シーラカンスの憂鬱

照る日もあれば、曇る日もあるんだし…

◆2005年4月のエントリー◆

2005年04月30日 | 過去のエントリー【月間】

   
   4/6  『砂場の太平洋』
   4/7  『新しいシャツ』
   4/9  『存在』
   4/10 『タンポポ空を行く』
   4/12 『これでいいのか? シーラカンスの憂鬱!』
   4/19 『再始動 -泳ぎ始めるシーラカンス-』
   4/20 『新生ドラえもんが開けた未来へ続く扉』
   4/24 『明言:トラックバック』
   4/25 『街の風景』
   4/26 『まっさらな気持ちで…』
   4/30 『どくさいスイッチ』


◆2005年4月の深海広場◆

2005年04月30日 | 深海広場
あちらこちらのブログでは、
桜の花や菜の花が綺麗に咲いていますね。

4月になると観たくなる映画の一つに、
岩井俊二監督の『四月物語』があります。
松たか子さんが、
北海道から上京して来る大学生を初々しく演じています。
ゆったりとした岩井俊二監督独特の雰囲気が素敵な映画ですよ。

四月物語
四月物語松たか子

おすすめ平均
stars遠い思い出のような
starsdtsがうれしい!
starsはじまりのはじまりの物語
stars無器用でひたむきな女の子。
stars卯月は私だ

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『深海広場』

コメントやメッセージのフリースペースです。
日常の他愛のない事柄や情報の交換。
エントリーに関連する事・しない事。
コメントする場所が無い時などにもご利用ください。  
『シーラカンスの憂鬱』へのご意見・ご感想など、何でも書き込んで下さいね

《5月1日追記》
  『5月の深海広場』にも遊びに来て下さいね~

『どくさいスイッチ』

2005年04月30日 | アニメーション
『どくさい(独裁)』という、
日常生活の中ではあまり登場しない単語を耳にすると、
その単語の意味を再確認し、
それがどの様な意味で適用されているのか調べる癖があります。
もっとも、
「あまり日常生活に登場しない」
と思っているのは全くの僕の主観であり、
例えば、
学校や会社などの小さな集団生活の中にすら、
この単語にふさわしい事象や人物が存在するのかも知れません。

   『どくさい(独裁)』

『どくさい』を冠したドラえもんの秘密道具があります。
4月29日に放映された新生『ドラえもん』の第3回6話目のエピソードです。

『どくさいスイッチ』
てんとう虫コミックス第15巻に収録。

ドラえもん (15)

未来の独裁者が作らせたと言われる『どくさいスイッチ』は、
《自分に反対する者》や《邪魔になる者》をスイッチを押すだけで
この世界から消し去る事が出来るという世にも恐ろしい道具です。

この悪意に満ち溢れた道具を
のび太に簡単に渡してしまうドラえもんの心情。
理解不能なまでのこのドラえもんの行為が意味するところは、
最後まで観る事によって、その真意が明らかにされます。

   「邪魔者は消してしまえ。」

人間の心の奥の暗闇に潜む邪悪な炎。
皮肉たっぷりに描かれる独裁者の孤独。

僕の小学生時代を振り返ってみると、
家の近所に住むよく一緒に遊んだ友達は、みんな僕より年下でしたので
自分自身も《独裁》的に振る舞っていた事があり、少し心が痛む想いでした。

ジャイアンやスネ夫を消してしまった事による
のび太の不安定な感情は、夢の中でも脳内を駆け巡り暴走を引き起こします。

そして、
やがて訪れる絶望の淵に突き落とされる様な孤独…。

   人は、誰も一人では生きていけないもの。
   誰かに支えてもらう自分がいるからこそ、
   他の誰かを支えてあげる事が出来るのだと思います。
     シーラカンスの憂鬱:『愛すべきホイミスライム -癒し-』より引用。

この『どくさいスイッチ』にも描かれた、少年の心の成長物語。
暗くて恐ろしい
風刺の効いたこのエピソードを埋もれさせないで欲しい。
繰り返し繰り返し、
再放映して欲しいエピソードの一つです。

なぜなら、
のび太の立場に居る人、
のび太をいじめるジャイアンたちの立場に居る人、
そして、
さまざまな世代に、学ぶところの多い作品なのですから。


◆『藤子不二雄』関連のエントリー◆
◆4/15 新ドラえもん 反応リンク集◆

『まっさらな気持ちで…』

2005年04月26日 | アニメーション
テレビアニメーション新生『ドラえもん』は、
4月29日の放映分で第3回目を迎える事になります。

「原作回帰」という新たなコンセプトを掲げた
新スタッフの方々が送り出してくれる『ドラえもん』に
僕の家族も毎週金曜日が来るのを待ち遠しく感じています。
DVDレコーダーに録画された
第1回目の『勉強べやの釣り堀』などの3作品
第2回目の『のろのろ、じたばた』などの2作品は、
毎日のように我が家のテレビに映し出されている程です。

僕は、
小学校低学年の頃にマンガ『ドラえもん』に出会い、
藤子・F・不二雄先生が描く『SF=すこし・ふしぎ』な世界に魅了されました。
藤子F先生の『パーマン』や『バケルくん』などの他の多くの作品を読んでは、
コレクションしていた小学生時代をまるで昨日の事のように覚えています。
大山のぶ代さんが演じる『ドラえもん』の放映が開始された1979年の4月は、
僕が小学校4年生の頃で、『コロコロコミック』に少しずつ掲載される
アニメーション版『ドラえもん』の情報を読みながら心待ちにしていました。
初めて観る動く『ドラえもん』にテレビに噛り付くように観ていた僕は感激し、
翌日の学校での友達との会話はそれに関する事ばかりだったと思います。
藤子F先生の原作マンガに魅了され、大山のぶ代さんの『ドラえもん』に憧れた
正に、ドラえもん世代の僕です。

妻は、
僕と殆ど同世代にもかかわらず、藤子F先生の作品はおろか
マンガ『ドラえもん』さえもあまり読んだ経験がありません。
アニメーション『ドラえもん』も、「何度かは観た事がある」という程度で、
辛うじて大山のぶ代さんの名前は知っているものの、想い入れなどの感情も
殆ど無いに等しいという人物です。そんな妻ですが、テレビなどから流れる
大山のぶ代さんの声を聴けば、何の意識もせずに『ドラえもん』の声と
自然に判断する事が出来るらしいのは、大山さん=ドラえもんという
公式みたいなものが、妻の意識の中に浸透しているからなのでしょう。

来月3歳になる息子は、
昨年の10月の終わり頃から大山のぶ代さんが演じる『ドラえもん』を観始めて、
大好きになったようで、それ以降ずっと観続けています。
大山のぶ代さんから水田わさびさんへと
移行した『ドラえもん』に、何の抵抗も感じていないのは、
息子の真剣な目と以前と変わりのない笑顔が証明しています。

こんな三者三様の我が家ですが、
リニューアルされた『ドラえもん』の前では、
僕も妻も、まるで息子と同じような気持ちで無邪気に笑っています。
純粋にアニメーションを楽しむ心で…。

第1回目と第2回目の作品を繰り返し観て、
「原作回帰」というコンセプトを掲げた
新スタッフの方々のスタンスに、僕は大いに信頼感と安心感を得ました。
藤子F先生が描いた『ドラえもん』の本当のおもしろさを
これからも追求して頂けるのなら…。

   「原作」の本質を狂わせない一貫したスタンスと
   「原作」に描かれたエピソードを単に忠実になぞるだけではない、
   アニメーション作品ならではのエンターテイメント性を巧みに融合させた
   作品製作が今後重要になって来るのだと思います。
     シーラカンスの憂鬱:『新生ドラえもんが開けた未来へ続く扉』より引用。

だから、
その作品を受け取る側にいる僕たちは、
「原作」や「旧ドラえもん」と比べたりせずに、
単純にそして純粋に楽しめば良いのだと思えるようになりました。

haschiken様新ドラえもん評! 4/15: 思い出せ! あの日の感動で、
素敵な見解を展開されておられます。

   旧ドラのイメージをできるだけ引きずらずに、
   新鮮な気持ちで見ることを心がけて欲しい、
   そういう願いをこめて、スタッフはこの話を選んだのではないだろうか。

僕もそう思います。
そして「新鮮な気持ちで見ることを心がけて欲しい」というメッセージは、
僕を含む「原作」を重視している方たちにも向けられているような気がします。

   「俺たちが原作の本質をしっかりと受け継いだアニメを作るから、
    そんなに原作!原作!と意識しないで、純粋に観て欲しいな。」と。

rainyblue様ドラえもんリニューアルに際して(まとめ)の中で、
《否定的見解》を唱える方に向けて書いている文章より引用します。

   「ドラえもんはもう見ない!」
   そう感じるのも、また致し方ないのかもしれない。
   ただ、そういう気持ちがあるのは仕方がないとして、
   どうかまっさらな気持ちでこれからもわさドラを見ていただきたいのだ。

この意見に僕も賛成です。
ただし、《否定的見解》の方だけに言うのではなく
《肯定的見解》の方や「原作」を重視している方たちにも同様に唱えるのが
本筋なのではないでしょうか。

   「まっさらな気持ちで観ましょうよ。」

   「秘密道具の名前が変わっていて残念。」とか
   「原作の名セリフがそのままでよかった。」とか
   「僕が私が知ってるドラえもんじゃない!」とか

そんな事に囚われない観方をしても良いのではないでしょうか?
そうする事によって新しく発見出来る何かが在るかも知れないのですから。

◆『藤子不二雄』関連のエントリー◆
◆4/15 新ドラえもん 反応リンク集◆

『街の風景』

2005年04月25日 | 音楽
1992年4月25日の夕暮れ時。
その日の僕は、
普段通りに仕事をこなし、家路を辿る駅のホームにいました。
隣の列に並ぶサラリーマンが開いていたスポーツ新聞の夕刊に
何気なく目をやった僕の脳内に突然飛び込んで来た"ある文字の羅列"は、
すぐには理解不可能なものでした。

   『尾崎豊、死去』

僕は自分の目を疑いながらも
電車を待つ人の群れから抜け出し駅の売店に走りました。
陳列されていた幾つかのスポーツ新聞を手に取りながら、
それらのどの新聞にも表示されていた容易に確認出来た文字。

   "尾崎豊"という名前の後ろに続く
         突き落とされる様な"死"という文字。

日本の音楽シーンを揺るがせた衝撃的な報道。
僕を含めた全ての尾崎豊さんのファンたちが
受け止めなければならなかったあまりにも突然で悲しい事実。
毎年この日が訪れる度に僕の胸が軋み、泣き出してしまいます。

   "尾崎豊の命日"

自分が愛している人間の"死"にまつわる心の情景を
言葉や文章にして表現する事は決して易しい事ではありません。
また、そうする事に今の僕には絶対なる必要性も存在しません。
でも、
"尾崎豊"という
一人のミュージシャンから発せられた情熱的な生き様に
心を震わせながら磨かれた宝の様な精神愛すべき音楽たち
自分の中から発信し共有したいという衝動に駆られてしまいます。

衝撃と涙にまみれたあの日からもう13年。
そんなに時が流れてしまったという事が信じられない程
僕の中の"尾崎豊"は、彼の存在を知った頃と同じ輝きを放ちながら
現在も歌い続け叫び続けています。

買い込んだ新聞を握り締め
電車の窓からぼんやりと眺めた
沈みかけた夕日と闇のグラデーション。
涙で滲んだあの日の流れ行く遠い街の風景。
心に刻まれたあの日の街の風景を忘れる事はきっと無いでしょう。

  十七歳の地図

『街の風景』
作詞・作曲/尾崎豊
アルバム『十七歳の地図』(1983年12月1日発売)のオープニング・ナンバー。

◆『尾崎豊』関連のエントリー◆

『明言:トラックバック』

2005年04月24日 | ブログ暗中模索
2004年10月13日に、
このブログ『シーラカンスの憂鬱』を開設して半年が過ぎました。
その間に多くのブログに訪れ、さまざまな記事を読んでいる内に、
自分の《ブログの在り方》というものを考えるようになりました。

中でも、
トラックバックというブログ特有の機能について
考え方が大きく変化して来ました。

相手先のブログにこちらへのリンクを貼り付けて、
半ば強制的に訪問を促す機能があるトラックバックを
アクセス数の拡大の為に使用する事に何の疑問も感じずに
行っていた以前の僕。

   「僕も同じ作品の感想を書きました。
    関連する記事だからトラックバックを貼りますね。」

こんな安直な気持ちで、
作品名などを検索窓に打ち込んで
該当するブログの記事を検索しては、
その記事にトラックバックを送っていました。
しかし、
こんな行為は、宣伝以外の何物でもないという事に気が付きました。

   同じ話題を書いているのだから良いだろ、
   という理屈で送られてくるトラックバックの主には、
   「ほれ、俺はその記事に関連するこんな良い情報を書いているんだぞ」
   「おまえは関連する情報をブログ検索で調べたりしないだろうから、
    こっちからリンクしてやる」というゴーマンささえ感じることがあります。
     えっけん様のNGワード:トラックバックありがとうより引用。

その頃に該当する僕の過去の記事のコメント欄には、

   「トラックバックありがとうございます。」

という言葉から始まるコメントを頂いています。
儀礼的コメントも含まれているのだと思いますが、
本来ならば、トラックバックを送り付けた側の僕が、

   「そちらの記事にリンクも言及もしておりませんが、
    《関連する》という理由だけでトラックバックさせて頂きました。
    どうぞ、ご一読よろしくお願いします。」

という気持ちを表現する言葉を添えて伝えるのが当然でした。
そして、
訪問して頂いた方々に、本当に心からお礼を言わなければならないのは、
トラックバックを送り付け、訪問を促した僕でなければならないはずです。

ブログというコミュニケーション・ツール使い、
自分の書いた記事をWeb上に公開している殆どの方は、
その記事を出来るだけたくさんの人に読んでもらいたい
という思いが少なからずあるものです。
だからと言って、
単に《キーワードが一致する》
又は《内容が関連する》などの
相手先の記事に特に言及していない内容のトラックバックのみを送る行為は、

   「そちらの記事を読みましたよ。」

という事を明確に伝える事には必ずしも繋がらず、
宣伝トラックバックと受け止められる危険性が大いにあります。

以上を踏まえまして、
『シーラカンスの憂鬱』なりにトラックバックに関してまとめました。

   ◆トラックバック・ポリシー◆
     【こちらから貼る場合】
      ・相手先の記事に言及、または引用する。
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     アクセス数を上昇させる事が目的と受け取れる場合、
     また、こちらの記事との関連性が薄いと判断した場合は、
     勝手ながら削除する事がありますので、予めご了承願います。

◆関連リンク◆
   シーラカンスの憂鬱:『明言:トラックバック -人間性の双方向性-』
   シーラカンスの憂鬱:『明言:トラックバック -送り届けたい想い-』
   CURRY DIARY (・x・):ネットマナー(カテゴリー)
   むだづかいにっき♂:トラックバックの話(カテゴリー)
   絵文録ことのは:トラックバックの有効な使い方を考える

『新生ドラえもんが開けた未来へ続く扉』

2005年04月20日 | アニメーション
2005年4月15日。
「原作回帰」を一大コンセプトに掲げ、
新たな幕開けの日を迎えたテレビアニメーション『ドラえもん』

第1回目の放送から既に5日が経過してしまいましたが、
僕も『ドラえもん』をこよなく愛する者の一人ですので、
後ればせながら、この話題を僕なりに語ろうと思います。

未来へ続く扉を開けた
新生『ドラえもん』の第1回目の作品は、
凄まじい反響を呼び起こし
《肯定派》
《否定派》
《中立派》などの意見に分かれ、
Web上の多くの掲示板やブログで話題にされています。
  
   おおはた様の
     新生アニメドラ第1回感想
   TOJHO様の
     わさドラ いよいよ本日スタート
   rainyblue様の
     アニメ「ドラえもん」リニューアル版の感想
   haschiken様の
     忘れない! この日の感動
   チャミー様の
     あっ!ドラえもんだ!
   gummigummi-ball様の
     新ドラ・第一回

上記のブロガーの方々が詳しく言及されている内容と
僕の抱いた第1回目の作品を観た感想は、概ね同じです。
故藤子・F・不二雄先生の「原作」に流れる本質を崩さず、
アニメーションならではのエッセンスを巧みに散りばめた
とても好感が持てる作品に仕上がっていると思いました。

ただ少し気にかかる事は、
Web上に語られる多くの《肯定派》の見解が、

   僕を含む、
   『「原作」をこよなく愛しているからこその肯定的見解』

という風に僕には思えてしまう事です。

もしも、『ドラえもん』というアニメーション作品が、
「原作」を持たないオリジナルの作品だと仮定して、
26年もの間、愛され続けて来た末の今回のリニューアルだとしたら、
《肯定派》の見解は、どのようなものになるのでしょうか?

掲示板などに書き込まれた《否定派》の見解には、

   「ドラえもんは、あんなに口が悪くない!」
   「僕が知ってるドラえもんじゃない!」

などの意見が多数あり、
これまで大山のぶ代さんが演じ続けた
愛されるキャラクター『ドラえもん』を観て来た人たちには、
ごく自然に生まれる感情《違和感》なのかも知れません。

   それだけ、大山版ドラが浸透し、
   親しまれてきたと言うことなのだろう。
     おおはた様のアニメドラが生まれ変わった日より引用。

大人にも子供にも慕われ、
《日本の文化》の一つと言える程の
キャラクターを創り出した故藤子・F・不二雄先生と
旧アニメーションスタッフとキャストの方々の功績の偉大さに
改めて気付かされました。

「原作回帰」という
素晴らしいコンセプトを掲げた新スタッフの方々には、
これから先も大いなる期待を寄せています。
「原作」の本質を狂わせない一貫したスタンスと
「原作」に描かれたエピソードを単に忠実になぞるだけではない、
アニメーション作品ならではのエンターテイメント性を巧みに融合させた
作品製作が今後重要になって来るのだと思います。
そして、
「原作」を知らないと楽しめない様な
アニメーション作品にはしないで欲しいという想いも同時に…。

これまでの『ドラえもん』が築き上げた未来へ続く扉
そして、
新生『ドラえもん』が開けた未来へ続く扉
もっと大きく
もっともっと大きく開く為に…


◆『藤子不二雄』関連のエントリー◆
◆4/15 新ドラえもん 反応リンク集◆

『再始動 -泳ぎ始めるシーラカンス-』

2005年04月19日 | ブログ暗中模索
個人の《日記帳や備忘録》と《ブログ》。
これらの決定的に違うところの一つに、

   「不特定多数の第三者が見る場所に公開する。」

という事が挙げられます。

Web上に自分の書いた記事を発信し、
それを読んだ見ず知らずの方たちとの素晴らしい出会いと交流。
また、
誰かの書いた記事に感銘を受けながら
心を豊かに成長させる事も出来るコミュニケーション・ツール《ブログ》。

だからこそ、

   「恥ずかしくない記事を書かなければ!」

いろいろな意味で「恥ずかしくない記事」を…。

こんな想いが胸を突き上げ、
過去に書いたエントリーを見つめ直す為に
しばらく更新するのを休んでいた『シーラカンスの憂鬱』です。

温かく優しい言葉で励まして下さいました方たちと
休止中にもかかわらずご訪問下さいました多くの方々には
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

   「ありがとうございました!」

ふたたび
ゆっくりと
ゆったりと
シーラカンスは泳ぎ始めます…。

『これでいいのか? シーラカンスの憂鬱!』

2005年04月12日 | ブログ暗中模索
   「これでいいのか?
    え? おい! シーラカンスの憂鬱よォ!」

少しばかり思うところがありまして、
しばらくの間、新しい記事を更新するのをお休みします。
決して閉鎖するわけではありませんし、放置するつもりもありません。

休止している間にも、
あちらこちらのブログに神出鬼没でお邪魔すると思います。
『4月の深海広場』などでいつでもコメントをお待ちしておりま~す

『タンポポ空を行く』

2005年04月10日 | マンガ
ぽかぽかと暖かい春の陽気に誘われるまま
僕の心にも小さな草花たちが芽を出します。
桜の花の様な華やかさは無いかも知れないけれど、
踏まれても伸びようとする逞しさはきっとあるはず。

   「ふわっとした真っ白まん丸な綿毛、
    何かがちょっと触れたりすると、一瞬にして壊れてしまう。
    でも、そうやって種を飛ばすんだよね。」
      sty様のたくましいよ、君たちは!より引用。

これらの写真を眺めていたら、
小学校4年生の頃のあどけない僕の心に響いた
マンガ『ドラえもん』のエピソードを思い出しました。

タンポポの真っ白な綿帽子は、
自然が生んだ美しい生命の芸術。
タンポポママにしがみ付いたたくさん綿毛の坊やたち。
やがて、
風と友達になって
ママの元を離れ旅立ちの日を迎える。

ドラえもん (18)

『タンポポ空を行く』
てんとう虫コミックス第18巻に収録。

 ◆ストーリー◆
   ゴーグルにイヤホンが付いた形状の
   秘密道具《ファンタグラス》を身に付けると
   表情豊かな動物や植物たちの声が聞こえて来きます。

   捨てられたくないタンポポのつぼみは身を震わせ、
   庭の隅に植えかえようとするのび太には笑顔を見せます。
   野球に誘われても行こうとしないのび太には、
   「苦手なら、尚更ぶつかっていかなくちゃ。」と
   優しく厳しい一面を見せるタンポポのつぼみ。

実は《ファンタグラス》は、
それを着けた人間の潜在的に持っている意識が、
動物や植物たちの表情や声になり聞こえて来る道具です。
つまり、
のび太は自分の《心の声》と会話をしながら、
嵐の中を必死でタンポポの身を守り
その成長ぶりを見守っていたのです。

広い世界に旅立って行く
綿毛の坊やたちを見つめるのび太の眼差しに
少しだけ成長した少年の姿が見えました。


そんな想いを抱きながら
たくましいよ、君たちは!の写真を眺めてみると
またいっそう味わい深く心に訴えかけて来るものがあります。

◆『藤子不二雄』関連のエントリー◆