You Tubeを観てると、突然広告が入り込む。
イライラとしながらも、渋々聴く。
TVもそうなんだが、広告(CM)で心に響くCM音楽って、幾つあるだろうか?
インパクトあるCMが沢山、有り過ぎて困るのだが、先ずは『日立の樹』。
▼基本情報
日立の樹(ひたちのき)は、日立製作所をはじめとする日立グループを代表するコマーシャルソング(CMソング)および、同曲を使用したテレビCMに登場する大樹の通称である。
アーティスト :ヒデ夕木/朝コータロー/シンガーズ・スリー
▼大樹『日立の樹』について
日立グループでは、CMに登場する大樹のことも『日立の樹』と称している。
長期に渡って使用されているモンキーポッドが有名だが、上述の通り1973年の第1代CMでは映像にアニメーションが採用されていたほか、別の木をあしらったCMが存在する。
最も有名な『日立の樹』は、ハワイ・オアフ島にあるモンキーポッドの大樹であり、1975年の第2代CMで用いられた後、マンゴーの木等に変更されたが、その後も視聴者の要望で1984年の第6代CM以降は一貫してこのモンキーポッドが使用されている。
この木は、ワイキキから車で30分ほどのダニエル・K・イノウエ国際空港に程近いモアナルア・ガーデンという公園にある。
同公園には『日立の樹』と同種の木が多数ある。
2006年現在、ジョン・フィリップ・ダモンの個人所有地だが、無料開放され、CMの撮影場所やハワイの観光名所としてツアー客等が訪れる。
2007年にも身売りないし州政府に移管される計画があったが、いまや日立のイメージブランドにもなっていることから、日立が公園を管理する地元企業と年間約40万ドル(約4800万円)で営業目的での独占的撮影権を締結した。
しかし、公園に関わる費用は年間60万USドルに上り、日立製作所からの収入を上回るとみられている。
2009年には、増収も兼ねて日本人観光客向けの売店ができた。
この木は広大な土地に立つ一つの大樹に見えるが、実際には高速道路に面したそれほど広くない公園内にあり、ほとんど似た形状の複数の木の中の一本でありどれがCMの木か探すのに苦労する。
CMの木にはゴミ箱が置かれていないため、それで区別ができる。
CM撮影時には高速道路が写らないよう、また孤高の1本に見えるアングルを探して収録が行われた。
種類:モンキーポッド
樹齢:約120年
高さ:25m
幅:40m
なお、日立の樹事務局によると歴代の大樹の正確な場所は現在では不明とのこと。
CM以外でテレビに登場することはほとんどないが、2010年10月23日に放送された『日立 世界・ふしぎ発見!』の25周年スペシャルでは、出演者一同がモアナルア・ガーデンを訪れ、日立の樹の前で番組撮影を行った。
モンキーポッド
学名:サマネア・サマン
俗名:アメリカネム(合歓)、サマンの
木、レインツリー(Rain tree)
モンキーポッドとは、猿がその実を好んで食べることから付いた名。
podはえんどう豆などの「さや」の意味を表す英語である。
ネムノキに似た花をつけ、ネムノキ同様に光によって葉が閉じたり開いたりするため俗にアメリカネムとも呼ばれる(モンキーポッドはマメ科サマネア属、ネムノキはマメ科ネムノキ属)。
主な産地は中南米、西インド諸島など。
日の陰る雨降りの日には葉が閉じることから、レインツリー(雨降りの木)の異名がある。
日本でも栽培キットの入手が可能である。
次は『時をこえて』シリーズ 明治安田生命。
基本情報
明治安田生命の保険のCMであり、CMソングには「たしかなこと」を起用。
アーティスト : 小田和正
でも、造り手としては卑怯だよね。
「家族」をテーマにすれば、泣いちゃう。“父と娘”とか“母と息子”とかね。
感動のCMでした。
最後は『恋は、遠い日の花火ではない』シリーズSUNTORY。
基本情報
「夜がくる」(よるがくる)は、サントリーのウィスキー「SUNTORY OLD」のCMソングであり、楽曲は小林亜星。
「夜が来る」のCMソングじゃないけど、サントリーレッドの大原麗子“少し愛して、長〜く愛して”シリーズも有名。
《概要》
サントリーオールドのテレビCMを手がけるに当たって「人間みな兄弟」(にんげんみなきょうだい)のタイトルで作曲された。
「人間みな兄弟」のタイトルはかつて壽屋(現・サントリー酒類)宣伝部に所属していた開高健が考えたキャッチコピーであり、小林がこのコピーからのインスピレーションにより作曲したものである。
1968年に最初に放送されたバージョンは、男性のスキャットとギター伴奏によるハ短調のものである。スキャットを歌ったのは、当時上智大学の教授であったサイラス・モズレーという人物であった。
楽曲はCMに用いるために短く完結しており、短いイントロと8小節の主旋律を必要に応じて繰り返すのみとなっている。
後に、小林自身により日本語の歌詞がつけられ、このときに「夜がくる」のタイトルがつけられる。
このときの日本語詞バージョンは「マークHAMA」の名で小林自らが歌っている。
以後、何度かの中断期をはさみ、現在までさまざまなアレンジでサントリーオールドのCMに用いられているが、その中でも最初のスキャットバージョンが最も広く知られており、2008年のCM(國村隼・伊藤歩が出演した「家族の絆」シリーズ )でもスキャットバージョンが採用されていた。
なお、複数のバージョンを収めたCD『人間みな兄弟〜夜がくる』 (CRCP-20254) が2000年8月23日に日本クラウンからリリースされている。
また、2008年3月15日開業の西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線(JR京都線)の島本駅において、入線メロディとして採用されている。
これは駅の設けられる島本町に山崎蒸溜所があることにちなんだもので、地元からの要望に基づくものである。ただし蒸溜所の最寄り駅は隣の山崎駅である。
《小林亜星について》
小林 亜星(こばやし あせい)
(生没 :1932年〈昭和7年〉8月11〜2021年〈令和3年〉5月30日)
日本のミュージシャン、作曲家、俳優、タレント。日本作詞作曲家協会(J-scat)理事、大日本肥満者連盟(大ピ連)初代会長を務めた。
CM曲や歌謡曲、アニメソング、テレビ番組のテーマ曲など、生涯に6,000曲以上を残した。
1976年「北の宿から」で日本レコード大賞を受賞し、2015年には日本レコード大賞功労賞を受賞した。
妹はイラストレーターの川村みづえ。次男は元俳優・元学習塾講師の小林朝夫。従甥(母・塩子の兄の孫)に経済学者の有賀敏之がいる。
《経歴》
▼生い立ち
東京都渋谷区幡ヶ谷に生まれ、杉並区堀ノ内で育った。
母の尊敬する演出家・村山知義の息子・村山亜土の名前に因んで「亜星」と命名された。
父方の祖父は新潟で病院を経営していた医師、父は逓信省の官僚、母は築地小劇場の劇団員。
東京府東京市大宮国民学校(現:杉並区立大宮小学校)6年生の夏に戦争のため長野県小諸市に疎開した。
旧制慶應義塾普通部から慶應義塾高等学校(同じクラスに音楽家の冨田勲、林光がいた)を経て、父の勧めで慶應義塾大学医学部に入学したものの医師になりたくはなく、音楽サークルでの活動に熱中したことで親に断りなく経済学部に転部して卒業。
卒業時に親の知るところとなり失望された。
▼作曲家デビュー
大手製紙会社に入社するも数ヶ月で退社し、大学の先輩で放送関係の仕事をしていた作曲家・服部正に師事した。
当初は服部に「音楽大学出身者以外の弟子は取らない」と断られたが、連絡先を書いたメモを郵便受けに置いて帰った所、数日後に電話で入門を認められた。
当時は痩せていたという。 出世作のレナウンのコマーシャルソング「ワンサカ娘」(歌:弘田三枝子)は、当時レナウンの宣伝部に在籍していた実妹(川村みづえ:イエイエのCMのイラストは川村の作品)の紹介で実現したという。
これ以後、その作曲数では三木鶏郎に及ばないものの、CMソングを中心とした作曲活動を展開するようになり、数多くの作品を世に送った。
『ふりむかないで』『ワンサカ娘』『日生のおばちゃん』『この木なんの木』など、長いあいだ放映されて多くの日本人の耳になじんでいるCMソングが多い。
1969年、「イエイエ」、「エメロンシャンプー」他のCM音楽作曲に対して、第6回放送批評家賞(ギャラクシー賞)を受賞。
また作曲だけではなく、歌謡曲の一部の作品では作詞の他にも編曲も手掛けている。
▼俳優デビュー
向田邦子の代表作であるテレビドラマ『寺内貫太郎一家』が俳優デビューとなり、「すぐ、ちゃぶ台をひっくりかえすような」頑固な親父「寺内貫太郎」役で、大きな印象を残している。
起用前の風貌は長髪でサングラスをかけており、原作者の向田は自身の父親をモデルにした寺内貫太郎像とはほど遠く、起用に難色を示したという。
しかしプロデューサーの久世光彦の発案で髪を坊主頭にし、黒い丸縁めがね、印半纏等を身に着けた小林を向田にひき会わせた所、納得して起用が決まった経緯がある。
また本人の話では、当時太っている俳優は少なく、ザ・ドリフターズの高木ブー・フランキー堺・若山富三郎は多忙で断られ、その中で小林に白羽の矢が立った。
1980年(昭和55年)1月から1984年(昭和59年)10月までテレビのクイズ番組『象印クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日)に、男性軍キャプテンとしてレギュラー出演。
同番組のメインである「16分割クイズ」においては、わずか1枚開いただけで正解に導く事が多々あり、「16分割の鬼」と言われた。
日本音楽著作権協会の一部理事たちによる公金不正流用事件を機に、有志会員が小林亜星、永六輔、野坂昭如を中心に結束し、協会を監視是正するオンブズマン的団体J-scat(日本作詞作曲家協会)を組織した。
この団体の活動資金を捻出するために、1996年の暮れから3人で世直しトリオとして「歌入りトークショー」を開始した。
▼晩年の活動
1998年(平成10年)、服部克久作曲の「記念樹」が小林の作曲した「どこまでも行こう」を剽窃(盗用)しているとして小林が訴えて服部と法廷で争う形で裁判になった(記念樹事件)。
司法では最終的に小林の主張が認められた。
1999年(平成11年)、フジテレビ系アニメ『∀ガンダム』の第1クール〜第3クール分まで(第2話〜第38話まで)のオープニングテーマ、小林からの推薦により、『寺内貫太郎一家』で親子を演じた西城秀樹が歌うことになった作品が「ターンAターン」である。
2009年5月には懇意のヴァイオリニスト、天満敦子とのコラボレーションを集大成したアルバム『ロマンティックをもう一度』が発売された。
2015年、第57回日本レコード大賞・功労賞を受賞。
▼死去
2021年5月30日早朝、自宅で倒れていたところを発見され東京都内の病院へ緊急搬送されたが、心不全のため、同日死去。
88歳没。 小林とタッグを組んで数多くの作品を出していた作詞家の伊藤アキラが2週間前の5月15日に死去し、追悼のコメントを出してまもない時期でもあった。
〔ウィキペディアより引用〕