1510年(永正7年) 三浦の乱。
以後通さんぞふざけんな。
1510年 三浦の乱 富山浦 塩浦 乃而浦
[ポイント]
1.朝鮮の3港(釜山浦・塩浦・乃而浦)で、1510年、居住日本人が反乱を起こした(三浦の乱)。
[解説]
1.朝鮮は、日朝貿易のため富山浦(釜山)・乃而浦(薺浦)・塩浦(蔚山)の3港(三浦)を開き、これらの3港と首都の漢城(漢陽)に日本の使節の接待と貿易のための倭館(わかん)をおいた。貿易は通信符による勘合貿易。
2.わが国の輸入品は木綿・大蔵経(だいぞうきょう)など、輸出品は銅・硫黄(いおう)などの鉱産物や工芸品のほか、琉球貿易で手に入れた蘇木(そぼく)(染料)・香木(こうぼく)(香料)など。
3.宗氏の当主が交代(宗貞茂→貞盛)し、倭寇の活動が活発になったため、1419(応永26)年、朝鮮軍は倭寇の本拠地と考えていた対馬を襲撃した(応永の外寇)。
4.15世紀半ば以降、朝鮮の国家財政が悪化し、しだいに交易を制限するようになり、朝鮮側は宗貞盛に対し、1443年、嘉吉(かきつ)条約(癸亥(きがい)約条)で、日本船の数を制限した。
5.三浦に住む日本人には種々の特権があたえられていたが、1510年、この特権がしだいに縮小されていくなかで、倭館の日本人(恒居倭人(こうきょわじん))が不満を爆発させ、反乱をおこした(三浦の乱)。このあと日朝貿易は衰退した。
〈2016早大・社会科学
14世紀に入ってから、(1)日本と中国大陸の関係は貿易を中心に新たな展開をみせた。日本は衰退する元と国交を結ばないまま、非公式な貿易関係を維持した。しかし、漢民族の統治を回復した明は1368年に建国すると、日本を含む東アジア地域を中華秩序のなかに組み入れるべく、周辺諸国に通交を求め、室町幕府もこれを受け入れた。日本は明から銅銭や生糸などを輸入する一方、武具や硫黄などを明に輸出した。(2)日明関係にならって、1392年に建国した朝鮮も日本との通交を求めたので、日本は(3)朝鮮との貿易も進めていった。活発な貿易関係は(4)東アジア地域の都市と港に活気をもたらした。
問1 下線部(1)に関する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。
イ 鎌倉幕府は建長寺を創建する資金を調達するために、元に船を派遣した。
ロ 足利義満は天龍寺建立の資金を調達するために、明に船を派遣した。
ハ 将軍から明の皇帝におくる公文書には「日本国王臣源」と署名された。
ニ 朝貢形式の貿易では、運搬費も明が負担した。
ホ 足利義持の時代に、朝貢形式の貿易は一時中断した。
問2 下線部(2)に関連して、古代か室町中期までの外交文書などを集めた『善隣国宝記』の編著者は誰か。1人選べ。
イ絶海中津 ロ雪村友梅
ハ瑞渓周鳳 ニ中厳円月
ホ義堂周信
(答:問1イ・ロ ※イ創建ではなく再建、ロ義満ではなく尊氏が派遣、問2ハ)
1466瑞渓周鳳『善隣国宝記』
人読むムズい国宝記。
1466瑞渓周鳳『善隣国宝記』
問3 下綜部(3)に関連する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。
イ 日明貿易には、守護・国人なども参加した。
ロ 応永年間、朝鮮は宗貞茂が日朝貿易に消極的だと判断し、対馬を襲撃した。
ハ 朝鮮は貿易船の制限を解除するために、宗氏と癸亥約条を結んだ。
ニ 室町幕府は高麗版大蔵経に強い関心を示した。
ホ 朝鮮からの綿布の流入は、日本人の衣生活に変革をもたらした。
(答:問3ロ・ハ ※ロ宗貞茂(?~1418)は応永の外寇(1419)時には存命せず。撃退した功績は子の貞盛。ハ癸亥約条では日本船の数を制限した)
問4 下線部(4)に関する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。
イ 漢城には貿易を行うための倭館が設けられた。
ロ 富山浦は日朝貿易のために開放された。
ハ 日本と明との朝貢貿易の港は、杭州に限定された。
ニ 堺では、豪商の合議によって市政が運営された。
ホ 日明貿易が盛んであった博多に会合衆が作られた。
(答:問4ハ・ホ ※ハ日本船の指定港は寧波のみ、ホ博多は年行事)〉