(廃止への軌跡)
こんにちは、西日暮里です。
申し訳ないことに少し間が空いてしまいました。
さぼっていたわけではありません。
資料収集に手間取っていたわけで…
たとえば、です。
先日(5月30日)の北海道新聞、ご覧になりましたか?
道北の美幸線跡に銀河線を走らせようと計画、なんて記事がありましたね。
さぞかし銀河線ファンを名乗る方々は「よみがえる銀河線」などと言って喜んでいることでしょう。
まったく、おめでたい話です。
だってそうでしょう?廃止してから何を大騒ぎしているんだって、私は言いたい。
そんな大騒ぎするエネルギーがあるなら、常日頃からやってほしいものです。
何を今更ですよ。
…なぁんて記事に一喜一憂しておりました。
…ということで、廃止までにどんな動きがあったのかを今日は見るわけですが…。今日はひとつ「テキスト」を使います。
それは十勝毎日新聞の昨年12月23日の記事です。
そこには1年間、銀河線の廃止経緯を追った古川雄介記者の記録が綴られています。
硬い表情の沿線首長、詰め掛けた傍聴人、林立する報道関係のカメラ-。最終決定が下された3月27日、第13回ふるさと銀河線関係者協議会の会場となった北見市内のホテルは緊張感で異様なムードに包まれた。しかし、その光景にはどこかしらじらしさが感じられ、“廃止”決定も「やはりか」と冷静に受け止められた。「協議は廃止のためのプロセスにすぎず、結論は既に見えていた」。そんな思いがあったからだ。(中略)
協議は回数を重ねるたびに道と存続を望む自治体の思惑がずれ、平行線をたどる議論を歯がゆい思いで聞いた。今年2月21日に陸別で開かれた「存続大集会」には沿線住民ら1400人が集まり「住民の足を守れ」と大合唱、東京の経営コンサルタントらによる新たな経営計画案も浮上し、私も逐一動きを追った。
それでも廃止に向けたカウントダウンは止まることはなかった。もちろん、経営の財政的な限界を知れば、「客が乗らず金がないなら廃止しかない」と考えるのは仕方のないことかもしれない。沿線住民以外の多くの人はそう考えていたのではないか。
つまりこの地域は既成事実の前に抵抗することなく一直線…つまり「地域力」に乏しいというわけですね。
抵抗しない割には後悔云々がある。
■お年寄りの嘆き
一方で、記者としては、住民の思いや願いを紙面で伝え切れたのかという反省と、道が主導して突き進んだ廃止への既定路線に何の変化ももたらすことができなかった無力感が残った。
廃止まで残り約4カ月、きょうも銀河線はコトコトと走り続けている。その姿を見ながら、鉄路の消えた町がどんな未来をたどるのかと考える。最近、足寄の町民からも「やはり寂しいね」と耳にすることが多くなり、バス転換後を心配するお年寄りの嘆きも聞いた。廃止は本当に「やむを得ない」結果だったのか、関係者や私たちは「最大限の努力」をしたのかと葛藤(かっとう)している。
■残された悔い
存廃議論の座長を務めた道の吉田洋一企画振興部長は、今月17日に北見市で開かれたバス転換に関する会議後、「たった2年の協議で重大な結論を出したといわれるが、その前に十分な時間があったのに無駄にした。地元も道も積極的にイニシアチブを取るべきだった」と反省を込めて語った。赤字前提の鉄道運営に誰もが限界を感じていたのなら、打つべき手はなかったのか。今さらながら悔やまれる。
(以下略)
後悔を言うのなら、なぜ日ごろから…の心境が残ります。
なぜ日頃から声を出し、行動をしてこなかったのでしょうか。
それはひとえにこの地域が潜在的なそして根本的な問題を抱えているわけでして。
そうなんです、この講義がただの銀河線愛好論で済まないのはそこなんです。
銀河線を支えるべきだったこの地域の特性にも触れる、ここがミソなんです。
次回からはもっともっと詳しくこの地域を洗い出していきます。
それでは、西日暮里でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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こんにちは、西日暮里です。
申し訳ないことに少し間が空いてしまいました。
さぼっていたわけではありません。
資料収集に手間取っていたわけで…
たとえば、です。
先日(5月30日)の北海道新聞、ご覧になりましたか?
道北の美幸線跡に銀河線を走らせようと計画、なんて記事がありましたね。
さぞかし銀河線ファンを名乗る方々は「よみがえる銀河線」などと言って喜んでいることでしょう。
まったく、おめでたい話です。
だってそうでしょう?廃止してから何を大騒ぎしているんだって、私は言いたい。
そんな大騒ぎするエネルギーがあるなら、常日頃からやってほしいものです。
何を今更ですよ。
…なぁんて記事に一喜一憂しておりました。
…ということで、廃止までにどんな動きがあったのかを今日は見るわけですが…。今日はひとつ「テキスト」を使います。
それは十勝毎日新聞の昨年12月23日の記事です。
そこには1年間、銀河線の廃止経緯を追った古川雄介記者の記録が綴られています。
硬い表情の沿線首長、詰め掛けた傍聴人、林立する報道関係のカメラ-。最終決定が下された3月27日、第13回ふるさと銀河線関係者協議会の会場となった北見市内のホテルは緊張感で異様なムードに包まれた。しかし、その光景にはどこかしらじらしさが感じられ、“廃止”決定も「やはりか」と冷静に受け止められた。「協議は廃止のためのプロセスにすぎず、結論は既に見えていた」。そんな思いがあったからだ。(中略)
協議は回数を重ねるたびに道と存続を望む自治体の思惑がずれ、平行線をたどる議論を歯がゆい思いで聞いた。今年2月21日に陸別で開かれた「存続大集会」には沿線住民ら1400人が集まり「住民の足を守れ」と大合唱、東京の経営コンサルタントらによる新たな経営計画案も浮上し、私も逐一動きを追った。
それでも廃止に向けたカウントダウンは止まることはなかった。もちろん、経営の財政的な限界を知れば、「客が乗らず金がないなら廃止しかない」と考えるのは仕方のないことかもしれない。沿線住民以外の多くの人はそう考えていたのではないか。
つまりこの地域は既成事実の前に抵抗することなく一直線…つまり「地域力」に乏しいというわけですね。
抵抗しない割には後悔云々がある。
■お年寄りの嘆き
一方で、記者としては、住民の思いや願いを紙面で伝え切れたのかという反省と、道が主導して突き進んだ廃止への既定路線に何の変化ももたらすことができなかった無力感が残った。
廃止まで残り約4カ月、きょうも銀河線はコトコトと走り続けている。その姿を見ながら、鉄路の消えた町がどんな未来をたどるのかと考える。最近、足寄の町民からも「やはり寂しいね」と耳にすることが多くなり、バス転換後を心配するお年寄りの嘆きも聞いた。廃止は本当に「やむを得ない」結果だったのか、関係者や私たちは「最大限の努力」をしたのかと葛藤(かっとう)している。
■残された悔い
存廃議論の座長を務めた道の吉田洋一企画振興部長は、今月17日に北見市で開かれたバス転換に関する会議後、「たった2年の協議で重大な結論を出したといわれるが、その前に十分な時間があったのに無駄にした。地元も道も積極的にイニシアチブを取るべきだった」と反省を込めて語った。赤字前提の鉄道運営に誰もが限界を感じていたのなら、打つべき手はなかったのか。今さらながら悔やまれる。
(以下略)
後悔を言うのなら、なぜ日ごろから…の心境が残ります。
なぜ日頃から声を出し、行動をしてこなかったのでしょうか。
それはひとえにこの地域が潜在的なそして根本的な問題を抱えているわけでして。
そうなんです、この講義がただの銀河線愛好論で済まないのはそこなんです。
銀河線を支えるべきだったこの地域の特性にも触れる、ここがミソなんです。
次回からはもっともっと詳しくこの地域を洗い出していきます。
それでは、西日暮里でした。
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