羊蹄学園大学社会学部講義集

北の大地に突如としてできた架空の大学。
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さらば銀河鉄道6・歴史編(1)

2006-05-23 12:56:16 | 銀河線歴史編
(延命、そして今日までの道筋)
こんにちは西日暮里です。

今日からは銀河線の歴史にふれていきます。

ふるさと銀河線は、池北高原鉄道という第3セクターの会社が運営しています。
第3セクターによる鉄道経営は、北海道では唯一です。
そもそもJR以外の、私鉄の概念があまりない北海道にとって、第3セクターとはいえ、JRの会社がこれだけの長距離鉄道路線を運営するのは奇異にすら感じます。
そう…「銀河線」は、非常に「裏」の事情のある中で産声をあげたのです。

今日はまず、その「銀河線」の前身である、国鉄池北線の歴史、そして第3セクターとなる流れをたどっていきます。

銀河線の前身、国鉄池北線の開業は1910(明治42)年。
札幌と野付牛(今の北見)や網走を結ぶ、国鉄網走線(網走本線)として、池田から陸別の間が一部開通したことがそのはじまりです。
翌年には野付牛までの開通を果たします(これが池北線の全面開業となるのだが、当時は網走本線だったのでこの翌年の網走までの開通で全面開業となった)。

開業時の池北線は、現行の石北本線が難工事のため開通していないということで、道都・札幌と道東地方の主要地域である野付牛(のちの北見)・網走を結ぶルート、つまり幹線、北海道の大動脈の扱いを受けていました。
しかし1932(昭和5)年に旭川からの石北線(石北本線)が野付牛まで開通し、翌々年に全線開通すると札幌と北見・網走を走る列車の多くは距離の短い上川・遠軽周りを通るようになり、メインルートから外れた池北線はしだいに重要度を落とし、ただのローカル線扱いされるようになります。
ただそれでも当時の沿線は特に、置戸・陸別・本別が林業で栄えていたため木材運搬で活況を呈しその恩恵を受けていました。
ですがそれもやがて乱伐や安い輸入木材の登場で林業は衰退し、地方の鉄道路線の共通する問題であるモータリゼーション化・過疎化にも悩まされ、第二次の特定地方交通線の指定を受け、池北線はますますその重要度を下げていくことになります。
1961(昭和36)年には、線路名称の変更が行われ、石北線が石北本線と「本線」の名称がつくようになり、池田から北見の間は池北線とされます(同じ網走本線だった北見から網走の間は石北本線の一部となる)。

著しく存在感が低下する池北線。しかしながら翻れば北海道、ひいては日本の各所でも同じような赤字ローカル路線が、年々増えるようになり、そしてその最中、国鉄の民営化、すなわちJRへの移行が中曽根内閣によって決定されるに至ります。

国鉄民営化の話が進むにつれて、不採算路線を多く抱える国内、とりわけ北海道の鉄道路線をどうするかがひとつの問題となりました。
JRがJRとしての経営をできるだけ障害なく行うためには、とにかくJR移行前に、できるだけ赤字ローカル線に対して一定の区切り・方向性を示さなければならなくなったからです。

そしてまずその遡上に上がったのは名寄本線(名寄~紋別~遠軽)、標津線(標津~中標津~標茶、中標津~根室市厚床)、天北線(稚内~浜頓別~音威子府)、そして北見~池田間の池北線、この4本の国鉄路線が廃止するか否かの決断を迫られることになりました。
地図で見るとわかると思いますが、どれも札幌から遠くはなれた、最果ての鉄道路線です。
どの路線の地域も、過疎化が進んで乗客が激減し、採算がとれなくなっていました。
何より採算が取れないのもそうですが、どれも100km超の長距離路線です。
そのため「長大四線」と呼ばれるくらい、クローズアップされました。

粘り強い存続運動が展開されました。
しかし長大四線は1984(昭和59)年、廃止承認を保留されたものの第2次特定地方交通線の扱いとなり、翌年廃止承認、ということになります。

1987(昭和62)年、JRが発足。
池北線を含む長大四線も国鉄から承継されたものの、廃止決定の運命は変わりませんでした。
しかしこの最中、池北線のみ北海道初の第3セクター鉄道として再出発することになります。
そこには住民の根強い存続運動があった…ということになっていますが、しかしたとえばカリスマ性を兼ね備えた運動の先頭に立つ人間がいたわけではありません。
それなのになぜ、存続に至ったか、その点の考証は後ほどにして、とにもかくにも池北線は紆余曲折の末、生き残ることになりました。

そして1989(平成元)年6月1日、池北線の廃止に伴い、北海道と沿線自治体が出資して設立した第3セクターの会社「池北高原鉄道」による、ふるさと銀河線として再スタートを切ります。

1991(平成3)年には、帯広への乗り入れが実現(池北線時代にはあったことだが、銀河線になってからは車両の関係もあり、乗り入れができなくなっていた)、1995(平成7)年には本別町の豆菓子製造会社「岡女堂」が工場敷地内に「岡女堂駅」を開業させるなど、銀河線を盛り上げる話題も数多くあったものの(この事柄については後述します)、
沿線地域の人口減と乗客者数の減少は年々大きく銀河線にのしかかり、結局紆余曲折の末、
2005年3月27日には取締役会にて廃止が決定されてしまいます。
次いで翌月の4月17日に臨時株主総会で廃止を正式に決定され、4月21日には廃止を届出、この結果2006年4月20日限りで廃止、ということになってしまいました(この廃止決定までの経緯も後述します)。

ここまで国鉄池北線からの歴史をたどってみてわかるように、全国の赤字ローカル線に多く見られる全盛と衰退を沿線の産業と並行して味わう、というのはここにおいても変わりません。
ただ一点違うとすれば、北海道で唯一、第3セクターというある種の「延命」を許されたということです。
許された、というのは、誰かの何らかの「作為」があったからこそ成立する話です。
それが誰なのか何なのか、そしてそれにもかかわらずなぜ今、その「延命」が限界に達し、廃止されようとしているのか、この後少しずつそこに焦点を切り替えていきます。

今日はここまでです。
西日暮里でした。
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