羊蹄学園大学社会学部講義集

北の大地に突如としてできた架空の大学。
かつてないテーマで綴る社会学とは?

喜茂具理佐の沖縄論第36回~沖縄への感慨(6)~

2005-11-02 12:01:00 | 沖縄論第6章
(6、枠組みの溶解)
こんにちは。

諸連絡から。

初めてここに来訪した人は、最初のオリエンテーションを一読のこと。
それから、この講義の存在を高めることに協力してくれる方はここへのクリックを1度といわず何度でも。

それではとっとと始めます。
今日はどんどん進めていきます。

前回のつづきで、では今日どうなっているのか。
これがこの時間の内容です。

その話のきっかけとして…二〇〇五年一月七日の新聞記事(沖縄タイムス)は従来の沖縄の政界、とりわけ革新陣営の瓦解を感じさせるものでした。
この記事を軸に話をします。

民主党県連(喜納昌吉代表)は六日、那覇市内で常任幹事会を開き、次期衆院選の沖縄第一選挙区に県連代表代行の島尻昇氏(四六)、三区に沖縄市議でタレントの玉城デニー氏(四五)を擁立することを決めた。近く党本部に公認申請する。四区は同県連副代表兼政調会長の宮国忠広氏(四二)がすでに党公認を受けているほか、二区でも人選に着手しており、全区での候補擁立を目指す。現職を抱える社民党との選挙協力は解消されることになる。
喜納代表は幹事会後に県庁で会見し、玉城氏擁立について「民主党が飛躍する起爆剤になる。明るい存在が政治を変えていく」と期待した。
社民、社大両党との選挙協力について、喜納代表は「なれ合いの中で競争原理を失い、野党は衰弱してきた」と指摘。「復帰前からの革新共闘の歴史は認めるが、過去の遺物だ。従来の政治の枠組みをぶち壊す必要がある」と主張した。


米軍統治下の反米運動からはじまった革新陣営の共闘関係。
時には候補者擁立でもめることはあっても、中央の本土政府てこ入れの候補に負けてなるものかと、本土では犬猿だったはずの社会・共産両党ですら手を携え、沖縄の革新政党は一致団結し一丸になることで、保守に匹敵する勢力を維持してきました。
そう考えると、今年の年頭に飛び込んできた、民主党の動きはこの枠組みを根底からくつがえすものでありました。

しかし…このように捉えてみて、ふと必ずしもそうだろうかと、考えてみました。
確かにこれは長年の革新共闘の枠組みを崩すような動きです。
革新共闘というのは、長年社会党…現在は社民党ですが…と共産党の県党組織、沖縄の地域政党である社会大衆党とそれぞれの党に付随する団体が一体となって、知事選挙・都市部首長選挙における統一候補擁立とその選挙で保守陣営の推す候補を破ることを最大目標とした、反米・反基地の選挙態勢です。
ところが以前はそうだとしても今日では明らかに様相が変わっているのです。
では今日の革新共闘はどうなっているのでしょうか。
前回の知事選挙では共産党は枠組みからはなれ、その代わりに民主党や反自公政権の保守政治家である下地幹郎氏が陣営に入り、共闘を組みました。
しかし、かつていない革新陣営の崩れは、稲嶺の圧勝を許してしまいます。

…この経緯から考えると「革新」というものに限界を感じ、生き残りを賭けて新たな選挙態勢を作ろうとする今回の民主党の姿勢はまことに自然であると言えるでしょう。
形骸化し、現状の打破を見込めない、従来の保守・革新という沖縄の政治系図を崩す、この思考は今後を考えていく上で「ひとつの」きっかけにはなると思います。

ですが、そうは言っても、この民主党の動きはどうしても、二大政党化、政権交代を目指す民主党中央の、地方組織強化の策動の感は否めません。
当たり前の話ですが、要するにこれも政治臭いのです。

とすれば徒党を組んで、大声を張り上げる今までの政治運動と、自分たちが世論をリードしたいという願望を持つという点では大差は無いし、よくある「本土化」のひとつとも言えなくもないし、単純に看板が「革新」から「反自公」に変わっただけと言えなくもないのです。
早い話が、これも本当の変化ではないし、時代の転回にすぎないと言えてしまうのです。

で、結局、先の衆院選挙では、民主党は全国的に惨敗しました。
沖縄の小選挙区選挙ではご存知の方も多いと思いますが、1区では下地氏を推薦し当選したものの、それしか収穫はなく、社民党との協議の結果、3区では決裂して社民党前職候補と激突、共倒れに終わります。
4区でも敗北…ちなみに4区は告示直前になって、中央主導による候補者差し替えと言う動きもあったわけですが…そうはならず、とにかく落選。
2区に至っては、民主党が引いて社民党前職支援と言うことになったものの、これを不服とする立候補予定者だった島尻氏が離党して無所属で立候補、県代表の喜納昌吉氏らは動きが取れなくなり、結局は社民党候補者は当選したものの、島尻氏は惨敗、それどころか自民党新人の復活当選を許してしまうという有様で…民主党の体たらくと同時に喜納昌吉の政治センスのなさが露になりました。

そして…何と言うのか、虚しさすら感じられるのは私だけでしょうか。

本当の変化、時代の展開が欲しいところです。
そのためには何が必要なのでしょうか。

私はその観点から、今一度自分を見つめなおそうと思います。
次の時間からは、一気に新しい章「私なりの沖縄」に入ります。

それでは、乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第35回~沖縄への感慨(5)~

2005-10-31 09:18:40 | 沖縄論第6章
(5、還暦と「転回」Ⅱ)
ひきつづきこんにちは。

毎度おなじみ諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから聴講生を一人でも多く増やすべくここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください。
皆さんのワンクリックがこの終盤に差しかかった講義の力になります。
よろしくおねがいします。

前の時間でお話した以外の大田落選の要因とは?これがこの時間でお話しする内容です。

私は様々あると思います。
特に支持者離れの面、そして革新陣営の力の低下はやはり見逃せないと思います。
確かに、九六年の「県民総決起集会」で一時的な、反基地運動の盛り上がりは見せました。
しかしそれは瞬間風速的なもので、落選時にはかつての腹心は離反していたし、大田が政治的なバランスを意識するあまり、支持政党の足並みの乱れをつくってしまい、それが革新陣営の結束を崩してしまったのも事実です。
それが尾を引き、稲嶺県政下では、革新陣営は圧されっぱなしです。
挙句には2002年の知事選挙では、稲嶺に対し、共産党と非共産党で革新陣営が割れ、別々の候補を擁立した結果、稲嶺の圧勝を招いています。

しかしその稲嶺とて、最初は「現状打破」を掲げたものの、沖縄の基地問題や経済不況はまったく改善されていません。
県の経済団体トップからの転身だったが、同じく中央との整合性の中で埋没し、特筆すべきなのは沖縄サミットの誘致ぐらいです。

私は思います。
大田と稲嶺、革新と保守ではあるけれども、しかし沖縄の基地への熱を冷まして言えることには何ら変わりは無いのではないかと。

さて、私がこの沖縄論なる講義…それはいわば私にとっての心の旅路であったりするわけなのですが…で、沖縄を取り上げているにもかかわらず、よくある基地の問題や平和の話、自然破壊に極力触れていないのは、誤解を恐れず言えば、辟易しているからというのがあります。
つまり基地も平和も自然も確かに大事な話ではあります。
それはわかるのです。
しかし、それだけで沖縄はこの何十年も語られてきました。
そしてそれは、ともするとまるで沖縄にはそれしかないような感覚に無知な私などは陥るくらいのものでした。
でも冷静に考えれば、それはありえない話です。
特に最近の都市化された那覇市では、基地や平和や自然の問題を意識しない若い世代が増えている、という実態もあります。
つまり殊更に基地や平和や自然を訴えすぎなのではないか、と私は思うのです。
それも、徒党を組み大声を張り上げ、デモをし…といった風に、同じやり方で、そして政治的な匂いが常に付きまとうやり方で。
それで幅広い人々の支持を集めることなど果たして可能なのだろうと。
ただでさえ、普天間基地の騒音問題ひとつとっても、決定的前進が見られないのです。
第1章でも書きましたが、時代は「転回」します。
「展開」ではありません。
いやそれどころか、東京政府とアメリカ政府が普天間のことを勝手に取り決めているその内容が、保守系の県知事の賛同すら得られないということを見るにつけ、本土復帰の頃とあまり変わらないどころか、私にはむしろ後ずさりしているのではと思えてなりません。
あげくにこの状況下で昨日の宜野湾での集会は5000人動員です。
どう評価すればいいんでしょうか。

大田の落選以後の革新陣営は苦境に陥ります。
陥った先に何があったのか…次回はそこについてお話します。

それでは乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第34回~沖縄への感慨(4)~

2005-10-31 08:57:37 | 沖縄論第6章
(4、還暦と「転回」Ⅰ)
こんにちは。

東京では得意の人事発令、
横須賀には原子力持込み、
沖縄では未曾有の状況で5000人集会、
北海道には沖縄の負担が降りかかり…
何とも言えぬ10月の終わりです。

いつもの通り今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んで講義に臨んでください。
断片的に読んでも大変だと飲み込めないと思いますので。
それから…もうひとつの連絡は…最後にします。
それでは進めていきます。

前回言ったように、沖縄における反米・反基地の動きが熱を帯びなくなったのはなぜなのでしょうか。
しかしその前に、そもそも集会の当事者・参加者、地元マスコミが「熱を帯びていない」という認識を持っているか否かがまず大事かもしれません。
しかしその認識は一言で言って「ない」、です。
少なくとも新聞記事には集会の縮小を書いてないし、憂いていません。
ですがそれは当然でしょう。
木を見て森を見ず、視野狭窄は特に徒党を組んだ集会の当事者にはよくあることです。
だから市民市民とよく言うが、何らかの政治的団体に属していない純粋な市民の心をつかむことなどできないのです。

しかしながら一方で、今年(二〇〇五年)は重ねて言うが、戦後六〇年です。
いわば戦後社会の還暦にあたる年なのですが…その節目の時期に皮肉にも停滞ということで曲がり角を迎えているわけであり、沖縄の基地に対するアプローチなど根底から考え直すいい機会のように思えます。
ならばそもそもこうなってしまった、その伏線はどこにあったのでしょうか。
前章では沖縄の戦後政治史を西銘順治知事の時代まで取り上げたが、その頃から今を思わせる傾向が見られ、その後の大田昌秀知事時代になると、前述の県民総決起集会のときのうねりは例外として総じて「熱を帯びない」状態は顕著になっていると私は見ています。
大田知事当選の頃から見ていきましょう。

西銘を破り、大田昌秀が県知事の座に就いたのは、1990年。
保守県政でもなお、経済がうまくいかないことで、一気に流れが傾き当選を果たします。

1925年生まれの大田は、沖縄師範学校本科二年だった1945年3月31日に師範学校の教官から生徒に至るまで、“鉄血勤皇師範隊”として、沖縄守備軍司令部に動員されるのに伴い、大田自身も千早隊という情報伝達の部署に配属されます。
情報部が発信した大本営発表のニュースを村や壕に伝達するのが彼の役割でした。
つまり大田は沖縄戦の体験をモロに持っているわけです。

しかしその反面、戦後は琉球大学の教員となり、法文学部長までになっています。
いわばジャーナリズムについての研究者でした。
つまり革新陣営にありがちな、ガチガチのイデオロギーを背負った、というわけではなく、比較的、現実感覚、バランス感覚のある人間なのです。
現に、ある知事在任中、共産党などにみられる、「安保廃棄」という究極的要求は一切しませんでした。
95年の米軍による婦女暴行事件の際ですら、基地移設・負担軽減・治安確保と、いわば現実に照らした要求をしています。
ところがその後本土の政府との関係が悪化するに従い、大田は中央との整合性を保つか、沖縄の思いを貫くかで、混迷しました。
公告縦覧代行応諾、名護市民投票から海上ヘリ基地拒否に至るまでのあいまいな態度がそうです。
また、沖縄問題について大田の存在ばかりが突出する中で、県庁・県民の意志を纏め上げられなかったこと、更には浦添軍港をめぐって、与党だった公明党が離反…といってこのことがあろうとなかろうと、第3章で紹介したように離反するのですが…とにかく離反したことなどで、98年に落選します。
重ねて言うと、第3章で紹介したように公明党の離反は大きいものでした。
これがすべてとは言いませんが…でも事実そうでした。

しかし「それだけ」とは言えない面もありました。
次ではそこから話を広げていきます。

それから最後に…ここへのクリックをいつもながらお願いします。
本当にここにきて順位が低迷していますので…。

それでは次の時間も乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第33回~沖縄への感慨(3)~

2005-10-27 11:57:53 | 沖縄論第6章
(3、盛り上がっているのかⅡ)
3たびこんにちは。

えー…これも3たび、毎度同じことですが、今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読むこと、それから、ここへのクリックを1度といわず何度でもしてください。
本当にくどいですが、恒例のお願いですので。

前の時間は…「盛り上がっているのだろうか」で終わりました。

私はこのように考えています。

たとえば参加者の数です。
意味合いはやや違うものの、1995年の米軍兵による婦女暴行事件に端を発した、「県民総決起集会」では参加者は八万人であったのに対し、この集会は二万人強です。
四分の一の人数なんですね。
1995年当時と比較すれば、記事中にもあるように遅々として進まぬ普天間基地移設問題や沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事故など、沖縄の基地問題がますます悪化しているのにもかかわらず、この人数なのです。

ならば、参加者の内訳はどうでしょう。
1995年の集会には保守も革新も右も左も老いも若きも参加しました。
現に壇上には当時の大田昌秀知事がいる一方で、後に大田の対立候補となった稲嶺惠一が県の経済団体代表として鎮座していました。
しかしこの集会には、国政・県政与党の自民党や公明党の役員は顔を連ねていないし、県知事となった稲嶺惠一もいません。
顔ぶれはというと、革新陣営の面々ばかりです。

参加者の内訳という点でもっと踏み込んで言いましょう。
県民総決起集会の際は、壇上には大田や稲嶺といった、地元の名士しかいませんでした。本土からの名士は参加はあっても壇上に上がらなかった、上がれなかった、そのくらい地元の熱は高かったのです。
しかし2005年の普天間の集会には地元名士の参加より、むしろクローズアップされたのは反自公の政党代表クラスの出席でした。
とりわけ当時、「論憲」の主張が革新陣営との乖離を生んでいる民主党代表の岡田克也の出席…会場では相当なブーイングがあったようですが…そのこともあって大きく取り上げられました。
つまり!そこには地元の名士の姿は無かったのです。

何より1995年の県民総決起集会と比べてこの集会へのマスコミの取り上げは非常に小さなものになっています。
つまり基地問題に関するニュースの存在感がとりわけ本土のマスコミにとって小さなものになっているのです。

シンボルの存在もあります。
覚えているでしょうか。
95年の集会の際には、壇上で「私たちに沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない平和な島を返してください。」と力強く訴えた女子高生のことを。
彼女の名は仲村清子…「すがこ」と読みます。
高校生代表としての意見発表であったが、しかしあまりにも彼女の訴える姿は凛としていて美しくすばらしく、画になり、マスコミはこの画をこぞって使うようになり、一時期本人は本意ではなかったものの「沖縄のジャンヌダルク」ともてはやされるぐらいになります。
ちなみに、彼女はこの意見発表時は演劇部所属で、今も舞台女優を志しているようです。
第5章で紹介した映画「カメジロー」にも出演していました。
南米コスタリカを描いたドキュメンタリー映画「軍隊をすてた国」にも出ており、水先案内人を務めていました。
彼女個人のホームページもありますが…まぁここではあえて紹介しないでおきましょう。

話を戻すと…
このように当の本人にとっては、良くないことかもしれないけれど、しかし「シンボル的存在」がいるというのは、やはり大きいです。
なぜならマスコミが注目するし何より世間の耳目が集まりやすいからです。
こういう発想は悪い言い方で「客寄せパンダ」の存在を期待しているようであまりいいようには思われない。
しかし運動の盛り上がりを生んだのもまた事実ではないでしょうか。
それにひきかえ、今年の場合、その「シンボル」となる人間の存在がありませんでした。革新陣営の団体主導の気勢と奇声ではなかったのではないでしょうか。
あればもっと様相は変わっていたのではないでしょうか。
少なくとも本土のマスコミがこのような小さな取り上げで終わらせることはなかったのではないのでしょうか。

盛り上がっているのだろうか、と私は問題提起をしました。
なぜしたか。
よく分析してみるとこのように、疑問を呈せざるを得ない側面がいくつも転がっているからです。
でも…それだけなのか、これもまた表層ではないのか。
私は自問自答します。

そこに次からは焦点を当てていきます。

それでは乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第32回~沖縄への感慨(2)~

2005-10-27 11:13:12 | 沖縄論第6章
(1、盛り上がっているのかⅠ)
ひきつづきです。

講義に入る前に…今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでいただきたい。
それから、ここへのクリックを1度といわず何度でもしてください。
終盤へ向かってこの講義も走っています。
よろしくおねがいします。
でははじめましょう。

えー…
「今」が大事であると、前の時間に言いました。
たとえば今年のあの日に思いをはせてみましょう。

今年…2005年…の5月15日は本土復帰に思いをいたすということに使われなく過ぎていったように私は思います。
それは前年の沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事故などを見ても至極当然のことであったと思うのですが…とりあえず、その日を報じた沖縄タイムスの記事をまずは見てみましょう。

沖縄が本土に復帰して三十三年となる十五日午後、宜野湾市で四回目となる「普天間基地包囲行動」(主催・同実行委員会)が行われ、県内外から参加した二万三千八百五十人(主催者発表)が普天間飛行場の周囲約一一・五キロを“人間の鎖”で包囲した。参加者は過去最多。同飛行場に隣接する沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落してから九カ月。米軍再編協議がヤマ場を迎える中、参加者は日米両政府に対し、手を取り合うことで危険な状況からの解放を訴え、同飛行場の即時閉鎖・撤去と米軍基地の県内移設反対をアピールした。
包囲行動後、山内徳信実行委員長は「普天間飛行場の即時閉鎖・返還が市民、県民の心からの願いであることが内外に示された。大成功だと宣言する」と成果を強調。「この勢いで返還実現を勝ち取ろう」と参加者に呼び掛けた。
同飛行場の包囲行動は一九九五、九八、二〇〇四年に続き四回目。今回のスローガンは「普天間」返還に加え、計画が進められている名護市辺野古沖や新たな移設先として浮上している下地島、伊江島、嘉手納基地など、すべての県内移設に反対する姿勢が盛り込まれた。
前回を約八千人上回った参加者は、午後二時十五分から包囲を三度実施。一回目から"輪"を完成させ、歓喜のウエーブがわき起こった。米軍ヘリ墜落事故の被害住民や沖縄国際大学の学生らもフェンス際に駆け付け、手を取り合う姿が見られた。
日米両政府は一九九六年、県内移設を前提に普天間飛行場の「五-七年以内の返還」に合意。日本政府は九九年、名護市辺野古沖移設を閣議決定したが、根強い反対運動で移設作業は難航している。進行中である米軍再編の日米協議で、同飛行場の返還は最重要課題に挙げられている。


このことは当然のことのように、県内外の新聞のみならず、東京発の全国ニュースでも取り上げられました。
しかし…どうしても私は違和感をおぼえます。
この記事で言うほど盛り上がっているのだろうかと。

「盛り上がっているのだろうか」。
この疑問に対する答えを皆さんもそれぞれ導き出してください。

それでは次回も乞うご期待。


喜茂具理佐の沖縄論第31回~沖縄への感慨(1)~

2005-10-27 11:07:27 | 沖縄論第6章
(1、プロローグ)
こんにちは。
1週間以上のご無沙汰です。
何だかそれだけなのに長い長い時間的空白があるかのように思えます。

そうなんです。
時間は、時代は動いているのです。
沖縄も例外ではなく、刻一刻と情勢は動いています。
この講義を始めてから2ヶ月弱。
しかしその間だけ見ても、沖縄の情勢は動いているのです。

最も大きいのは、宜野湾市にある米軍普天間飛行場の移設問題のことでしょう。
だからと言って進展しているかとなるとそう評価して良いのか難しいところですが…。

10月26日、昨日の新聞記事を見てみましょう。

日米両政府は在日米軍再編をめぐる審議官級協議を26日も続行し、焦点の米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設先見直しについて、同県名護市・辺野古崎の米軍キャンプ・シュワブ陸上部を活用して滑走路を建設することで合意した。
大野功統防衛庁長官は同日、米側交渉責任者のローレス米国防副次官が電話会談で、日本側提案に同意すると伝えてきたことを記者団に明らかにした。同日午後に在日米軍再編全体の決着を目指す。
町村信孝外相は同日午前の衆院外務委員会で、予定通り今月29日にワシントンで外務、防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)を開き、具体的な基地再編案や自衛隊と米軍の役割分担を盛り込んだ中間報告を取りまとめる方針を示した。(共同通信)


一見、事態は動いたかのように見えます。
この辺野古を抱える名護市では、来年1月に市長選挙を控えているのですが、現職で保守系の岸本氏が突然の不出馬宣言をして大騒ぎになっています。
とりあえず保守系・革新系それぞれで候補擁立にこぎつけましたが、思えば来年は県知事選挙もあり、何よりこの移転問題そのものについて、地元では根強い反対運動が存在していることもあって、一筋縄にこのような形で…などということにはならないような思いが私はします。

結局のところ、直近のことで言えば10年前当時の橋本竜太郎首相とアメリカのクリントン大統領で交わされた、沖縄の米軍基地に関して取り交わした内容が、こうして10年経過しようとしている昨今においても、尾を引いているということなのでしょう。
そして総じて言えば沖縄の基地問題は何の根本的解決に至っていないのでしょう。

第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
…と思い起こせばここに至るまで、私は沖縄のあまり伝えられてこなかった「過去」を軸にしてお話してきました。
しかし本当に大事なのは「今」のはずです。
ここでは、というよりここからは、私という、北海道の市井の人間から見た沖縄の今日的状況に対する印象を語っていきたいと思います。

最後に。
初めてここに来訪した人は、最初のオリエンテーションを一読のこと。
それから、この講義の存在を高めることに協力してくれる方はここへのクリックを1度といわず何度でも。

何がどうであれ、いよいよ講義は後半戦。
このタイミングに…というある種の感慨はありますが、どんどんまい進していきます。

それでは乞うご期待。