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ベック式!難単語暗記法ブログ

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殖産興業

2018-09-06 | 入試問題+ゴロ合わせ

都内横暴 銀希望 金八日本成功し。

富岡製糸場 内国勧業博覧会 大阪紡績会社 銀本位制確立・企業勃興ブーム 金本位制実施・八幡製鉄所・日本製鋼所)

[point]

1.殖産興業の流れは、官営模範工場富岡製糸場内国勧業博覧会大阪紡績会社銀本位制確立→企業勃興ブーム、とつづく。

[解説]

1.官営模範工場富岡製糸場の設立(1872)。富岡製糸場は殖産興業のため、初の官営模範工場として群馬県富岡に設立された。絹織物工業の先進地フランスリヨンから機械と技術者ブリューナーを招き、主に武士の子女から募集した工女へ技術教育を行った。

2.内国勧業博覧会の開催(1877)。殖産興業の一環として、東京・上野で開催された博覧会。臥雲辰致(がうんたっち)発明のガラ紡も展示された。


3.大阪紡績会社の設立(1882)。渋沢栄一らが設立、1万錘のミュール紡績機を導入して大規模経営に成功。これに刺激されて機械制生産工場が急増し、従来のガラ紡を圧倒した。


4.銀本位制確立(1886)。政府紙幣の銀兌換が開始され、銀本位の貨幣制度(銀本位制)が確立。


5.企業勃興ブームおこる(1886~)。銀本位制確立後に産業界では会社設立ブームがおこった。これをいう。この動きは、1881年設立の日本鉄道会社を先駆けにして鉄道部門で顕著だった。


2017早大・法

問9 空欄Dは、第一国立銀行や大阪紡績会社の創立などにあたった代表的実業家である。その姓名を漢字で記入しなさい。

(答:渋沢栄一)


2017早大・政経:「

問2 下線部(い).兵制何に由て更張するを得んや、百事何に依て振興するを得んやに関連する以下の記述のうち、誤っているものはどれか。

 a.1871年に着工した富岡製糸場は、フランスから輸入した新鋭機械を用いて生糸の生産を行った。

 b.明治政府は、1871年に新貨条例を定め、翌年には初の円単位の紙幣である太政官札を発行した。

 c.1877年には内務省の主催により上野で第1回内国勧業博覧会が行われた。

 d.明治政府は、旧藩営の高島、三池などの炭鉱を接収し、官営事業として経営した。
 e.1873年の徴兵令では、官吏、陸海軍学生、官立専門学校以上の学生、洋行修行中の者、戸主とその相続者、代人料270円以上の上納者は兵役が免除された。」

(答:b×※通貨単位は江戸時代に引き続いて両、分、朱のまま)


2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)

問1 次の文章の空欄(ア~エ)に当てはまるもっとも適切な語句を、あとの語群(32語句…略)から1つずつ選びなさい。なお、同じものを何回選んでもよい。

 1880年代前半に時の大蔵卿( ア )による財政政策が展開されたが、その結果、デフレと不況が深まった。しかし、その後は、( イ )本位制の確立をうけて物価の安定、金利の低下による株式取引の活発化などで活況を呈した。そして、会社設立のブームが起こったが、金融機関の資金不足、前年の凶作と生糸輸出の半減もあって( ウ )年に恐慌が起こったため、挫折した。そのため、( エ )年に設立されていた中央銀行である日本銀行は、普通銀行を通じて産業界に資金を供給する態勢を整備した。」

(答:ア松方正義、イ銀、ウ1890、エ1882)〉


2016慶大・商A方式

 明治時代に入ると、政府は(イ)遣外使節団を送ったり、外国人の学者や技師らを招くなどし、西洋の政治制度や産業、文化を摂取しようとした。産業面では、たとえばイギリス人技師の指導のもと鉄道が開通し、新橋・[ 47 ]間に敷設されたほか、フランスの技術を導人して富岡製糸場を設立し生糸の生産を拡大させた。幕末期にヨーロッパに渡航した渋沢栄一は、その後、国立銀行条例の制定に携わるほか、日本初の本格的な紡績会社である[ 48 ]紡績会社をはじめ多くの企業を設立するなど、日本の金融・経済の近代化に貢献した。
 また、1877年より内務省(のちの農商務省)主催のもと計5回開催された( a )博覧会では、西洋の最新の技術が紹介され、国内の産業の近代化の促進が目指された。

問1 文中の空欄[47~48]に当てはまる最も適切な語句を下の語群(69語句あり…略)より選べ。

問2 文中の空欄(a)に入る最も適切な語句を漢字で書きなさい。

問3 下線部(イ)について、1871年の遣外使節団の大使となった人物の氏名を漢字で書きなさい。

(答:問147横浜・48大阪、問2a内国勧業、問3岩倉具視)〉


2016明大・政経

問4 下線部(ウ)官営富岡製糸場の設立・操業に際して、技術指導などを中心にとくに大きな関係ないし影響を持ったとされる国はどこか。A~Eから一つ選べ。
 Aイギリス Bアメリカ Cイタリア
 Dオランダ Eフランス」

(答:E)〉


2016明大・情報

問3 下線部(ウ)殖産興業に関して、下記の文章の空欄に入る国名として、もっとも正しいものを、1~4から1つ選べ。

 2014年に世界遺産に登録された富岡製糸場は、官営模範工場として設置され、(   )の機械・技術導入と工女の養成をはかった。
 1.アメリカ 2.イギリス 
 3.ドイツ  4.フランス」

(答:4)〉


 〈2016学習院大・法

 明治政府は富国強兵をめざして、欧米先進国から技術を移植しながら殖産興業を進めた。1870(明治3)年、殖産興業政策の中心的機関として[ 1 ]が設置され、鉄道・電信電話・鉱山などの事業を行った。1872年には、新橋~横浜間に敷設された鉄道が開通し、旧藩営の高島、三池などの鉱山は官営として事業が進められた。繊維工業については、各地に近代的な設備を有する官営模範工場が設立された。製糸業で、1872年、フランスからの技術を導入して群馬県に[ 2 ]が設立された。紡績業では、イギリスから二千錘紡績機二基を購入して愛知、広島両県に官営紡績所が設立された。その後、鉱山や機械工業などの官業も民間に払い下げられ、事業が継続された。

 製糸業では長野県を中心に器械製糸が普及した。いっぽう紡績業では、渋沢栄一が中心となって1882年に設立した一万錘規模の[ 3 ]会社が成功すると、民間の紡績企業の勃興が生じた。鉄道業では1881年、華士族の資本を中心に日本最初の民営鉄道である日本鉄道が設立され、1891年に[ 4 ]間で全通した。

問1 [ 1 ]にあてはまる組織名を答えなさい。
問2 [ 2 ]にあてはまる官営模範工場名を答えなさい。
問3 [ 3 ]にあてはまる紡績会社名を答えなさい。
問4 [ 4 ]には、この時に全通した日本鉄道の区間が入る。この区問について、始点と終点を連記して答えなさい。」

(答:問1工部省,問2富岡製糸場、問3大阪紡績、問4上野-青森)〉

 

[ポイント]
1.殖産興業政策は日露戦争をはさんで、金本位制実施→八幡製鉄所設立→日本製鋼所設立と推進された。

[解説]

1.日清戦争の償金の金貨を兌換準備金として、1897年、金本位制を実施。そのため新貨条例を定めて、を単位とする新硬貨を発行した。

2.八幡製鉄所も、1901年、日清戦争の賠償金の一部を用いドイツの技術を導入して設立。中国大冶(ターイエ)鉄山の鉄鉱石、撫順(フーシュン)炭鉱および地元筑豊炭鉱の石炭を使用した。


3.日本製鋼所は、1907年、日(三井共同出資で北海道室蘭に設立された。民間としては日本最大の兵器製造会社。

 

2017関西学院大・全学部

問9.下線部i貨幣制度が整うのは、明治維新後のことであるに関して、誤っているものを下記より選びなさい。

 ア.政府は、銀本位制を建前とする新貨条例を定めて、円・銭・厘を単位とする新硬貨を通用させようとした。

 イ.政府では、渋沢栄一が中心となって国立銀行条例を定め、兌換銀行券の発行を目指した。

 ウ.政府は、松方財政期に中央銀行として日本銀行を設立し、国立銀行から銀行券発行権を取り上げた。

 エ.政府は、日清戦争の賠償金をもとに貨幣法を制定し、欧米諸国にならった金本位制を採用した。」

(答:ア× ※銀本位制→金本位制)〉


2017慶大・商

問3(4)下線部(エ)賠償金2億両(約3億円)を日本に支払うことになっていたについて、日本が日清戦争で得た賠償金を準備金として、1897年に確立した貨幣制度とは何か、漢字で書きなさい。」

(答:金本位制)


2017早大・商

問D 下線部ニ重工業育成政策は日露戦後も引き続いて実施に関連して、日露戦後の重工業について述べた文として誤っているものを1つマークせよ。

 1.三菱造船所などの造船技術が世界水準に追いついた。
 2.八幡製鉄所は安価な大冶鉄山の鉄鉱石を原料として生産規幌を拡張した。     

   3.池貝鉄工所が世界水準の精度をもつ旋盤を完成させた。
 4.日本製鋼所など民間の鉄鋼メーカーがあいついで設立された。
 5.造船業振興のために、兵庫造船所を三菱に払い下げた。」


(答:5×払い下げは1887年で日露戦争どころか日清戦争前、また三菱→川崎)

2016明大・法

 そこで政府は、鉄鋼の国産化を進めることをめざして、1897(明治30)年に官営八幡製鉄所を設立した。これにより、重工業が発展する礎が築かれることとなった。日露戦争後には、民間の製鋼会社の設立もすすめられた。その代表的なものとしては、1907(明治40)年に三井資本と英国の会社の共同出資によって設立された[ 8 ]がある。また、工作機械の分野では、1905(明治38)年には、[ 9 ]が、アメリカ式旋盤の精度を持つ旋盤の国産化を成功させるに至った。このように重工業分野においてもめざましい成長がみられるようになった。

〔語群〕

 A池貝工場   B大阪商船会社
 C釜石製鉄所  D共同運輸会社
 E神戸製鋼所  F芝浦製作所       
 G東洋汽船会社 H日本製鋼所
 I日本製鉄会社 J日立製作所
 K三菱重工業  L郵便蒸気船会社」

(答:8H、9A)〉   


2016明大・政経

問9 下線部(ク)日本製鋼所の設立・操業に際して、出資などを中心にとくに大きな関係ないし影響を持ったとされる国はどこか。A~Eから一つ選べ。

 Aアメリカ Bイギリス Cドイツ

 Dベルギー E オランダ」

(答:B)〉



正長の土一揆・山城国一揆

2018-09-05 | Weblog

腎臓大腸 小腸

正長(しょうちょう)土一揆)(大乗院(だいじょういん))(尋尊(じんそん))(山城国一揆)


[ポイント]

1.正長の土一揆山城国一揆は、尋尊らによる大乗院の日記に記録がある。

[解説]
1.尋尊(1430~1508)は、奈良の興福寺門跡(もんぜき)寺院の一つ大乗院27代門跡。尋尊の父は一条兼良。門跡寺院とは、皇族や摂家(せっけ)出身者が出家して入る最高の寺格とされる寺院で、鎌倉時代初期に始まる。

2.大乗院日記目録は、尋尊による1065~1504年の記録。正長の土一揆をはじめ社会や政治の事件についての史料として重要。


3.大乗院寺社雑事記は、興福寺の大乗院の門跡3人(尋尊・政覚(せいがく)・経尊(けいじん))による日記の総称。1450~1527年の日記・記録。尋尊のものが大半。山城国一揆の記述があり、庶民生活、商業、芸能など詳細かつ多岐にわたる重要史料。

〈2016関西大学・全学部

問7 興福寺の門跡尋尊が記したこの史料は何か。
 (ア)『蔭涼軒日録』
 (イ)『薩戒記』
 (ウ)『大乗院寺社雑事記』」

(答:ウ ※『蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)』『薩戒記(さっかいき)』)〉


応仁の乱

2018-09-04 | 入試問題+ゴロ合わせ

一死虚しき 京に乱。
1467年 京都 応仁の乱



[ポイント]

1.応仁の乱は、1467年にはじまった、足利義政弟義視子義尚その母日野富子が、および有力守護大名細川勝元東軍)と山名持豊西軍)がそれぞれ争った戦乱である。

[解説]
1.嘉吉の変後、将軍権力の弱体化にともなって有力守護家や将軍家にあいついで内紛がおこった。まず畠山斯波の両管領家に家督争いがおこり、ついで将軍家でも8代将軍足利義政の弟義視と義政の妻で子の足利義尚をおす日野富子のあいだに家督争いがおこった。単独相続がはじまり、嫡子の立場が庶子にくらべて絶対的優位となったため、その地位をめぐる争いが多くなった。とくにこのころになると、大名などの家督決定が、父親の意志だけでなく、将軍や家臣の意向に大きく影響されるようになり、家督争いはますます複雑化した。

2.そして当時、幕府の実権をにぎろうとして争っていた細川勝元と山名持豊(宗全)が、これらの家督争いに介入したために対立が激化し、1467(応仁元)、ついに戦国時代の幕開けとなる応仁の乱がはじまった。


3.守護大名はそれぞれ細川方(東軍)と山名方(西軍)の両軍に分かれて戦い、主戦場となった京都は戦火に焼かれて荒廃した。1467(応仁元)年5月、東軍は将軍邸を占拠して、いったん義政・義尚・義視を手中にしたが、翌68(応仁2)年11月、義視が西軍に走り、東西二つの幕府が成立した。応仁の乱は、1477(文明9)年、戦いにつかれた両軍のあいだに和議が結ばれて終戦をむかえ、守護大名の多くも領国に下ったが、争乱はその後も地域的争いとして続けられ、全国に広がっていった。この争乱により、有力守護が在京して幕政に参加する幕府の体制は崩壊し、同時に荘園制の解体も進んだ。

〈2016関西学院大学・全学部

6 次の文章について、a・bの正誤を答えなさい。

 a.応仁の乱では、足利義政の子義視を後継に推す東軍に細川勝元、義政の弟義尚を推す西軍に山名持豊がそれぞれ属した。

 b.後期倭寇の中には中国人の密貿易者も多数おり、日本に鉄砲がもたらされたのもそのような船からであった。

(答:ウa×、b〇 ※義視は弟で義尚は子)〉


室町時代のおもな一揆(5件年代順)

2018-09-03 | Weblog

象徴貼りますカキやカガ。(土一揆(つちいっき))(正磨・嘉吉)(山城加賀

[ポイント]

1.室町時代のおもな一揆は、正長の徳政一揆播磨の土一揆嘉吉の徳政一揆山城国一揆加賀一向一揆の5件。

[解説]

1.正長の徳政一揆(土一揆)(1428)は、6代将軍義教が将軍に決まったとき、近江坂本の馬借が代初めの徳政を要求して蜂起し、これを契機に畿内一帯に波及し、酒屋・土倉・寺院などを破却。幕府から徳政令は出なかったが、この一揆が発生した大和では、興福寺などに迫り私徳政を実現した。大和の柳生郷にその時の徳政獲得を記念した石碑がある。

2.播磨の土一揆(1429)は、国人と土民が「播磨の国の土民旧冬の京辺の如く蜂起し……侍をして国中にあらしむべからざる」と蜂起。京都から下向した赤松満佑(あかまつみつすけ)が鎮圧。「旧冬の京辺の如く」とあるのは前年冬の正長の徳政一揆を指す。


3.嘉吉の土一揆(土一揆、1441)は、7代将軍義勝が将軍に決まったとき、代始めには徳政令を出すことが正長のときからの先例だとして徳政を要求して蜂起(代始めの徳政)。足利義勝の幕府は、要求の全国一律の徳政(天下一同の徳政)を出し、事態を収めた。以後、幕府が徳政令を頻発し、幕府の権威が失墜する契機となった。


4.山城の国一揆(1485~93)は、南山城の国人・土民らが国人一揆を結成。畠山政長、義就両軍に撤退・寺社本所領の還付・新関の廃止などを要求し成功。宇治平等院で国中掟法を制定、36人(三十六人衆)の月行事による自治支配が8年間おこなわれる。


5.加賀の一向一揆(1488~1580)は、一揆の総勢20万人。守護の富樫政親を敗死させ、約100年にわたって国人・僧侶・農民による寄合が自治支配。「百姓ノ持チタル国」と称された。


[正誤問題]

1.正長の徳政一揆で、幕府は徳政令を発布した。大和の柳生郷にその獲得を記念した石碑がある。(×幕府から徳政令は出ていない)
2.播磨の土一揆は、同国の国人と土民が前年の正長の土一揆にならって、徳政令を要求して蜂起したもの。(×守護赤松氏の家臣を国外へ追放するという政治的要求から蜂起)

〈2016早大・法

問3 奈良市柳生町、旧柳生街道の路傍の磨崖仏の足もとに、国の史跡となっている、徳政一揆に関する農民側の記録の碑文があり、「[   ]元年ヨリサキ者、カンヘ四カンカウニ、ヲヰメアルヘカラス。」と読める(句読点は付記した)。[   ]に入る元号は、問題文中に出てくる次の元号うちのどれか。1つ選び、マーク解答用紙の該当記号をマークしなさい。

 あ 享徳 い 永仁 う 天保
 え 正長 お 嘉吉

(答:え)〉

〈2014立大・文

正長の徳政一揆に関する説明として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.近江の馬借の蜂起をきっかけにおこり、土倉・酒屋などを襲って質物や売買・貸借証文を奪った
 b.将軍足利義教が殺されて幕府が動揺している時におこった
 c.畠山氏の軍を国外へ退去させ、8年間にわたり一揆の自治的支配を実現した
 d.本願寺派の勢力を背景とし、門徒が国人と手を結んで守讃富樫政親を倒した」

(答:a ※b×1441嘉吉の土一揆(徳政一揆)、c×1485~93山城の国一揆、d×1488~1580加賀一向一揆)〉

〈2014明大・商(商)):「以下の文章は中世から近代初期にかけての民衆騒擾とその関連事項について記したものである。文章内におけるA~Eの【 】に入る最も適切な語句を1~5から選び、マークし、また[あ~お]の空欄に入る最も適切な語句を解答欄に漢字で記入しなさい。

 諸国の守護大名たちが京都での戦いに明け暮れていた15世紀後半には、荘園制が弱体化し、領国支配の実権はしだいに守護代や国人に移っていった。この結果在地の武士たちの地域的結合である国人一揆が各地で結成されるようになったのである。1485年、南山城地方で両派に分かれて争っていた畠山義就と畠山A【1政長 2重忠 3持国 4義政 5満家】(1442~1493)の軍を国外に退去させた山城の国一揆はその後約8年間にわたり一揆の自治的支配を実現した。この様子を「然るべきか、但し又下極上の至なり」と表現した『[ あ ]』は同27代目門跡の尋尊の日記である。1488年におこつた加賀の一向一揆も浄土真宗本願寺派の勢力を背景に国人と手を結んだ加賀の門徒が守護富樫改親を倒したものであり、その後、一揆が実質的に支配する本願寺領国が約1世紀にわたって続いた。
 一方畿内などの農村でも自治的な惣村が発達し、不法をはたらく荘官の免職や水害・干害の際の年貢の減免を求めて一揆を結び、荘園領主に強訴したり、逃散するような組織的な行動を取るようになっていった。なかには、一揆の組織にあたり、神仏の前で起請文を燃やし、その灰を飲むことで脱落しないことを誓い合う儀礼を行う地域もあった。一般にこのような儀礼は[ い ]と呼ばれている。
 惣村の結合は時として荘園や郷の境界を超えて大規模化することもあった。この頃、貨幣経済の発達に伴って高利貸資本が庶民の生活を圧迫するようになり、これら資本も一揆の対象となったためである。1428年の正長の徳政一揆(土一揆)はこの典型であり、京都の土倉、酒屋などを襲い、質物や売買貸借証文を奪ったといわれている。奈良県柳生街道にある地蔵尊の巨石にはこの際の農民による徳政宣言文が刻まれており、それには「正長元年ヨリサキ者」から始まるB【1.17 2.27 3.37 4.47 5.57】文字が記されている。これは正長元年より以前に関しては当時春日社領の大柳生、坂原、小柳生、邑地の神戸4ケ郷の「ヲヰメ」はいっさいないと読むことができる。ここでの「負目」には土倉などの金融業者からの借金だけではなく、滞納した年貢に付加される利子なども含まれると考えられており、このために各地の惣村を基盤とした徳政一揆の蜂起がさらに大きな広がりをみせたといわれている。」

(答:A1政長、B2.27、あ大乗院寺社雑事記、い一味神水)〉


上杉禅宗の乱

2018-09-03 | Weblog

1416年 上杉禅宗の乱 上杉氏憲(うじのり)は、4代目鎌倉公方足利持氏との不和で関東管領を辞し、入道して禅秀と号した。
禅秀は、反持氏の満隆(持氏の叔父)と反義持(4代将軍)の義嗣(義満の4男で義持の弟)とらとはかり挙兵したが、義持の幕府軍の来援で敗れた(1416~7年、)。義持と持氏は奇しくも4代目であることを意識。

一死披露へ 禅秀も。

1416年       上杉禅秀の乱 義持 持氏



[ポイント]

1.上杉禅秀は、1416年、挙兵し、持氏および義持に敗れた(上杉禅秀の乱)。

[解説]

1.上杉氏憲(うじのり)は、4代目鎌倉公方足利持氏との不和で関東管領を辞し、入道して禅秀と号した。

2.禅秀は、反持氏の満隆(持氏の叔父)と反義持(4代将軍)の義嗣(義満の4男で義持の弟)とらとはかり挙兵したが、義持の幕府軍の来援で敗れた(1416~7年、上杉禅宗の乱)。義持と持氏は奇しくも4代目であることに注意。


〈2016関西学院大学・全学部

問2.下綿部bに関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。

 ア 義満は、美濃・伊勢の守護を兼ねた土岐康行を追討した。

 イ 義満は、西国11カ国の守護を兼ねた大内氏の内紛に介入し、大内義弘を滅ぼした。
 ウ 義満は、周防・和泉などの守護を兼ねた山名氏を討伐し、山名氏清を滅ぼした。
 エ 義満は、鎌倉公方に反旗を翻した前関東管領の上杉禅秀を討伐し、これを滅ぼした。 

(答:ア 

1390年(明徳元年)土岐康行の乱 義満は、美濃・伊勢の守護を兼ねた土岐康行を追討した。

いざ暮れる時 休み行き。

1390年 伊勢 土岐康行 美濃    

※イ×大内義弘を滅ぼした(応永の乱、1399年)のは正しいが、11カ国が6カ国の誤り、ウ×山名氏清を滅ぼした(明徳の乱1391)のは正しいが、周防・和泉はイの大内義弘の領地、エ×上杉禅秀の乱(1416~17)は鎌倉公方足利義持を襲った乱、4代義持が救援し禅秀を討った。義持は9歳で将軍になったが、父義満没(1408)後にようやく実権を握っていた)

〈2013早大・国際教養

問6 下線部e(義満が)国釣を秉(と)りが指している事態として最も近いものはどれか。1つ選んで、マーク解答欄紙の該当記号を選べ。

 ア 室町幕府を開設した。

 イ 後醍醐天皇を幽閉した。
 ウ 征西府を設置した。
 エ 太政大臣に就任した。
 オ 上杉禅秀の乱を鎮めた。

(答:エ)〉


足利義満の守護抑圧

2018-09-03 | 入試問題+ゴロ合わせ

時や名答 応援よ。
土岐康行の乱)(明徳の乱)(応永の乱)
(足利義満

1390年(明徳元年)土岐康行の乱 義満は、美濃・伊勢の守護を兼ねた土岐康行を追討した。

いざ暮れる時 休み行き。

1390年 伊勢 土岐康行 美濃 


[ポイント]

1.足利義満は、土岐康行の乱明徳の乱応永の乱を討伐し、守護大名を抑圧した。

[解説]
1.義満は1390(明徳元)年、美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐氏を討伐した(土岐康行(やすゆき)の乱)。

2.翌1391(明徳2)年には西国11カ国の守護を兼ね、六分の一衆(日本60余カ国の6分の1を持つ一族の意)とよばれた山名氏一族の内紛に介入して、山名氏清を滅ぼした(明徳の乱)。

3.さらに1399(応永6)年にも有力守護大内義弘を討伐した(応永の乱)。これらはいずれも義満の挑発によって引きおこされた事件である。

〈2016早大・文

問6 下線d大名の力をコントロールについて。足利義満の統制に関連するものはどれか。2つ選べ。

 ア寧波の乱 イ永享の乱

 ウ中先代の乱 エ明徳の乱
 オ応永の乱

(答:エ・オ)〉

 〈2016関西学院大学・全学部

 南北朝の合体を実現した3代将軍足利義満は、それまで朝廷が保持していたいくつかの権限を幕府の手に収めるとともに、全国的な統―政権としての幕府権力を確立していった。また義満は、南北朝の動乱の中で強大化したb外様の有力守護を攻めその勢力の削減に努め、幕府の機構の整備を進めた。

 問2.下綿部bに関する説明として、正しいものを下記より選びなさい   
 ア 義満は、美濃・伊勢の守護を兼ねた土岐康行を追討した。
 イ 義満は、西国11カ国の守護を兼ねた大内氏の内紛に介入し、大内義弘を滅ぼした。
 ウ 義満は、周防・和泉などの守護を兼ねた山名氏を討伐し、山名氏清を滅ぼした。
 エ 義満は、鎌倉公方に反旗を翻した前関東管領の上杉禅秀を討伐し、これを滅ぼした。

(答:ア ※イ×大内義弘を滅ぼした(応永の乱、1399年)のは正しいが、11カ国が6カ国の誤り、ウ×山名氏清を滅ぼした(明徳の乱1391)のは正しいが、周防・和泉はイの大内義弘の領地、エ×上杉禅秀の乱(1416~17)は鎌倉公方足利義持を襲った乱、4代義持が救援し禅秀を討った。義持は9歳で将軍になったが、父義満没(1408)後にようやく実権を握っていた)

1399年(応永6年) 応永の乱 義満は周防長門など6か国の守護をつとめていた大内義弘を滅ぼした。

一味括ろう 応援よ。

1399年 (周防・長門など)6か国 応永の乱 足利義満

 〈2016早大・文化構想

問5 下線c守護に関連して述べた文のうち正しいものはどれか。1つ選べ。

 ア 山名持豊(宗全)は、多くの国の守護となり、六分一殿といわれた。

 イ 美濃などの守護で強い勢力をもっていた土岐康行は、足利義満に討伐された。
 ウ 周防などの守護であった大内氏は、大内義弘の敗死によって滅亡した。
 エ 播磨などの守護であった赤松満祐は、嘉吉の徳政一揆の鎮圧に活躍した。
 オ 織田信長は尾張の守護家に生まれたが、尾張国内の統一には時間を要した。

(答:イ ※ア:六分の一殿は山名氏清、ウ:大内氏は応永の乱で大内義弘が敗れた後復活し戦国大名へと成長、エ:嘉吉の乱で赤松満祐が6代将軍足利義教を暗殺。その後馬借・農民らが「代初めの徳政」を求めて起こしたのが嘉吉の徳政一揆、オ:織田氏は守護代で、織田信長の父信秀はその織田氏の中でも庶流)〉

〈2012京都府立大

 足利義満が行った有力守護大名に対する抑圧政策について、3語句を全て用いて説明せよ。

土岐康行の乱 明徳の乱 応永の乱

〔解答例〕
 足利義満は、将軍権力の確立をはかるため、奉公衆とよばれる直轄軍を育成、この軍事力を背景に、南北朝動乱期に強大化した有力守護大名を武力で討伐し全国の統制をはかった。1390年、美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐氏を討伐し(土岐康行の乱)、翌1391年には西国11カ国の守護を兼ね、六分の一衆とよばれた山名氏清を滅ぼした(明徳の乱)。さらに1399(応永6)年にも大内義弘を討伐したが(応永の乱)、これらはいずれも義満の挑発であった。(215字)〉


観応半済令

2018-09-01 | Weblog

一味公認半分を。
観応半済令)(美濃近江)(尾張


[point]

1.観応(かんのう)の半済令は、美濃近江尾張の3国に限られた。

[解説]

1.幕府は、観応の擾乱(南北朝の動乱の初期、1350(観応元)年~)中、地方武士を動員するために、守護の権限を大はばに拡大した。

2.足利尊氏の幕府は、観応の半済令(1352)で、守護に軍費調達のため、一国内の荘園や公領の年貢の半分を1年限り徴発する権限を、動乱の激しかった近江美濃尾張の3国に限定し、認めた。


3.守護の得た権限強化の効果は大きく、守護はこれを利用して国内の荘園や公領を侵略し、これを領域内の武士たちに分けあたえて、彼らを統制下にくり入れていった。


4.応安半済令1368)以降、全国的に、また永続的におこなわれるようになり、しかも年貢だけでなく、土地(下地)そのものを分割するようになった。


2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)

問9 下線部g「守護」の権限はしだいに強大化し、半済令もその適用範囲が拡大していった。1352年に発令された半済令が、当初対象としていた国はどこか。次の中からlつ選びなさい。

 1山城(1国のみ)
 2山城・丹波の2国
 3大和・紀伊の2国
 4山城・大和・近江の3国
 5近江・美濃・尾張の3国

(答:5)〉

2016立命館大・全学部

〔2〕一、寺社本所領の事 6)観応三・七・廿四御沙汰
諸国7)擾乱に依り、寺社の荒廃、本所の牢龍、近年倍増せり。而るに適静謐の国々も、武士の濫吹未だ休まずと云々。働て守護人に仰せ、国の遠近に依り日限を差し、施行すべし。承引せざる輩に於いては、所領の[ D ]分の一を分ち召すべし。所帯無くば、流刑に処すべし。(中略)
 
次に[ E ]三ヶ国の本所領半分の事、[ F ]所として、当年一作、軍勢に預け置くべきの由、守護人等に相触れ訖(おわ)んぬ。半分に於いては、宜しく本所に分かち渡すべし。若し預人(あずかりにん)事を左右(そう)に寄せ、去(さり)渡さざれば、一円に本所に返付すべし。
                                                           (『[ G ]』)

問h 下線部6)に関連して、この年の通達ののちに足利義満が3代将軍となった年にも、天皇領と殿下渡領を除く荘圈の下地を、無期限に折半する内容の法令が出されている。この法令が出された、もっとも適当な西暦年を下から一つ選べ。


 あ 1352年 い 1359年
 う 1368年 え 1394年


問i 下線部7)は、ある人物が、将軍派の武将として権勢をふるい将軍の弟との対立を深めていくなかで生じた内紛である。「ある人物」は、のちの管領にあたる役職を帯びていた。この役職名を答えよ。


問j 空欄[ D ]にあてはまる、もっとも適当な漢数字を答えよ。


問k 空欄[ E ]にあてはまる語句の組み合わせとして、もっとも適当なものを下から一つ選べ。


 あ 越前・近江・美濃   い 近江・美濃・尾張

 う 美濃・尾張・三河   え 山城・越前・加賀

問l 空欄[ F ]にあてはまる、もっとも適当な語句を答えよ。


問m 空欄[ G ]は、御成敗式目を基本法として継承した、室町幕府の法令集である。これにあてはまる、もっとも適当な出典名を漢字6文字で答えよ。


(答:hう(史料は観応の半済令だが問うているのは応安の半済令)、i執事(ある武将とは高師直)、j三、kい、l兵粮料(所)、m建武以来追加)〉

2013早大・文:「
 室町幕府が施行した半済令について正しく説明したものを1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。


ア 1352年、足利尊氏は大和・河内・摂津に半済令を施行し、南朝の京都侵攻に対処した。

イ 半済令は、室町幕府に反抗した守護についても降参した後、その半分の年貢取得を認めるものであった。
ウ 半済令は観応の擾乱に際して、足利尊氏が関東諸国の守護を味方につけるために施行したものである。
エ 1368年の応安半済令以降は荘園の下地まで分割されることとなり、事実上無期限となった。
オ 応仁の乱以降、半済令により守護は水田一段ごとに五貫文の銭貨を徴収できるようになった。)」

(答:エ ※ア×近江・美濃・尾張の3国の誤り、オ×一定額の銭貨ではなく半年貢である)〉


守護権限拡大

2018-09-01 | Weblog

守護の権限の拡大

大使仮断然主

犯(たいぼん)三か条・刈田藉(かりたろうぜき)取締権)(使節遵行(しせつじゅんぎょう)(済(はんぜい)・段(たんせん)・守護(しゅごうけ))


[ポイント]

1.守護は、従来の大犯三か条に加え、刈田狼藉取締権使節遵行を獲得、さらに半済地の支給権・守護段銭徴収権・守護請を獲得して、守護大名へと成長していった。

[解説]

1.鎌倉時代初期の守護権限は、守護がその職務をテコとして国ごとに自立することのないように、大犯三か条に限定されていた。しかし幕府は南北朝内乱・観応の擾乱を鎮めるため、大犯三か条を超える権限を守護に付与した。この職権拡大により守護は、従来国衙がもっていた行政権を吸収してゆき、一国の支配権を確立した。さらに同時に幕府からの自立もすすめ、守護による領国支配(守護領国制)へと進んだ。
                   
2.刈田狼藉取締権の 「刈田狼藉」は、収穫以前の他人の田の作物を刈り取る行為。多くはその領地をめぐって争う両者の一方が収穫を先に確保する目的で行う。この田地紛争を取締る権限                                    

3.使節遵行は、室町幕府が出した判決を強制執行する権限。幕府が守護の権限拡張を容認して与えた権限。将軍の使節となって判決を遵守実行を容認させるということ。

4.半済地支給権は、領国内の荘園・公領の年貢の半分を武士に分配(半納)する権限。南北朝時代、足利尊氏が兵粮料所(軍費調達)として、近江美濃尾張3国に1年限りで半済を承認した(観応の半済令、1352)。これが制度的な年貢の半済(半納)のはじまりである。やがて全国化、恒常化。また応安半済令(1368)以後下地(土地)そのものの分割まですすむ。

5.守護段銭は、田地1反(12a)単位、棟別銭は家屋の棟数によって課せらた銭・夫役の賦課 臨時税。従来段銭の賦課は朝廷や幕府の権限で、守護を通じて全国から徴収していた。次第に守護が私的かつ頻繁に課すようになり、既得権化したもの。             

6.守護請は、荘園・公領の年貢納入を一定額で請け負う。武士勢力による年貢横領に苦しんだ国司・荘園領主が年貢確保を目的に守護の実力に期待して依頼したもの。        

〈2016早大・文化構想

問5 下線c守護の権限に関連して、室町時代の守護の権限として正しいものはどれか。2つ選べ。

 ア使節遵行 イ地下検断 ウ刈田狼藉 エ段銭の徴収 オ宗門改め」


(答:ア・エ ※ウ×守護権限は「刈田狼藉」の取締権であって刈田狼藉ではない。引っかけのウの後ろに正解のエを隠してある。常套的作問法です、引っかからないように)