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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

玉津島神社のご祭神

2017-04-18 10:29:43 | 1紀伊国の旅

玉津島神社のご祭神

玉津島神社の創建は上古ということで、古いのです。覆殿が建てられたので、この本殿のお姿を見ることはできません。ご祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)、明光浦靈(あかのうらのみたま)の四柱です。千木を見ますと、確かに女性の神様のものですね。

稚日女尊…伊弉諾・伊弉冉尊の御子で、天照大神の妹、別名を丹生都比女神(にふつひめのかみ)

息長足姫尊…神功皇后。皇后が海外出兵のおり、玉津島の神(稚日女)が霊威を現したので以来尊崇し、自身も卯年、卯月、卯の日に合祀された。

衣通姫尊…第19代允恭天皇の妃。その美しさが衣を通して光り輝いて見えたというほどの美人で、殊のほか和歌の道に秀でておられた。衣通姫は、第58代光孝天皇の勅命により合祀されたという。衣通姫が合祀されて以来、玉津島の神は『和歌三神』として、住吉大神(摂津)と柿本大神(明石)と共に広く一般文人墨客から崇められて来た。

明光浦靈…聖武天皇の「宜しく守戸を置きて荒穢せしめることなかれ。春秋二季官人を差遣し玉津島の神・明光浦靈を奠祭せよ」の詔勅により、明光浦靈を合祀することとなった。

是で、ご祭神が合祀された順番が分かりました。神代には、稚日女尊(別名は丹生都比女尊)のみだったが、海外出兵の後に神功皇后が合祀され、聖武天皇により明光浦靈が加わり、58代光孝天皇により衣通姫が合祀され、その後「和歌三神」の一つに玉津島神社が変貌したとなるようです。然し、わたしは何処で読んだか忘れましたが、衣通姫が祭られたのは古いという伝承か記録があると書いてあったのを読みましたが、…どこの話だったのか…

衣通姫が光孝天皇の夢枕に立たれたとは云え、都から離れた神社に合祀となったのは何故でしょうか。

第58代光孝天皇(830~887)は、どんな宿命の帝なのでしょう。父は仁明天皇、母は藤原沢子。甥の陽成天皇が叔父の藤原基経により若くして廃位となり、光孝天皇は55歳での即位となりました。在位は4年(884~887)

 光孝天皇は即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を継承させないことを決めていました。然しながら、皇太子が確定しない内に光孝天皇は病に倒れ、臣籍降下していた源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌日には立太子。即日、光孝天皇の崩御となりました。御子の立太子は光孝天皇の意思だったかどうかわかりません。むしろ、藤原基経が仲の悪かった妹(藤原高子)の子に即位させないための策だったのではないでしょうか。

そんな光孝帝の夢枕に立ったのが、衣通姫です。

立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波

一度は去ってしまったこの世に、またも戻って来て、生き直してみたい。和歌の浦とうれしい名前になった、そのなつかしい浦に寄せ来る波のように。

まるで衣通姫は和歌の浦を知っているようです。「もう一度生まれてきたい、和歌の浦に寄せて来る波のように」と、切なる願いに聞こえます。光孝天皇にとっては、玉津島神社に合祀したくなった歌です。古代には、夢は現実と同じでしたから、現実の体験として衣通姫の気持ちが理解できたということです。「三代実録」には光孝天皇について「天皇若くして聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と書かれています。思慮深い人だったのです。

即位後も不遇だった頃を忘れないように、自分が炊事をしていた煤で汚れた部屋をそのままにしておいたという逸話が「徒然草」にもあります。

このような光孝天皇が、なぜ衣通姫を合祀したのか、ここに大きな意味があると思います。衣通姫が合祀された後、玉津島神社は「和歌三神」の一つとなり、後西帝、霊元帝、桜町帝、桃園帝、後桜町帝、後桃園帝、光格帝、仁孝帝の御代に、「法楽和歌会」と称し、玉津島の神に和歌を奉納する歌会が宮中で催されました。玉津島神社にとっても大変な意味のある合祀でした。

光孝天皇の夢枕に立った衣通姫とは、単に允恭天皇の妃なのでしょうか? わたしには、衣通姫には別の深い意味があると思えるのです。それは、万葉集巻二を読めばわかります。巻二には、軽太子と軽太郎女(かるのおほいらつめ)の物語が紹介され、軽太郎女の歌が掲載されています。その題詞に「古事記に曰く、軽太子、軽太郎女に姧(たわ)く。この故にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ恋慕に堪へずして追い往く時に、歌いて曰く

君が行き 日長(けなが)くなりぬ 山たずの 迎えを往かむ 待つにはまたじ

軽太子と軽太郎女が巻き込まれたのは、皇位継承の争いでした。二人は允恭天皇の皇子と皇女でしたが、二人の姦通を理由に弟の穴穂皇子に皇位を奪われた事件です。光孝天皇の夢枕に立たれたのは、「古事記」の衣通姫だと思うのです。

軽太子の皇位継承権を奪うには、軽太郎女皇女との姦淫事件しかなかったのではないでしょうか。「無実の二人が命を奪われた」と、光孝天皇は感じた、故に玉津島に衣通姫を祀り、歌を奉納して霊魂を慰めた…自身の子孫から皇位継承者を出さない、争いの種はまかないと、堅く決心していた心をそのまま現したのが、衣通姫の合祀だったのでしょう。

更に、軽太子事件は、有間皇子事件によく似ているのです。光孝天皇が「有間皇子事件」を知らないわけは有りません。歴史に詳しい光孝天皇は、日本書紀も読んでいたはずです。無実の皇子は有らぬ嫌疑をかけられたと、その嫌疑の相手は「父の孝徳帝の皇后だった間人皇后」だったと。衣通姫は間人皇后(中皇命)を象徴していると思います。だからこそ、神として合祀したのです。

平安時代には、万葉集は読まれています。誰もが、衣通姫は誰なのかを知っていたということです。神社の千木を見れば、社に祀られたのが女性の神だと分かりますね。

古代の紀ノ川は、和歌川の流路を流れていました。大和国の吉野川から紀ノ川へ、それから玉津島へと船旅を楽しめたのです。この地は長く多くの帝に愛されたのでした。中央の赤いラインは、南に延びると道成寺と岩内1号墳(有間皇子の墓と言われている)に届きます。北に延びると大谷古墳に届きます。偶然にしても面白いですね。

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紀伊国・玉津島神社の花影に

2017-04-17 20:06:08 | 1紀伊国の旅

紀伊国の玉津島神社の春

紀伊国に旅してきました。紀伊国は目に入る風景の何処も山桜が咲き、今まで旅した土地に比べても決して引けはとりません。沖縄以外、ほとんどの県を旅したわたしが思ったのです。もちろん春の東北の芽吹きや北上川の岸辺も、日本海の春雷も素晴らしかったけれど、ヤマザクラが何気なく咲いた紀伊路の春には心惹かれました。

やっと、以前から訪ねたいと思っていた玉津島神社に行きました。玉津島神社は桜の花に彩られて、華やかな空気が漂っていました。

ここは、聖武天皇、孝謙天皇、桓武天皇の行幸の地でもあります。鳥居の横に、山部赤人の万葉歌碑がありました。公の場で赤人が詠んだ玉津島の長歌と短歌でした。

 神亀元年甲子の冬十月五日 紀伊国に幸す時に山部宿禰赤人の作る歌一首 併せて短歌

やすみしし わご大王の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがいに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山

沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほへむかも

若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

神亀元年(724)は、元正天皇が甥の聖武天皇に譲位した年でした。二月に即位し、改元。長屋王が左大臣となり、三月には吉野行幸。聖武天皇には思い出深い幸せな時間が流れていたことでしょう。玉津島には天皇の行宮があったのですが、そこを常宮とするほど長く滞在し気に入っていたということです。玉津島神社の本殿の裏は小高い岩山(標高33m)となっていて奠供山(てんぐやま)と呼びます。奠も供も「お供え物」の意味です。

聖武天皇はこの山に登り「山に登りて海を望むにこの間最も好し。遠行を労せずして以て遊覧するに足る。故に『弱浜(わかのはま)』の名を改めて『名光浦(あかのうら)』と為せ。宜しく守戸を置きて荒穢せしめることなかれ。春秋二季官人を差遣し玉津島の神・明光浦靈(あかのうらのみたま)を奠祭せよ」との詔勅を発せられたのです。

奠供山に登ると和歌の浦が一望できます。頂上はやや広く、称徳天皇の「望海楼」の址でもあります。

古来、各天皇に愛された玉津島。いにしえ、ここは紀ノ川の河口でした。紀ノ川は改修される前は、今の和歌川の流路を和歌の浦に流れ込んでいたのです。行幸の一行は、吉野川から紀ノ川と航行し玉津島まで船旅を楽しむことができたでしょう。

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59藤原不比等とは何者か

2017-04-08 19:33:33 | 58藤原不比等の出自

藤原不比等とは何者か? その2

前回、藤原不比等(ふひと)(鎌足の二子)の母は誰とされているのか、を少々書きました。

「興福寺縁起」は、鏡王女(かがみのおほきみ)を不比等の母だとしました。その可能性がないわけではありませんが…。しかし、万葉集事典では「母は車持国子君女(くるまもちのくにこのきみのむすめ)としています。興福寺としては、車持国子君女では「役者が足りなかった」ので、鏡王女としたのでしょうか。

が、鏡女王が高貴な女性であれば、鎌足の正室の位置にあって一族に采配しても、鎌足と寝所を共にしたとは思えません。わたしの勝手な考えではありますが。確かに、鎌足と鏡王女は歌をやり取りしていました。

鎌足と鏡王女の万葉集の歌は、公の場で詠まれたものでしょう。天皇の前で詠まれたものかも知れません。寵妃を臣下に与えるとはどういうことでしょうか。

平安時代も、高貴な女性であった皇女・内親王は皇族以外の男性に嫁することはできなかったのですから。その身分を冒すことは大変なことだったのです。そんな鏡王女が天智帝の子を身ごもり、男子を生んだ可能性はあります。たとえ鎌足の子として育ったとしても、世間には高貴な血だと知られたでしょう。古代では高貴な血筋は何にも代えられない意義と価値があったのです。豪族たちは自分の出自を粉飾し高貴な氏であることを主張しました。

平安時代に嵯峨天皇の勅により編纂された氏族名鑑の「新撰姓氏録しんせんしょうじろく)」がありますが、これは氏族の出自が乱れたので、それを糺そうとしたものです。淳仁天皇も桓武天皇も取り組んだのですが、完成に至らなかったのでした。嵯峨天皇の時代にようやく完成したのです。

定恵が高貴な血統だとして、その母は誰でしょう。「日本書紀」と「藤氏家伝」の双方に「軽皇子(孝徳天皇)が中臣鎌足を気に入り、宮処に泊めたりして朝夕の世話を寵妃の小足媛にさせた話」が書かれています。書紀も家伝も内容はほとんど同じです。では、小足媛が定恵を生んだというのでしょうか。世間では、定恵は孝徳天皇の皇子というのです。しかも、小足媛は有間皇子を生んだ孝徳天皇の寵妃です。鎌足は軽皇子の気持ちを嬉しく思う事はあっても、小足媛にたわけた真似はしなかったと思います。彼は超忠臣なのですから。もちろん、どちらにも小足媛が男子を生んだとは書かれていません。

同じように天智帝に忠義を尽くした鎌足は、鏡王女にたわけることはなかったし、鏡王女も鎌足を受け入れることはなかったでしょう。鎌足の子をもうけないことが、その身を護った証となるのですから。定恵が鏡王女の御子であれば、我が子を強く愛した鏡王が、国外に留学させたのは理由があると思います。また、不比等が鏡王女の御子であれば、壬申の乱の後も守られたと思います。

これで、天武帝が鏡王女を見舞った理由が明白になります。生涯を鎌足の正室としながら、天智帝の寵妃であった過去を守り続けたその意思に対しての労いです。世間にもこれほどの美女はなく、これほどの意志の強い女性はいなかったでしょうし、何より藤原氏を護った聡明さに対しての労いでした。薨去の後は、父・舒明帝の墓の傍に眠ったとなるのです。

皇女として生きること、天智帝の寵妃として生きることを世間も望んだということです。天武天皇の見舞いは、鏡王女が皇族だったことの証明にもなるでしょう。天武帝の異母妹だったかも知れません。

 不比等の生涯を見ると、持統帝の即位の時期に合わせて台頭してきます。持統帝が藤原氏を重用するのは何故でしょう。藤原氏が天智帝の寵臣であったこと、天智帝に忠義を尽くしたことが大きかったのではないでしょうか。持統帝も天智帝を深く慕っていたのですから。

文武帝即位では、娘の宮子(みやこ)を夫人として皇室に接近し、翌年には、藤原の姓を承(う)けました。藤原の姓は「藤原鎌足」が天智天皇から賜ったものであるから、不比等の家系以外は中臣(なかとみ)に戻したのでした。

それにしても、不思議ではありませんか? 天武帝が極位に着いているのに「天智帝の寵妃として一生を送った」鏡王女を称え、「天智帝が贈った藤原の姓を不比等の家系だけに限る」など、あまりに天智帝の威光を強調していることが。何よりも不比等は律令政治に引き戻そうとしました。天武帝の天皇親政を終わらせたのです。もちろん、持統天皇も承知の上です。やはり、持統帝と天智帝の結びつきが見え隠れしてしていますよね。

不比等は、大宝元年には大納言、和銅(わどう)元年には右大臣です。養老(ようろう)元年(717)に左大臣の石上麿(いそのかみまろ)が没しますから、最終的に不比等が議政官のトップになるのですが、何故か、石上麿が没した後は、左大臣は空席のままです。

元正(げんしょう)天皇(文武天皇の姉・草壁皇子の娘・独身)は、不比等を左大臣には任官しませんでした。元正天皇の陰には母の元明(げんめい)天皇がいて、その意思が働いていたのでしょう。元明天皇は非業な最後を遂げた夫の草壁皇子の意思を守っていたのです。元明天皇には夫の意思を受けての信念がありました。さっそく、高市(たけち)皇子の長子である長屋王(ながやのおほきみ)を大納言に任じました。「天武天皇の皇統に極位を譲る 」それが、草壁皇子の意思でしたから、妻としての元明天皇は、大変けなげで賢い人だとおもいます。

養老二年(718)、長屋王が大納言に任じられる

 高市皇子の王子がこれから権力の坐へ登っていくと、誰にもそう見えました。長屋王の妃は、文武天皇との元正天皇の妹(吉備内親王だったのですから、これほどの皇位継承者としての宮家は有りませんでした。

ここから、長屋王家の滅亡計画が藤原氏により密かに進められていくのでしょう。

720年に不比等が没します。

没後に、不比等は太政大臣の称号を送られました。十年後、不比等の意志を継いだ長男の武智麻呂(むちまろ)が長屋王家を滅ぼすという展開になるのです。藤原氏は徹底的に天武帝の皇統を切り捨てて行きました。それは、不比等の遺言だったような気がします。そして、誰もいなくなった、のですから。

 また、明日

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58鎌足の二子。藤原不比等の出自

2017-04-07 10:20:59 | 58藤原不比等の出自

藤原鎌足の二子、藤原不比等とは何者か?

不比等(ふひと)は、天武天皇(40代天皇)の嬪(ひん)であった異母妹の藤原夫人(ふじはらのぶにん)と密通の上、麿(まろ)(695生)をもうけています。

天武天皇崩御(686没)から十年近く立っているとはいえ、不比等は異母妹と天武天皇の関係をどう思っていたのでしょうね? 万葉集には天武帝と藤原夫人のやり取りした歌が載せられていました。

 天武天皇(四十代天皇)から藤原(ふじはらの)夫人(ぶにん)へ賜う御歌

巻二103 吾里に 大雪ふれり 大原のふりにし さとにふらまくは後(のち)

藤原夫人(五百重娘(いおえのいらつめ))のこたえ奉る歌

巻二104 吾岡の おかみに言いてふらしめし 雪のくだけし そこにちりけむ 

 二人は楽しそうにやり取りをしています。藤原夫人は、天武帝が心許した女性だったのでしょうか。

(大原は飛鳥寺の東、飛鳥坐神社の東、大原神社があるあたりで、現在は小原という地名です。鎌足はこの大原で生まれたということです)

天武帝の死後、異母妹・藤原夫人に不比等は近づいたのでした。それは、許されたのですね。何の咎めも受けていませんし、麿は藤原四兄弟の末っ子として京家の祖になっています。本来なら、藤原夫人が麿を生んだことは、秘話として処理されたでしょうに。麿は末子に認められていますから、少しも隠されていないようですね。

天武天皇の後宮は、女帝である持統帝の治世では機能していなかったのでしょうか。婦人たちはバラバラになったのでしょうか。それでも、不比等は図々しすぎませんか。父・藤原鎌足の鏡王女や安見兒(やすみこ)に対する態度とは全く違いますね。不比等が父とは違った態度を取ったのには、何か理由があるのでしょうね。

 

不比等の漢詩として「懐風藻」には五言詩五首が残されていますが、万葉集には歌は有りません。漢風詩を詠むことが文化人としてのステイタスだったのでしょう。万葉集には不比等の没後、その邸宅の庭で山部赤人が詠んだ歌があります。

 

山部宿祢赤人が故太政大臣藤原家の山池を詠む歌一首

 

378 昔者(いにしへ)の古き堤は年深み 池の渚に 水草(みくさ)おいにけり

貴人が長く住まわれたお屋敷の山池はいよいよ年を経て深みを増し、風情のある池の岸近くに水草が生い茂り、貴人を偲ばせる庭になったものだ。

不比等の母は誰か

千年の長きにわたって、藤原氏が朝廷の重臣であり、皇室との関係を保ち続けてきたのは、異常というか奇跡でしょう。道筋を開いたのは、不比等でしょうか。

不比等は鎌足(669没)の二子であり、壬申の乱(672)には参加していません。乱の当時は十四歳とか? 十四歳なら戦に巻き込まれても仕方ない年齢ですが、守られていたのか無傷だったようです。叔父の中臣金(藤原金)は壬申の乱後に斬られていますから、参戦していれば無事にはすみません。誰が守ったのでしょう? その母でしょうか

興福寺縁起には、鏡女王が不比等の生母創作説もあり)とされています。

興福寺(こうふくじ)は、平城京の別区のようになっている藤原氏の氏寺です。なぜ、興福寺縁起に鏡女王生母説が出て来たのでしょう? 高貴な出自の鏡女王の名が必要だったとしか思えません。

前のブログ(56)に書いた鏡王女は、その出自もはっきりしていません。名前の記述も、鏡王女(万葉集)、鏡姫王(日本書紀)、鏡女王(興福寺縁起・延喜式)と微妙に違っていて、同一人物ではないとする説があります。

天武十二年(683)、天武天皇が鏡姫王の病気を見舞っています。それは、女王薨去の前日でした。鎌足の室ですから、もちろん後宮の女性ではありません。天皇が病を見舞うとは、鏡王女は特別な女性でした。天武天皇にもゆかりのある女王なのです。

興福寺縁起では、この鏡女王が不比等の母だというのです。なぜでしょう。車持国子君の娘が不比等の母ではないのですか?

また明日

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57天智天皇を信じた藤原鎌足

2017-03-29 16:36:55 | 56天智天皇に信頼された藤原鎌足

天智天皇を信じた中臣鎌足

前回紹介した阿武山古墳が藤原鎌足の墓だとしたら、おかしな事実がたくさん出てきます。鎌足の墓は談山神社に移されたというのは、嘘になるのでしょうか。阿武山古墳の被葬者は玉枕の上に頭を乗せ、顔を織冠で覆っていたのですから只者ではありません。60歳前くらいの男性で、骨折の後が残っていたそうですから、没年の蒲生野の薬狩の宴の時落馬してそれが死亡の原因だったのではないかと、「藤原鎌足と阿武山古墳」に書かれていました。わたしが一番おどろいたのは、玉枕や織冠ではなく彼が漆塗りの「脱活乾漆棺(だっかつかんしつかん)」に横たわっていたことです。玉枕や織冠はマスコミの報道で知っていましたが、脱活乾漆棺のことは記憶にありませんでした。上記の本の中の挿入写真ですが、

漆喰でぬられた石槨内の台の上に置かれていたのです。この種の棺は、牽牛子塚古墳(石槨が二つ、両方の棺ともに)や野口王墓にも使われているのですから、阿武山のそれは最高級の棺だったことになります。ちなみに脱活乾漆棺とは、木の上に漆を塗った棺ではなく、漆を数枚から数十枚の布(苧や絹)の上に塗り重ね固めた布着せの技法で作られた棺なのです。野口王墓は天武持統陵でしたね。

さて、鎌足の墓は談山神社に移されたとの伝承はどうなるのでしょうね。

諸説の中で「談山神社の石塔は若くして毒殺された定恵(貞慧)の菩提を弔うために鎌足が造った」というのが、わたしの納得の説でしたが… 定恵は「藤氏家伝」に書かれている通り「白鳳五年(654)に長安に至り、白鳳十六年帰国」であれば、父の鎌足の存命中ですから期待の長子の死を弔うのは当然でしょう。

しかし、「多武峯縁起」や「多武峯略記」は定恵の日記かと言われる「荷西記」を引用して全く相反することが書かれているそうです。定恵の渡唐は天智六年(667)、帰朝は天武六年(678)、或本には入唐は二度目だったと。帰国後、弟の不比等に父の墓所を訊ね、二十五人を引率し二人で墓を掘り多武峰に運び、十三重塔の底に安置したと、云うのです。はたまた定恵について「帰朝後、多武峯を創建、当寺に止住すること三十七年、霊廟は当寺にあり。碑には入唐求法沙門定慧、和銅七年六月二十日、春秋七十、端座遷化と銘されている」と、多武峯略記には記されているそうです。七十歳まで生きたとは、仰天の内容です。和銅七年だなんて… あまりに違すぎますね。

どちらが事実でしょう。更に、こんな違い過ぎる結果は何ゆえに生まれたのでしょう。理由があるはずです。事実が曲げられた理由です。また、それは誰にとって必要だったのか、です。ある人物の思惑により、事実が曲げて書き残されたのでしょう。定恵は「孝徳天皇皇子、鎌足公第一子」とされています。では、不比等が近江天皇の皇子説と合わせて考えると、鎌足の男子はどちらも実子ではなかったとなるのですか? ふうむむ、すごい話ですね。

天智天皇=天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)と孝徳天皇の両方から鎌足は大事にされたことになりますね。

天命開別天皇とは、『書紀集解』に天皇が恭遜にして時を待って天位に登ったのは命の開くるが如し、とあるように、天命を受けて皇運を開かれた男性、の意、だそうである。これは、死後に贈られる国風諡号(こくふうしごう)で、書紀には、開別皇子・葛城皇子・中大兄などと呼ばれていました。

父は舒明天皇、母は斉明天皇(皇極天皇)、妹に間人皇女(孝徳帝の皇后)弟に天武天皇がいて、家族中で極位に登ったという血統でしたね。中大兄は舒明帝・皇極天皇の御代から皇太子でしたが、大化改新後には即位せず、叔父の軽皇子(孝徳天皇)が即位しました。

中臣鎌足の父は、中臣御食子。母は知仙娘(ちせのいらつめ)=大伴夫人。子どもには定恵(貞慧)不比等・氷上娘・五百重娘・耳面刀自 がいます。

鎌足と天智帝を結びつけたものは何だったのでしょうね。

また、今度

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56天智天皇が信じた藤原鎌足

2017-03-28 23:19:55 | 56天智天皇に信頼された藤原鎌足

天智天皇を信じた藤原鎌足

(「藤原鎌足と阿武山古墳」吉川廣文館の挿入写真です。中央が阿武山古墳、鎌足の墓かも?)

この古墳が大きく新聞等に取り上げられたのは、金糸で刺繍されたらしい織冠を頭に置き、玉枕を枕に六十歳前くらいの男性が乾漆棺に眠っていたからでした。新聞では鎌足の墓が見つかったという報道でした。日本書紀によると織冠を授けられた人物は二人しかいません。一人は百済の王子で白村江戦の前に百済に戻りました。もう一人が藤原鎌足でした。

天智天皇より異例の厚遇を受けた中臣鎌足

世にいう「大化改新」とは何だったのでしょう。其々の豪族に支配されていた国を律令国家とする為に、中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏を倒して実現したと、そんなふうに教えられませんでしたか? 推古天皇の時に唐に留学した僧や学者が帰国し中臣鎌足は帰国した留学生と律令政治を学び合っていました。僧旻や南淵硝安、高向玄理や軽皇子(孝徳天皇)などと語り合い、蘇我氏を排除した国造りを目指していました。律令による国造りは。経済を握っていた蘇我氏を倒すことから始めなければなりませんでした。

蘇我氏は大臣蘇我馬子以来、政治の中核にあり、蝦夷と入鹿親子の権勢は盤石なものに見えていました。如何に蘇我を倒すかを考えた時、鎌足はひとりの皇子に注目しました。それまで、軽皇子と親しかった鎌足は、中大兄皇子に近づくチャンスを待ったのでした……そこで蹴鞠の場面になるのです。これが、二人の出会いだったという物語ができています。が、要するに鎌足は軽皇子から中大兄皇子に乗り換えたのです。以来、 鎌足は天智天皇の腹心の部下でした。

内臣(うちつおみ)鎌足の病気と死・天智天皇の行幸と恩詔

天智八年(669)十月十日、天皇は藤原内臣の家に病気を見舞う

同年 十月十五日、東宮大皇弟を遣わし、大織冠と大臣と藤原姓を賜う

同年 十月十六日、藤原内大臣が薨去した

同年 十月十九日、天皇が内大臣の家に行幸し蘇我臣赤兄に恩詔を宣べさせ、金香鑪を下賜する

これまでは、内臣(うちつおみ)ですが、これからは内大臣(うちのおほおみ・うちのおほまえつきみ)となり、「内大臣」の官は宝亀八年(777)に、藤原良継に授けられるまで百年以上授与されていません。鎌足は特別の官を得たのです

*藤原良継は、鎌足→不比等→宇合→良継(鎌足の曽孫)

 「日本書紀」には「日本世紀」からの引用文が載せられています。

日本世紀に、内大臣は五十歳で私邸において薨じた。山南に移して殯をした。天はどうして、良くないことに、強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ。碑に『五十六歳で薨じた』という

(*日本世紀は、高句麗の僧・道顕による編年体の歴史書で、日本書紀の基本的資料の一つとなった)

 では、天智天皇と中臣鎌足の関係を万葉集で見ましょう。

(鏡王女も安見兒も天皇から鎌足に与えられた女性です)

鏡王女は気位の高い人でした。鏡王の娘で額田王の姉という説もありますが、以前紹介したように鏡王の墓は舒明天皇の陵墓の近くにありますから、舒明帝の皇女という説もあります。

珠(たま)櫛笥(くしげ)は「覆い」にかかる枕詞で、大切な化粧箱だそうです。

93 たまくしげおおいをやすみ あけていなば 君がなはあれど 我が名はおしも

覆いで隠すわけではありませんが、夜が明けてからお帰りになって、貴方の名が人に知れるのはいいのでしょうが、わたくしの名が立つのは口惜しいのです。

鎌足の歌の珠櫛笥は、「みもろ」に掛かります。化粧箱の身と蓋の「み」に掛かるのです。

94 たまくしげ みもろの山のさなかづら さねずはついに ありかつまじし

そうですか。みもろの山の「さな葛(かずら)」のように「さ寝ず」でいいのですか。そうなったら、貴女はとても耐えられないでしょう。

 鏡王女は、口惜しかったでしょうね。鏡王女は、もともと天智天皇と恋仲だったのでしたね。二人の歌は既に紹介しています。 

天皇、鏡王女に賜う御歌一首

妹が家も継ぎて見ましをヤマトなる大嶋の嶺(ね)に家もあらましを

いとしい貴女の家をいつも見たいものだ。せめて、やまとの大嶋の嶺に私の家があったらいいのに

 鏡王女こたえ奉る御歌一首

秋山の樹(こ)の下隠(がく)りゆく水の吾こそまさめ御念(おもほ)すよりは

秋の山の木々の下を流れる水は流れながら水かさを増していきます。その水のように、わたくしの思いの方が勝っております。殿下の御思いよりは

二人は恋仲というより、鏡王女(683没)は天智天皇の寵妃だったのです。鏡王女の歌は「御歌」とありますから、やはり彼女は皇族でしょう。それなのに、藤原鎌足(669没)に与えられたという…のです。よほどのことですね。

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55草壁皇子のために額田王が建てた寺

2017-03-28 00:02:49 | 55草壁皇子の菩提を弔った額田王

額田王は草壁皇子のために寺を建立した

壬申の乱後、近江京で天智天皇に仕えていた額田王は、夫(大友皇子)を亡くした娘と明日香に帰って来ました。飛鳥で額田王はどんな生活をしていたのでしょうか? 

(額田王が弓削皇子に応えた歌・古を恋しく思う鳥は、それは霍公鳥でしょう。その鳥はきっとわたしが昔を懐かしく思うように懐かしそうに鳴いたのでしょうね。)

天武七年(678)十市皇女の突然死で額田王は苦しんだと思いますが、「深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後はその遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させた。」と、粟原寺の塔の露盤に刻まれた文字で読めるようです。

 

草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立

草壁皇子のために粟原寺を建立した人物(比売朝臣額田)は、額田王でしょうか。

額田王は天武帝の皇子にも尊敬され、藤原氏とも交流があったようです。額田王は粟原寺の露盤銘に残る名の比売朝臣額田なのでしょうか。

漢文の内容は、次の通りです。

①この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

➁この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

③和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

④この功徳により仰ぎてお願いすることは、皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

⑤七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

以上ですが、草壁皇子のために造営したと書かれています。甲午年は持統八年(694)で和銅八年(715)までの22年間かけて造られました。(持統八年の十二月に、藤原宮に遷都します。新益京(しんやくのみやこ=藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都だと云われています。)

額田王は斉明天皇の紀伊国行幸に従駕し、有間皇子の事件にも直面したであろう万葉集を代表する歌人で、粟原(おうばる)寺には額田王の終焉の地という伝承があり、跡地に案内板が建てられていました。江戸中期に談山妙楽寺(今の談山神社)から三重塔の伏鉢(国宝)が発見されましたが、それはもともと粟原寺にあったものでした。伏鉢には銘文があり、建立の経緯が刻まれていたのです。銘文の冒頭を紹介しましょう。

此粟原寺者、中臣朝臣大嶋、惶惶請願、奉為大倭国浄御原宮天下天皇時、日並御宇東宮、故造伽藍之、爾故 比売朝臣額田、以甲午年始、至和銅八年、合廿二年中、故造伽藍、而作金堂、及造釈迦丈六尊像…

この粟原寺は、中臣大嶋が、大倭国の浄御原で天の下知ろしめした天皇の御代の、日並御宇東宮(草壁皇子)のために寺院の建立を発願したが、(持統七年に大嶋が死亡したので、大嶋の遺志を継いだ)比売朝臣額田が持統八年から寺の造営を始め、二十二年かけて和銅八年までに伽藍と金堂を造り、釈迦丈六尊像を完成させ…」、和銅八年四月には三重塔と七科露盤を造ったというのです。大嶋は発願しただけで死亡し、あとは比売朝臣額田がやり遂げたというのですが、財力が有ったのでしょうか。

 粟原寺露盤銘には、「日並御宇東宮」と彫られています。「御宇東宮」は、草壁皇子に対する他の文献の表記とは明らかに違います。万葉集では、日双斯皇子命・日並皇子尊・日並所知皇子命。続日本紀では、日並知皇子尊・日並知皇子命・日並知皇太子。東大寺献物帳では、日並皇子。七大寺年表所引竜蓋寺伝記では、日並所知皇子。粟原寺露盤銘の「御宇・東宮」は、外に類例がないそうです。ここに、中臣大嶋と額田王のなみなみならぬ思い入れが見えますね。

甲午年(694)は、大安寺縁起によると「飛鳥浄御原御宇天皇のために金剛般若経一百巻が奉られた』年であり、この年に額田王は中臣大嶋から粟原寺建立を引き継ぎました。

中臣大嶋は藤原大嶋ともいい、同一人物で、藤原の氏を天智天皇から許されたのは「鎌足」であったとして、藤原不比等の子孫以外の藤原氏は、持統三年以降中臣氏に戻されたという経緯があり、大嶋も中臣姓に戻っていました。

藤原の姓を奪われた中臣大嶋の遺志を継いだ額田王が、草壁皇子の菩提を弔うために二十二年も掛けて丈六尊像と伽藍を完成させたと書かれていますが、そうであれば和銅八年(715)の額田王は相当な年齢となりましょう。それも近江王朝の最後まで仕えた女性で、一人娘の夫である大友皇子を倒した天武朝の皇太子のために、命の限りを尽くして寺院を造ったというのです。果たして、そこにどのような事情や縁があるのでしょうか。草壁皇子の母である持統天皇も、十市皇女の二番目の夫だった高市皇子も、草壁皇子の一人息子の文武天皇も、完成時には全て鬼籍に入っていました。誰に遠慮もいらないし、死者に義理を立てる必要もないのです。では、比売朝臣額田とは額田王ではないのでしょうか、このように疑うと、額田王以外の誰が何のために草壁皇子を弔うのかとなって、いよいよ分からなくなるので、ここは額田王かゆかりの人物以外にはないだろうとなります。

では、中臣大嶋と額田王は何ゆえに草壁皇子の菩提を弔おうとしたのか、その答は一つしかありません

額田王は草壁皇子の本当の父親を知っていたからです。それが故に、草壁皇子の菩提を弔った。もちろん、天武天皇ではありません。中臣大嶋にとっても忘れられない恩人でした。

大嶋の父は許米(こめ)、祖父は中臣糠手子(ぬかてこ)。糠手子は、中臣御食子(みけこ)と国子の兄弟であり、御食子の子が鎌足、孫が定恵と不比等です。父の中臣許米には中臣という兄弟がいて、壬申の乱で斬刑になった中臣金は許米の兄大嶋の伯父で、中臣天智朝の右大臣になりました。鎌足の死後、天智帝は中臣金を引き上げたのです。中臣金は身を尽くして仕え、それが故に壬申の乱後に斬られました。当然、大嶋が大王と仰ぐのは、天智帝でしょう。粟原寺建立は、大嶋の伯父の中臣金を弔う意味もあったでしょうが、天智朝の敗将を弔うのははばかられたでしょうから、それをカムフラージュするために草壁皇子の菩提を弔ったとも考えられます。それにしても、自分の一族を破滅に追い込んだ王朝の皇太子を弔ったという不思議、実はそこにも本意があったと思うのです。

額田王と中臣大嶋をつなぐ赤い糸は、天智天皇でした。草壁皇子の父は、この帝です。草壁皇子が天智帝の忘れ形見だったからこそ、大嶋と額田王は力を尽くして寺院を建立しました。共に、密に近江朝を想い続けていたのです。天武帝は「吉野盟約」後の養父であったとすれば、万葉集の疑問のかなりの部分が解決します。

生前の草壁皇子は自分の出自を知っていたがゆえに、天武帝崩御後に即位できなかったか、「天武朝は高市皇子と大津皇子に引き継がれるべき」と考えていたと思うのです。大津皇子も同じように「天武の血統が皇位を継ぐべき」と考え、天武帝も「大津皇子、朝政を聴く」と書紀にあるように、大津皇子に期待をかけていたとしか読めません。しかし、持統皇后は許さなかった。謀反(壬申の乱)により大王位についた王家の血統に皇位を渡したくなかったのです。だから、大津皇子の謀判は思い付きではなく熟慮の結果だったのに失敗してしまったのでした。真相を知る人は、どれほど悔やみ悲しんだか知れません。

  大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌二首

 165 うつそみの 人にある吾れや 明日よりは 二上山を いろせと吾が見む

 166 磯のうえにさける馬酔木を手折らめど 視すべき君が 在りと言わなくに

天武朝の真の後継者を刑死させてしまったと、苦しんだ草壁皇子は母の思いを十分に承知していながら、即位しなかったのでした。以後三年間、兄の高市皇子と皇位を譲り合っていたのでしょう。草壁皇子死して翌年、持統帝の即位となり、高市皇子が太政大臣となりました。こうなれば、孫の軽皇子(文武帝)が成人するまでに、高市皇子は薨去しなければなりません。これが、持統帝に藤原不比等が接近した理由でしょう。天武帝の皇統に極位を渡してはならないと、藤原氏は常に天智朝の腹心の部下であり続けました。

全てを知りつつ、草壁皇子は薨去しました。まるで、仁徳帝と皇位を譲り合ってついには自殺した宇治若郎子のようではないかと、額田王は思い出したに違いありません。宇治若郎子の話を、そして、有間皇子の悲劇を。「あの秋の野の草を刈り取って旅の宿りとなさった有間皇子の仮廬を思い出す、この世で最後の仮宮を。宇治の若郎子のような運命をたどった有間皇子と草壁皇子の凛々しい姿を」宇治若郎子の物語を重ねて、有間皇子と草壁皇子の悲劇を詠んだのでした。

7 金野(あきの)の 美草刈葺き やどれりし 兎道のみやこの 仮廬し念ほゆ 

額田王は天智帝の葬儀後に明日香に帰っても、亡き天智帝を想い続けていました。生涯をかけて天智帝を愛し続けたのでした。歌に詠まれた霍公鳥は、亡き帝の霊魂にほかなりません。

111 古に 恋らむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 吾が念へるごと

 この歌の意味はここで完結するのです。人麻呂は、この歌の背景を十分に知って万葉集に掲載したのでした。

また明日

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54持統天皇の孫、文武天皇の仕事・八角墳への改葬

2017-03-27 15:38:38 | 54持統天皇の孫、文武天皇の仕事

持統天皇の孫・文武天皇の仕事

持統天皇元年(686)は、天武天皇崩御年であり、大津皇子と山辺皇女の没年です。持統帝が即位したのは草壁皇子が没した年の翌年(690)でした。つまり三年間は空位で、持統称制となっています。皇太子が決まっていたのに空位とはおかしなことですから、様々に憶測が飛ぶのです。

文武天皇の即位は高市皇子薨去の翌年(697)で、二月に立太子、八月即位となっています。高市皇子の薨去から一年後に即位したのでした。

この時、軽皇子(文武天皇)の立太子に対して弓削皇子(大江皇女と天武天皇の御子・長皇子の弟)が異議を申したてました。弓削皇子の目には軽(文武天皇)の立太子は尋常ではなかったのでしょう。自分の兄の長皇子の方がはるかに後継者としてふさわしいと思ったのです。

考えてみると、「軽皇子」は皇子ではなく「王」のはずです。草壁は天皇の皇子でしたが、軽は皇子の子ですから「王」。でも、長皇子は天智天皇の皇女と天武天皇の御子ですし、血統的にはより天武天皇に近いわけですから皇位継承者としてふさわしいと、当たり前の主張をしたのでした。(弓削皇子を叱責して黙らせたのは、十市皇女の子の葛野王です)このことが災いしたのでしょうか、弓削皇子は三年後に薨去しましたし、母の大江皇女もその半年後の薨去でした。

持統十一年(697)、文武天皇は15歳で即位しました。

夫人は藤原宮子でした。

文武は若い天皇でしたから、持統天皇が太上天皇として全面的にバックアップしたのです。ですから、文武天皇の仕事には、持統太上天皇の意思が入り込んでいるのです。その中に、おや? と思う仕事があります。

文武三年(699)の山田寺に封三百戸 それに、越智陵(斉明天皇陵)と山科陵(天智天皇陵)の造営です。

山田寺は祖父蘇我石川麿が無念の最後を遂げた寺です。斉明天皇は天武天皇の母、天智天皇は天武天皇の兄、であれば、陵墓の造営(改葬になります)は当然でしょうか? それにしても、天武天皇が滅ぼしたのは天智天皇の後継者でしたね。その大友皇子の墓を慰霊のために造営したのではありません。持統帝と藤原氏の強い願いによる山科陵の造営と考えるべきでしょう。山科陵は平安京を造営する時、重要な墓となりました。どこが皇居で上賀茂神社で、下鴨神社が何処にあるか、金閣寺が何処か、二条城が何処か、分かりますよね。

ここで、 前に紹介した「持統天皇の最後の願い・火葬と合葬」を思い出してください。持統天皇は真っ白な骨となって、天武天皇陵に合葬されたのです。霊魂がその墓を離れ、未来永劫飛びまわるために。その為の、天智陵と同じ経度で築造された陵墓でしたね。その陵は理にかなった位置にあり、武家社会になった時には その霊力はズタズタにされたのです

陵墓の造営が重要であること、祖先・天皇の墓はその王朝にとって意味があること、お分かりですよね。

 だから、高市皇子(天武天皇の第一子)の墓が高松塚であれば、その墓と文武陵は如何なる関係になっているか。当然、高市皇子の霊力を断つ位置を選んだでしょう。(高松塚古墳と中尾山古墳は南北に並ぶ)

高松塚古墳の発掘以前には、高松塚古墳は文武天皇の墓という伝承がありました。わたしも高市皇子とは思っていませんでした、草壁皇子と思っていたのです。治田神社(草壁皇子の岡宮跡)→高松塚古墳石室→岡宮天皇陵(草壁皇子陵の改葬前の墓)のラインも引けましたから。

高市皇子は、後皇子尊(のちのみこのみこと)と呼ばれましたから、草壁皇子の宮跡とその陵墓に挟まれて眠るのは当然かもしれないとも思います。しかし、です…高松塚古墳は八角形墳丘ではありません。

そして、あろうことか、文武天皇の崩御。持統天皇亡き後の公務が多すぎたのでしょうか。文武天皇陵は、今は天武天皇の真南に比定されていますが、最近「中尾山古墳」(八角形墳丘墓)が改装後の文武天皇陵というのが有力です。その中尾山古墳は、耳成山の真南にあり、高市皇子と耳成山の間です。なぜこの位置なのか?

そのわけは、①耳成山と高市皇子の霊力を受け取ろうとした。または、➁高市皇子と耳成山の霊力を遮断した。…これは、➁でしょうね。

更に、草壁皇子の墓も最近は「束明神古墳」とされています。よりよい子孫の繁栄を願って陵墓を改装したのでしょう。それに、 舒明陵、斉明陵(牽牛子塚古墳)天智陵、中尾山古墳のように、八角形の極位に上ったという墳丘墓の形式に揃えたかったということでしょうか。同じ血統の墓の形式に揃えたかった、と。つまり、それまでの王家や天武系の墓とは一線を引いたと言えます。最近、孝徳天皇の墓は叡福寺の聖徳太子の墳丘墓(八角形墓)という説がありました。そうであれば、孝徳天皇の墓も改葬されたことになるのでしょうか。叡福寺の墳丘が聖徳太子の墓と言う証拠はないそうですからね。

持統天皇の意思が、女帝が文武天皇に伝えたかったことが、陵墓の造営でも分かります。舒明・斉明→天智→阿閇・草壁→文武の皇統と、孝徳 →有間→持統→草壁→文武 の皇統を伝えること。万葉集も同じ意図のもとに編纂されたはずです。

初期万葉集を読む時、このことを頭の隅に置いて読むとよく理解できるのです。

持統天皇の詔(たぶん持統帝から出されていたと思われる)を受けて柿本朝臣人麻呂が編纂した「万葉集」は、文武天皇に奉献されるはずだったと思います。草壁皇子の忘れ形見の文武天皇に「誇りをもって生きるように、草壁の皇統を絶やしてはならない」という意味を込めて、持統天皇が詔を出し人麻呂が応えたと思うのです。ですから、「初期万葉集」の編纂方針は明確でした。

その事は、また後で

 

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53持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす

2017-03-26 09:54:18 | 53持統天皇との約束・人麻呂事挙げす

持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす

 「柿本人麻呂が初期万葉集の編纂者」と以前からブログに書いていました。(持統帝の霊魂に再会した人麻呂は、持統帝に聞きたいことがあった。)

  

紀伊国への旅は、持統天皇との思い出の地を訪ねる旅愁を求める旅ではありませんでした。その目的は、形見の地(亡き人の霊魂が漂う地)を訪ね、霊魂に触れることでした。女帝との約束を果たすべきか否か、人麻呂は女帝の霊魂に確かめに行ったのです。

「お言葉のままに、事挙げしてよろしいのでしょうか。わたくしは決心がつきかねております」

人麻呂が迷っていたのは、万葉集の編纂を続け、それを文武天皇に奏上することでした。答は「詔のままにせよ」だったのです。万葉集は、無念の最後を遂げたゆかりの人、滅ぼされてしまったゆかりの人を追慕し、その霊魂を鎮め、鎮魂歌集として末永く朝廷に伝えるために編纂されていました。 

「万葉集の編纂をし、長く子孫に伝えること」それが持統帝の詔だったはずです。

人麻呂は命を賭して「事挙げ」の決心をしたのです。

 

万葉集巻十三 「柿本朝臣人麻呂の歌集に曰」3253~3254

3253 葦原の水穂の国は、この国を支配する神様としては言葉にして言い立てたりはしない国だ。だが、わたしはあえて言葉にして言うのだ。どうぞ何事もなくご無事で、いついつまでも真にお変わりなくと、障りもなくご無事であれば、荒磯浪のアリのように在りし時に王朝の栄を見ることができる。百重浪、千重浪のような後から後から押し寄せて来る波のように、私は何度でも事挙げする。わたしは亡き帝のために何度も何度でも事挙げする。

 反歌(長歌と同じような中身を繰り返す短歌という意味)

3254 しきしまの倭の国は言霊(ことだま)のたすくる国ぞまさきく在りこそ

敷島の倭の国は、言霊の霊力によって守られた「幸く在る」國である。私は、言霊によってこの国の幸を願う。どうぞ末永く国が栄え、王朝が続きますように。

人麻呂が決心して「万葉集」を奉ろうとしたのですが、文武天皇(持統天皇の孫・42代天皇)の突然の崩御でした。

そこで、慶雲四年七月より後に、母の元明天皇(草壁皇子の妃・43代天皇)に「初期万葉集」を奉献したのです。しかし、元明天皇は激怒しました。そこに皇統の秘密が書かれていたのですから。

それは、誰にも知られていることだったと思います。が、それをわざわざ事挙げする人麻呂を許せなかったと思います。それが故に、夫の草壁皇子が苦しみ、義母の持統天皇が文武天皇のために身を挺して政を支え力尽きたことを、元明天皇は承知していました。

 

人麻呂は流罪になりましたが、さらに刑死となりました。

それを甘んじて受けたことが、万葉集でも読み取れるのです。人麻呂は持統天皇に殉じることを承知していました。それは、持統天皇の崩御の時に彼の心内で決めていたことだったのですから。

 

またあとで

 

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52持統天皇の秘密のすべてがここにある

2017-03-25 15:53:44 | 52持統天皇の最後の願い

持統天皇の最後の願い・火葬と合葬

 大宝2年十二月二十二日、持統天皇崩御

 「続日本紀」文武天皇、大宝二年十二月条に、太上天皇、崩(かむあが)りましぬ。遺詔(いせう)したたまはく「素服(そふく)、挙哀(こあい)することなかれ。内外の文武の官(つかさ)の釐務(りむ)は常のごとくせよ。喪葬のことは、努めて倹約に従へ」とのたまふ。と、書かれています。

 持統天皇の火葬・天武陵への合葬

持統天皇の最後の願いは火葬であり、野口陵への合葬でした。歴代天皇の中で、初めての火葬でした。しかも、合葬墓です。

ここに、何かしらの違和感があります。天皇位に上ったということは、神になったということですから、天皇の葬儀では、神として葬送儀礼が行われ、陵墓が造られました。ひとりひとりが一柱の神となって祀られてきたのでした。それなのに… 合葬墓とは、天武天皇霊に対しても神霊をおとしめたことになりませんかねえ。前天皇を一陵に一神ではなく、二神になるのですから。更に、天武・持統合葬陵は、山城の天智陵と経度がおなじです。

 (天智陵から真南に延びた直線が藤原宮の大極殿を通り野口王墓に届きます)

持統天皇は、「天智天皇の陵墓の真南に眠る」ことを希望したのです。なぜでしょう? もちろん、天智天皇と死後もつながっていたかったからです持統天皇は、心から天智天皇を敬い愛していたのです

 持統天皇にとって、淡海は忘れられない思い出の地でした。書紀には「草壁皇子を大津で生んだ」と書かれています。天智帝のもとで生んだのです。

 柿本朝臣人麻呂は「近江皇都の荒れるのを哀しむ歌」を持統天皇に献じています。失われた王朝に涙を流したのは持統天皇でした。なぜ、持統天皇は、天智帝をそこまで愛したのか。全て、持統天皇の出自、宿命に関わるのです。

鬼のように冷静で、藤原氏と手を組んで、あまたの皇子皇女の運命を変えた女性として知られる持統天皇。その実像は、万葉集を読むと違ってくるのです。ここで、いち早く持統天皇の火葬を持って来たのは、外でもありません。

持統帝がいかなる宿星の下に生まれた人なのか、考えてもらいたいからです。

上の画像、高松塚古墳が耳成山の南、持統・天武陵が藤原宮と天智陵の真南(ピンクのライン)にあり、経度がほぼ同じなのです。わたしはこのことに気がついて10年ほど前にブログ(地図を楽しむ・古代史の謎)に書きました。この両方の陵墓が偶然同じ経度に作られたと考えることはできません。意図的に造営したのです。持統天皇とは如何なる人なのでしょうか。当然、高市皇子とは何者なのかもからんできます。

 

再度、確認しましょう。高市皇子とは何者か

万葉集の謎の一つに「高市皇子の挽歌」は何故あれほど長いのか」という疑問がありました。持統帝が愛した草壁皇子より長いのです。もちろん、天武帝の長男である太政大臣(高市)の挽歌です。が、皇太子より2倍以上長いのは誰が見ても不思議です。

 しかも、よく読み直してみると、先に紹介した通り高市皇子(高松塚古墳の被葬者)の挽歌で多くの詞が使われているのは、壬申の乱(夏の戦を冬の厳しい戦いとして表現されていますが)と、天武天皇の意志と功績、其の命を受けた皇子であること、そして、「結う花の栄ゆる時に」お元気で盛りの時に、「皇子の御門を神宮に装い」皇子自身の御殿を霊殿に飾ったこと、残されたものが高市皇子の棺を挽き、神として城上の宮に祀ったということ、です。

冷静に読むと、高市皇子の権力者としての姿は、天武天皇の後継者の一語に尽きます。人麻呂は「時の最高権力者に敬意」を払い、その真の姿は天武帝の後継者であると書いた… 他に、高市皇子の本当の姿は読めないのでしょうか。高市皇子の挽歌は、長歌と短歌からなっています。長歌は紹介しましたから、短歌を見てみましょう。

 短歌二首

 200 久かたの天(あめ)知(し)らしぬる 君ゆえに 日月も知らず恋渡るかも

地上ではなく天上世界をお治めになることになった皇子ゆえに、残された者は日月が立つのも分からないほど皇子を慕い続けている

201 埴安(はにやす)の 池の堤の 隠沼(こもりぬ)の ゆくへを知らに舎人(とねり)は迷(まど)ふ

埴安の池の堤に囲まれた出口のない隠れ沼のように、行き先が分からない舎人たちは、ただ迷うだけである

   或書の反歌一首

 202 哭沢(なきさわ)の 神社(もり)に三輪(みわ)須江(すえ) いのれども 我が王(おほきみ)は 高日知らしぬ

 右一首は類聚歌林に檜隈女王が泣沢(なきさわ)神社を怨む歌と云う

 哭き沢の神社に神祭りの酒の甕を据えて、皇子の蘇生をお祈りしたけれど、その甲斐もなく、とうとう我が王は天上をお治めになることになってしまった。なんということだろう。(とうとう天上の支配者となった)

 やはり人麻呂は高市皇子を天上を治める大王となった、この世を治めるべき人だったのに、と詠んでいます。(三首目は人麻呂の歌ではありません。)高市皇子の挽歌を読むかぎり彼こそ大王ですから、ひとまず長歌と短歌の双方で、高市皇子は大王として天下を治める立場だったと確認しておきましょう。

では、持統天皇ですが、皇太后として政治に参画し太政大臣の高市に政治を任せていた、文武即位後に太上天皇と称号を贈られた、などなど様々な憶測が出てきます。が、そうであれば、合葬墓は不思議ではありません。間人皇后(孝徳天皇皇后)も斉明天皇と合葬されたと書かれています。二人を合葬しても違和感はなかったのです。持統帝の場合もそうでしょうか。

それでは、持統天皇が火葬と合葬を願った理由ですが、何でしょうね。歴代天皇では初めての火葬でしたし、天武帝も高市皇子も火葬ではないのです。 ここには、持統帝の強い意志が働いている。火葬には霊魂の蘇りの思想はありません。肉体の浄化ですから。持統帝は死後は自由に或所へ飛んで行きたかったのではないでしょうか。もちろん、霊魂となり真北に向かって迷わずに飛んで行く。ロマンチックな言い方ですが、愛する人のもとへ飛んで行ったと、思えてならないのです。愛する人! それが真北に眠る天智天皇。

(山城の天智陵)

すると、持統天皇の夫は天智天皇だった! 天武天皇の皇后になったのは壬申の乱後である? したがって、草壁皇子は天智帝の忘れ形見だったと、なるのです。これが、草壁皇子が皇太子とされながらも即位しなかった理由です。持統帝が近江朝の滅亡の歌に涙した理由です。吉野盟約は天武の家族となった儀式でしたし、そこに集まった皇子の半分は天智帝の皇子(草壁・川嶋・志紀)でした。

考えてみてください。天智帝に最後まで仕えた額田王も娘(十市皇女)と飛鳥へ帰りました。天智帝の挽歌を詠んだ殯の石川夫人は娘二人(御名部皇女・阿閇皇女)は草壁と高市の妃になりました。大江皇女と新田部皇女は天武帝の妃となりました。大田皇女は嫡妃でしたが他界していましたので、持統帝が嫡妃となったのです。天智帝の家族はこぞって天武帝の家族となった、つまり、後宮がそっくり移動したのです。持統帝が移されても不思議ではありません。

これが、万葉集から読んだことです。

何という、バカ臭いアホラシイねじ曲がった万葉集の読み方でしょう!

これまで、何度も何度も暗に示した答えです。しかし、当然ここには正史の大きな壁があるのです。持統天皇は宇野讃良皇女として、天智天皇と越智娘の間に生まれたことになっています。そう信じて、わたしは万葉集を読んできました。しかし、それでは初期万葉集は読めない、解けない、人麻呂歌集も全く読めないのです。だけど、万葉集が指し示す通りに素直に詠めば、持統帝の最初の夫は天智天皇だったとなってしまうのです。すると、万葉集はするすると読めるのです。日本書紀の謎の幾つかも解けて行く。まるで万能の鍵を見つけたような気持でした。だけど、それは定説ともかけ離れた「とんでも説」で、他者の理解を得ることはできないと思いました。どうしたら人にも分かってもらえるか、それで、このブログを始めたのです。

これから、この答えを背負って読み続けて行くのです。

こうなると、持統帝の父親は誰かという問題が生れます。更に、ここにも正史の壁が立ちふさがるのですが、敢て言えば「万葉集で読めるのは、持統帝の父は有間皇子かもしれない」ということ。又は、孝徳天皇かも知れません。しかし、有間皇子事件に対する尋常ではない持統帝の思いを読むと、有間皇子が父親となりましょう。

これまでに紹介した万葉集の歌から読めたのは、紀伊國行幸に見られる持統天皇の有間皇子(36代・孝徳天皇の皇子)への強い追慕の念と、鎮魂の思いでした。持統帝は有間皇子の所縁の人としか思えません。①娘だった、➁妹だった、③婚約者だった、いずれかでしょうね。

そして、最後には天智帝(38代)と天武帝(40代)の陵墓を南北に結び、そのライン上に藤原宮を造営。更に、最終的に自身もそこに眠ったという、この軌跡から匂い立つのは、女性としての意思だと思います。

山城の勧修寺も、宇治の平等院も、禅宗の万福寺も、この直線に乗っています。

このラインの意味は、少なくとも十世紀の皇族までは知られていたということでしょう。  

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51天武帝が心から愛したのは持統皇后なのか

2017-03-25 00:24:56 | 51天武帝は心ゆるした女性は

天武帝は、心から 持統皇后を愛したのか

「持統帝と天武帝のつながりの深さ」と「天武天皇の霊魂は伊勢へ」で、二人の絆の深さを考える材料としました。二人の結びつきは希薄だったという、わたしは勘違いしているのでしょうか。二人は強い絆で結ばれていたのでしょうか。

持統帝の歌を詠めば、どちらかというと持統帝は天武帝に対してさっぱりしていた、あまり執着がなかった…と思うのです。では、持統帝は噂通りの冷たい女性なのでしょうか。いえいえ、有間皇子への深い鎮魂の思いを見ると、情の深い人だと分かります。草壁皇子を失った後も、妃の阿閇皇女を連れて紀伊國行幸をして嫁を励ましました。阿閇皇女も持統帝を義母として信頼していました。持統帝は優しい人でもあったのです。

では、一方の天武帝が心許した女性はいたのかというと、それは居ました。藤原夫人(ふじはらのぶにん)でしょうかね。万葉集には二人の親しげな楽しげな歌が残されています。藤原夫人は万葉集には二人いますが、どちらも鎌足の娘です。五百重娘と氷上娘で、大原に住んでいたのが「大原大刀自(大原の大刀自)」でした。

巻二の103、104の二首を読んでみましょう。

103 吾が里に大雪ふれリ大原の古りにし郷にふらまくは後(のち)

おいおい、わたしの新しい住まいには大雪が降ったぞ。そちらの古い郷に雪が降るのはやや遅れるであろうな。(天武帝)

104 吾が岡のおかみに言いてふらしめし雪のくだけし其処にちりけむ 

あらあら、わたくしどものお祀りする神様に頼んで大雪を降らしたのですよ。こちらの雪がくだけた残りがそちらに降ったのでございましょうね。(藤原夫人)

楽しげでしょう。五百重娘は美人でお茶目だったようです。天武帝は親しみをこめて歌を贈ったのでした。天武帝の死後、この女性は異母兄の藤原不比等と密通して、藤原麿を生んだとされています。よほどの魅力があった人でしょうね。

人麻呂歌集から察するに持統帝も天武帝に熱烈に愛されたのですが、持統帝としては淡白だったようですね。だって、持統帝には心から愛した人がいたのですからね。

それにしても、持統帝は草壁皇子のために大津皇子を排除した冷酷な女性というのが世間の通説のようです。

「吉野の盟約(天武八年)」で我が子のように受け入れるとした大津皇子に、謀反発覚後すぐ死を賜わった」この時、日本書紀では「皇后、臨朝称制」していたのです。持統帝を政権のトップとして、大津皇子の死は、持統帝の意思だとされています。しかも、天武朝では議政官の任命記事は在りません。政治の組織は天皇親政であったので、左右大臣、内大臣の任命はないのです。当然、皇族が政治に参画していたでしょう。となると、持統帝意外に権力を握ることができたのは高市皇子ですね。大津皇子の「朝政を聴く」というのも、皇族政治家として仕事を始めたということでした。

 草壁皇子が皇太子になるのは、天武十年か、十二年でした。その時、大津皇子も「朝政を聴く」地位に置かれ、二人は微妙な立場に居ました。 もちろん、大津皇子への皇位継承は天武帝の望みでしたから、持統帝とは考えが違いました。天武と持統の二人は皇位継承に対しても意見が一致していませんでした。

 しかしながら、天武帝には皇后としての鵜野皇女(持統帝)が必要だった。そこには重大な意味があったのでしょう。あまたの妃の中から、なぜ持統帝が皇后に選ばれたのか? 思い出してください。天武帝は天智帝の後宮の女性たちをことごとく、新王朝の後宮に移しました。高貴な血統を他に漏らさない為でした。そして、あまたの後宮の女性の中で、鵜野皇女こそが皇后にふさわしかったのです

大王になれる皇族は限られています。同じく皇后になれる女性も限られているのです。持統帝は特別な皇女だったのです

 貴種に対する執着は、武家の時代になっても根強く残り続けました。

古代には、その出自で一生が決まったのでしょうね。

いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国に行ってしまった天武天皇。仏教に帰依していた天武帝でしたから西方浄土へ行かれたと思っていたのに、夢の中で神の国である伊勢に行かれてしまった…古代では、夢も現実と同じでした。そこには、天武天皇の出自がかかわっているのでしょうか

 また、天武帝は天皇自らが政治をすることを目指していたので議政官の任官はなく、他に権力を分けるつもりはなかったのですが、持統称制になると太政大臣・右大臣の任命が始まります。政治のやり方も天武帝とは違っているのです。

天武朝では壬申の乱で天武帝に協力した豪族たちは出世できなくて、さぞやがっかりしていたことでしょう。天武帝の政治は、律令政治を目指した孝徳朝や天智朝とは基本的に違っていたのですから。

律令によって権力を握ろうとしていた近江朝の残党である中臣氏も痛手だったことでしょう。ですが、藤原氏は持統帝に近づける大きなカギを握っていました。それは、藤原不比等の出自に関わることでした。その鍵で、持統帝に近づいたのだとわたしは思います。 

不比等が淡海公(たんかいこう)と呼ばれていたことは、ご存じでしたか?えらく意味深なおくり名ですね。まるで、天智天皇の御落胤と云わんばかりではありませんか。それが、不比等が持統帝に接近する鍵だったのだと思うのです。

後にはそのことを書きましょう。

 また明日

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50天武天皇崩御の八年後に「持統帝の御歌」

2017-03-23 10:03:19 | 50天武天皇崩御八年後の持統帝の御歌

  天武天皇崩御の八年後の持統帝の御歌

 天武天皇崩御の八年後(693)の九月九日(天武帝の命日)の御斎会(ごさいえ)の夜、持統天皇の夢の中に詠み覚えられた御歌一首が、万葉集にあります。御歌なので(御製歌ではないので)皇后であった時の持統天皇の歌となっています。御斎会は宮内にて行われましたが、まだ藤原宮には遷都していません。飛鳥浄御原宮は天武天皇の宮で、伝板蓋宮(いたぶきのみや)跡から掘立柱の大型建築物址や大井戸址が発掘されていますから、ここが飛鳥浄御原宮跡だという説が有力です宮号を正式に定めたのは、朱鳥元年(686)7月で、天武天皇の崩御の二か月ほど前でした。それまでは、板蓋宮と重なっていたようで何宮と呼んでいたのでしょうかねえ。

 

持統天皇の歌は162番歌で、草壁皇子の挽歌167番より前に載せられていますが、現実には草壁皇子の歌の方が先に歌われています。草壁皇子薨去(689)の方が、天武帝崩御の八年後(693)より早いのですが、天武帝の崩御(686)に合わせて歌を歌集に掲載したのでしょうね。

持統帝は人麻呂の歌を夢の中で思い出したのかも知れません。草壁皇子の挽歌にも共通する「飛鳥の浄見宮」「天の下知らしめし」「高照らす日の皇子」「いかさまにおもほしめせか」が使われています。

 162 明日香の清御原(きよみはら)の宮に天の下知らしめしし 八隅(やすみ)しし吾(わご)大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国は おきつ藻(も)も 靡(な)みたる波に 塩気(しおけ)のみ 香れる国に 味(うま)こり あやにともしき 高照らす 日の皇子

明日香の浄御原の宮に天下をお治めになられた、支配者である我が大王は、高きより天下を照らす日の皇子であるのにどう思われたのだろうか、神風の伊勢の国は沖の藻も靡いている波の上を、塩の気のみが漂い香っている国。そんな国に(何故行かれたのか)。言葉にできないほど慕わしい高照らす日の皇子が…

この歌は中途半端だそうです。確かに、途中で言葉が切れた感じですね。

日の皇子である天武天皇が、持統皇后の夢の中で行かれたのは「塩気のみが香る伊勢の国」でした。持統天皇にとって、天武帝が伊勢国へ行くとは理解しがたいと、いうのです。伊勢とは、壬申の乱で高市皇子(天武側)に加勢した神の坐す土地で、天照大神を祀る神社のある土地でした。壬申の乱後に、天武帝は皇女を斎宮として送りました。

最近こそ二千年の神祀りの神社とかメディアが報道しているけれど、伊勢神宮が歴史に登場したのは新しいのです。更に、明治になるまで、伊勢には天皇の参拝がなかったというのです

しかし、その伊勢に天武天皇の霊魂が行かれたというのですから意味深ですね。

伊勢神宮は天武天皇に取って、その皇室にとって大事な神であり、氏神の神社であったのです。一般の人が願い事をすることも禁じられていました。ご神体は鏡とされています。、玉、剣といえば、三首の神器でも有名ですね。

 そういえば、万葉集に詠まれる神社には「石上神宮」がありましたね。石上神宮は物部氏の神社で、ご神体は剣(空を切る時のフッという音から、フツ主の神ですね)

 とすると、弥生の神であった鏡と剣と玉を祖先神とする氏族のルーツは、北部九州なのでしょうか。イザナミとイザナギがアメノヌボコを使ってオノコロ島を生みましたが、ヌボコのも九州の氏族のシンボルですね。豪族のルーツは祀る神々で分かるのではないでしょうか。

それにしても、持統天皇は仏教で御斎会をしていたのに、天武天皇は神の国に行ったというのです。仏教と神道では葬儀や法要のやり方も違っていましたから、持統天皇には夢の中の天武天皇の行動が意外でした。もちろん、現在の私たちにすれば「夢の中で伊勢に行かせたのは、持統天皇の潜在意識」だと分かります。

しかし、持統天皇は「夫は伊勢に行くことを心の底では望んでいた、が、それは意外だった」と歌に詠みました。夢は古代の人には現実でしたから、夫の本当の気持ちを妻が知ったのです。万葉集はその事を書き残したのでした。

貴方は伊勢に行ってしまった。そこで貴方は安心されたのでしょうねと。

また明日

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49持統皇后と天武天皇の絆は強かったのか?

2017-03-22 21:22:40 | 49持統皇后と天武天皇の絆は深かった

持統皇后天武天皇の絆強かった?それとも…

持統皇后は藤原鎌足の子・不比等と手を組んで孫の軽皇子(文武天皇)の即位への道を造り上げた人だとされ、大津皇子だけではなく天武帝の皇子を死に追い込んだように言われています。また、天武・持統の合葬墓に見られるように、二人は相愛で仲睦まじかったとされています。二人の絆の深さは、万葉集で読めるのでしょうか。

不比等の父の藤原鎌足は、天智帝の腹心の部下でありました。鎌足没後、天智帝は鎌足の息子の不比等がまだ幼かったので、叔父の藤原金を右大臣として引き上げました。藤原金は天智帝亡き後は大友皇子に仕え、壬申の乱後に斬られました生き延びた藤原不比等は持統帝に仕え、目覚ましい出世を遂げました

では、不比等は天智朝を滅ぼした天武朝に忠誠を誓ったのでしょうか。天武天皇の皇子達の非業の最後を見ると、藤原氏の関与は十分に考えられます。藤原氏の陰謀は持統天皇の意思だったのでしょうか。または、持統帝は藤原氏の陰謀を見過ごしたということでしょうか。気になるところですよね。

 

天武天皇崩御の時、持統大后の御作歌

まず、万葉集・巻二の「挽歌」持統帝が天武帝の崩御の時に詠んだ歌を見てみましょう。

天皇崩(かむあが)りましし時、大后の作らす御歌一首

159 八隅しし 我が大王の 暮(ゆう)されば 召し賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし 神(かむ)岳(おか)の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 召し賜はまし その山を 振りさけ見つつ 暮(ゆう)されば あやに哀しみ 明けくれば うらさびくらし あらたへの 衣の袖は 乾(ふ)る時もなし

世の隅々までお治めになられた我が大王は、夕方になると御覧になられただろう。明け方になれば、きっとお訊ねになられただろう、神の山の黄葉を。今日だってお尋ねになられたであろう。明日もご覧になるだろう。その山をはるか遠くに仰ぎ見ながら、夕方になると何とも悲しく、明け方になると何とも寂しい思いで暮らしているので、荒栲の喪服の袖は涙に濡れて乾く時もない。

 もし帝がご健在であれば、きっと神山の黄葉を朝晩お尋ねになったであろう。が、帝は既に崩じられたので、何も問われることはない。(我が大王はもうこの世の方ではないと思いながら)、神山を仰ぎ見ると思い出して悲しい、というのです。「太后の御歌」となっているので、崩御後余り日を経ない秋の詠歌でしょう。しかし、すっかり遠くの人を恋しく思うように感じます。

次の歌は、「或本に太上天皇の御製歌二首」となっていると題詞にあります。

 一書に曰く、天皇崩じたる時の太上天皇の御製歌二首

160 燃ゆる火も取りてつつみてふくろには 入ると言(い)はずやも智男雲(*)

燃えている火だって、手に取って包んで袋に入れることができるというではないか。そんなこともできるのに、何で・・・できないのか。*おも知るなくも(定説なし)

161 南山(きたやま)にたなびく雲の青雲の星(ほし)離(さか)りゆく月を離(はな)れて

北山にたなびいている雲は、あれは帝の霊魂だろうか。あの青雲が星を離れて行く。月さえも離れて…帝の霊魂は何もかも置いて離れていかれるのか。

何度読み返しても、持統天皇の御歌も御製歌も言葉足らずで「亡き人への執着」が感じられないのです。天武帝と熱烈に愛し合っていたとは思えないのです。でも、天武帝からは大事にされたのでしたね。あまたの妃の中から、皇后に立てられたのは持統帝でしたから。

「吉野の盟約」のあと、持統帝は後宮のトップになりすべての皇子と皇女の母となったのでしたね。二人の合葬墓を見てみましょう。

 

野口王墓と呼ばれる八角形の陵墓です。辺りの景色も見てみましょう。

王家の谷と呼ばれるこの辺りには、高松塚古墳もあります。

貴方は、持統帝は天武帝を深く愛していたと思いますか? 万葉集を読んでいると、わたしには「どうだったのかなあ。あまり愛していなかったのかな」と思えるのですが。

どうですかね? また、明日

 

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48高松塚古墳の謎は解ける

2017-03-18 00:39:12 | 48高松塚古墳の謎を解く

高市皇子の薨去と謀反事件

ヨミガエリを拒否された大王・高市皇子

高松塚古墳が発掘された時、その埋葬の様子が問題になりました。

石室は狭いのですが、壁画があり、それが大きな話題となったので、その為に他の事実が目立たなくなってしまいましたが、当時、被葬者は「何か罰を受けるような、事件に巻き込まれた人」であるとされていました。

わたしの記憶が確かであれば、遺体の様相が問題だったと思います。頭蓋骨がなかった…首の骨は有ったので斬首ではないと。この話題はいつの間にか消えたようですが、問題が解決されたのではありません。

埋葬当時から頭蓋骨が抜き取られていた(小さな骨、甲状軟骨・舌骨などは残る)のでしょうか? それとも、埋葬後何らかの事情で陵墓に手が入ったのでしょうか、長屋王事件の後とかに。被葬者は筋骨の発育のいい壮年男性で、7世紀末に死亡。

梅原氏は「人骨に頭蓋骨がない・鞘のみで、大刀の刀身が抜かれている・日月像と玄武の顔が削られていた」これは、呪いの封印で、被葬者のヨミガエリを阻止したのだという。 ですから、軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子が被葬者と、梅原氏は主張されました。高市皇子だと言ったのは原田大六氏だけです。

わたしは、ずっと草壁皇子だと思っていました。それは、治田神社(岡宮跡・草壁皇子が育った)と、高松塚石室と、岡宮天皇陵が直線で結ばれるからでした。所縁の宮と改葬前の墓とを結び、尚かつ耳成山の真南に位置するのは、草壁皇子の墓以外には考えられないと思っていました。数年前に、ブログにもそう書きました。

(治田神社と岡宮天皇陵を結ぶラインは、高松塚古墳の石室の上を通ります)

しかし、出土した歯の鑑定が壮年男性となったので考え直したのです。では、「後皇子尊」と尊称で呼ばれた高市皇子以外にないと結論しました。高市皇子ならヨミガエリを阻止された大王(天武朝に皇統が移ることを阻止した)だったと十分考えられます。(では、文武天皇の血統は天武朝ではなかったということになりますが、ここでは触れません)だからこそ後世に、耳成山と高松塚古墳の間に文武陵を築造したのです。そして、岡宮天皇陵(草壁皇子の陵)も束明神古墳に改葬した、と考えます。

(高松塚の真北に、中尾山古墳=文武天皇陵が耳成山と高松塚古墳の間に入る)

(岡宮天皇陵ではなく、束明神古墳が草壁皇子の墓という。写真は復元された石室)

そうなると、高市皇子の死は再検証しなければなりません。なぜ、あの時期に薨去しなければならなかったのかを。しかも、謀反事件には共通点がありそうです。

 謀反事件には共通点がある

有間皇子の場合

658年 中大兄皇子の息子の建王没(5月)斉明天皇も嘆きました。

半年後に、有間子に謀反の疑い(11月)有間皇子没

蘇我系女子が生んだ建王の死で、中大兄は後継者を亡くしたことになった。大友皇子は後継者となれなかったから、中大兄は後年「不改常典」を考えた。嫡子の皇位継承の法則を大友皇子で実現するため、「改めべからざる常の法」を持ちだすことになったと思われるのです。 

高市皇子の場合

太政大臣という最高位についていたが、文武天皇の元服が近くなった。

696年 高市皇子没(7月)絶妙のタイミングに薨去したとは…

半年後に、697年 軽皇子立太子(2月)が立太子され、

半年後に、軽皇子(文武天皇)即位(8月)

軽皇子の立太子と即位が滞りなく行われるには、高市皇子の存在が邪魔だったとしか考えられない。高市皇子がいては文武天皇(藤原氏側)が即位できない可能性があった。

 ③氷高内親王の即位の場合??

714年 首皇太子元服(14歳)*藤原氏は次の年の即位を考えていた?

715年 長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)没 *三人の皇子が!

     氷高内親王即位(9月)*元明天皇の熟慮の結果

独身だった氷高皇女(元正天皇)には身分が高すぎて嫁ぎ先がなかった(?)か、藤原氏としては、皇位継承者を拡散するつもりはなかったので結婚は避けた。藤原氏は、首皇子(文武天皇の子・聖武天皇)を元服させ、即位準備は十分に整っていたが、元明天皇は娘の氷高皇女を即位させた。それは何故か? このことは後に触れましょう。

長屋王の場合

727年 藤原光明子の産んだ基王が生まれてひと月で立太子

728年 基皇太子一歳で没(9月) *藤原氏には大打撃

半年後に、729年 長屋王、謀反の密告で自刃(2月)

聖武天皇と光明子の間に生まれた基王は生後すぐに立太子されたが、一歳ほどで死没。藤原氏側はすぐさま長屋王家の滅亡を図ったという、将に陰謀だった。 

壬申の乱後の謀反事件は、 壬申の乱のいびつさから引き出された

壬申の乱が天武朝に大きく入り込み、その亀裂に入り込んだ藤原氏が様々な策を講じて律令政治を掌握し、後の横暴につながっていくと思うのです…

天武天皇の謀反事件とも思われる壬申の乱が、結果として天武朝の王子が次々に命を絶たれていくという展開につながる大きな要因だと思うのです。万葉集を読むかぎり。

 7世紀の天武朝の謀反事件で、忘れてはならない事件がありました。

朱鳥元年の大津皇子謀反事件です。ここで、大津皇子が死を賜ったことが、結果的に天武朝の滅亡へと展開していくのですからね。天武帝の寵愛を一身に受けた大津を死なせたことが、天武帝の後宮をバラバラにしたのです。大津を殺して、他の誰を天武帝の後継者にするのだ? その責任は高市皇子にもありました、大津皇子を断罪したのですから。

大津皇子の死後三年、皇太子草壁皇子が薨去します。即位せず、皇太子のままでしたが、その死の顛末は何も語られていませんが、大津事件が影を落としていたことは十分に考えられます。日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)とは、死後に贈られる諡号ではないかと言われています。すると、皇太子という地位も死後に与えられたのかも知れません。死後に天皇の称号を与えられた皇子もいますから、考えられないことではありません。

人麻呂は挽歌を献じましたね、草壁皇子にも高市皇子にも。ですが、大津皇子の挽歌は詠まなかったようです。しかし、大津皇子の臨死の歌も姉の大伯皇女の歌もきちんと集めました。謀反発覚の前後を万葉集に残したのは何故でしょうか。答はひとつ、重要な皇位継承者であった大津皇子を忘れてはならなかったし、その死を心から傷み鎮魂の意思があったからです。他に考えられません。

また明日

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47人麻呂は知っていた・高市皇子の薨去の意味

2017-03-17 22:06:24 | 47人麻呂が献じた高市皇子の挽歌

人麻呂は高市皇子の不審な死を知っていた!

高松塚古墳の被葬者と耳成山

 

持統天皇は、高市皇子をどのように葬ったのでしょうか。死後の葬儀や陵墓はその被葬者の立場をそのまま示すものです。万葉集で一番長い挽歌を奉られたのは、高市皇子です。最高権力者としての葬儀だったのです。

 高市皇子は天武天皇の第一子で、妻は天智帝の皇女・御名部皇女でした。
草壁皇子は死後に日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と諡され、高市皇子は後皇子尊(のちのみこのみこと)とされました。草壁の跡継ぎの立場で、権力の中枢に居たことになります。そして、持統天皇十年(696)七月・薨去

 高市皇子の陵墓は、高松塚古墳という説がありますが定説ではありません。

壁画装飾で知られる高松塚古墳の被葬者は誰なのでしょう。高松塚古墳は、耳成山の真南に位置します。将に、「耳に成す山」の真南ですから、「ミミ」とは「時の最高権力者」のことでしょう。発掘された骨は、40才過ぎの壮年の男性でした。では、草壁皇子ではなく、若い弓削皇子でもなく、7世紀後半なら高市皇子となります。

 高市皇子は最高権力者だったのです。書紀では「太政大臣」となっていますし、妃は天智天皇の皇女・蘇我氏系女子でしたから、最高の地位に在ってもおかしくありません。その高市皇子の挽歌(長歌)は草壁皇子の2倍以上あります。立場からすれば当然の事でしょうね。では、万葉集巻二「挽歌」ですが、長いので分けて読みましょう。

 高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌

199 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも定めたまいて 神さぶと 磐隠ります 八隅しし わが大王の

ことばに出すこともはばかれる、言葉にして言うことも何とも畏れ多い、明日香の真神の原に ひさかたの天上の聖なる御殿を畏れ多くもお定めになって、神として窟におられる 世をお治めになった我が大王の

ここに歌われているのは、天武天皇のことです。人麻呂は、挽歌の冒頭には天武天皇のことを述べ、高市皇子の血統を示しました。明日香に王朝を建てた天武帝の皇子だと。

(わが大王の)きこしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮(かりみや)に 天降りいまして 天の下治めたまひ 食(お)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(よさ)した まへば 大御身に 太刀取り佩(は)かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を 率(あども)ひたまひ 

 我が大王のお治めになる北の(美濃)の国の 真木の立つ不破山を越えて、和射見の原の 行宮に 神のように天降りおいでになって 天の下をお治めになって、統治なさる国を鎮めようと、鶏が鳴く東の国の 軍勢をお集めになって、荒れる人々をおさえ鎮め、従わない国を治めよと、皇子であるからこそお任せになったので、皇子はその御身に太刀をお佩きになり、その御手に弓をお持ちになり、軍勢を率いられた。 

ここも、ほとんどが天武帝の命令を高市皇子が受けたことが語られているようです。壬申の乱の指揮官を任せられた皇子であると。この後に、戦で高市皇子が活躍したことが述べられています。

整ふる鼓の音は雷の声と聞くまで 吹き鳴せる小角(くだ)の音も 敵(あた)見たる 虎か吠ゆると 諸人のおびゆるまでに ささげたる旗の靡きは 冬こもり春さり来れば野ごとに つきてある火の 風のむた 靡くがごとく取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒ぎ み雪降る 冬の林につむじかも い巻き渡ると 思うまで聞きの畏く 引き放つ矢の繁けく 大雪の乱れて来れ まつろはず立ち向かひしも 露霜の消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに 渡会の斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を日の目も見せず 常闇に覆いたまひて 定めてし 瑞穂の国を神ながら 太敷きまして 

鼓の音はは雷の声かと聞き違えるほど 兵士が掲げる軍旗の靡きは、野火が風にあおられるように見え 弓はずの音は、大雪の降る冬の林につむじ風が吹き渡るように聞こえ飛んでくる矢があまりに多く、大雪が飛んでくるようだった 立向かう兵士も命がけで戦っていた時、渡会の伊勢の宮から神風が吹いてきて、その天雲で敵を覆ってしまったそうして、水穂の国を 神として大いにお治めになった

壬申の乱での活躍が語られました。天武帝は和射見が原の仮宮に居て戦には参戦していません。すべて若い高市皇子に任せたと歌われています。命がけで戦っている時、伊勢の神が助けてくれた。伊勢の神は高市皇子を助けたのです。

やすみしし 我が大王の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 綿花(ゆふばな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に 装(よそ)い奉りて 遣(つか)はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの いはひ伏しつつ 烏玉(ぬばたま)の ゆうべになれば 大殿を 振りさけ見つつ 鶉(うずら)なす いはいもとほり さもらへど さもらひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに おもいも 未だ尽きねば 

 天下をお治めになった大王(天武帝)に、我が大王(高市皇子)が天下のことを申しあげられたので、いつまでもそうであろうと、結う花のように栄えていた時に、我が大王の皇子の御殿を 神殿(御霊殿)として飾りたて 仕えていた御殿の人も真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の庭に 一日中を鹿ではないが腹這い伏して、暗い夜になれば 御殿を仰ぎ見ながら 鶉ではないが 這うようにうろうろし、お仕えしているけれど、お仕えするかいはなく、春の鳥のように鳴き迷っているのに 悲しみも未だおわってはいないのに、皇子を想うこともまだ尽きてはいないのに

 しかし、突然、皇子に死が訪れた。何もかも受け入れがたく、気持ちの整理がつかないままなのに、皇子の霊殿から殯宮へと亡骸をお送りすることになってしまったのだ。

言さえく 百済の原ゆ 神葬(かむはぶり)り 葬りいませて あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大王の 万代(よろづよ)に 思ほしめして 作らしし 香久山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振りさけ見つつ 玉だすき 懸けて偲ばむ 恐こけれども

あの百済の原を通り抜けて、神として葬り奉り、城上の殯宮を 常にお住まいになる宮として 高くお祀りし 神として鎮坐されてしまった。しかれども、我が大王が「万代までも」と思われてお造りになった香久山の宮(藤原宮)、この宮は万代までいつまでも残って行くと思われただろうなあ、皇子の陵墓をみると。

天を仰ぐように皇子を振り仰ぎながら、玉だすきを懸けるように皇子のことを心にかけてお偲びしたい、畏れ多いことだけれど。

高市皇子は神として葬られたそこは神がお住まいになるにふさわしい所。そこは、藤原の宮を万代までも守るところ。それは高市皇子自身の願いだった。人麻呂は、高市皇子の陵墓が何処に祀られたか知っていました。だから、香具山の宮(藤原宮)のとこしえを詠み込んだんだのです。高市皇子は自分の墓所を決めていたのかも知れません。草壁皇子の所縁の地に挟まれた藤原宮を見守る位置に。

文武陵から谷に下りて丘を登ります。

文武陵の真南200mの丘には高松塚古墳があります。奥の岡が文武陵のあるところです。木がなければよく見えます。

高松塚は六角形の墳丘を持つそうです。

人麻呂は高市皇子を如何に詠み上げたでしょうか

①天武天皇が天下を治めた ➁高市皇子は天皇のために戦の前線にたった ③その戦いは、敵を圧倒した ④すっかり皇子の代になると思っていたのに ⑤皇子は亡くなり、誰もが混乱した ⑥皇子は城上の宮にお住まいになるが、お造りになった藤原宮は万代まで栄えてほしいのだろう ⑦皇子をこれからも偲んでいこう

という内容です。あまた言葉が並んでいますが……高市皇子は、確かに大王でした。天武天皇と同じ文字「大王」を同じ詩篇の中に人麻呂は使っています。草壁皇子の挽歌には、大王とは使わず「吾王」、明日香皇女の挽歌にも「吾王」でした。王と大王は使い分けられているのです。人麻呂が「大王」を使う人物は限られています。高市皇子こそ壬申の乱を勝利に導いた人でした。渡会の神も東国の兵も高市皇子に味方し集まったのです。彼らが集まる理由があったはずで、それは高市皇子の出自に関わることなのでしょう。

人麻呂は高市皇子が次の大王であることを知っていました。その大王が突然薨去したことに衝撃を受けました。皇子を失った怒りと悲しみの中で、「壬申の乱とは何だったのか。高市皇子が父の謀反を助けたのではないか」と指摘し、東国の兵を集められたのは高市皇子と云う旗璽があったからで、「大王だからこそ伊勢の神も助けたのだ」とぶちまけたのです。壬申の乱から既に二十四年がたっていますが、それでも意味のある出来事(天武天皇の謀反事件)で、過去の歴史になるにはまだ時間が必要でした。

高市皇子の挽歌を読むかぎり、天武天皇は「いやつぎつぎに天の下」を治めて来た大王ではありません。飛鳥で即位した大王で息子の高市皇子の手柄により「壬申の乱」に勝利した大王でした。新しい王朝だったから前方後円墳ではない墳丘を求めたのでしょうね。

高市皇子は耳成山の真南に葬られた大王でした。しかし、その耳成山との霊力は文武陵によって断たれます。そして、瓦などは運び出されて藤原宮も捨てられるのです。

 

また明日

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