昨日は島ちゃんの自慢の妹「島田妙子」の講演会が行われた。
今回の講演会は、朝日新聞掲載後ということも有り、実にたくさんの方が来場くださった。
ありがとうございます。
私にとって「島田妙子」はプライベートでは「たえこ姉ぇ」(詳細は義妹だが)、仕事では「島田代表」という二つの名前を持つ」
私が自分自身感心する所は「妙子ねぇ」と「島田代表」をきっちりと使い分けることが出来る。それなのに・・・「島田妙子」はどうでしょう?
はたから見ると「島田妙子」は凛としていてしっかり者。そして私の方が危なっかっしく見える。
それが、それが・・・その凛としていてしっかり者に、見・え・る「島田妙子」は突然「ゆみちゃ~ん」って仕事中なのに名前で呼んだかと思ったら
「あれ?ほら、あれって何だったっけ??」といきなりの質問。いやいや・・・それはこっちが聞きたい。何を質問しようとしてるのだ?
何が言いたいのだ? 主語が完全に抜けとるやないか。な~んてことを心のなかで言いながら、私は頭ん中グルグル、フル回転だ。そんな私の
事はほっといて「島田妙子」は
「あっ、思い出した。」って一人スッキリ顔。おいてけぼりになった私・・・チャンチャン。
島ちゃんと結婚して島ちゃんが亡くなるまでは「妙子ねぇ」だった。その「妙子ねぇ」が「島田代表」に変わりそして「島田妙子」講演会を
最初から一番近くで見てきた。
最初の講演会は島ちゃんに見てもらうはずだった。手さぐりの状態で講演会の準備をしてる時に島ちゃんは旅立った。
講演会会場もおさえ、たくさんの方にチラシを配りアナウンスしていた。
島ちゃんが入院している時、私は今と全く違う仕事をしていた。
そんな私に島ちゃんはよく「妙子とママが一緒にスーツをバシッと着てかっこよく仕事してるとこを俺はみたいなぁ」なんて
言っていた。私は「妙子ねぇ」と一緒に仕事をすることなんて考えもつかなかったので、ただただ冗談だと思い笑っていた。
「妙子が講演会するって言ってるから、ママ、サポートしてやり」って言葉に素直に「うん」って言った。
日に日に弱っていく島ちゃんの看病だけで一日が終わっていた私は精神的に疲れていた。時には病院に行くのが苦しくて体が重く感じるという
日もあった。
そんな毎日だったけど講演会の準備で病院から離れて「会社」訪問したり講演会会場に下見に行ったり、ちょっとした時間に私は救われた。
講演会会場の下見に行った時、会場近くの古臭い喫茶店で「妙子ねぇ」とホットコーヒーを飲んだ。今でもその光景とコーヒーの味を覚えてる。
そうやって、後は開催日を待つだけだった。
そんな時に島ちゃんは旅立ってしまった・・・。
日々の事すら手につかない。ましてや先の事なんて考える余裕なんてある訳ない。
でも、時間だけが経っていく・・・。そして講演会当日。
私がしゃべる訳でもないのに、緊張しのどがカラカラだった。妙子ねぇの緊張がビンビン伝わってくる。
講演会が始まり妙子ねぇは話始めた。
島ちゃんの過去。島田兄妹の過去。虐待、兄妹の絆・・・。
涙があふれた。
私が知らない島ちゃん・・・。島ちゃんが生きていたら「妙子ねぇ」の講演会をどんな気持ちで聞いていたんだろう。
初めての講演会の後、短い間だったけど島ちゃんの嫁をしてたのに、島ちゃんの過去に衝撃を受け、島ちゃんを助けることが出来なかった自分が
嫌になったのを覚えている。「これから島ちゃんは幸せになるはずだったのに・・・」 悔しかった。悲しかった。なんで私じゃなくパパが死んだんだろう。
島ちゃんが旅立って最初の講演会を終え、私は「妙子ねぇ」から「島田代表」と呼ぶようになり「株式会社イージェット」に入社した。
それから「島田妙子」の講演会をいつも近くで見てきた。
講演会の度に自分自身の気持ちの変化が感じられるようになった。
感情の方が優先されてスタッフなのに泣いてしまったり、緊張したり、動揺したり・・・
でも、一講演、一講演、聞く度に、客観的に冷静に聞けるようになってきた。
それは、島ちゃんの死を事実だと受け止め、島ちゃんの事をどんなに悔やんで自分を責めても島ちゃんは帰ってこないと言う事に気付き、
受け入れたからだ思う。
「時が経つということ」
時間をとめることは出来ない。巻き戻しも早送りも出来ない。
どんな時も一発勝負。毎日、奇跡は起きている。
その瞬間、瞬間に起きている奇跡に気づく人でありたいと思う。
「人間はいつか死ぬ。だから死を迎えるのは仕方がない。でも、できるならもう少し生きていたい。子供の成長をみたい。
自ら命を落とそうと考えてる人にお願いしたい。(その命をください)と。次男坊はまだ2歳。2歳の記憶って大人になっても残っているのだろうか?
オレの事を忘れられるのはちょっと寂しいな。それならいっそ記憶に残らない方がいいのかな?ムズカシイね・・・」
島ちゃんは涙を見せず笑って私に言った。
「時が経つということ。」
今回の講演会は、朝日新聞掲載後ということも有り、実にたくさんの方が来場くださった。
ありがとうございます。
私にとって「島田妙子」はプライベートでは「たえこ姉ぇ」(詳細は義妹だが)、仕事では「島田代表」という二つの名前を持つ」
私が自分自身感心する所は「妙子ねぇ」と「島田代表」をきっちりと使い分けることが出来る。それなのに・・・「島田妙子」はどうでしょう?
はたから見ると「島田妙子」は凛としていてしっかり者。そして私の方が危なっかっしく見える。
それが、それが・・・その凛としていてしっかり者に、見・え・る「島田妙子」は突然「ゆみちゃ~ん」って仕事中なのに名前で呼んだかと思ったら
「あれ?ほら、あれって何だったっけ??」といきなりの質問。いやいや・・・それはこっちが聞きたい。何を質問しようとしてるのだ?
何が言いたいのだ? 主語が完全に抜けとるやないか。な~んてことを心のなかで言いながら、私は頭ん中グルグル、フル回転だ。そんな私の
事はほっといて「島田妙子」は
「あっ、思い出した。」って一人スッキリ顔。おいてけぼりになった私・・・チャンチャン。
島ちゃんと結婚して島ちゃんが亡くなるまでは「妙子ねぇ」だった。その「妙子ねぇ」が「島田代表」に変わりそして「島田妙子」講演会を
最初から一番近くで見てきた。
最初の講演会は島ちゃんに見てもらうはずだった。手さぐりの状態で講演会の準備をしてる時に島ちゃんは旅立った。
講演会会場もおさえ、たくさんの方にチラシを配りアナウンスしていた。
島ちゃんが入院している時、私は今と全く違う仕事をしていた。
そんな私に島ちゃんはよく「妙子とママが一緒にスーツをバシッと着てかっこよく仕事してるとこを俺はみたいなぁ」なんて
言っていた。私は「妙子ねぇ」と一緒に仕事をすることなんて考えもつかなかったので、ただただ冗談だと思い笑っていた。
「妙子が講演会するって言ってるから、ママ、サポートしてやり」って言葉に素直に「うん」って言った。
日に日に弱っていく島ちゃんの看病だけで一日が終わっていた私は精神的に疲れていた。時には病院に行くのが苦しくて体が重く感じるという
日もあった。
そんな毎日だったけど講演会の準備で病院から離れて「会社」訪問したり講演会会場に下見に行ったり、ちょっとした時間に私は救われた。
講演会会場の下見に行った時、会場近くの古臭い喫茶店で「妙子ねぇ」とホットコーヒーを飲んだ。今でもその光景とコーヒーの味を覚えてる。
そうやって、後は開催日を待つだけだった。
そんな時に島ちゃんは旅立ってしまった・・・。
日々の事すら手につかない。ましてや先の事なんて考える余裕なんてある訳ない。
でも、時間だけが経っていく・・・。そして講演会当日。
私がしゃべる訳でもないのに、緊張しのどがカラカラだった。妙子ねぇの緊張がビンビン伝わってくる。
講演会が始まり妙子ねぇは話始めた。
島ちゃんの過去。島田兄妹の過去。虐待、兄妹の絆・・・。
涙があふれた。
私が知らない島ちゃん・・・。島ちゃんが生きていたら「妙子ねぇ」の講演会をどんな気持ちで聞いていたんだろう。
初めての講演会の後、短い間だったけど島ちゃんの嫁をしてたのに、島ちゃんの過去に衝撃を受け、島ちゃんを助けることが出来なかった自分が
嫌になったのを覚えている。「これから島ちゃんは幸せになるはずだったのに・・・」 悔しかった。悲しかった。なんで私じゃなくパパが死んだんだろう。
島ちゃんが旅立って最初の講演会を終え、私は「妙子ねぇ」から「島田代表」と呼ぶようになり「株式会社イージェット」に入社した。
それから「島田妙子」の講演会をいつも近くで見てきた。
講演会の度に自分自身の気持ちの変化が感じられるようになった。
感情の方が優先されてスタッフなのに泣いてしまったり、緊張したり、動揺したり・・・
でも、一講演、一講演、聞く度に、客観的に冷静に聞けるようになってきた。
それは、島ちゃんの死を事実だと受け止め、島ちゃんの事をどんなに悔やんで自分を責めても島ちゃんは帰ってこないと言う事に気付き、
受け入れたからだ思う。
「時が経つということ」
時間をとめることは出来ない。巻き戻しも早送りも出来ない。
どんな時も一発勝負。毎日、奇跡は起きている。
その瞬間、瞬間に起きている奇跡に気づく人でありたいと思う。
「人間はいつか死ぬ。だから死を迎えるのは仕方がない。でも、できるならもう少し生きていたい。子供の成長をみたい。
自ら命を落とそうと考えてる人にお願いしたい。(その命をください)と。次男坊はまだ2歳。2歳の記憶って大人になっても残っているのだろうか?
オレの事を忘れられるのはちょっと寂しいな。それならいっそ記憶に残らない方がいいのかな?ムズカシイね・・・」
島ちゃんは涙を見せず笑って私に言った。
「時が経つということ。」