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ベック式!難単語暗記法ブログ

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第1章・オリエントと地中海世界 ★★ ローマの地中海制覇 

2018-02-24 | Weblog

 

05 学習院大・経済(一部・改)

【問】次の文章を読み、それぞれについての設問に答えなさい。

 その昔,地中海地方のほぼ真ん中のイタリア半島に拠をおくローマの国と,今のテュニスの地に都市国家を築いていたカルタゴの国とが,西地中海の覇権を争って,(1)三度の大戦争をくり返した。
 カルタゴという国は,その本国は,島のようにつき出た小さな岬の先の,猫の額ほどのほんの小さな国であった。(2)地中海の東岸から来たフェニキア人のたてた植民市であった。そこを本拠にして,西地中海各地に植民地と商館を網の目のようにはりめぐらし,大商船隊を擁して,世界の富をかき集めた。(中略)
 しかし,カルタゴの隆盛は,軍事力による隆盛ではなかった。カルタゴは末期の一時期を除いて,国民軍をほとんどもたなかったのである。(3)カルタゴが隆盛を誇った時代には,各国とも市民皆兵で,カルタゴのように国民軍をもたずに長期の存続ができたのは,稀有の例であった。カルタゴはその歴史の初めから,軍事力で権勢を得ようと思ったことは一度もなかった。カルタゴは必要な時,豊かな財政力に物を言わせて,傭兵隊を募集し,編成しただけであった。
 カルタゴに集まる貿易船の航路,シーレーンも,軍事力で守ろうとはしなかった。当時の世界各地と密接に連絡をとりあった外交のつながりが,カルタゴの防衛の基本線であった。
 ところが,このカルタゴは,西地中海の覇を握り(4)東地中海まで雄飛しようとしていたローマには,邪魔 であった。ことにカルタゴの歴史の最後の百年間は,ローマにとって宿敵であった。(中略)
 ローマの保守的政治家,タカ派の大カトーは,老齢になっても打倒カルタゴの執念を燃やしつづけた。彼は(5)元老院でどんな演説をした時でも,その最後に,「ところで,カルタゴは滅ぼされるべきである」と言ってしめくくった。
 しかし, (6)ローマには,ローマの健全な発展のためには,競争者のカルタゴを存続させるべきだ,とする有力な反対意見もあった。が,結局は大カトーのタカ派路線が勝った。

(弓削達『ローマはなぜ滅んだか』より)

〔設問〕

(1)
ローマとカルタゴの間で戦われた三度の戦争に関する次の質問(a)~(e)に答えなさい。
 a.
この戦争の一般的な名称を答えなさい。
 b.
この戦争の発端の地であり,第一回目の戦争後にローマの支配下に入った地中海の島の名前を答えなさい。
 c.
第二回目の戦争でローマを苦しめたカルタゴの将軍の名前を答えなさい。
 d.
その将軍が初めて敗北し,戦争の帰趨を決めた戦いの名称を答えなさい。
 e.
第二回目の戦争でローマを勝利に導いた将軍の名前を答えなさい。
(2)
地中海に雄飛したフェニキア人であったが、彼らは文化史でも重要な役割を担っていた。彼らの文化史上の業績で最も重要と考えられることがらを答えなさい。
(3)
市民皆兵体制をとったのはギリシアの都市国家も同様であった。ギリシアやローマ都市国家に見られる市民兵士の形態を何というか、漢字で答えなさい。
(4)
第二回と第三回の戦争の聞にローマは,東地中海に進出してヘレニズム世界を支配下に入れた。その時期に,ヘレニズム世界を代表するこ王国がローマと戦って敗北した。
 a.
この二王国のうちシリアにあった王朝を答えなさい。
 b.
また、その二王国のうちギリシアを支配していた国名を答えなさい。
 c.
そのギリシア人でこの時ローマの捕虜となり、第三回の戦争に従軍してローマの強国化を目の当たりにし、後に『歴史』を著して政体循環史観を展開し、ローマの優れた点を君主政・貴族政・民主政を融合していることと論じた人物は誰か。
(5)
元老院議員は,コンスルをはじめとする公職経験者など支配階層の構成員だったが,共和政ローマには成人男子市民全員が参加でき,立法や公職者を選出する権限のある民会が存在した。第一回の戦争がはじまるより約20年前に民会の一つである平民会の議決が国法とされ、貴族と平民の権利における平等が実現した。その法はその時の護民官の名前を付けて呼ばれる。その法の名称を答えなさい。
(6)
古代ローマの歴史家の中にはカルタゴの滅亡後に,ローマの退廃と内部分裂の時代が始まったと主張する者がいる。実際,カルタゴの滅亡の年(前146年)から,十年余りの後にローマにおいて、ある兄弟が行おうとした改革をめぐって市民間の意見の対立と内紛が始まった。この改革をおこなった兄弟の姓を答えなさい。
 

解 答 


(1)a (1)b (1)c (1)d (1)e
ポエニ戦争 シチリア島 ハンニバル ザマの戦い スキピオ
(2) (3) (4)a (4)b (4)c
アルファベット 重装歩兵 セレウコス朝 マケドニア王国 ポリビオス 
(5) (6)      
ホルテンシウス法 グラックス

自由劇場と築地小劇場場

2018-02-24 | 入試問題+ゴロ合わせ

1909(明治42)年11月 自由劇場第1回公演。

幾億自由 進撃す。

1909年市川左団次・小山内自由劇場 新劇

1924年 築地小劇場完成。

引く築地まで 押さないで。

  1924 土方与志 築地小劇場 新劇 小山内薫   

土方与志地小劇場)

[point]

1.自由劇場市川左団次小山内薫が結成、築地小劇場土方与志小山内薫が結成。

[解説]


1.1924(大正13)年に小山内薫土方与志らが創設した築地小劇場が新劇運動の中心となり、知識人層のあいだに大きな反響をよんだ。


2.小山内薫(1881~1928)は、東京帝国大学英文科卒。森鴎外に認められ、執筆活動にはいる。自由劇場築地小劇場を創設し、劇作家として戯曲の執筆、翻訳・翻案を多く手掛ける。演出家としての業績も大きく、しばしば坪内逍遙と比肩される演劇界の革新者であった。また詩人・小説家としても活躍。


3.市川左団次(2代目、1880~1940)は、初代の子。東京生まれ。ヨーロッパでの芝居鑑賞行脚の後、友人小山内薫と意見が一致し、自由劇場を創設し、近代演劇の発展に大きな足跡を残した。また江戸化政文化を代表する4世鶴屋南北作品の復活、岡本綺堂(きどう)・真山青果(まやませいか)らと新歌舞伎をおこすなど歌舞伎の革新復興にも大きな足跡をのこす。


4.土方与志(1898~1959)は、東京生まれ。学習院より移り、東京帝国大学国文科卒。本名は久敬。伯爵家の当主。東京大学中退。小山内薫に師事し、演劇研究のため留学、ドイツ・ロシアで演劇理論を学ぶ。関東大震災の報で帰国、私財を投じて小山内と自前の劇場である築地小劇場を開設、新劇運動の拠点とした。その後、社会主義リアリズムの演劇の紹介につとめ、1933~41年にプロレタリア演劇同盟の一員としてヨーロッパに渡り、そのままソ連にとどまり亡命した。しかし、スターリンによる粛清で追放され、1941年、帰国と同時に治安維持法で捕らえられ投獄され、戦中を獄中で過ごす。戦後は再び旺盛な活動を開始し、前進座などで演劇の復興にあたり後進の育成につとめた。


2016関西学院大学・全学部

問5 下線部f演劇や音楽でも新しい動きがみられたに関連する説明として、正しいものを下記より選びなさい。
 ア.小学校教育で、日本歌謡を導入した唱歌を多く採用した。
 イ.歌舞伎では河竹黙阿弥が文明開化の風俗を取り入れた新作を発表した。
 ウ.小山内薫の文芸協会などは、新派劇と呼ばれた。
 エ.川上音二郎らの壮士芝居は、新劇と呼ばれた。」

(答:イ〇。※ア×西洋風の日本人による作曲。ウ×小山内薫は自由劇場。エ×新劇→新派劇)〉


2016明大・文

 明治を迎えると、歌舞伎は依然民衆に親しまれたものの、明治10年代以降、イ荒唐無稽な筋書きをあらため、また劇場や興業体制の改革など、演劇の近代化を目指す動きが高まっていった。他方で、時事的な劇に民権思想を盛り込む[ b ]芝居が生まれ、日清戦争前後からは人気小説の劇化の要素も加えて、新派劇へと成長した。さらにウ日露戦争後には、西洋の近代演劇を翻訳・上演する運動が起き、これらは歌舞伎や新派劇に対して[ C ]と呼ばれた。

問1 空欄b・cにあてはまる人名ないし語を漢字で記せ。


問3 下線部(イ)に関して、旧幕臣の政治評論家で、『東京日日新聞』主筆などをつとめる一方、1886年(明治19)の演劇改良会の発起にも加わった人物の名を漢字で記せ。


問4 下線部(ウ)について、1909年(明治42)に二代目市川左団次と小山内薫が結成した団体の名前を漢字で記せ。」

(答:問1b壮士 c新劇、問3福地源一郎、問4自由劇場)〉

2013早大・法

Ⅲ 次の史料は、ある人物の日記から抜粋したものである。これを読み、後の問に答えなさい。
【史料】
1)1918年8月16日
夜、[ A ]で脚本の相談会があった。長田、楠山、河村の諸君に島村先生と松井須磨子がきた。脚本会を月はじめにやる約束をした。東京の町は凄惨な感じをあたえる。長田君と夜おそくまで歩いてみた。a.軍隊、在郷軍人会、警官隊が警衛していた

2)1925年2月4日

夜、[ B ]の「桜の園」をみた。かなりな出来だ。ある部分は新劇協会のときよりもよく、ある部分は悪い。

問1 空欄Aに該当する劇団名を漢字で記述解答欄紙に記入しなさい。

問2 下線aは何のためか。その理由となる出来事を漢字で記述解答欄に記入しなさい。


問3 空欄Bは小山内薫らが創設した劇団である。その名称を漢字で記述解答欄紙に記入しなさい。)


(答:問1芸術座、問2米騒動、問3築地小劇場)

1913年7月 島村抱月、松井須磨子と芸術座を創立。

行くいざ始末 芸術座。

1913年 島村抱月、松井須磨子 芸術座

大正2、劇団「芸術座 (劇団)」を旗揚げした島村抱月松井須磨子の、数後の病死~後追い自殺(同7~8)にいたる関係においては、劇団や演目への好評が大きいだけに政治的圧力や短い期間での破綻が大衆の好奇を刺激した。

In 1913 Hougetsu SHIMAMURA and Sumako MATSUI set up together a theatrical company 'Geijutsuza,' but 

their relationship, which led to the death of Hogetsu from disease after several years (in 1918) and the 

follow-up suicide of Sumako in the end (in 1919), stirred the masses to be inquisitive about the political 

oppression against them and the fact that the relationship was ruinedin a short period of time, especially 

because the theatrical company and their performances were highly praised.



2012大学入試センター

・日本史A:「
第6問
 明治末から昭和期の社会・文化に関する次の文章Aを読み、下の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)

 A 明治末から昭和初期にかけて新劇の演出家として活躍した小山内薫は、大学を卒業すると1907年に雑誌『新思潮』を発刊し、イプセンなどの戯曲の紹介を行った。その後、『新思潮』は断続的に刊行され、a大正中期以降に文壇の主流を占めた新現実派の一派である新思潮派を生んだ。

 1909年には、ヨーロッパから帰国した二代目市川左団次と[ ア ]を結成し、チェーホフなどの翻訳劇を上演した。 1923年のb関東大震災の際は、小山内は神戸の六甲山に避暑中であったため事なきを得た。焼け野原となった東京では、震災跡地にバラックの建築が許されることとなり、これを知つた小山内と[ イ ]は、翌年、築地小劇場を設立し、ゴーリキーらの戯曲を上演して新劇の発展に尽くした。

問1 空欄[ア・イ]に入る語句の組合せとして正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。


 ①  ア自由劇場  イ土方与志     

 ②  ア自由劇場  イ島村抱月     
 ③  ア芸術座    イ土方与志     
 ④  ア芸術座    イ島村抱月」

(答:①)