羊蹄学園大学社会学部講義集

北の大地に突如としてできた架空の大学。
かつてないテーマで綴る社会学とは?

さらば銀河鉄道7・歴史編(2)

2006-06-13 11:52:39 | 銀河線歴史編
(廃止への軌跡)
こんにちは、西日暮里です。

申し訳ないことに少し間が空いてしまいました。
さぼっていたわけではありません。
資料収集に手間取っていたわけで…

たとえば、です。
先日(5月30日)の北海道新聞、ご覧になりましたか?
道北の美幸線跡に銀河線を走らせようと計画、なんて記事がありましたね。
さぞかし銀河線ファンを名乗る方々は「よみがえる銀河線」などと言って喜んでいることでしょう。

まったく、おめでたい話です。
だってそうでしょう?廃止してから何を大騒ぎしているんだって、私は言いたい。
そんな大騒ぎするエネルギーがあるなら、常日頃からやってほしいものです。
何を今更ですよ。

…なぁんて記事に一喜一憂しておりました。

…ということで、廃止までにどんな動きがあったのかを今日は見るわけですが…。今日はひとつ「テキスト」を使います。
それは十勝毎日新聞の昨年12月23日の記事です。
そこには1年間、銀河線の廃止経緯を追った古川雄介記者の記録が綴られています。

硬い表情の沿線首長、詰め掛けた傍聴人、林立する報道関係のカメラ-。最終決定が下された3月27日、第13回ふるさと銀河線関係者協議会の会場となった北見市内のホテルは緊張感で異様なムードに包まれた。しかし、その光景にはどこかしらじらしさが感じられ、“廃止”決定も「やはりか」と冷静に受け止められた。「協議は廃止のためのプロセスにすぎず、結論は既に見えていた」。そんな思いがあったからだ。(中略)
協議は回数を重ねるたびに道と存続を望む自治体の思惑がずれ、平行線をたどる議論を歯がゆい思いで聞いた。今年2月21日に陸別で開かれた「存続大集会」には沿線住民ら1400人が集まり「住民の足を守れ」と大合唱、東京の経営コンサルタントらによる新たな経営計画案も浮上し、私も逐一動きを追った。
それでも廃止に向けたカウントダウンは止まることはなかった。もちろん、経営の財政的な限界を知れば、「客が乗らず金がないなら廃止しかない」と考えるのは仕方のないことかもしれない。沿線住民以外の多くの人はそう考えていたのではないか。


つまりこの地域は既成事実の前に抵抗することなく一直線…つまり「地域力」に乏しいというわけですね。
抵抗しない割には後悔云々がある。

■お年寄りの嘆き
一方で、記者としては、住民の思いや願いを紙面で伝え切れたのかという反省と、道が主導して突き進んだ廃止への既定路線に何の変化ももたらすことができなかった無力感が残った。

廃止まで残り約4カ月、きょうも銀河線はコトコトと走り続けている。その姿を見ながら、鉄路の消えた町がどんな未来をたどるのかと考える。最近、足寄の町民からも「やはり寂しいね」と耳にすることが多くなり、バス転換後を心配するお年寄りの嘆きも聞いた。廃止は本当に「やむを得ない」結果だったのか、関係者や私たちは「最大限の努力」をしたのかと葛藤(かっとう)している。

■残された悔い
存廃議論の座長を務めた道の吉田洋一企画振興部長は、今月17日に北見市で開かれたバス転換に関する会議後、「たった2年の協議で重大な結論を出したといわれるが、その前に十分な時間があったのに無駄にした。地元も道も積極的にイニシアチブを取るべきだった」と反省を込めて語った。赤字前提の鉄道運営に誰もが限界を感じていたのなら、打つべき手はなかったのか。今さらながら悔やまれる。
(以下略)


後悔を言うのなら、なぜ日ごろから…の心境が残ります。
なぜ日頃から声を出し、行動をしてこなかったのでしょうか。
それはひとえにこの地域が潜在的なそして根本的な問題を抱えているわけでして。

そうなんです、この講義がただの銀河線愛好論で済まないのはそこなんです。
銀河線を支えるべきだったこの地域の特性にも触れる、ここがミソなんです。

次回からはもっともっと詳しくこの地域を洗い出していきます。

それでは、西日暮里でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
初めての人は→オリエンテーション
この講義の存在を高めてください→人気ブログランキング




さらば銀河鉄道6・歴史編(1)

2006-05-23 12:56:16 | 銀河線歴史編
(延命、そして今日までの道筋)
こんにちは西日暮里です。

今日からは銀河線の歴史にふれていきます。

ふるさと銀河線は、池北高原鉄道という第3セクターの会社が運営しています。
第3セクターによる鉄道経営は、北海道では唯一です。
そもそもJR以外の、私鉄の概念があまりない北海道にとって、第3セクターとはいえ、JRの会社がこれだけの長距離鉄道路線を運営するのは奇異にすら感じます。
そう…「銀河線」は、非常に「裏」の事情のある中で産声をあげたのです。

今日はまず、その「銀河線」の前身である、国鉄池北線の歴史、そして第3セクターとなる流れをたどっていきます。

銀河線の前身、国鉄池北線の開業は1910(明治42)年。
札幌と野付牛(今の北見)や網走を結ぶ、国鉄網走線(網走本線)として、池田から陸別の間が一部開通したことがそのはじまりです。
翌年には野付牛までの開通を果たします(これが池北線の全面開業となるのだが、当時は網走本線だったのでこの翌年の網走までの開通で全面開業となった)。

開業時の池北線は、現行の石北本線が難工事のため開通していないということで、道都・札幌と道東地方の主要地域である野付牛(のちの北見)・網走を結ぶルート、つまり幹線、北海道の大動脈の扱いを受けていました。
しかし1932(昭和5)年に旭川からの石北線(石北本線)が野付牛まで開通し、翌々年に全線開通すると札幌と北見・網走を走る列車の多くは距離の短い上川・遠軽周りを通るようになり、メインルートから外れた池北線はしだいに重要度を落とし、ただのローカル線扱いされるようになります。
ただそれでも当時の沿線は特に、置戸・陸別・本別が林業で栄えていたため木材運搬で活況を呈しその恩恵を受けていました。
ですがそれもやがて乱伐や安い輸入木材の登場で林業は衰退し、地方の鉄道路線の共通する問題であるモータリゼーション化・過疎化にも悩まされ、第二次の特定地方交通線の指定を受け、池北線はますますその重要度を下げていくことになります。
1961(昭和36)年には、線路名称の変更が行われ、石北線が石北本線と「本線」の名称がつくようになり、池田から北見の間は池北線とされます(同じ網走本線だった北見から網走の間は石北本線の一部となる)。

著しく存在感が低下する池北線。しかしながら翻れば北海道、ひいては日本の各所でも同じような赤字ローカル路線が、年々増えるようになり、そしてその最中、国鉄の民営化、すなわちJRへの移行が中曽根内閣によって決定されるに至ります。

国鉄民営化の話が進むにつれて、不採算路線を多く抱える国内、とりわけ北海道の鉄道路線をどうするかがひとつの問題となりました。
JRがJRとしての経営をできるだけ障害なく行うためには、とにかくJR移行前に、できるだけ赤字ローカル線に対して一定の区切り・方向性を示さなければならなくなったからです。

そしてまずその遡上に上がったのは名寄本線(名寄~紋別~遠軽)、標津線(標津~中標津~標茶、中標津~根室市厚床)、天北線(稚内~浜頓別~音威子府)、そして北見~池田間の池北線、この4本の国鉄路線が廃止するか否かの決断を迫られることになりました。
地図で見るとわかると思いますが、どれも札幌から遠くはなれた、最果ての鉄道路線です。
どの路線の地域も、過疎化が進んで乗客が激減し、採算がとれなくなっていました。
何より採算が取れないのもそうですが、どれも100km超の長距離路線です。
そのため「長大四線」と呼ばれるくらい、クローズアップされました。

粘り強い存続運動が展開されました。
しかし長大四線は1984(昭和59)年、廃止承認を保留されたものの第2次特定地方交通線の扱いとなり、翌年廃止承認、ということになります。

1987(昭和62)年、JRが発足。
池北線を含む長大四線も国鉄から承継されたものの、廃止決定の運命は変わりませんでした。
しかしこの最中、池北線のみ北海道初の第3セクター鉄道として再出発することになります。
そこには住民の根強い存続運動があった…ということになっていますが、しかしたとえばカリスマ性を兼ね備えた運動の先頭に立つ人間がいたわけではありません。
それなのになぜ、存続に至ったか、その点の考証は後ほどにして、とにもかくにも池北線は紆余曲折の末、生き残ることになりました。

そして1989(平成元)年6月1日、池北線の廃止に伴い、北海道と沿線自治体が出資して設立した第3セクターの会社「池北高原鉄道」による、ふるさと銀河線として再スタートを切ります。

1991(平成3)年には、帯広への乗り入れが実現(池北線時代にはあったことだが、銀河線になってからは車両の関係もあり、乗り入れができなくなっていた)、1995(平成7)年には本別町の豆菓子製造会社「岡女堂」が工場敷地内に「岡女堂駅」を開業させるなど、銀河線を盛り上げる話題も数多くあったものの(この事柄については後述します)、
沿線地域の人口減と乗客者数の減少は年々大きく銀河線にのしかかり、結局紆余曲折の末、
2005年3月27日には取締役会にて廃止が決定されてしまいます。
次いで翌月の4月17日に臨時株主総会で廃止を正式に決定され、4月21日には廃止を届出、この結果2006年4月20日限りで廃止、ということになってしまいました(この廃止決定までの経緯も後述します)。

ここまで国鉄池北線からの歴史をたどってみてわかるように、全国の赤字ローカル線に多く見られる全盛と衰退を沿線の産業と並行して味わう、というのはここにおいても変わりません。
ただ一点違うとすれば、北海道で唯一、第3セクターというある種の「延命」を許されたということです。
許された、というのは、誰かの何らかの「作為」があったからこそ成立する話です。
それが誰なのか何なのか、そしてそれにもかかわらずなぜ今、その「延命」が限界に達し、廃止されようとしているのか、この後少しずつそこに焦点を切り替えていきます。

今日はここまでです。
西日暮里でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
初めての人は→オリエンテーション
この講義の存在を高めてください→人気ブログランキング