(4、沖縄を想う)
…ということで、堂々40回です。
えー…
沖縄について色々ここまで書いてきましたが、その一方で何度も言うように私は沖縄に足を運んだことはありません。
ということで、足を運んだことがない沖縄について書くのはいかがなものかと、違和感をおぼえる人もいるかもしれません。
しかし私は思うのです。
行けばよいのでしょうか。
行けば済む話なのでしょうか。
足を運んで人と会って、その上で書いた文献がすばらしい出来になるとは必ずしも言えないでしょう。
逆に言えば、沖縄に行かなくても沖縄について書く、というのは成立する話なのだ、という私なりの結論に達し、今日まで沖縄に行こうと考えることはなかったわけです。
この考えに近いのが、タレントや放送作家、果ては一瞬だけ参議院議員までやり、今はセミリタイアと称して、1年の多くを海外で過ごしている大橋巨泉氏です。
今年は癌の手術から生還したようですが…とにかく彼は以前、自身のコラムについて、沖縄についてこのように書き綴っています。
戦争末期、非戦闘員にあれだけの犠牲を強い、破滅的な破壊を受けさせた沖縄の人々に、われわれは返しても返し切れない負債を負っている。基地をそのまま負わせておいて、本土並みなどというマヤカシを言う日本政府の態度は、日本人として恥ずかしい。恥ずかしいから、ボクは一度も沖縄の地を踏んでいない。「どの面 下げて」という気持が強い。
何かと彼の発言や行動は物議を醸すことが多い中で、この文章も、彼一流の“うそぶき”や“ハッタリ”も込められているのかもしれません。
また一方で私と、高齢となった彼とでは世代の隔たりがあります。
だから簡単に云々言うことはできないと重々わかってはいます。
しかしそれでも思うのです。
わからない話ではないし、私の考え…沖縄に足を運ぶことが、沖縄を思うこととは限らないし、足を運ばないことで、逆に沖縄を思うこととてあるのだ…というもののに非常に近いのではないかと強く感じたのです。
ただ彼と違うのは、沖縄は現代社会に生きる私たちが考えなければならない題材・要素が基地や平和に限らずたくさん詰まっています。
私が沖縄の問題を語るときに基地や平和に殊更にこだわらなかったのは、それを知ってもらいたいためです。
もちろん、ここまで取り上げたこと以外に沖縄を語る上で考えていかなければならないことはまだまだありますが…そういった従来の沖縄観と一線を画してきたのは、従来のものはあくまで沖縄をとらえる上での氷山の一角でしかない…と私は考えているからですし、声高に叫ぶだけの徒党に組み込まれるよりは加わらないほうがよいとも考えています。
これは彼との違いではないかと想います。
というより、これは彼の世代との違いと言えるかもしれません。
しかし私も彼も、沖縄から遠く離れたところで「ひとり」で自分の頭で考え心で想っているのは確かです。
そして本来、それは誰にでも必要なことなのです。
そもそも組織や団体が生きて活かされているのではなく、「ひとり」という単位の個人が生きて活かされなければならないのはずなのです。
社会を動かすのは人間ひとりひとりのはず…いや、そうでなくても少なくとも徒党を組んだ連中ではないはずです。
沖縄という現代において特異な地域であれば尚更そうでなければならないのではないでしょうか。
最後に。
初めてここに来訪した人は、最初のオリエンテーションを一読を。
それから、この講義の存在を高めることに協力してくれる方はここへのクリックを1度といわず何度でも。
この講義自体は残り10回を切りました。
次回からは、ここまでのことを受けていよいよ最終章「これからのために」に入ります。
それでは…次回も乞うご期待。
…ということで、堂々40回です。
えー…
沖縄について色々ここまで書いてきましたが、その一方で何度も言うように私は沖縄に足を運んだことはありません。
ということで、足を運んだことがない沖縄について書くのはいかがなものかと、違和感をおぼえる人もいるかもしれません。
しかし私は思うのです。
行けばよいのでしょうか。
行けば済む話なのでしょうか。
足を運んで人と会って、その上で書いた文献がすばらしい出来になるとは必ずしも言えないでしょう。
逆に言えば、沖縄に行かなくても沖縄について書く、というのは成立する話なのだ、という私なりの結論に達し、今日まで沖縄に行こうと考えることはなかったわけです。
この考えに近いのが、タレントや放送作家、果ては一瞬だけ参議院議員までやり、今はセミリタイアと称して、1年の多くを海外で過ごしている大橋巨泉氏です。
今年は癌の手術から生還したようですが…とにかく彼は以前、自身のコラムについて、沖縄についてこのように書き綴っています。
戦争末期、非戦闘員にあれだけの犠牲を強い、破滅的な破壊を受けさせた沖縄の人々に、われわれは返しても返し切れない負債を負っている。基地をそのまま負わせておいて、本土並みなどというマヤカシを言う日本政府の態度は、日本人として恥ずかしい。恥ずかしいから、ボクは一度も沖縄の地を踏んでいない。「どの面 下げて」という気持が強い。
何かと彼の発言や行動は物議を醸すことが多い中で、この文章も、彼一流の“うそぶき”や“ハッタリ”も込められているのかもしれません。
また一方で私と、高齢となった彼とでは世代の隔たりがあります。
だから簡単に云々言うことはできないと重々わかってはいます。
しかしそれでも思うのです。
わからない話ではないし、私の考え…沖縄に足を運ぶことが、沖縄を思うこととは限らないし、足を運ばないことで、逆に沖縄を思うこととてあるのだ…というもののに非常に近いのではないかと強く感じたのです。
ただ彼と違うのは、沖縄は現代社会に生きる私たちが考えなければならない題材・要素が基地や平和に限らずたくさん詰まっています。
私が沖縄の問題を語るときに基地や平和に殊更にこだわらなかったのは、それを知ってもらいたいためです。
もちろん、ここまで取り上げたこと以外に沖縄を語る上で考えていかなければならないことはまだまだありますが…そういった従来の沖縄観と一線を画してきたのは、従来のものはあくまで沖縄をとらえる上での氷山の一角でしかない…と私は考えているからですし、声高に叫ぶだけの徒党に組み込まれるよりは加わらないほうがよいとも考えています。
これは彼との違いではないかと想います。
というより、これは彼の世代との違いと言えるかもしれません。
しかし私も彼も、沖縄から遠く離れたところで「ひとり」で自分の頭で考え心で想っているのは確かです。
そして本来、それは誰にでも必要なことなのです。
そもそも組織や団体が生きて活かされているのではなく、「ひとり」という単位の個人が生きて活かされなければならないのはずなのです。
社会を動かすのは人間ひとりひとりのはず…いや、そうでなくても少なくとも徒党を組んだ連中ではないはずです。
沖縄という現代において特異な地域であれば尚更そうでなければならないのではないでしょうか。
最後に。
初めてここに来訪した人は、最初のオリエンテーションを一読を。
それから、この講義の存在を高めることに協力してくれる方はここへのクリックを1度といわず何度でも。
この講義自体は残り10回を切りました。
次回からは、ここまでのことを受けていよいよ最終章「これからのために」に入ります。
それでは…次回も乞うご期待。