ところが今では…そういった末端の学会員の姿は、せいぜい学会内の機関紙で語られる程度です。
組織内で収められているだけなのです。
個々人の姿や個性が組織の中で埋没し、外部に見えてこないのです。
昨今のそうした創価学会・公明党の特徴が、この県知事選挙で如実に現れたのではないのでしょうか。

そして…2005年9月11日、自民党圧勝、民主党激減と言う総選挙の結果の中で、連立の一翼を担う公明党は2議席減となりました。
2議席減のうち1議席は小選挙区沖縄1区の現職、白保台一氏の落選によるものです。
勝ったのは元職で無所属、民主党推薦の下地幹郎氏。

下地氏はもともと自民党の議員でしたが、党本部が公明党との連立を重視した結果、前回の選挙では公認をはずされ落選、公明党の白保氏の当選を許しますが、自民党を離党した今回は地道な運動で当選を勝ち得ることに相成りました。
私は下地氏の復活は、田中角栄→竹下登→野中広務→鈴木宗男→下地氏という系譜である以上、他の政治家にはない、他を圧倒的にしのぐ利益誘導を軸にした情念と、その情念が自民党にくっついた、この数年のいびつな沖縄の公明党の有り様にどこか県民が疑問や反感を掘り起こしたことで、予想外の当選と言う結果をもたらしたと私はとらえています。

しかし、やはり重ねて言いますが沖縄の創価学会は一粒種によって、辛苦の末に華開いた歴史がある、これも事実です。
この歴史に学び、今一度、ともすれば県内政治情勢すら左右するこの組織に座する人々に対し、組織とうまく距離をとって意志・表現・行動を見せてほしいと思うのは、私だけでしょうか。
それがあるべき姿なのでは、と思うのです。
組織としても人としても。

今のままでは属する人間の顔が見えてきません。

ここが大事です。
何に束縛されることなく、個のきらめき…個人の才覚でこのご時勢に「沖縄」を発信する人はいるのか、顔の見えることをしている人はどれほどいるのかと、思うようになりました。

いや、確かにいるのです。
しかしうまいバランス感覚や距離感で沖縄と向き合うところまではなかなかいかないのも事実で、どうしても本土や沖縄にある「何かしらの大きな波」に飲み込まれてしまっているようです。

今日でこの章を終え、次からは新しい章に入ります。
そこでは類まれなバランス感覚を持ち、しかも個人の才覚で沖縄を発信する人を取り上げようと思いますが…悲しい現実もまた転がっています。

そういうことをテーマに次回からは新章「ある琉歌とその周縁」に入ります。

では…乞うご期待。


喜茂具理佐の沖縄論第16回~創価学会の沖縄席捲(5)~

2005-10-03 09:37:53 | 沖縄論第3章
(5、人の顔は見えないⅠ)
こんにちは。

まずはいつもどおりの諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから、聴講生は一人でも多いほうがいいということで、毎回たくさんここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください、とお願いしています。
「やはり」というか、「意外」というか、とにかくここの位置がビミョーですので、重ねてお願い申し上げます。

でははじめます。

この時間では、前回の最後で言ったように、今日の沖縄の創価学会・公明党には、草創期にあるような“個のきらめき”があるのか?ここに焦点を当てていきます。

それをどこで推し量るか。
それには彼らが最近で最もクローズアップされたのはいつなのかを見ればいいのですが…それはやはり、一九九八年の県知事選挙と言えるでしょう。

この県知事選挙の詳細については後の章でも触れるのですが、とにかく当初は圧勝の予測すらあった、革新陣営の推す現職の大田昌秀が、自民党の推す新人の稲嶺恵一の当選を許し幕を閉じます。

公明党は従来から県知事選挙のたびに、革新陣営の推す候補を単独支持し、支持母体とされる創価学会が独自の支援行動を展開してきました。
それは革新陣営とは直接の距離を置いたスタンスではあったものの、運動の広がりを作ったことは事実で、保守陣営に勝利するための力の源泉のひとつとなってきました。
ところが、この選挙では公明党は「大田支持」を表明せず、かわりに「大田支持を基軸に一部党内事情に配慮し、その部分については自主判断にゆだねる」という曖昧なものに変容しました。
これは当然、革新陣営に対する公明党・創価学会の支援体制が後退したことを意味しました。
現に、選挙期間中に地元選出の国会議員による大田知事への応援演説はあったものの、一方で稲嶺の選対本部には「公明党」の応援を思わせる紙が張られていたのです。

そして結果、大田は稲嶺に三万票以上の差をつけられ、落選します。
大田側に元来の支持者・支持団体の足並みの乱れがあったのは事実です。
しかし全国区の知名度を誇る大田が、前回選挙より票を上積みしたのにも関わらず落選したのは、不可解と言えば不可解です。
ちなみに、公明党の県内の基礎表は約六万と言われています。
私の友人はこの結果を見て「創価学会による沖縄クーデター」と評しました。

不可解ではありましたが、しかしこの創価学会・公明党の動きは突然のものではありませんでした。
たとえばこの知事選の直前にあった沖縄市長選挙で、それまで革新陣営の現職を推すと思われていた公明党は保守陣営の候補を推すなど、この県知事選挙につながるような兆候はあったのですから。
かてて加えて、中央では公明党と自民党による連立政権が発足していました。
そう…中央と地方との整合性をつけるために、沖縄でも自民党の推す候補の支援にまわるのはある意味、自然なことだったのです。
公明党にしてみれば。

ですが、知事選挙に限って言えば「基軸」と言って、旗幟を鮮明にしない行動はわかりにくいのも確かでしょう。
この組織に座する人々は不可解と感じないのでしょうか。

…という個人的疑問を次の時間は私なりに考えてみようと思います。

では乞うご期待。



喜茂具理佐の沖縄論第15回~創価学会の沖縄席捲(4)~

2005-09-29 09:57:29 | 沖縄論第3章
(4、一粒種からの教団Ⅱ)
ひきつづきこんにちは。

まずは毎度おなじみの諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから前の時間にも言いましたが、強力に聴講生を一人でも多く増やすべくここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。
このブログの内容が内容だけに、キツイ側面もありますがよろしくお願いします。

それでははじめます。

前の時間では表層の沖縄の創価学会・公明党の歴史を大雑把ではありますがたどってみました。
しかしその歴史や記録を見たとき、実は最も目を引くのは、表層ではなく個人的には創価学会と沖縄の土着信仰の対峙ではないかと思います。

たとえば“ユタ”との対峙。
今でこそ学会員にも”ユタ“である人間がいるようになったようですが、そのようになったのは、折伏と呼ばれる強力な布教活動による一方で、”ユタ“の側が創価学会の熱心さに、”ユタ“の力が感応したということもあるようです。
また離島への創価学会伝播により、一九六四年ごろから”アカマタ“の盛んな宮古島などでのトラブルもあったようです。
まぁ、先祖伝来とはいえ、”アカマタ“はそもそも現代には似つかわしい閉鎖性のある行事です。
そのため外部の人間が入り込むことを極端に嫌います。
それが“ヤマト”的なるものの流入があれば尚更でしょう。
だが最も“アカマタ”をやる側が嫌うのは、門外不出のこの行事の内容が外部に漏れることでした。
そのため、にわかに地域の行事に加わらない創価学会の会員が宮古島でも増えたのを受け、彼らに“アカマタの秘密は外に漏らさない”という誓約書を書くように求め、更にはこのことが発端となって、警官隊も巻き込んだ投石騒ぎに発展したという記録が残っています。
それでなくても学会員は少数派のため、村八分状態になることが多かったようです。
特にサトウキビの共同刈り取りというこの地域ならではの、生活の根幹に関わる行事に参加できず、一時期は会員の減少もあったという。やがて学会員は拡大していくが、それでもこういった確執が薄れたのは、八〇年代に入ってからと言われています。

…創価学会は、日蓮正宗の檀家団体として仏教を標榜しているものの、本土ですら新宗教…の類であり、一九六〇年ごろなどは特に得体の知れない存在でありました。
しかしそのような中、沖縄でも、地域としての難しさを抱えながら本土並みに創価学会は定着しました。
確かに歴史を学ぶと、混乱期にはよく人々は不安から新しいものに縋りたがる傾向にあるようで、その結果として新興宗教や新宗教がはびこるといわれています。
そう考えれば、安見が創価学会を伝播した時期も、復興の時期とはいえ、まだまだ沖縄が大変な時期だったことからこの例に当てはまるかもしれません。
しかし、私は思うのです。
ただでさえ、世界的にも数奇な立場、数奇な運命にあり、そしてなおかつ混乱していた沖縄で、この新興宗教団体が定立したのは、やはり「ものすごいこと」ではないかと。
それは、教義をすごいというのではなく、学会で言うところの“一粒種”…すなわち、ただの個人から広まったということが、です。
そこには教団とか組織とか団体とか徒党のにおいが全くなく、個人が個人の思いだけで動き働き広めたという、地味で地道ではあるけれども、人間の行いとしては非常に健全で美しい”個のきらめき“があり、その“個のきらめき”で世界的な苦難の地域での布教を成功させたという事実があるからこそ「すごい」という思いが湧きあがるのだと思います。

では、その「個のきらめき」が今もなお沖縄の創価学会・公明党にあるのでしょうか…といきたいところですが、それは次回にします。

ちなみに今日の講義内容だと、私のことを創価学会員とおもうひとがいるかもしれませんが、学会員ではありませんので、あしからず。

それでは、次回も乞うご期待。


喜茂具理佐の沖縄論第14回~創価学会の沖縄席捲(3)~

2005-09-29 09:55:57 | 沖縄論第3章
(3、一粒種からの教団Ⅰ)
こんにちは。

まずはいつもどおり諸連絡からです。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから、聴講生は一人でも多いほうがいいということで、毎回たくさんここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください、とお願いしています。
回を重ねるごとに物議を醸しそうな内容になっているので、特にここへのクリックをお願いしたいと思います。

では、はじめていきましょう。
前の時間は、新しい章に入るにあたってのイントロダクションでしたが、今回はいよいよ沖縄と創価学会の対峙について話を進めていきます。

創価学会が沖縄にはじめて流入したのは1954年…まだ沖縄は米軍統治下で…そうですね、ちょうど米軍への不満が高まり沖縄全土で“島ぐるみ闘争”が起こった頃です。
で、沖縄の創価学会の話を進める上で、まず特徴的なのは最初に沖縄に創価学会の教えを伝えた創価学会員(学会員)は、幹部や布教することを専門的にやっている立場の人間ではなく、ただの商売を営む一般の会員だったという点なんですね。
学会に限らず、このような人のことを"一粒種“と呼ぶことが多いのですが、その上すごいのは一粒種であることだけでなく、その人が創価学会の会員になったのは沖縄に上陸する二週間前…いわば学会の初心者・新参者の類であったということなのです。
1954年の8月20日に創価学会に入信し、そして、商売を興すためその5日後に横浜港から沖縄行きの船に乗り込み、船中で教義の柱となっている文献を読み込み、9月3日那覇に到着した…というのが入信から上陸までの流れです。
ちなみに沖縄に足を踏み入れたのははじめてです。
当然、本土復帰前なので彼は日本の外に足を踏み入れたことにもなるわけです。
その上彼は何の肩書きも無い、末端の学会員にすぎなかったわけです。
彼は直ちに那覇の国際通り沿いに店を構え、新生活をスタートさせます。
それは同時に一粒種としてのスタートでもあったわけです。

無論、その時は最初ですから沖縄の創価学会員はゼロです。
しかし安見は奔走します。
奔走した結果、1年半で120世帯、4年後には4000世帯の入信を獲得します。
そしてこれは周辺の離島にも普及します。
たとえば、五年後の1959年には久米島には、安見のような一粒種によって創価学会の教えの伝播が早くも始まったことがそうです。
しかし伸長著しい一方で、この頃沖縄の創価学会が様々な苦難にさいなまされたのも事実です。
それは中央(東京)の創価学会の苦難ともリンクしていました。

例えば1958年には、創価学会2代目会長の戸田城聖が死去し、トップである会長のの座が空白となります。
それはちょうど、沖縄の創価学会が軌道に乗り始めた時期と一致するのですが…東京のトップが空白のため、本部の指示や指導を仰ぎたくてもなかなかできない状態になったわけです。
そのため安見は自腹で東京の本部に海を越えて押しかけます。
安見自身も二年目には事業が失敗し一文無しになるなど、そうでなくてもこの当時の沖縄の人々の暮らしは貧しいものでした。
しかしそのような中でも安見を先頭に沖縄の創価学会の伝播は本島だけでなく、離島にも行き渡っていったのでした。

その広がりが大きく、創価学会本部から認められるようになります。
1960年7月、第三代会長に就任し、直ちに全国行脚を開始した池田大作が沖縄を初訪問します。
その際、池田は安見に沖縄支部創設の話を持ちかけ、安見は初代支部長に就任します。
創価学会本部、というより池田にとって沖縄への思い入れはあるようで、1964年の再訪問時には池田は先代の会長、戸田城聖の伝記、というより創価学会のバイブル的存在である「人間革命」の執筆をこの沖縄で開始、巻頭の「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」を、沖縄の創価学会の施設で書いたと言われています。

一方で政教分離の指摘を受けながらも、本土のほかの地域と同じく、政界進出も果たします。
1961年に公明会を沖縄でも結成し、本土復帰直前の1970年2月に本土の公明党の地方組織扱いとなり、1976年に玉城栄一氏が衆議院に当選し、念願の国政進出を果たします。
安見も参議院議員となっています。
政治スタンスとしては創始から稲嶺惠一が現知事となるまでは、中道よりは革新陣営側に位置していましたが、現在は国政と同じく自民党ともに保守陣営の側についており、どの選挙においてもコンスタントに国会議員・や自治体議員を輩出し、当選させています。

…とまぁこれが、大雑把ですが沖縄の創価学会と公明党の表層的なれきしとなります。

では、表層でない部分ではどうだったか。
次の時間はそこに触れようと思います。

では…乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第13回~創価学会の沖縄席捲(2)~

2005-09-26 09:39:07 | 沖縄論第3章
(2、沖縄の信仰)
ひきつづきこんにちは。

まずは恒例の諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから前の時間にも言いましたが、強力に聴講生を一人でも多く増やすべくここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。
伏してお願いします。

あぁ…それから、コメント欄で書き込みをいただいています。
これについてはブログの反応を見る上でも役立っており、感謝しています。
なお、書き込みの文面が長くなるようでしたらメールでも構いません。
dohkun@mail.goo.ne.jpまで、送ってください。

では、はじめます。
前回は新しい章に入るにあたっての私の感慨を述べてみました。
ということで今回はいよいよ創価学会について…としたいのですが、その前提として、非常に大雑把ではありますが、この時間では沖縄の信仰を取り上げていこうと思います。

ちなみにこれからこの時間で話していくことはあくまで概略で、相当不足していることがあると思います。
しかしそれでも本土とは違う、独特の文化を持つ沖縄の一端が宗教の面においても見受けられます。
先祖伝来の傾向が強い土地柄であるため、それを宗教にも取り込んでいるというところがまずそうです。
たとえば、トートーメという位牌を門中…門中というのは一族の単位のことですが…で代々継承し、祈りの対象として拝むのもそのひとつでしょう。
また旧暦をベースに神人…カミンチュと呼ばれていますが、その人たちが中心となって祭事が行われ、霊媒師のユタが人々の悩みを聞き、占いごとをしたりします。
このユタの力によって、先祖の供養が十分に行き届いているかを確認したりもします。また自分の悩みの解決を願うことを“ユタを買う”といいます。
他方、石垣島など八重山地方は、沖縄の中でも民俗学的に独自の文化が残っていて、伝統芸能や祭りが特に盛んな地域と言われています。
中でも“アカマタ”と呼ばれる来訪神信仰の祭りがあり、そこでは海の彼方にあるニライカナイ…理想の地とでも言いますか…そこから稲の豊作をもたらす神がやってくると信じられていました。
またこの儀式は地元の人間だけが参加することができ、そこでの出来事は村以外の人間に語ってはいけないとされていました。

外来からの宗教はというと、たとえば仏教は本土から、中世の頃に中継貿易の全盛とともに流入してきましたが、そのほとんどが禅宗であり、また琉球王国の王族など支配層の信仰にとどまりました。
民衆には民衆の土着の信仰があったから、というのがその原因のようです。

このような歴史の末、戦後の復興期に、当時はまだ本土の新興宗教団体に過ぎなかった創価学会の教えが流入してきました。
それは沖縄の人々にしてみれば異質なヤマト神であり、信仰としてなじまないはずであったわけですが…この先の話は次の講義にしましょう。

では、次回も乞うご期待。


喜茂具理佐の沖縄論第12回~創価学会の沖縄席捲(1)~

2005-09-26 08:52:46 | 沖縄論第3章
(1、プロローグ)
こんにちは。

まずはいつもどおり諸連絡からです。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから、今回から新しい段階に入ります。
しかも非常にクセのある内容です。
そのため今後は、このブログの存在が極端に低下する可能性もあります。
聴講生は一人でも多いほうがいいということで、毎回たくさんここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください、とお願いしていますが、今日からはいつもにも増して、ここへのクリックをお願いしたいと思います。

ということで!
新しい章に入るのですが…まずはそれに先駆けて私の個人的な話をこの時間でしたいと思います。
実は私は大学時代、創価学会員の友人との語らいに多く時間を費やしました。
彼は真摯に、それでいて熱く信仰の炎を燃え滾らせていて、私にも何度か入信を勧めました。
私は、そんな彼の折伏に対し、彼に負けず劣らずの口上とそしてハッタリで、撥ね退け、私は入信することなく今日を迎えています。
しかし創価学会を賞賛するニュースを耳に入れただけで、問答無用に拒絶するようなアレルギーがあるわけではありません。
だけど誤解しないでほしいのは、だからと言って、創価学会に対する最近の雑誌記事などを否定する気もないということです。
いい子ぶる気はないですが、創価学会に対する私の視座は要するに中立・中性だと思っている。
もっと言えば、そうです、ただ単に興味があるだけなのです。

ではどこに興味深さを感じたか…たとえば、社会そのものの前進のみならず、個々人の前進すらないものとあきらめのムードが漂う最近の時勢において、あれだけそのあきらめに対し、束になって抵抗しようとする姿勢を見たからだったり。
また、それは「現世利益」という教義が私の興味を発生させているのかもしれません。
いやもしかしたらよく言われる池田大作という個人への崇拝が原因としてあるのかもしれませんし、はたまた政教分離などといった外部からの学会攻撃を跳ね返す力の強さを目の当たりにして興味が沸き起こったのかもしれません。
いずれしても、一言で言ってすごいのです、あの教団は。
すごくて新鮮だからこそひきつけられ、興味がわいたのです。

でもそもそもの興味の源は、創価学会に限らず宗教や思想を支えるパワー…あくまで他者を制圧する「力」ではなく、他者に訴える「情念」や「情熱」と言った類に限定しているものだけれど、とにかくその類に対してのものだなと私は思います。

そのような大学時代の一片が、ライフワークとしていた沖縄論とクロスしたのは、今思えば全くの偶然でした。
特に沖縄についての見聞をしている最中、沖縄県知事選挙での現職・大田昌秀氏の落選は、有利と言われていたのになぜ?との思いを持たせました。
そしてそれをよくよく分析するとその落選の原因の一端に、公明党・創価学会の動きがあったことを知りました。
後ほど、この講義でも大田の落選について触れていきますが、その前に私はその時、ふとこの直近の事態よりもあることに疑問にたどりつきました。

「沖縄の創価学会」とはどのようなものだろと。
世界中にあるといわれている創価学会ですが、しかし広宣流布のためとはいえ、土着信仰の強い国や地域、とりわけ今でこそ日本国の扱いだが、日本本土とは明らかな運命をたどり全く違う文化を持つ沖縄での広宣流布はどうだったのだろうと。
日本の他地域の創価学会同様の存在感を、沖縄でもまた示すことができているのであろうか。
いやできているとしてそこにたどり着くまでの道のりはどのようなものだったのだろうか。
沖縄の土着信仰や地域性を知る上でも私はこのことについて探求しようと思い立ちました。

ここではこうした経緯…あくまで私の個人的な話からですが…とにもかくにも沖縄の創価学会・公明党そのものについてこの章では見ていきます。
なお、巷で言われている、創価学会と公明党の政教分離の是非などについては、かなり無理があるかもしれませんが触れないし、問わないし、考えないし、ないものとします。
それについて問うことはここでのテーマに沿わないという私の判断からです。
ご了承ください。
とにかく沖縄の創価学会や公明党はどのような道のりをたどってきたか、その時従来の沖縄の宗教はどう彼らに向き合ったか、ここに焦点を絞って進めていきます。
なおその一方で、ご存知の通り先日…9月11日の総選挙の結果、沖縄の公明党は新たな局面を迎えました。
これについては、まだ私なりの検証はできていませんが、しかし極力出来うる限り触れようと思います。

…とにもかくにも、こうした私の感慨をベースにこの章は進んで行きます。

それでは、次の時間も乞うご期待。