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羊蹄学園大学社会学部講義集

北の大地に突如としてできた架空の大学。
かつてないテーマで綴る社会学とは?

喜茂具理佐の沖縄論第22回~ある琉歌とその周縁(5)~

2005-10-12 12:29:07 | 沖縄論第4章
(5、沖縄を表現するⅡ)
ひきつづきこんにちは。

しかし、です。
…といったところで前の時間は終了しました。
この時間は続きです。

その前に恒例の諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから、ここへのクリック、1度といわず何度でもしてください。
お願いします。

それでははじめます。

例えばですね…
1996年の米軍婦女暴行事件に伴う、沖縄での県民大集会のような、保守も革新も右も左も老いも若きもが集い、怒りの声を挙げたあのパワーが本土にも伝わってきたからこそ、結果として一過性だったとしても沖縄のことがクローズアップされ、本土の人間が不条理な沖縄の現状を考えるようになった、これもまた見逃せないのです。
ところが…、今年(2005年)の5月15日、すなわち本土復帰三三周年となった日、沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場の早期返還を求め、市民らが「人間の鎖」で同飛行場の周囲11キロを取り囲んでいます。
昨年に続いて四回目のことですが、参加者は県外からも含めて、主催者発表で過去最高の約24000人となっています。
これは前年の八月、同市で起きた米軍ヘリ墜落事故をきっかけに再び高まった基地撤去を求める県民世論の反映と言われています。

しかし、です。
九六年の県民大集会の参加者80000人(主催者発表)と比べれば少ないし、参加者も基地撤去を願う革新・野党陣営や市民・労働団体が多かったようです。
現に保守・与党陣営と呼ばれる人間は九六年には参加しても今回は参加していません。
本土マスコミの取り上げ方も九六年に比べれば小さいものとなっています。
こうした現状を鑑みると、沖縄の基地をはじめとする諸問題が逆に消えかけているような感覚さえ、私にはあります。

これはひとえに、沖縄の基地をはじめとする諸問題を学者やインテリ層やジャーナリストが沖縄を訴えることの限界を露呈しているように思います。
現に、前回の講義で紹介したように筑紫ですらその困難さを認めています。
そして、にもかかわらず、本土・沖縄に限らず万民に沖縄の基地をはじめとする諸問題を広く知らしめるためにはどうしたらよいか、ということを考えたとき、アーティストや芸術家といった、広い意味での表現者が自分の持つ力を使って伝えることが肝要なのではないかと暗に認めているところがあります。

ですが現状ではその表現者の力…特に沖縄から本土に向けての発信する力が弱くなっているように思えます。
前述のモンゴル800の例もそうですが、どうも沖縄からの若手アーティストがメジャー・インディーズ問わず出ているにもかかわらず、かつてのように沖縄について局地的にでも声高に言うことが少なくなってしまいました。
それはやっぱり本人たちの興味や立場と、世間の耳目を集めにくいというきらいがあるのでしょう。
しかし、発信する力の弱まりは同時に沖縄の基地をはじめとする諸問題を本土の人間の眼差しが弱くなることにつながっていくのもまた事実でしょう。

確かに九・一一同時多発テロやイラク戦争について取り上げることと比べれば、基地問題は世間の耳目は集めにくい情勢ではあります。
そうなるとテレビで言えば視聴率、音楽CDで言えば売り上げを伸ばすのは困難です。

重ねて言いますが、前述のモンゴル800のような姿勢は喜納昌吉が「花」を歌って、しきりに反戦平和を唱えたような姿勢とは明らかに違います。
そしてその姿勢は理解できます。
更に反戦平和を問答無用で声高に唱えることが全面的に素晴らしいとも思わないし、世間、特に本土の人間の支持を今さら集めるとは考えにくいでしょう。
たとえ反戦平和が絶対的な善だとしても。

しかし沖縄の基地をはじめとする諸問題が本土の中で埋没しかかっている現状に、このままでいいのかという思いも私にはあります。
直接的にもしくはお題目のように一つの事象を唱えるのはひとつの形として、しかし特に本土の人間に対し表現者は筑紫の言うような“想像力”の喚起を求める作品を作ることが必要ではないのでしょうか。
そうでなければ沖縄の問題は風化の一途をたどるだけではないかと私は思うのです。

つまり!
基地問題へのアプローチやそれを伝える表現の方法を変えて、改めて沖縄を発信するという曲がり角に差し掛かっているのではないのでしょうか。
またそうでもしないと…従来の方法の踏襲だと、世間の耳目を持続的に集めることは困難ではないでしょうか。

2003年、サザンは七年ぶりに沖縄での野外ライブを実施しました。
そこで彼らが最後に奏で、歌ったのが喜納の「花」でした。
今年は沖縄でのコンサートを予定していないようですが、しかし一方で石垣島滞在の日々を歌った新曲、「神の島遥か国」を発表しています。

そこには大物バンドとして多忙を極める中、一過性やブームに乗ったのではなく、あくまで肩の力を抜いたライフワークとして沖縄に向き合う、彼らの姿があるような気がします。
声高らかに訴えるわけではありませんが、しかし地道に活動するという、それもまたひとつの「沖縄を訴える」新しいやり方ではないかと、私には思えてならないのです。

どうでしょうか?
この章はここで終わります。
いずれにせよ、これは個人の才覚が光る一つの例です。
このように、たとえ弊害があったとしても沖縄に関連して「個人」が光ることは、他にないのか。
そしてその向こうに何があるのか。
更なる探求を進めていきます。

では…乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第21回~ある琉歌とその周縁(4)~

2005-10-12 12:28:18 | 沖縄論第4章
(4、沖縄を表現するⅠ)
こんにちは。
この講義も20回を超えました。
新たな気持ちで進めてまいります。
よろしくお願いします。

相も変わらずまずは諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから毎回、ここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください、とお願いしています。
回数が増すのと比例して存在も増すことを願っているので、よろしくお願いします。

では、はじめます。

そしてまた行き着くのは沖縄を唱えることの意味合いです。
第2章で「ウルトラセブン」放映時に「沖縄は政治だ」ということでスポンサーが難色を示すために、沖縄をにおわせる作品にテレビ局側がなかなかゴーサインを出さなかった話を紹介しましたが、今もなお当時ほどではないにせよ同じ理由で躊躇われる傾向にあるからこそ、沖縄を唱えることを目にするのが少ないのでは、と私は考えます。
また、アメリカの九・一一同時多発テロや、イラク戦争に対しては、音楽家のメディアを使ったアプローチは見られるのに、なぜ沖縄の基地などの諸問題は「国内の政治問題」という取り上げる際のやりにくさもあるのでしょう。
こういったことが結局は、若手のアーティストが自発的に沖縄を取り上げるのを避けるということにもなっていると私は見ています。

ところで!
過日の朝日新聞に以下のような記事を見つけました。

本土の一〇代から二〇代の若者に強い支持を受けながら、ほとんどメディアに露出しないバンドが、沖縄にいる。
「モンパチ」の愛称で呼ばれるモンゴル800。二〇〇一年発売の二枚目のCDは、インディーズ(独立系)レーベルとしては驚異的な二五〇万枚以上を売り上げた。
「忘れるな琉球の心 武力使わず 自然を愛する」(琉球愛歌)
…歌詞の冊子には反基地闘争の報道写真や、沖縄戦をモチーフにした木版画があしらわれている。
だが、反戦や平和を意図したつもりはない。「自分の中にあるものが出ただけ。沖縄に住んでいれば誰でも感じることを表現した」と言う。那覇市で育った上江洌さんに、米軍の存在感は薄かった。基地内のイベントに家族で出かけ、「広いなあ」と感じたぐらいだ。家で沖縄戦の話を聞いた記憶もない。「反基地で拳を振り上げるのもいいけど、日常の中にある大切なものを歌う方が、僕のやりたいことに近い」


…オレンジレンジなどと並ぶ、若手の沖縄出身の音楽グループですが、喜納昌吉が「花」を歌って、しきりに反戦平和を唱えたような姿勢とは記事を見る限り明らかに違います。

私はこのような…モンパチの考え方も理解はできます。
更に反戦平和だけを問答無用で声高に唱えることが全面的に素晴らしいとは思いません(反戦平和が絶対の善の行為だとしても)。

しかし、です。

…といったところで、この時間は終わりにして、次の時間に続きをまわしましょう。

では…乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第20回~ある琉歌とその周縁(3)~

2005-10-10 11:08:54 | 沖縄論第4章
(3、ある琉歌への呼応)
こんにちは。

今日のこの講義で、何と!20回です。
だから何だというわけではありませんが…。

そうなんですね…まだまだこの講義は道半ばなんです。
ですから今後もお付き合いのほどを。

それでははじめていきますが…その前に諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから毎回、ここをクリックして、このブログの存在を高めてやってください、とお願いしています。
アクセス数の割には順位が低いですし、何より20回ですので、いつもにも増してよろしくお願いします。

では、はじめます。

前回は平和の琉歌への個人的な見方をお話しました。
今回はこの歌への実際の反応についてとりあげていきます。

実際の反応、という意味で一番注目されるのは、沖縄の反応なのですが…本土の人間によって作られたにもかかわらず、難なく受け入れられたようです。
実際、その一つの表れとして、沖縄で琉球音楽の継承・発展に励む、四人組の女性唄者グループであるネーネーズがこの曲を一九九九年に、カバーしていることが挙げられます。
カバーのきっかけはTVのニュース番組でおなじみの筑紫哲也で、サザンが好きな筑紫が友人でネーネーズのプロデューサーである知名定男にこの曲を聴かせ、気に入った知名はネーネーズのアルバムに若干の修正を加えたものの、この曲を盛り込むことにした…というのが、大まかな経緯とされています。
ところでこの年…一九九六年の六月二三日〖沖縄慰霊の日)に筑紫のニュース番組に出演したネーネーズはこの曲を歌うのですが、それを受けて筑紫は後日、沖縄タイムスでこの楽曲について以下のように記しています。

近年は個人的事情が目立ちだしている。私の沖縄についての発言や報道の姿勢が、沖縄に「肩入れ」し過ぎている、果ては”偏向“している、という風当たりが強まっているということである。私に復帰前の沖縄在住という”個人的体験“があることは紛れも無い事実だし、そういう批判を個人的にはむしろ名誉なことだと思っている。考え込んでしまうのは、そこに顕在化する”伝えること“の難しさである。一方の体験を、そういう体験のない方にどう伝えるか。それはジャーナリズムと呼ばれる仕事の一番基本的なテーマであるだけに、考え込まざるを得ないのだ。それは、更に広げて考えれば、人間とは何者かというテーマにつながっていく。人間が自分の体験したものだけしか受け止められないのだとしたら、人間の営みには何の積み重ねも無かったはずだ。そうではなかったからこそ、今日までの発展や進歩があった。そのことを可能にしたのは、人間に”想像力“という能力があるからだと思う。たとえ自分自身にはその体験がなくとも、それはどんなものだろうか、と想像してみる能力のことである。その秀れた例として平和の琉歌を流した。このバンドのリーダーには、特別な沖縄体験があるわけではない。しかし秀れた想像力と、それを表現する才能があるから、こういう歌が作れる。すごい作品である。

筑紫の出演するニュース番組…TBS系の「ニュース23」ですが…では事あるごとに沖縄に関する特集を多く組み、また筑紫自身も沖縄の抱える問題を何度も取り上げ訴えてきました。
その発端は朝日新聞に在職中の一九六八年から七〇年にかけて、沖縄特派員として返還交渉を取材したのがそれだと言われています。
今紹介した文中にある“個人的体験”というのもそのことを指しているようです。
しかしどうなのだろうと考えてしまいます。
確かに本土復帰以前の沖縄に本土の人間が数年でも住み、返還交渉の舞台裏などをみてきたのは小さなことではないはずです。
否、当時の沖縄の空気を吸っていただけでも大きなことかもしれません。
しかしその体験は“つくられたもの”ではないのでしょうか。
というのも結局はサラリーマンが沖縄支社に配属させられた、というのとさほど変わらないような気がするのです…本当のそもそもの沖縄への思い入れの発端は学生時代の外洋航海の際の密入国だと言っていますが。
とにかくもっと言ってしまえば、筑紫がフリーのジャーナリストで無い限り、この“個人的体験”というのは純粋な自発的な行動によるものではなく、受動的な行動の結果でしかないのではないか、と私は思うのです。
とするとこの“個人的体験”というやつは、それなりの気高さは認めつつも、筑紫が殊更に強調することではないと言わざるを得ないのではないでしょうか。

また、オリエンテーションで私は沖縄へ足を運んだことがない、と言いました。
だから沖縄で何年も実地で取材を重ねている人よりは圧倒的に沖縄への造詣は深くないかもしれません。
だが一方で自分のそういった未熟さを十分に自覚しているつもりだし謙虚でいようと心がけているつもりでいます。
筑紫はどうでしょうか。
確かに沖縄への造詣は深いでしょう。
私とて筑紫がメディアで沖縄について語る中でためになったこともあります。
だから評価はします。
しかし殊更に、殊更に沖縄に足を運んだことを強調しすぎではないのでしょうか。
そしてそれは…言い方は悪いですが…まるで人類未踏の地にでも行ってきたかのような、言い草であり、その強調はともすれば失礼なことではないのでしょうか。
復帰前とはいえ沖縄に足を運んだことは、本来は決して勲章にも栄誉にもならないはずです。
むしろ、このような場合、どれだけ謙虚に個人が沖縄を捉えられるかということなのではないかと思うのです。

勘違いしないでください。
この紹介した文中にあるように偏向しているから、私は筑紫が問題だといっているのではありません。
さりとて、右だの左だのの見地から問題だといっているわけでもありません。
もちろん、巷の筑紫批判に盲目的に同調しているわけでもありません。
さも沖縄でのことを高尚に語ることに違和感があると言っているのです。

そういったことを勘案すると“個人的体験”と絡めて、この楽曲に対する筑紫のこの評論は、何か筑紫の沖縄に対する勝手な思い入れにこの楽曲が利用された証なのではないかと思えてならないのです。

…ということで、今日はこれまで。
20回記念と言うことで短く切ったわけではありませんが、今日はこれまで。
次回はこういったことを受けて見えてくることについて話をしたいと思います。

それでは…乞うご期待。



喜茂具理佐の沖縄論第19回~ある琉歌とその周縁(2)~

2005-10-06 13:47:03 | 沖縄論第4章
(2、ある琉歌への視座)
ひきつづきこんにちは。

まずは恒例の諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

それから、ここへのクリック、伏してお願いします。

…ということで、この時間は長くなりそうなので、とっとと今日は本題に入ります。

えー…前の時間は、新しい章に入るにあたってのプロローグというかイントロダクションでした。
この時間からこの章の本題に入ります。

突然ですが!
サザンオールスターズというバンドがあります。
J-POPという若者向け音楽の世界に身を置くバンドながら、これほど老若男女に支持され愛されているバンドは、日本国内で他にはなかなかないでしょう。
一九七八年にデビューを果たしてから三〇年弱ですが、今なお日本の音楽業界の先頭を走り続けています。
昨日は7年ぶりにオリジナルアルバムが発売され、相変わらず充実した活動を展開しています。
個人的にはそのような時期にサザンいついて語るというのは、なんともいえない気分になるのですが・・・それはそれとして。

このバンドが、一九九六年にアルバムの発表と共に全国ツアーを夏に行いました。
それはそれでひとつの出来事だったのだが、それよりも私が注目したいのは、そのツアー日程に18年ぶりの沖縄での野外ライブを組み入れたことと、そのライブでアルバムにも無かった新曲をいきなり歌いだしたと言うことです。
新曲のタイトルは「平和の琉歌」。
歌詞を以下に記します。

この国が平和だと 誰が決めたの?
人の涙も渇かぬうちに

アメリカの傘の下 夢も見ました
民を見捨てた戦争の果てに

蒼いお月様が泣いております
忘れられないこともあります

愛を植えましょう この島へ
傷の癒えない 人々へ
語り継がれてゆくために

この国が平和だと 誰が決めたの?
汚れ我が身の罪ほろぼしに

人として生きるのを 何故に拒むの?
隣り合わせの軍人さんよ

蒼いお月様が泣いております
未だ終わらぬ過去があります

愛を植えましょう この島へ
歌を忘れぬ 人々へ
いつか花咲くその日まで


どうでしょう。
曲について一言で言ってしまえば、平和の琉歌というだけあって、琉歌調のゆったりした曲の調子で、しかし本土の言葉で、平和を訴え基地に苦しむ沖縄のことを、作詞の桑田が桑田なりに切り込んだ…というところでしょうか。
私はこれを初めて聴いた時、あまりにダイレクトに沖縄に迫っていると感じ、「よくぞ作った」という痛快さが広がりました。
それと同時に国内のアーティストがこういった類の楽曲を全くもって作らないことへのやるせなさが頭をもたげました。

しかし…何より沖縄について思いをいたしているから、またはサザンオールスターズ…以後、「サザン」としますが…のファンだから、と言うわけではないけれども、この沖縄ライブと新曲・平和の琉歌の存在は、私にとって「驚くべき」事…というのが率直なこの曲への私なりの見方です。
「驚くべき」というのは様々な理由からそう言えます。
まずサザンの楽曲をよく聴く人にとって沖縄でのコンサート、というよりこの当時地方でコンサートや野外ライブを開催することがそもそも異例であったという点。
大御所バンドであるため、通常全国ツアーといっても、都市部中心にしかも短期間に巡業するということが多く、地方で、しかも東京から南に最も遠く離れている沖縄でやるというのは、考えられないことだったからです。
また沖縄に限らず中央から遠く離れた地でこれだけの大物バンドが単独で野外ライブをやるというのは、当時ではまだまだ「驚くべき」ことでした。
この沖縄ライブの場合、地元のラジオ局が事前にサザンに関する特別プログラムを組んで、ライブを盛り上げようと躍起になっていたことからもそれは伺えると思います。

そして平和の琉歌の存在です。
しかしこの楽曲における「驚くべき」点は、何の発表もなされぬままにいきなりライブで歌われたという部分だけであり、実のところコアなファンにしてみれば、楽曲の内容自体に実はさほどのもの驚くべき点は、ないのです。
というのもこの楽曲を作詞・作曲したサザンのリーダーである桑田は、もともと社会問題への造詣が深い人物だったからです。
たとえば発売されるアルバムには必ず、社会や家庭や政治に対しての憂いや皮肉を込めたロック色の濃い楽曲を必ず制作し組み入れていたし、何より毎年冬のアーティストによるエイズ撲滅を掲げたコンサート「Act Against AIDS」の中心人物に桑田はなっていて、毎年趣向を凝らしながらしかしとにかくファンに思いをぶつけていた…とまぁこうしたことがあったからです。
また琉球音楽の取り入れも以前から行っており、この楽曲に限らず琉歌調の楽曲は他にも数曲あるのです。
沖縄を活動拠点とするアーティストとの交流もあるし、喜納昌吉の『花』をコンサートで歌うことも多いです。

つまり、何度も言うようですが「平和の琉歌」という楽曲の存在が「驚くべき」事なのである。
サザンにとって「平和」とか「琉歌」といったテーマに限って言えば別に「驚くべき」ことではないのです。
このような関連する活動があったわけですから。
しかし「平和」と「琉歌」がかみ合って「平和の琉歌」となり、ひとつの楽曲となったことが「驚くべき」ことなのです。
彼らは「平和」について歌うことはもともとあったわけだし、「琉歌」に取り組むことがあったのですが、それがまるで「点」だったのを「線」として結びつけたごとく、長年取り組んできた「平和」と「琉歌」をひとつの質の高い作品にまで、何の事前の触れ込みもなく、いきなり昇華させてしまったことが「驚くべき」点なのです。

…という背景が無い限り、私にとって惰眠をむさぼる学生が何気なく聴くような楽曲の一つに過ぎなかったかもしれません。
しかしこうして個人的な勝手な思い込みかもしれないにせよ、「驚くべき」点があったゆえに私はこの楽曲を「ただの楽曲」として捉えることは無くなりました。
そして実際にこの楽曲は「ただの楽曲」として収まることはありませんでした。
なぜなら「ある」反応が返ってきたからです。

…といったところで、予想通り長くなったので、今日はここまでとします。
次回は「ある」反応について、やります。
それでは乞うご期待。

喜茂具理佐の沖縄論第18回~ある琉歌とその周縁(1)~

2005-10-06 13:45:19 | 沖縄論第4章
(1、プロローグ)
こんにちは。
今日からいよいよ新しい章です。

その前に諸連絡から。
今回が初めてという人は、最初のオリエンテーションを読んでから、この講義に臨んでください。

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よろしくお願いします。

では講義を始めます。

あのぉ…まぁこういうのは若い人の方が圧倒的に詳しいのですが…
J-POPと呼ばれている、日本人歌手による主に若者をターゲットにした音楽のランキングでは、相変わらず、局地的ではありますが沖縄出身者の席捲が続いています。
特に八〇年代から瞬間的に騒がれることはあったが、九〇年代以降がその傾向に拍車がかかります。
安室奈美恵、SPEED、MAX…枚挙に暇がないとまで言わないですが、10代の少女らが地元沖縄での養成を経て、東京を活動拠点にテレビや雑誌を多く賑わすようになりましたね。
最近では、夏川りみやオレンジレンジなどがその代表株として挙げることができるでしょう。

しかし彼らの多くは、沖縄出身であることを取り上げられ、世間の耳目を集めるものの、自分たちから殊更に沖縄をアピールすることはありません。
たとえば今では参議院議員となった喜納昌吉は、かつて「花」という歌をヒットさせ、盛んに反戦平和とお題目のように唱えていました。
…ということが、今の沖縄出身アーティストには皆無です。
せいぜい受動的に…たとえば安室が沖縄サミットの時に要請されて、テーマソングを歌うくらいでしょう。
メジャーの世界では本当に少ないです。

しかし顧みれば沖縄であろうが、何であろうが特にフォークソング全盛のときなどは時勢に対して強烈に食ってかかるようなスタンスを感じ取る楽曲を多く私たちは目にすることができたはずなのです。
しかし今は…市井の若者の生活だったり悩みだったりが歌にこめられることは多く、それはそれでよいのですが…一方で社会や政治と言った大局的なものへの訴えを目にすることは少なくなっています。
沖縄という日本が抱える重たい地域の諸問題もそういった大局の問題の一つです。
しかし、日本の大部分の地域では、国政・地方政治問わず政治が縁遠いものとなっています。
ということはそこに顕在化する諸問題に対して疎くなっている国民が多くなっている傾向があり、楽曲に込められなくなったのもまぁ当然といえば当然と言えるでしょう。
沖縄出身のアーティストにでそういう政治色の薄さが見られるとするならば、本土のアーティストはもっと顕著です。
…といったここ数年の情勢の中、少し珍しく、そして稚拙なエッセイにある種の「彩り」を与えた動きが、米兵による婦女暴行事件に対しての怒りが沖縄に満ち満ちていた1996年にあった。これを紹介したいと思います。

…この時間は、新しい章「ある琉歌とその周縁」のイントロダクションです。
これをふまえて、次の時間から本格的に話を進めていきます。

それでは乞うご期待。