羊蹄学園大学社会学部講義集

北の大地に突如としてできた架空の大学。
かつてないテーマで綴る社会学とは?

喜茂具理佐の沖縄論第40回~私なりの沖縄(4)~

2005-11-06 11:00:39 | 沖縄論第7章
(4、沖縄を想う)
…ということで、堂々40回です。

えー…
沖縄について色々ここまで書いてきましたが、その一方で何度も言うように私は沖縄に足を運んだことはありません。
ということで、足を運んだことがない沖縄について書くのはいかがなものかと、違和感をおぼえる人もいるかもしれません。

しかし私は思うのです。
行けばよいのでしょうか。
行けば済む話なのでしょうか。
足を運んで人と会って、その上で書いた文献がすばらしい出来になるとは必ずしも言えないでしょう。
逆に言えば、沖縄に行かなくても沖縄について書く、というのは成立する話なのだ、という私なりの結論に達し、今日まで沖縄に行こうと考えることはなかったわけです。

この考えに近いのが、タレントや放送作家、果ては一瞬だけ参議院議員までやり、今はセミリタイアと称して、1年の多くを海外で過ごしている大橋巨泉氏です。
今年は癌の手術から生還したようですが…とにかく彼は以前、自身のコラムについて、沖縄についてこのように書き綴っています。

戦争末期、非戦闘員にあれだけの犠牲を強い、破滅的な破壊を受けさせた沖縄の人々に、われわれは返しても返し切れない負債を負っている。基地をそのまま負わせておいて、本土並みなどというマヤカシを言う日本政府の態度は、日本人として恥ずかしい。恥ずかしいから、ボクは一度も沖縄の地を踏んでいない。「どの面 下げて」という気持が強い。

何かと彼の発言や行動は物議を醸すことが多い中で、この文章も、彼一流の“うそぶき”や“ハッタリ”も込められているのかもしれません。
また一方で私と、高齢となった彼とでは世代の隔たりがあります。
だから簡単に云々言うことはできないと重々わかってはいます。
しかしそれでも思うのです。
わからない話ではないし、私の考え…沖縄に足を運ぶことが、沖縄を思うこととは限らないし、足を運ばないことで、逆に沖縄を思うこととてあるのだ…というもののに非常に近いのではないかと強く感じたのです。

ただ彼と違うのは、沖縄は現代社会に生きる私たちが考えなければならない題材・要素が基地や平和に限らずたくさん詰まっています。
私が沖縄の問題を語るときに基地や平和に殊更にこだわらなかったのは、それを知ってもらいたいためです。
もちろん、ここまで取り上げたこと以外に沖縄を語る上で考えていかなければならないことはまだまだありますが…そういった従来の沖縄観と一線を画してきたのは、従来のものはあくまで沖縄をとらえる上での氷山の一角でしかない…と私は考えているからですし、声高に叫ぶだけの徒党に組み込まれるよりは加わらないほうがよいとも考えています。
これは彼との違いではないかと想います。
というより、これは彼の世代との違いと言えるかもしれません。

しかし私も彼も、沖縄から遠く離れたところで「ひとり」で自分の頭で考え心で想っているのは確かです。
そして本来、それは誰にでも必要なことなのです。
そもそも組織や団体が生きて活かされているのではなく、「ひとり」という単位の個人が生きて活かされなければならないのはずなのです。
社会を動かすのは人間ひとりひとりのはず…いや、そうでなくても少なくとも徒党を組んだ連中ではないはずです。
沖縄という現代において特異な地域であれば尚更そうでなければならないのではないでしょうか。

最後に。
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この講義自体は残り10回を切りました。
次回からは、ここまでのことを受けていよいよ最終章「これからのために」に入ります。

それでは…次回も乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第39回~私なりの沖縄(3)~

2005-11-06 10:34:30 | 沖縄論第7章
(3、問われているもの)
こんにちは。
今日でどうやら40回に突入しそうですね。

えー…
前回、アイデンティティやら北海道での私を語ったわけですが、しかし実は沖縄を巡るアイデンティティのあり方・見方については、あれだけではありません。
他の観点から解析していくことは可能です。

たとえば…
第3章で取り上げた沖縄の創価学会・公明党が本部中央の路線に取り込まれている、という話を今更しなくても、昨今は「本土化」と呼ばれるように、沖縄のアイデンティティが喪失されている傾向にあります。
基地にしても平和の問題にしても、自然にしても、果ては人間の暮らしまでも。
同じ第3章で紹介した門中の家族制度が今では崩れ、親戚づきあいの希薄な核家族の流れが那覇市の若い世代を中心に起こりつつあるのがいい例です。
こうした傾向の背景の一つには、コンプレックスもあるようです。
たとえば教育。
大学進学率の低さをせめて「本土並み」にしたい、という思い。
どうしても県内のエリート層は、わが県は教育後進の県であるという考えがよぎると聞きます。

その表れなのか、私の前回話したような「トラウマ」はいいとしても、金城はアイデンティティの拠り所を、皮肉にも故郷である沖縄で求め歩くという晩年を過ごし、彼は真の沖縄の人間になることを願ったにもかかわらず、彼の願った真の沖縄なるものが失われつつあります。
言い換えれば彼が人生をかけて求めていたものが消えようとしているわけです。
沖縄らしさが消え、日本のどこにでもあるような人や空気や街並みや、考え方や自然のあり方や…独自性、個性が失われるのは悲しきことです。
しかし、私は一人ひとりのアイデンティティが喪失されなければ、「まだ」いいのでは、とも思っています。

歴史を紐解けば、中世の沖縄は琉球王朝の全盛でした。
小国ではありましたが、戦乱に明け暮れる日本と比べれば、信じられないほどの繁栄を誇っていました。
この繁栄の源は貿易でした。
中国を主とする東アジアの中ではあったが、沖縄は日本・朝鮮・中国、果ては東南アジアまで交易のネットワークを広げていました。
それは多様性を生みました。
そして多様性の中から、沖縄らしさが生み出されていきました。
…という流れを見たときに、私は、本土化や沖縄らしさということは、大事な問題ではあるけれど、でも巷で言うほどそれほど大事なのだろうかと考えます。
つまり沖縄の精神風土とて、アジアの交易によってできた融合である部分が大きいわけです。
当時としてはスケールの大きい話で、そのスケールの大きい中で沖縄の人は生きたのです。

そして…第2章では金城を通じて、「ウルトラセブン」について取り上げました。
単なる子供番組、正義が悪をやっつけるだけ、野蛮…今なお、そりゃあ少なくなったとは言え、放送当時から今日までそういう批判がある中で、メインライターとして全体の設定を考えた金城は、「スペースオペラ」をこの作品で夢想したといいます。
宇宙です。

宇宙…なんとも縁遠い、果てしない話です。
そしてその宇宙の前では、北海道も沖縄も日本もちっぽけな存在です。
グローバリゼーションが声高に叫ばれる昨今ですが、宇宙の前では国も地球すらも小さいものです。
そしてそのちっぽけなところに、もっとちっぽけな人間が生活を営んでいるのです。
しかしその一方でどのフィールドであろうと、人間ひとりひとりが光る瞬間があるのも否定できません。
沖縄だろうと北海道だろうと。

口で言うのは簡単ですが、しかし結局問われているのは、一人ひとり、個々人がどうあるべきか、そして何にも惑わされることなく定立できるかただそれだけなのです。
それがアイデンティティの確立になるのです。
口で言うのは簡単ですが。

このこととプラスして、自分なりに思うことをもう1点、次で挙げたいと思います。

最後に。
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どうやら50回を迎えることなくこの講義は終わりそうですし…。

それでは、次の時間も乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第38回~私なりの沖縄(2)~

2005-11-02 15:28:38 | 沖縄論第7章
(2、心の旅路)
時間差ですが、3たびこんにちは。

いよいよ本格的にこの章を進めていきます。
それは私の抱えているものの吐露に他ならないのですが…。

そもそも…
未だに、直接沖縄に触れたことのない北海道で暮らす私ですが、そのような私が沖縄という遠い地域のことに思いをはせるようになったのは、幼少の頃に見た、ウルトラマンでした。
その興味・関心が高まるにつれ、ウルトラマンの持つ世界観は金城や上原といった沖縄出身のスタッフによるものが大きいことを知りました。
そして第2章の内容が生まれたのです。
また一方で、宗教や政治に関心を持った自分が帰結したのも沖縄でした。
語弊があるかもしれませんが、自分の興味関心を学術的なものを深めていく、その「題材」の行き着く先にいつも沖縄がありました。
この心の旅路もその再確認の意味合いも込められているわけです。

しかし…それだけではありません。

これは私の根本的な生い立ちの話しになるのですが…私は北海道の寒村で生まれ育ちました。
ムラ意識が強く、仲間内ならよいが、よそ者には排他の論理が渦巻く、典型的な日本的農村がそこにはありました。
私は精神的にもそこの住民になりたいとは思いましたが、しかしそこの住民になることはありませんでした。
なぜか。
私の親の実家は北海道から遠く離れた内地…いわゆる本州の出身でありました。
どことは言いませんが、温暖な地域の出身者です。
だから私は早くから何か事あるごとに、北海道の片田舎から海の向こうへ足を運ぶこと機会に恵まれました。
そしてその旅路の途中には必ず、東京がありました。
普段は田舎モノであった私は、同時に東京の空気を吸い込むことのできる環境にもいたわけです。
しかし田舎の人間なのに東京に足を運ぶ…北海道から海を越えるというのは、あの寒村ではピンと来ない話でした。
…と話すと遠く離れた外国と日本の距離ならまだしも…と思うでしょう。
ところが、北海道の田舎ではでは東京より札幌の方が、大都会のシンボルでした。
ステイタスでした。
東京はあまりに遠い存在だったのです。
そのため、私がたとえば東京だの静岡だのに足を運ぶことはあの田舎では何の価値もありませんでした。
むしろ、そういった「浮いた話」で、自分が「浮いた存在」になり、そして地域に生きる時間を人より多く失うことに他なりませんでした。
私は精神的に弱い人間です。
アイデンティティの拠り所に弱さのあった自分は「浮いた存在」より、平凡な寒村の住民となることを暗に願うようになります。
が、それは親子の縁がある限りかなわぬことでありました。
イジメがあったわけではありません。
しかし「浮いた存在」の自分はますます浮き、私は自分の居場所なるものが存在しないのではないかと思うようになりました。
そして寒村での孤立感が、私のトラウマとなりました。
このようなアイデンティティの拠り所の弱い私に、沖縄の存在は大きかったのです。
位置的に、いや存在として北海道からは遠い遠い、私から見れば遠すぎるところにあった沖縄。
遠いからこそ一種の現実逃避…「浮いた存在」とか寒村の住民とかそのようなことを考えずにすむ、などと思うことさえありました。

第1章第2章で取り上げた金城哲夫もまたアイデンティティでさいなまれた人物でした。
実は彼は沖縄出身にもかかわらず、東京暮らしが長いせいもあり、生粋の沖縄言葉をうまく操ることができませんでした。
ですが、当時の日本本土では彼は「外国人」です。
自分は何者か。
彼は非常に悩みます。
特に第2章でも書きましたが、彼は円谷プロを退職して、郷里に戻り沖縄芝居の脚本を書くようになります。
ところが、言葉のギャップはもとより、なにか沖縄人ならではの空気をつかむことができませんでした。
沖縄初の芥川賞受賞者である大城立裕氏にもそれを指摘されるようになります。
受賞作「カクテル・パーティー」はちなみに来秋、映画される予定です。
それはともかく…そうこうしているうちに彼は海洋博覧会の失敗もあり、精神を病み酒に溺れ、命を失ってしまいます。

おこがましい話ですが、こうした金城の晩年の記録を見て、私は自分が抱えているトラウマとオーバーラップさせるようになりました。
そしてそれがこの沖縄論の構築…というより心の旅路に取り掛かることに拍車をかけました。
しかし一方で、彼は自分で感じたアイデンティティのなさを解決できぬまま死んでしまったことを鑑みて、「私もまた同じように死ぬのだろうか。」そう思うこともありました。

行ったことのない沖縄です。
しかしその沖縄が私の人生を映す鏡であり歩み…いわば心の旅路となったのです。

…といったところで今日はこのあたりまでにしましょう。

最後に。
毎度同じことですが、今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでください。
そしてできれば内容をつかむために第1章から少しずつ読んでいただきたい。
それから、ここへのクリックを1度といわず何度でもしてください。
このことを忘れなく添えて…それでは次回も乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第37回~私なりの沖縄(1)~

2005-11-02 12:02:54 | 沖縄論第7章
(1、プロローグ)
ひきつづきこんにちは。
新しい章です。

新しい章ということで、まぁこれが最後の章というわけではありませんが、しかしこの私の講義…私の中では実のところ「心の旅路」と呼んでいますが、その「心の旅路」も終盤です。
ここまで長々と御託を並べてきました。
しかし御託を並べている割には、オリエンテーションでも言ったように私は沖縄へ足を運んだことはありません。
沖縄から遠く離れた北海道で滔々としゃべっているだけです。
なぜ、沖縄に足を運んだことの無い人間が、ここまで御託を並べるのか。
そして沖縄という実地での取材がないのに、この講義は成立するのか。
そういうご指摘も、無論あります。。
そして自分はなぜ沖縄を取り上げているのか。
そこにこのような自分が沖縄を取り上げることに正当性はあるのか。
更にはなぜ私はこの講義を「心の旅路」と呼ぶのか。

この章では今更ながらそこに自分なりに応えていきたいと思います。
自分はどういった人間なのか、どういう過去があるのかを語ることで。
私にとって痛い作業ですが…

最後に。
毎度同じことですが、今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでください。
そしてできれば第1章から少しずつ読んでいただきたい。
でないと、内容がつかめないかもしれないので…。
それから、ここへのクリックを1度といわず何度でもしてください。
全体のアクセス数に比べクリックがあまりにも低く、見るも無残です。
よろしくお願いします。

それでは次の時間から早速、新しい章の内容に入るとして、この時間は非常に短いですが終わりにします。

乞うご期待。