鹿がムシャムシャありったけ。
(白樺派(しらかばは))(志賀直哉(しがなおや)・武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ))(有島武郎(ありしまたけお))
[point]
1.白樺派の代表作家は、志賀直哉、武者小路実篤と有島武郎である。
[解説]
1.1910年創刊の雑誌「白樺」に拠(よ)る。同人のほとんどが学習院出身で、都会的感覚と西欧的教養を身につけていた。トルストイの影響を受けた理想主義的、人道主義の文学。
2.武者小路実篤(1885~976)は、東京都出身。代表作に『友情』。またトルストイの理想郷思想の影響を受け、宮崎県に「新しき村」を建設。
3.有島武郎(1878~923)は、東京都出身。学習院中等科卒業後、札幌農学校卒。キリスト教を経て社会主義に近づき農場を小作人に解放するなどした。最期は人妻と心中死。代表作は『惜しみなく愛は奪ふ』『生まれ出づる悩み』『或(あ)る女』。なお弟の有島生馬(1882~1971)と里見弴(とん)(1888~1983)をあわせた有島3兄弟はいずれも『白樺』同人。
4.志賀直哉(1883~971)は、宮城県生まれ。代表作は『城の崎(きのさき)にて』など短編多数と唯一の長編『暗夜行路』。簡潔な無駄のない文体で知られる。
〈2017早大・社会:「
下層農民の困窮は大きな社会問題となり、当時の知識人や作家も農村問題に関心を寄せている。例えば、札幌農学校に学んだ(2)有島武郎は1922年にみずから所有する北海道の農場を小作人に開放している。その経緯について有島は翌年次のように述べている。「直接の動機としては、資本主義制度の下に生活している農民、殊に小作人達の生活を実際に知り得たからです。小作人達の生活が、如何に悲惨なものであるが…私の狩太村の農場は…約七十戸といふところですが、それが何時まで経っても掘立小屋以上の家にならないで、二年経っても三年経っても、依然として掘立小屋なんです」「作物の相場の変動が、この頃は外国の影響を受ける場合が多いものですから、農民たちには相場の見込みがつかず、その為めに苦しんだ上句(あげく)が見込み外れがしたりして、つい悲惨な結果を生むやうになるのです」(『私有農場から共産農団へ』)。
問2 下線部(2)有島武郎が属していた白樺派の作家とその作品の組み合わせとして、適切なものはどれか1つ選べ。
イ 島崎藤村-『夜明け前』
ロ 武者小路実篤-『友情』
ハ 志賀直哉-『カインの末裔』
ニ 田山花袋-『田舎教師』
ホ 倉田百三-『和解』」
(答:ロ。※白樺派は武者小路と志賀だが『カインの末裔』は有島武郎作、なおホの『和解』は志賀直哉作)〉
〈2016関西学院大・全学部2/2:「
日露戦争以降、新聞・雑誌などが発達し、一般勤労者を基盤とする大衆文化が誕生した。そして、大正デモクラシーのもとでは多様な学問が花開いた。文学では白樺派の[ i ]らや、近代的な知性を重んじる新理知派・新思潮派の[ j ]が活躍した。また演劇やk美術でも新たな発展がみられた。大正末期から昭和初期には、lプロレタリア文学運動もおこった。
問8 空欄i・jに該当する人物の組み合わせとして、正しいものを下記より選びなさい。
ア.i:菊池寛 j:芥川龍之介
イ.i:志賀直哉 j:有島武郎
ウ i:志賀直哉 j:芥川龍之介
エ.i:菊池寛 j:有島武郎」
(答:ウ)〉
〈2016立教大・現心コミュ福観光営:「
問7.これ三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に抗議し、朝鮮の芸術を高く評価した白樺派の人物で、民芸運動を展開したのは誰か。次のa~dから1つ選べ。
a 南方熊楠 b.武者小路実篤
c.柳宗悦 d.横山大観」
(答:c)〉
〈2014立大・文:「
問11.この白樺派の1人で、『人間万歳』を著した作家は誰か。その名をしるせ。」
(答:武者小路実篤)〉
〈2012大学入試センター・日本史A:「
問2.大正期の文学に関して述べた次の文A・Bについて、その正(〇)誤(×)の組合せとして正しいものを、下の①~④のうちから一つ選べ。
A 永井荷風、谷崎潤一郎ら耽美派が活躍した。
B 有島武郎ら新感覚派が、人道主義的な作品を発表した。
①A〇 B〇 ②A〇 B×
③A× B〇 ④A× B×」
(答:②)」〉
〈2010立大・コミュ福祉:「
問10.この派(白樺派)に属さない作家はどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.有島武郎 b.菊池寛
c.里見弴 d.志賀直哉」
(答:b ※菊池寛は新思潮派)〉
1896年 黒田清輝ら、白馬会を結成。
人は黒だが白馬会。
1896年 黒田清輝 白馬会
[point]
1.黒田清輝は白馬会を結成し、代表作は『朝妝』『湖畔』と『読書』である。
[解説]
1.黒田清輝(1866~1924)は法律研究のためにパリに留学したが、画家に転向。帰国後、洋画団体「白馬会」を結成(1896)。白馬会はフランス印象派の影響をうけた明るい作風で、外光派と呼ばれた。明治美術会を脱退した自由主義派が結成した白馬会は、浅井忠らの明治美術会と対立した。1898年東京美術学校教授。
2.黒田清輝は、滞仏時代の成果『朝妝(ちょうしょう)』を内国勧業博覧会に出品し(1895)し裸体画事件を起こした。他の代表作は『読書』『湖畔』。
3.白馬会の中心は黒田の他、和田三造・青木繁・藤島武二ら。
〈2017センター試験日本史A:「
問3 下線部b高橋由一の描いた絵画として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.絵画図版(省略)
2.絵画図版(省略)
3.絵画図版(省略)
4.
(答:4(図版『鮭』(高橋由一作)) ※なお1~3の絵画は『海の幸』(青木繁作)、『湖畔』(黒田清輝作)『悲母観音』(狩野芳崖作)だった。図版等で確認されたい)〉
〈2016関西学院大学・全学部
科学では、志賀潔が赤痢菌を発見し、また鈴木梅三郎はビタミンB1の抽出に成功するなど、世界水準の研究も発表された。文学や芸術の分野においても、言文一致体で『浮雲』を書いた二葉亭四迷やe西洋画の黒田清輝らが活躍した。さらに演劇や音楽でも新しい動きがみられた。
問4.下線部eに関連し、明治期に活躍した洋画家を下記より選びなさい。
ア.狩野芳崖 イ.橋本雅邦
ウ.下村観山 エ.浅井忠
(答:エ)〉
〈2013南山大学:外国語(英米)総合政策
1923年、関東大震災が起こり、社会的混乱が広がった。急いで帰国した土方与志は、小山内薫とともに。劇団築地小劇場を立ち上げ、あわせて専用の劇場も建設した。そこでは、芸術は民衆に奉仕するものとして、芸術性が迫求され、実験的な演劇が試みられた。
その後、関東大震災以降の不安な世相は、昭和恐慌によってさらに追打ちをかけられ、c.「エロ・グロ・ナンセンス」の言葉で象徴されるような風潮が大正末期から昭和初期にかけて広がった。
問19 下線部cについて述べた文として、正しいものを、下記のア~エから、一つ選びなさい。
ア浅草では、エノケンこと榎本健一らによる大衆演劇が人気を呼んだ。
イ三島由紀夫は、猟奇的・耽美的な作風の探偵小説を発表した。
ウ永井荷風が娼婦と情死した事件は、社会に衝撃を与えた。
エ内国勧業博覧会に出品された黒田清輝の「朝妝」は、裸体画論争を引き起こした。」
(答:ア。※イ×三島由紀夫は戦後の作家、ウ×永井荷風は病死、エ×事実だが、1895(明治28)年開催)
1895(明治28)年8月 第4回内国勧業博覧会に出品された黒田清輝の「朝妝」は、裸体画論争を引き起こした。
飛躍来ないか 嘲笑か。
1895年 黒田清輝 内国勧業博覧会 『朝妝』
この際、黒田清輝が出品した裸体画・「朝妝」が問題視されたが、九鬼の判断で展示が許可されている。
At that time, a nude portrait painted by Seiki KURODA, 'Chosho' (Le Lever) became a subject of discussion, but Kuki permitted the exhibition of the portrait.
▲『朝妝』
〈2012大学入試センター・日本史A:「
問3 下線部b万国博覧会で高い評価を得た陶磁器に関連して、幕末期以降の日本の美術・工芸について述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 工部美術学校は、伝統的な水墨画や木彫の実技教育のために設立された。
② 岡倉天心が、西洋の宮廷に飾られた陶磁器を民芸として日本に紹介した。
③ 幕末に開催されたパリ万国博覧会には、日本から浮世絵が出品された。
④ 黒田清輝ら洋画家の尽力により、日本初の万国博覧会が開催された。
(答:③〇、※①×工部美術学校は、西洋の絵画・彫刻を教授。②×岡倉天心は日本の伝統美術の復興に尽力した。「民芸」は大正末期の柳宗悦による造語。④×内国勧業博覧会が正しい。万国博覧会は1970年の大阪万博。
〈2005大学入試センター・日本史B追試
問5 下線部(c)日本の近代洋画に関して、次に掲げた明治期の洋画(『湖畔』)について述べた文として正しいものを、下の①~④のうちから一つ選べ。
① この絵を描いた狩野芳崖には、ほかに『悲母観音』という代表作がある。
② この絵を描いた狩野芳崖は、印象派(外光派)の画風を伝えた。
③ この絵を描いた黒田清輝には、ほかに『悲母観音』という代表作がある。
④ この絵を描いた黒田清輝は、印象派(外光派)の画風を伝えた。」
(答:④〇 ※①②×狩野芳崖は日本画家。③×『悲母観音』は日本画家狩野芳崖作)
1888年 狩野芳崖(61)没、『悲母観音』絶筆となる。
いやはや悲観カノン砲。
1888年『悲母観音』狩野芳崖
▲『悲母観音』
耽美な家風 潤一路。
(耽美派(たんびは)・永井荷風(ながいかふう))(谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)
[句意](着道楽だった)潤一郎はなんかいい足袋を穿(は)いていた、というナンセンスの句。
[point]
1.耽美派の代表作家は、永井荷風と谷崎潤一郎である。
[解説]
1.耽美派とは、官能を享楽し、美に耽溺することを追求する文学運動。自然主義の行き過ぎたリアリズム精神の反動であった。
2.永井荷風(1879~959)は、東京都出身。大正期の代表作に『ふらんす物語』『腕くらべ』。昭和期に入り『濹東綺譚(ぼくとうきたん)』、日記に『断腸亭日乗』がある。耽美派文学の旗手として一時代を築いた。
3.谷崎潤一郎(1886~965)は、東京都出身。大正期の代表作に『刺青(しせい)』『痴人の愛』。昭和期に入り『春琴抄(しゅんきんしょう)』、大戦期に大作『細雪(ささめゆき)』がある。性や官能を耽美的に描いた。
〈2016立教大・現心コミュ福観光営
問14.この人物紫式部に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.一条天皇の皇后定子に仕えた
b.一生を回顧した『更級日記』を記した
c.漢文で54帖からなる作品を記した
d.この人物の作品を谷崎潤一郎が現代語訳した」
(答:d〇谷崎訳『源氏物語』は著名。※a×皇后定子→中宮彰子、b×菅原孝標女、c×漢文→仮名文字使用)
〈2016明大・情報
問10 下線部(コ)第二次世界大戦中に関して、もっとも正しいものを、1~4から1つ選べ。
1.1939年、イタリアがポーランド侵攻を開始すると、イギリス・フランスが宣戦布告をし、第二次世界大戦が始まった。
2.教育基本法・学校教育法の公布により、小学校が国民学校となった。
3.近衛文麿内閣下において、大東亜会議が開催された。
4.津田左右吉『神代史の研究』が発売禁止、谷崎潤一郎『細雪』が連載禁止となった。」
(答:4〇。※1×イタリア→ドイツ、2×国民学校→小学校、3×近衛文麿→東条英機
1943(昭和18)年11月 大東亜会議、大東亜宣言。
一句読みたい大東亜。
1943年 大東亜会議 大東亜宣言 東条英機内閣
〈2013南山大学:外国語(英米)総合政策
問19 下線部c「エロ・グロ・ナンセンス」の言葉で象徴されるような風潮が大正末期から昭和初期にかけて広がったについて述べた文として、正しいものを、下記のア~エから、一つ選びなさい。
ア 浅草では、エノケンこと榎本健一らによる大衆演劇が人気を呼んだ。
イ 三島由紀夫は、猟奇的・耽美的な作風の探偵小説を発表した。
ウ 永井荷風が娼婦と情死した事件は、社会に衝撃を与えた。
エ 内国勧業博覧会に出品された黒田清輝の「朝妝」は、裸体画論争を引き起こした。」
(答:ア〇。※イ×三島由紀夫は戦後の作家、ウ×永井荷風は病死、エ×事実だが1895(明治28)年京都の内国勧業博覧会に出品して)
1895(明治28)年8月 第4回内国勧業博覧会に出品された黒田清輝の「朝妝」は、裸体画論争を引き起こした。
飛躍来ないか 嘲笑か。
1895年 黒田清輝 内国勧業博覧会 『朝妝』
〈2012大学入試センター・日本史A:「
問2.大正期の文学に関して述べた次の文A・Bについて、その正(〇)誤(×)の組合せとして正しいものを、下の①~④のうちから一つ選べ。
A 永井荷風、谷崎潤一郎ら耽美派が活躍した。
B 有島武郎ら新感覚派が、人道主義的な作品を発表した。
①A〇B〇 ②A〇B×
③A×B〇 ④A×B×」
(答:② ※有島武郎は白樺派)〉
〈2009早大・法の第三問(昭和初期の政治と外交)の史料問題の地の文章に「ある小説家の日記」として永井荷風『断腸亭日乗』が使われている〉