ふと、桜良と春樹に会いたくなって、録画してあるこの映画を観てしまう。
気がつくと、もう5回目。
受け狙い見え見えの青春ラブストーリーに、なぜこんなに惹きつけられるのだろう。
私はもう、50歳半ばのおじさんなのに。
前々回、
この映画を取りあげて感想を書いたとき、桜良より春樹に注目したと書きました。
観る度に、その思いが強くなってきます。
一般的には、不治の病を抱えたヒロインである桜良が小悪魔的に明るく振る舞い、涙を誘うストーリーと見なされるでしょう。
ふとしたキッカケから言葉を交わすようになり「仲良し」になった二人。
しかし、他人と関わらないことで自分を守ってきた彼の牙城は硬く、「ぼくは他人に興味がない」と断言してはばからない。
その素っ気なさが不治の病を抱えた桜良には「得がたい日常」と映り、彼に俄然興味が湧いてちょっかいを出し始める。
無口な彼の口から意外にすてきな言葉が出てくるたびに、惹きつけられていく。
「同級生の重病を知って、どうして平気でいられるの?」
「一番つらい本人が明るく振る舞っているのに、他人が泣いたりするのはお門違いだから」
「初恋の人を好きになった理由は?」
「何にでも “さん” を付ける人で、ぼくはそれを“何に対しても敬意を忘れないこと”だと思えたから」
とくに断る理由もない春樹は、桜良と一緒に過ごす時間が増え、強引に九州一泊旅行にかり出されてしまう。
桜良は自分の命が残り少ないことを自覚し、もともとの明るさに加え、“開き直り”の勢いで春樹に猛烈にアタック。
すると、誘惑には流されないものの、氷のように固く閉じていた彼の心が、少しずつ解け出していく。
「人と触れあうのも悪くないもんだな」
と彼は感じ始める。
彼の氷の心は、生まれつきなのか、ポリシーなのか、以前何かがあってそうなったのかは、触れられていません。
以前はふつうの子どもだったのかもしれない。
それが、「人と仲良くなって傷つくくらいなら、自分1人でいる方がいい」と選択したのかも。
その割には対人関係を単純に遮断して、ひとと関わることをおびえているわけではなく・・・不思議です。
・・・私にも経験があるので、なんとなくうがった見方をしてしまいました。
友達は数人いれば人生を全うできる、とは
初期三部作(「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」)の頃の村上春樹から学んだことです。
春樹の氷の心を溶かすには、桜良くらいのエネルギーが必要なのでしょう。
桜良のペースに巻き込まれつつ、次第に春樹は彼女に惹かれていきます。
それは “恋心” というより、自分とは違う価値観を持つ彼女への “敬意” に近い思い。
やはり彼は “敬意” を払える女性に惹きつけられる運命なのかな。
私がこの映画のベストシーンを選ぶとしたら、深夜の病院に忍び込んだ春樹と桜良の会話。
トランプゲーム “真実と挑戦”で春樹が勝ち、桜良は “真実” を選択。
彼が問います;
「君にとってぼくは・・・いや、君にとって生きるってどういうこと?」
「まじめかよ〜」と桜良は一旦は茶化すものの、しばらく考えてから答えます;
「う〜ん・・・
誰かと心を通わせること、かな
誰かを認める
好きになる
嫌いになる
誰かと一緒にいて
手をつなぐ
ハグをする
すれ違う
それが “生きる”
自分ひとりじゃ 生きてるってわからない
そう、
好きなのに嫌い
楽しいのにうっとうしい
そういうまどろっこしさが
ひととの関わりが
わたしが “生きてる” って証明だと思う」
珠玉の言葉が並びます。
この瞬間、桜良は春樹にとってかけがえのない存在になったのでした。
もし春樹が、「君にとってぼくは、どんな存在なの?」と聞いてしまったら、
この映画はよくある“青春ラブストーリー”の範疇にとどまったことでしょう。
でも春樹は、「君にとって、生きるってどういうこと?」と言い直します。
この言葉の選択一つで、テーマが“恋愛”の枠を飛び越えたのです。
この映画でいくつか残念に思ったこと。
映画の中では半分悪役になっているクラス委員長の存在が気になります。
桜良に元彼である委員長は「細かいことですぐ怒る」「粘着質」の “イヤな奴” なのでしょうか?
私が思うに、このような子どもは、そのように育てられてきたケースが多いのではないか、と。
つまり、彼は親から細かいことですぐに注意され、成績優秀であることをしつこく期待され続けてきたのでしょう。
すると、他人にも自分がされたのと同じように振る舞ってしまうのです。
相田みつをさんと佐々木正美先生の共著に「
育てたように子は育つ」という本がありますね。
あと、繰り返し観たことで気づいた心憎い演出。
雨の降る午後、桜良の家で、桜良が春樹に迫るシーン。
「彼氏でない男の子と、いけないことをしたい」
まあ、桜良は(迫りくる死以外)恐いものなしですから・・・
でも春樹にはその気はない。
ただ、かわいい女の子に迫られてドキドキしない男子高校生なんていない。
真顔になって見つめる春樹を前に、
「冗談だよう〜」
と茶化す桜良。
いや、彼女は本気だった。
その証拠に、彼に迫る直前、両親と写っている写真をそっと伏せたのです。
「お父さんお母さん、ちょっとの間、眼をつぶっててね」と言わんばかりに。
ここ、私は見逃しませんでした。
この映画の仕掛け人(プロデューサー)は臼井央・春名慶の二人で「世界の中心で愛を叫ぶ」と同じなんですね。
私は「セカチュー」も観ましたが、あまり感動しませんでした。
でも「キミスイ」には、どっぷりはまりました。
なぜだろう?
純粋青春ラブストーリーより、思春期の心の微妙な揺らぎにひかれたのでしょうか。
やはり、前回も触れましたが、“知性と愛の共鳴”ではないかと思います。
人間関係よりストイックな知性を求める修行僧のような春樹は“知性”のシンボル。
人とのふれあい・関わりを大切にする天真爛漫な桜良は“愛”のシンボル。
得てして対局で語られる“知性”と“愛”ですが、この映画のストーリーの中では見事に“共鳴”しているのです。
春樹は桜良に惹かれ、あこがれる。
桜良は春樹に惹かれ、あこがれる。
その惹きつける力は、強力な磁石のようにぐいぐいと二人の距離を縮めていく。
映画の題名「君の膵臓をたべたい」とは、“体の一部をたべることにより君になりたい”という究極の言葉、なのでした。
というわけで“恋愛”の域を超えた、人間賛歌の映画に拍手。
褒めすぎかな?
最後に、突っ込み所を2つ;
1.春樹が深夜の病院に忍び込んだ:
現在の病院はセキュリティ対策が施されているので、映画のように深夜の病院に忍び込むことは困難です。
2.春樹は桜良の膵臓をたべられるか?
人間は死ぬと膵臓は自己融解作用があるので、速やかに消えてなくなるそうです。
そのため、漢方医学では膵臓という概念がありません。
外科手術が行われなかった昔は、人の体の構造の情報を死体からしか得られなかったからです。
膵臓の存在は、生きている人間の体を開いて観察できる“外科手術”の時代以降に確認されたものと思われます。
なので、桜良の膵臓を春樹がたべるには、速やかな行動が必要ということに・・・。