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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

持統天皇が選んだ東国への最終行幸

2017-10-29 22:29:42 | 67持統天皇の真意は何処に

大宝二年(702)十月~十一月、崩御前に東国行幸

最晩年に、紀伊国を訪ねた持統天皇(写真は牟婁の湯のある白浜海岸)

その目的は何だったのか? ですね。大宝元年の紀伊国行幸は文武天皇に「有間皇子事件」を伝えるという目的がありました。では、東国への行幸の目的は何だったのでしょう? 何しろ、崩御のひと月前なのです。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                        *                *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *              *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。

東国行幸に従駕したのは、持統天皇の信頼する人物だったようです。長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)は、二度の紀伊国行幸(690年・701年)に従駕し歌を読みました。有間皇子事件を見事に読み上げた奥麿の歌は持統天皇を感動させ、大宝元年の行幸では詔で歌を所望しています。高市連黒人も近江朝を偲び荒れた大津京を読んでいます。二人は行幸に従駕し、先々で歌を詠んだのでしょう。

長皇子は、天智帝の娘・大江皇女の嫡子です。人麻呂が歌を奉った皇子で、持統帝は行幸にも連れて廻るほど気に入っていたか、頼りにしていたのでしょう。(長皇子については、既に紹介しています。)

東国へはお気に入りの者を従えての行幸だったのです。

では、人麻呂は? 従駕していなかったのでしょうか。分かりませんが、持統天皇はこの行幸ですべてを成し遂げたのでしょうか。環幸の後、ひと月で崩御となるのです。旅は疲れるものですが、従駕した人々の歌を詠んでも、旅愁はありますが悲壮感など有りません。

前年の紀伊国行幸の意味深な歌とは違うのです。旅先で持統帝は元気だったのでしょうか。

旅から帰った十二月二日、「九月九日、十二月三日は、先帝の忌日なり。諸司、この日に当たりて廃務すべし」と勅が出されています。何とも、急な話です。十二月三日の前の日に出した勅で「次の日は仕事をするな」というのですから。

しかも、九月九日は天武天皇の命日ですが、十二月三日は天智天皇の命日なのです。急な勅は天武天皇のために出されたのではないでしょう。天智天皇の忌日のために出されたのです。すると、持統天皇の意思なのですね。

六日、星、昼に見る(あらわる) *星とは太白で金星のことです。太白が昼に現れるのは「兵革の兆し」とされます。

十三日、太上天皇、不豫(みやまいしたまう) *不豫とは天子の病気のことです

天下に大赦が行われ、百人が出家させられ、畿内では金光明経を講じられました。しかし二十二日、遺詔(いしょう)して「素服挙哀してはならない。内外の文武の官の仕事は常のようにせよ。葬送のことはできる限り倹約するように」と言い残し崩じられたのでした。

持統天皇は「仕事は怠るな。葬儀は簡単に」とは伝えましたが、その他の気がかりについては何も言ってはいません。東国行幸で全てやり通したというのでしょうか。

ですから、東国行幸が非常に気になるのです。その目的が…

               

 今回は、ここまで。またお会いしましょう。

 

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別に編集された持統天皇の紀伊国行幸の歌

2017-10-26 22:21:27 | 67持統天皇の真意は何処に

持統天皇・もう一つの紀伊国行幸

持統天皇(太上天皇)と文武天皇(大行天皇)の紀伊国行幸を繰り返し取り上げてきました。この行幸の目的は「有間皇子の霊魂を鎮める儀式をするためだった」として巻九の紀伊國行幸13首(1667~79)を紹介しました。また、この有間皇子事件を目撃した額田王と事件そのものに関わった中皇命(なかのすめらみこと)の歌も紹介しました。

大宝元年(701)、持統天皇の紀ノ國行幸を万葉集は「大宝元年辛丑秋九月」と「大宝元年辛丑冬十月」として分けて掲載しています。九月とある歌は巻一に、十月とある歌は巻九と巻二(人麻呂の歌)に掲載されています。

思い出していただきましたか? 紀ノ國の美しい風景の中にひっそりとたたずむ万葉集の物語が、旅人の心を締め付けました。

さて、持統天皇は孫の文武天皇を立派な後継者にすべく、紀伊国に共に行幸しました。そこで語られたのは、有間皇子の物語です。十三首が順序良く「どのような事件だったのか、どの道を辿って最後の地(藤白坂)まで逃げ、どのような最後を遂げたのか」語られていました。ですから、同じ行幸でも目的が違う部分は分けて万葉集は編集されているのです。

巻九には「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇の紀伊国に幸す時の歌十三首」ときちんと括られて編集されていますので、十三首が他と混じることはないのです。

では、同じ大宝元年辛丑の九月の歌を読みましょう。これは、巻一にあります。

54 巨勢山のつらつら椿は咲いてはいないけれど、つらつら偲ぼうか。春の巨勢山に椿が咲いたその美しい春の野を。

季節は九月で秋なので、もちろん椿の花はありません。坂角人足は秋色に染まった山に春の景色を重ねて読んだのでしょうね。秋もいいけど、きっと春もいいよね、と。

55 麻裳で知られる紀伊の国の人は羨ましい。真土山をいつも見ていられるから。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人はいいなあ。

麻裳は紀伊国にかかる枕詞です。ヤマトから紀伊国に入る辺りに小さな真土山があります。ここを越えると紀伊国なのです。

56 河の辺りに咲くつらつら椿、その椿をつらつら見ても飽きることがないのだろうなあ、椿が咲く巨勢の春野は、きっと。

調首淡海も、春日蔵首老も紀伊國の土地をしきりと誉めました。旅に支障がないように行幸一行が何事も無く旅を続けられるように、従駕の者は土地を誉めながら奉仕していたのですね。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。

持統天皇と文武天皇の行幸は「有間皇子の霊魂を鎮める」ことが目的でしたが、もう一方では土地の神に旅の安全を祈りながらの旅でもあったのですね。旅で土地を誉める歌などを「羇旅歌(きりょか)」といいますね。

万葉集は羇旅歌と「紀伊国十三首」を別の巻に分けて編集しています。同じ行幸時の歌がこのように目的ごとに分けられている事は、ますます文武天皇を伴った紀伊国行幸が特別だったことを教えてくれます。

文武天皇は十分に理解したでしょう。だから、紀伊国に道成寺も建立したのでしょうね。

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天智天皇の挽歌を詠んだのは、後宮の女性達

2017-10-20 23:15:22 | 66天智天皇の都と挽歌

天智天皇の葬送儀式で詠まれた挽歌

天智帝は大津宮で崩御、そして山科に陵があります。

倭姫皇后の他にも、婦人・額田王・舎人吉年・石川夫人の詠んだ挽歌が残されています。

 天皇の崩(かむあが)りましし時に、婦人(おみなめ)が作る歌一首 姓氏未詳

150 現実のこの世に生きているのだから神となられた大王にお会いすることはできずに離れていて、朝から大王を思って嘆き、離れていてもわたくしが慕い続けている大王、もし玉であれば手に巻き持っていように、衣であれば脱がずに身に着けていように、わたくしが恋しく思っている大王がなんと昨日の夜夢に見えたのです。

  天皇の大殯(大もがり)の時の歌二首

151 こうなると前々から知っていたのなら、天皇の御魂が御乗りになる大御船が停留している泊(水門)に標を結って、舟が出ないようにしたものを… (額田王)

「天皇の船の泊まっている港に標を張って悪霊が入らないようにしたのに」と解釈されてもいますが、わたしは「魂がこの世を離れる時に乗る船に大王の魂が乗り込んで船出すれば崩御となるので、舟が出ないように標を張ればよかった。そうすれば蘇生されたかもしれないのに」という意味だと思いました。

152 この世を統治なさった大王が御乗りになった大御船、その大王の船が帰って来るのを待ち焦がれている志賀の辛埼(そしてわたくしたちです)

154 大王の宮があった楽浪の大山守は、誰のために山に標を結うのだろうか。大王はこの世を去られたのに。

そして、次の155は額田王の歌です。この歌は、既に紹介したでしょうか。

こうして、御陵への埋葬儀礼までの挽歌が残されました。

天智天皇の挽歌は九首も残された!のでした。

病が重篤となった時から倭姫の歌がありましたから、天皇の周りには平癒を願う儀式が行われていたのでしょうね。そして、崩御となり天皇の聖体の周りでは儀式が行われ、殯宮の準備が整い、大殯の儀式が行われるということなのですね。長い月日をかけて殯宮がしきたりにのっとって行われ、墳丘が造られ、ついに埋葬となったのでしょう。

天智天皇の場合はこのように儀式の流れに乗って挽歌が残されています。この九首によって大王の葬送儀礼がどのようなものだったか分かったのだそうです。天皇の後宮の女性たちが多く歌を残していると云うことは、葬儀での女性の役目は大きかったのでしょうね。

それにしても、天武天皇より以前の天智天皇の挽歌が多く残されているのは何故でしょうね。

では、また。

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天智天皇の挽歌を詠んだ女性たち

2017-10-17 16:52:19 | 66天智天皇の都と挽歌

倭姫太后は、何処へ行ってしまったのか

天智天皇の最後をみとった皇后の、その後の消息は分かりません。何処へ行かれたのでしょう、不思議です。

広い琵琶湖の南の対岸と少し近くなるところに楽浪の志賀の大津京はありました。天智天皇の都です。園城寺の辺りに大友皇子の屋敷があったそうです。

若干の柱跡が見つかっているだけですが、この辺りを額田王も天智天皇も歩いたかも知れませんね。天智天皇は近江大津宮での崩御でした。

御病、崩御、殯宮、埋葬と一連の流れが挽歌として万葉集に九首掲載されています。歌を詠んだのは後宮の女性達でした。なかでも皇后の歌は四首あります。謎の皇后倭姫の歌を読んでみましょう。 

   天皇、聖躬不予(せいきゅうふよ)の時に太后奉れる御歌一首

147 天の原ふりさけ見れば大王の御寿(みいのち)は長く天足らしたり

天の原を振り仰いで見上げると、わが大王の御命ははるかに長く天に満ち足りております

病に臥した天皇の傍で、皇后はその命の長くあることを祈ったのでしょう。しかし、御病は重篤になり天皇の意識は薄れてしまいました。

   一書に曰、近江天皇聖躰不豫(せいたいふよ)御病急なる時、太后奉献る御歌一首

148 青旗の木旗の上を通ふとは目には見えれど直(ただ)にあはぬかも

大王の魂が青々とした木幡の木々の上を行ったり来たりしているとわたしの目には見えます。でも、魂はお体を離れているので、もう直にお会いすることはできません。

木幡の山に風が吹いて木々が騒いでいたのでしょう。木々を震わせて大王は何か伝えようとなさっている、そう思っても既に話は出来なくなっているのです。太后と天皇の深い結び付が偲ばれます。

遂に天皇崩御となりました。皇后はぼんやりと来し方とこれからを考えました。そして、深く天皇を愛していたことを思うのです。

   天皇崩(かむあが)りましし後の時、倭大后の作る御歌一首  

149 ひとはよし思い止むとも 玉蘰 影に見えつつ忘らえぬかも

人は忘れることはあっても、まるで神の依り付く玉蘰のようにあの方の御姿が目の前にちらついて忘れようにも忘れられないのです。

殯宮(あらきのみや)の前でしょうか。皇后は天皇の面影を追っていました。

いよいよ大殯(おおあらき)の儀式が始まりました。近しい者は声をあげて泣き、天皇の蘇りを願います。殯宮は淡海の見える所に造られたのでしょうか。船の歌が続きました。

皇后も船を詠みました。「太后御歌一首」です。

広く大きな淡海の海を、遥かな沖から漕いで近づいて来る船。岸辺近くを漕いで来る船。沖の船の櫂よ、ひどく撥ねないでほしい。岸辺の船の櫂もひどく撥ねないでほしい。私の大切な嬬(夫)の魂が鳥となった、その魂の若い鳥が音に驚いて飛び去ってしまうから。

天智天皇の霊魂は鳥となりました。大王は鳥となり淡海を見ている若い鳥なのです。その神霊を驚ろかしてはならないと、太后は詠んだのです。

ここまで深く天智天皇に仕えた倭皇后でしたが、この後どうなったのでしょう。消息はないのです。

わたしは倭皇后はこの後も生き抜いたと思います。この後もいろいろあったことでしょうが。

倭皇后の人生は、人麻呂歌集の中にしっかりと読み込まれているのではないかと、わたしは思っているのです。

万葉集は天智天皇の挽歌を九首残しています。持統天皇が勅によって人麻呂に編纂させたのなら、人麻呂は女帝の意思を十分に承知して天智天皇の歌を掲載したことになりますね。持統天皇にとって天智天皇は懐かしく恋しい人だったのですね。

では、また。

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ささなみの志賀の大津は霊魂の都となった

2017-10-15 22:56:28 | 66天智天皇の都と挽歌

ささなみの志賀の大津は霊魂の都となった

明日香が霊魂の都「飛ぶ鳥の明日香」となったように、近江の大津も霊魂の都となりました。

「ささなみ」は琵琶湖西南の沿岸一帯の地名だそうです。地名としては滅びても枕詞として使われていると、古語辞典に書かれています。

「ささなみ」のという枕詞で始まる歌は、万葉集中に十一首あります。

巻一、巻二までは誰が詠んだ歌か分かりますが、巻七~十二までは「羇旅歌」などで作者名はわかりません。巻一の31の「ささなみの」は「左散難弥乃」と漢字があてられています。

ですから、楽浪・左散難弥・神楽浪・佐左浪。神楽聲浪の漢字が「ささなみ」に与えられているのです。

この中で、石川夫人と置始東人(おきそめのあづまひと)の歌は挽歌です。石川夫人(いしかわのぶにん)が天智天皇の殯宮の時に詠んだ歌ですし、置始東人は弓削皇子のために詠んだ歌です。二人の歌の「ささなみ」には「神」が付け加えられて「神楽浪」となり「霊魂漂う楽浪」の意味を負っているのです。

神となった霊魂はもちろん天智天皇なのです。

ささなみに「」が付くか付かないかで、枕詞の意味は大きく違ってきます。「楽浪という土地」ではなく「あの近江朝のあった楽浪」となったり、「今は亡き天皇の京があった楽浪」となったりするするのです。「楽浪」は、歴史の重みというか、滅びた王朝の物語を引き出してしまう言葉なのです。枕詞には十分意味がありました。

神楽浪の枕詞を冠した歌を読みながら、琵琶湖の湖岸に立つと何とも哀しくいにしえに心惹かれるではありませんか。

次回は、この地で生涯を終えた天智天皇の挽歌を詠みましょうね。

 

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柿本人麻呂が長皇子を賛美した意味

2017-10-11 17:05:36 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

やすみしし吾大王 高光る 吾日の皇子

と、柿本朝臣人麻呂が称えたのは長皇子

長皇子は、天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)の間に生れました。弟は弓削皇子、母の兄は川嶋皇子でした。生まれながらにして日の皇子と崇められたのでしょう。

天智帝と天武帝の血統ですからね。弓削皇子が「兄こそ皇位継承者と主張しても不思議ではありませんね。では、人麻呂の歌を読みましょう。

皇子の狩場では、鹿も鶉も身をかがめて畏れ従い、同じく臣下も畏れ多くもお仕えしているというんです。まるで、皇太子ではありませんか。

このような第一級の扱いを受けて長皇子は成長したのでしょう。すると、持統天皇も長皇子をそうとうに大事にし認めていたことになりますね。

反歌に至っては、まるで王者のようです。そして、或本の反歌に、

おほきみは神にしませば真木のたつ荒山中に海をなすかも

とあったと、万葉集はいうのです。

驚くべきことは、人麻呂の歌の意味です。

人麻呂の歌を読むかぎり、草壁皇子亡き後の持統朝の皇太子と認められていたは「長皇子だった」と考えてもおかしくありませんね。

人麻呂は十分承知して長皇子を賛美する歌を詠んだのです。

しかし、長皇子に8歳遅れて、軽皇子(文武天皇)はどんどん成長していきます。持統帝も悩んだかも知れませんね。ここで誰でも持つ疑問です。軽皇子(文武天皇)の立太子に問題はなかったのか。

天武天皇の存命中に次の極位に着くのは、草壁・大津・長・舎人・弓削皇子のうちの誰かと考えられたでしょう。五人の男子は、天智帝の皇女を母に持つ皇子達でしたから高貴な血筋でした。しかし、天武天皇崩御(686)の後、大津皇子の賜死、三年後に草壁皇子の薨去と皇太子候補がいなくなり、そして高市皇子の薨去(696)となれば、臣下は誰を指示したでしょうね。まさか、幼い軽皇子ではなかったでしょう。

持統帝の御代になって皇位継承が問題になった時、軽皇子の母は藤原宮子(不比等の娘)ですから軽皇子立太子には少し無理があったでしょう。

ですから、697年、弓削皇子は軽皇子(文武天皇・東寺14歳)立太子の時に、異議を申し立てたのです。弓削皇子は賢い皇子でしたから無理を通そうとしたのではないと思います。当たり前を正義感で指摘したのでしょう。しかし、弓削皇子の主張は通らず、三年後、彼は若い命を断たれました。母の大江皇女はあまりのショックでしょうか、半年後に亡くなりました。

長皇子は母と弟の死(699)という事態に動揺したでしょうね。

しかも、10年後、文武天皇が崩御(707)してしまいました。その為に、文武天皇の母・阿閇皇女(元明天皇)が即位しました。持統天皇と同じ道を選んだのです。そして、歴史は繰り返します。皇太子ははっきりしていません。

8年後、元明天皇の譲位・氷高内親王(文武天皇の姉)の即位(715)の前に、三人の有力皇子が薨去するのは、歴史的に見て偶然ではないですよね。

長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)と亡くなるのですから、そして9月の氷高内親王(文武天皇の姉)の即位(715)となるのですからね。

人麻呂も既に没しているので、これらのドラマは詠めませんでした。

万葉集や続日本紀を読むかぎり、人麻呂は長皇子を皇位継承者として「高光る日の皇子」皇太子として歌を献じたと思うのです。そんな地位にあったから和銅八年(霊亀元年・715)に長皇子薨去となったと思います。

人麻呂は、若い皇子を賛美しすぎでしょう! あなたはどう思いますか。

では、また。

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大王は神にしませば~人麻呂が詠んだ王朝の皇子

2017-10-10 23:13:49 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

おほきみは神にしませば~と詠まれた歌は、六首

六首の中に「大王は神にしませば天雲の雷の上に…」の歌があります。この歌の雷岳はどこなのか、下の写真の明日香の小さな丘なのか、様々に取りざたされましたね。

では、6首を見てみましょう。

王(おほきみ)は神にしませば天雲の 五百重が下に隠りたまいぬ (巻二~205)

皇(おほきみ)は神にしませば 天雲の雷(いかづち)の上に廬せるかも (巻三~235)

©皇は神にしませば 真木の立つ荒山中に海を成すかも  (巻三~241)

皇は神にしませば赤駒の腹ばう田井を京(みやこ)となしつ(巻十九~4260)

大王(おほきみ)は神にしませば 水鳥の巣だくみぬまを皇都となしつ(巻十九~4261)

これらの歌はどんな状況で詠まれたのでしょうね?

Ⓐは、「弓削皇子が薨ぜし時、置始東人(おきそめのあづまひと)の作る歌一首 ならびに短歌」という題がある「長歌」の後に置かれた「短歌」です。つまり、弓削皇子のための挽歌なのです。そこに「王は神にしませば」と使いました。

Ⓑは、巻三の冒頭歌で、人麻呂の作歌です。「天皇、雷岳に御遊(いでま)すとき、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」とあり、歌の後に「右は或本に忍壁皇子に献ずる歌というなり。その歌に曰く、『王は神にし坐せば雲隠るいかづち山に宮敷き坐ます』」という脚が付けられています。

この天皇は誰か分かっていません。説明の文章がないからです。さて、誰でしょうね。

©は、人麻呂の長歌長皇子、狩路池にいでます時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」の後に付けられた「反歌」の更に後に「或本の反歌一首」がありますが、其の或本の反歌として載せられているものです。

ⒹとⒺ は、「壬申年の乱平定以後の歌 二首」そして、Ⓓのあとに『右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作』とありますから、大将軍の役職にあった大伴旅人(薨去の後に『右大臣』の称号を送られている)の作です。しかし、Ⓔは『作者未詳』とあります。

壬申の乱後の二首とはいえ、大伴旅人は壬申の乱の頃はまだ生まれたばかりで、次の作者は未詳ということですね。そうすると、「大王は神にしませば~」という言葉を造り出したのは、人麻呂でしょうかねえ。

天武天皇の皇子だけに使われた「おおきみは神にしませば」

この言葉は、天武朝と天武天皇の皇子に使われた言葉です。弓削皇子は、天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)の間に生まれた男子です。軽皇子(文武天皇)の立太子の時、異議を申し立てたと伝わります。兄の長皇子を皇位継承者と考えての意義申し立てだったのでしょう。そのためか、弓削皇子は若くして薨去しています。同じ年に、母の大江皇女も薨去しました。

弓削皇子は、額田王と歌のやり取りをしました。額田王も歌を返しています。

いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きし吾が念(も)へるごと(巻二~112)

むかしを恋しがった鳥は、きっと霍公鳥でしょう。ひょっとしたら私の思いのように懐かしそうに鳴いたのでしょうね。

若い皇子には悩みも多かったことでしょう。皇子に対して、額田王は優しく接したのですね。しかし、弓削皇子は、常に身に危険を感じていたのでしょうか。自分の命が長くないことを意識していたようです。

 このような弓削皇子が薨去した時、置始東人が挽歌を詠んでいます。

後日、この歌も読んでみましょうね。

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柿本人麻呂が舎人皇子に歌を献じ、警告した?

2017-10-09 00:22:52 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

柿本朝臣人麻呂が歌に込めたメッセージ

宮廷歌人とされる柿本人麻呂の歌は八十八首(長歌19・短歌69)、人麻呂歌集の歌は、三百六十九首(長歌2・短歌332・旋頭歌35)、人麻呂の歌の中(短3) 

柿本朝臣人麻呂が詠んだ歌は、計 四百六十首

このように多くの歌の中に、柿本人麻呂はどんなメッセージを込めたのでしょう。舎人皇子に献じた歌を読んでみましょう。

おや、ちょっと意味深な歌になっていますね。万葉集には叙景歌はないそうです。まして、人麻呂がただの風景を詠んだとは思えませんから、何かの事情や出来事を詠んだとすると、変な空気が漂っています。霧とか雲などは、霊魂とか人の思いとかが顕れたものだと古代の人は考えました。多武峰の山霧は藤原鎌足の霊魂なのでしょうね。すると、藤原氏側は舎人皇子を邪魔だと考えていたのですね。

舎人皇子の父は天武天皇ですし、母は新田部皇女(天智天皇の娘)ですから、高貴な出自の皇子となります。まだ幼い軽皇子には大きなライバルだったようですね。

その皇子に、人麻呂が献じた歌なのです。

この歌の通りの中身であれば、人麻呂は舎人皇子の成長を願い、その身の安全を危惧していたことになりますね。舎人皇子も十分に承知して、歌を返したと云うことでしょうか。1704・1075・1076と、三首は並べて置いてあるのです。

舎人皇子は、天武五年(676)の生まれです。人麻呂が活躍した持統朝では、藤原氏が力を発揮し始めていました。草壁皇子も、天武天皇が愛した大津皇子も既にこの世の人ではありません。草壁皇子の忘れ形見の軽皇子(文武天皇)は、天武一二年(683)の生まれで、舎人皇子より八歳ほど年下でした。藤原氏としても焦ったことでしょう。舎人皇子が成人していくほどに、不穏な空気が漂ったということでしょうか。

 

鎌足が眠るという多武峰の談山神社の今年の春の写真です。不比等と定恵がここに鎌足の亡骸を移して祀ったと云います。ですから、多武の峯といえば、藤原氏・天智天皇の忠臣である鎌足を意味したのです。

では、舎人皇子に献じた歌を読むかぎり、人麻呂は藤原氏に対して心を許していなかったと云うことになりますね。ここは、重要ですね。

人麻呂は天智天皇を偲ぶ歌を作りましたから、天武天皇に対して気持ちに温度差があるのかと思いましたが、その皇子に対しては深い愛情を感じていたのでしょうか。

他の皇子に対してどんな歌を読んだのか、気になるところですね。

それは、今度。

 

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石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇

2017-10-05 09:08:50 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇

「近江の荒都を過ぎる時の柿本朝臣人麻呂の作る歌」の反歌は、有名ですね。今日は、「ささなみ」のに注目してみましょうか。上の反歌は、30・31挽歌です。

30 楽浪の思賀(しが)の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ

31 左散難弥乃(ささなみの)志我の大わだ淀むとも 昔の人に亦もあはめやも

ささなみの志賀の辛崎はずっとそのままであるのに、昔日の大宮人の船はいくら待っても来ることはない。

ささなみの志賀の大わだはゆったりと淀んでいる。が、昔ここで船を乗り降りした人に会うことはない。

人麻呂が詠んだ「ささなみの志賀」は、多くの人に感銘を与えたのでしょう。持統天皇がほめたに違いありません。だからこそ、他の歌人もこぞって「ささなみの志賀」を詠んだのでしょう。32,33番歌には、高市古人(黒人)が詠んだ「ささなみの滋賀」の歌が置かれています。

    高市古人(黒人)近江旧都を感傷して作る歌

32 古(いにしへ)の人にわれあれや楽浪のふるき京(みやこ)を見れば悲しき

33 楽浪の国つみ神の浦さびて荒れたる京(みやこ)見れば悲しも

高市古人は柿本人麻呂の歌に感動したのでしょう。追和するように「近江の荒都」を詠みました。

わたしが注目したいのは、持統天皇の御代の歌は、天皇御製歌「春過ぎて」の後は、人麻呂の「荒都を過ぎる歌」29・30・31番歌になり、続いて高市古人の32・33番歌となり、次は、川嶋皇子が「有間皇子を偲ぶ結び松」を詠んだ歌となる事です。川嶋皇子の次には「阿閇皇女が夫の草壁皇子を偲ぶ歌」となっていて、すべてが過去を思う歌です。

29~35番歌まで、持統天皇の新しい御代を寿ぐ歌はなく「古を追慕し追悼する歌」が続くのです。

これは何故でしょうか。なぜに、過去をこれほど懐かしむのか、慕い続けるのか、不思議に思いませんか? 34・35番歌は皇子と皇女の歌ですが、二人は共に天智天皇の子どもですから、異母兄弟なのです。裏を返せば、所縁の歌と人を並べてこぞって天智天皇を偲んでいる編集の仕方なっているようですね。よくよく考えてみると、持統天皇の「天の香具山」こそ、舒明天皇(天智の父)と天智天皇が詠んだ「神山」だったではありませんか。香具山を神山として詠んだのは、2番歌の「国見歌」と13番歌の「三山歌」でしたね。「持統天皇は初めから、天智朝を思っているのです。

   紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌

34 白波の濱松が枝の手向け草 幾代までにか年の経ぬらむ

(日本紀に、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国に幸すというなり)

  勢能山(せのやま)を越ゆる時、阿閇(あへ)皇女の作らす歌

35 これやこの倭にしては我戀ふる木路(きじ)に有りとふ名に負う勢能山

これらの歌は、既に紹介しています。

驚くべきことは、持統天皇の御代は、天智天皇を思い出し追悼することで始まったと云うことです。それを終えて、やっと36番歌「吉野宮に幸す時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」となって、持統天皇を寿ぐ歌になるのです。

万葉集の歌の並びは、見逃せませんね。

「ささなみの志賀」にせまりたかったけれど、話が反れました。「ささなみの」は他の時間にまわしましょう。

また、お会いします。

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柿本朝臣人麻呂は天智天皇を大王とたたえた

2017-10-02 00:23:24 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

柿本朝臣人麻呂の登場

人麻呂の歌は、巻一の持統天皇の御製歌「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山」(28番歌)の次に置かれています。持統天皇の御代になって活躍した人のようですね。

しかも、29番歌の題詞には「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」とあり、作者名より前に状況や地名が書かれていますから、研究者の説によれば「これは公的な場で詠まれた歌」ということになります。人麻呂が公的な場で詠んだのは、滅びた王朝への鎮魂歌でした。

 

それにしても

 柿本朝臣人麻呂の「朝臣」は壬申の乱で活躍した臣下に与えられた姓(かばね)です。すると、柿本氏は天武天皇側で働いていたことになります。または、近江朝を裏切って天武天皇側に乗り換えたのか、です。

そんな天武朝側の臣下である柿本朝臣人麻呂が、滅ぼした近江朝を追慕し追悼しているのです。やや違和感があります。そして、近江朝こそ畝傍に即位した神々の皇統だと歌うのです。

では、人麻呂の歌を読んでみましょうね。

「玉だすき」の「たすき」は、「うなじ」に掛けることから「うね」にかかります。神祭りをする時、掛けるものが「玉だすき」なのでしょう。

神々しい畝火山を氏山とし、麓の橿原に王朝を開いた日知王の御代から 神として顕れられた神々のことごとくが、栂の木のように次々に天の下をお治めになられたのに、その倭を置き去りにして、青丹を均したような平山(ならやま)を越え、どのようにお思いになられたから、都より遠く離れた田舎であるのに、石走る淡海の国のささなみの大津宮で天の下をお治めになられたのであろうか。その天皇の神の命の大宮は此処だと聞くけれど、大殿は此処だと云うけれど、そこは春草が生い茂っている。春霞が立ち、霞んで見える大宮処を見ると悲しいのだ。

「空みつ倭国は畝傍山の王朝から始まり、その王朝は「日知り王」として倭を統治してきた」と、王朝の始まりを述べています。すると、畝傍を氏山とする一族が倭国のはじめの支配者だったと、人麻呂は認識していたのですね。

しかし、「天智天皇は、なぜか大和を捨て淡海の大津宮に遷都した」と、近江が田舎だったこと、人心が近江遷都をいぶかったことがわかります。

「その王朝は滅び、その宮殿跡は荒れ果てている」壬申の乱から二十年ほど経っていますから、草木は茂っていたでしょう。宮跡に住む人もいなかったのです。

この長歌を聴いていたのは、もちろん持統天皇です。詩歌の言葉の一つ一つが女帝を慰めたのでしょう。持統天皇は近江の都を十分に知っているのです。大宮も、大殿も、舟遊びの岸辺も、華やかな宴も、近江の穏やかな小波も、十分に知っていたと思います。

人麻呂は女帝に寄り添って近江朝を詠んだと私は思います。

ここでは、天武朝を詠んでいません。畝傍山の皇統を詠い、天智天皇を追慕しています。持統天皇の御代であれば、天武天皇崩御の後月日もたいして経っていないはずです。それでも、天武天皇ではなく天智天皇を懐かしみ、深く偲ぶ持統天皇。その心の内を人麻呂は知っていたのです。

 持統天皇がなぜ天智天皇を深く思っていたのか、以前も書きましたから、お分かりですよね。

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中皇命の運命を万葉集は物語る

2017-09-03 20:46:54 | 万葉集の冒頭歌

中皇命の愛と決意

万葉集巻一の冒頭を見ると、雄略天皇・舒明天皇の歌に続いて「中皇命が間人連老をして舒明天皇(629~641年在位)に献上させた歌」となっています。この時代、中皇命と呼ばれるべき女性は、間人皇女以外にはいないそうです。

中皇命とは、皇位継承の玉璽を預かっている重要な立場の女性のことです。天皇に近い女性が選ばれます。間人皇女は孝徳天皇の皇后に立ちました。ですから、孝徳帝崩御の後に「中皇命」とという立場になったのでした。

 

中皇命が間人皇女だとして、 遊猟の時の皇女は十歳そこそこでしたから、天皇の遊猟に歌を献上することは難しかったでしょう。だから、代わって皇女の養育を担当する役だった間人氏が歌を詠んだというのです。

それにしても、舒明天皇の遊猟の時になぜ中皇命(間人皇女)がついて行ったのでしょう。そこで、歌を間人連老が代わりに詠むのなら、幼い少女を狩に同行させる意味が薄れます。

天皇の御猟にはたくさんの従者が仕え儀式を行いました。梓弓を鳴らし、いよいよ狩が始まる引き締まった朝の空気を、中皇命(間人皇女)の代わりに間人連老が詠みました。

この歌が詠まれた時期ですが、間人皇女が本当に中皇命になった時と考えることはできないでしょうか。

その理由ですが、ちょっと複雑です。

前回のブログで「間人(たいざ)」のことを書きました。間人皇后は、穴穂部間人皇后ではなく孝徳帝の皇后の間人(はしひと)皇后だったのではないかと。それというのも、穴穂部間人皇后は、用明天皇崩御後に義理の息子の田目皇子(用明天皇の皇子)の妃となりました。なぜ、義理の息子に? 

それは、穴穂部間人皇后が望んだことではなく、皇族の決まりのようなものだったのではないでしょうか。後宮の女性は自由に相手を選ぶことができずに、同じ皇統の男性のもとに置かれたということです。

同じことが孝徳帝の崩御後もあったのではないかと考えたのです。つまり、間人皇后は義理の息子の有間皇子の後宮に移された、または、移る決まりになっていた、と。

そうすると、中皇命が有間皇子を追って紀伊温泉に往った理由がはっきりしますし、「我が背子」と呼んだわけも分かります。中皇命は夫となるべき皇太子を心配して、牟婁の湯に護送された有間皇子を追って紀伊温泉に往ったことなります。

 

万葉集を繰り返し詠んでいると、巻一3の歌の題「天皇、遊猟したまう時…」の中皇命が同行した天皇が舒明天皇だったとは思えないのです。

「中皇命」とありますから時期は孝徳天皇崩御後になり、その時「遊猟したまう」天皇は誰でしょう。この天皇は男性ですから、斉明天皇ではありません。

その天皇は、難波長柄豊崎宮御宇天皇とよばれたのではありませんか。難波長柄豊崎宮天皇といえば孝徳天皇のことですが、有間皇子も同じ宮にすんだのであれば、同じ難波天皇と呼ばれたでしょう。

不思議なことに、万葉集には孝徳天皇代の歌は一つもありません。孝徳帝の歌は書紀には書かれていますから、歌が詠めなかったわけではないのです。華麗な難波宮の後宮では歌も詠まれたでしょう。しかし、万葉集には掲載されていない……のではなく、元々あったのではないか。そこに、若干の手が加えられた……

 

中皇命が同行した天皇は難波天皇の皇太子(同じく難波天皇と呼ばれた)だったのではないか、と思うのです。

巻二の冒頭に難波天皇と出ていますが、それは仁徳天皇となっています。もしかして、この難波天皇も仁徳帝ではないとしたら…

この難波天皇は難波長柄豊崎宮天皇だったとしたら、巻二の歌は大変身するのです。

このことは紹介済みですよね。

 

 

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間人皇后が間人に逃れた理由(1)

2017-08-28 20:29:10 | 万葉集の冒頭歌

間人(たいざ)という町を知っていますか?

日本海側の漁師町です。そこで行われるお祭りは、「間人皇后をカクマッタことを誇りに思い、そのことを忘れないために」続けているそうです。

間人(はしひと)皇后とは穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后なのだそうです。

蘇我物部戦争(仏教を取り入れるか否かを争ったという戦争)の難を逃れた穴穂部間人皇后を間人(たいざ)の人々がお世話した、という伝承。

このことを誇りに思って、間人皇后を忘れないように地名を「間人(たいざ)」とし、祭りを続けてきたという町なのです。

でも、何か、落ち着きが悪いですね。

「間人(はしひと)皇后を守った」という伝承は、ほんとうに用明天皇の皇后だったという穴穂部間人皇后(聖徳太子の生母になります)にまつわることなのでしょうか。

わたしは、孝徳天皇の皇后だったあの間人皇后に関わる話ではないかと、思えてならないのです。

だって、穴穂部間人皇后の家族は、聖徳太子をはじめ皆が蘇我氏側について戦争(587年)に参加しています。母の間人皇后のみが逃げたのでしょうか?

用明天皇(585~587年在位)の在位は短く、586年からご病気でした。

病気だったかもしれない夫の用明天皇を残して皇后が逃げる……不自然です。

587年 蘇我馬子、敏達皇后を奉じて穴穂部皇子を殺す(6月)

     物部蘇我戦争(7月)崇峻天皇即位(7月)

蘇我物部戦争は仏教に関わる宗教戦争というより、皇位継承の争いだったのではないでしょうか。(憶測ですが)

 

では、間人(たいざ)の話に戻りましょう。

間人(はしひと)皇后は、用明天皇の皇后ではなく、孝徳天皇の皇后だったのではないかと思うと、わたしはいいました。

間人皇后(中皇命)は有間皇子を追いかけて、紀伊温泉まで行きました。そして、有間皇子は藤白坂で追っ手に追いつかれて殺されました。その傍に中皇命はいなかったのでしょうか。

有間皇子は「われは全(もはら)知らず」と答えて、中大兄の前を去っています。しかし、追っ手がかけられました。

藤白坂で追いつかれ、皇子は従者とともに殺されました。その惨事を中皇命が知らずにいたとは思えません。「わが背子」と詠んだ人が殺されたのですから。

 

中皇命は、牟婁の湯から戻った有間皇子を迎えたのではありませんか? そうであれば、皇子の最後を知った後、どうなったのでしょう。

中大兄の妹ではありますが、前天皇の玉璽を預かった中皇命という立場です。

中大兄に従わなければ、身の安全は保証されないでしょう。でも、中皇命(間人皇后)は逃げたと思います。何処へ?

もちろん、日本海側の間人(たいざ)へ。

わたしにはそう思えてならないのです。間人皇后の話が、平安時代の聖徳太子伝承の拡散と盛り上がりに支えられて、その母の穴穂部間人皇后の話にすり替わったと、思えるからです。

だって、

穴穂部間人皇后は逃げる意味がないのです。馬子は既に敏達皇后(推古天皇)を奉じているのですから。馬子は穴穂部間人皇后には何の期待もしていません。しかも、物部蘇我戦争(587)のすぐ後には皇后ではなくなり(天皇崩御)、やがて田目皇子の妃になっているのです。義理の息子の妃になった女性なのです。

588年、崇峻天皇即位。592年、馬子は東漢直駒に崇峻天皇を殺させました。

592年には玉璽は敏達皇后に渡ったのでしょうか。推古天皇が即位しました。

上記のような状況では、穴穂部間人皇后はわざわざ日本海側に逃げる必要はなかったのです。間人(たいざ)の人々も「かくまった」ことを大きな務めを果たしたと誇りにくいでしょう。

でも、玉璽を預かった孝徳天皇皇后の間人(はしひと)なら、追われている状況で大変な緊張感があり、大変な秘密だったと思うのです。守り通したという誇りも芽生えたことでしょう。

そこは匿う力を持った氏族の支配地だったのかも知れません。間人(たいざ)に隠れて間人皇后は玉璽を守ったのでしょう。そのために、玉璽がなくて中大兄は即位できなかったとは考えられないでしょうか。

 

この中皇命(間人皇后)の決断と行動を万葉集は称えているのです。

気になる万葉集の冒頭歌・巻一

万葉集は不思議な歌集です。

冒頭歌・作者の歌の並び・歌の順番・使われた漢字の意味・歌われた時期と事件のかかわり、などなど、隅々まで意味深です。

その中で、巻一の「冒頭歌の並び」をおさらいしましょう。 

万葉集が誰のために編纂されたのか、何が書かれているのか、とても大事なことです。万葉集は歴史の大切な事実を伝えたかったと思うのですが、ある高貴な人(たぶん平城天皇)により編集の手を入れられて、その事実がストレートに伝わらなくなっていると、わたしは思っています。

間人(はしひと)皇后に関わる物語もその一つでしょう。それは間人(たいざ)という地名ともあいまって、わたしたちにはミステリーのように思えます。

長くなるので、今回はここまで。 

 

万葉集冒頭の歌の並びには編纂の意図が見え隠れしていますから、その事を再度考えましょうか。また。

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万葉集冒頭歌・雄略天皇とは何者か?

2017-08-11 17:05:58 | 万葉集の冒頭歌

万葉集は何故か雄略天皇の歌で始まる

雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇允恭天皇の第五皇子

允恭天皇の長男は木梨軽皇子

 兄の安康天皇も雄略天皇も、長男の皇太子・木梨軽皇子が生きていれば皇位には着けませんでしたね。

(埼玉県行田市の稲荷山古墳)

泊瀬朝倉宮御宇天皇・大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)といえば、埼玉古墳群の稲荷山鉄剣で有名な天皇ですね。

 「辛亥年」と象嵌された稲荷山古墳の鉄剣によると、被葬者は獲加多支鹵大王に仕えていたというのです。そのワカタケル大王が雄略天皇のことだという人がたくさんいて、今では定説となっています。それで、辛亥年は雄略天皇なら471年とされたのです。531年なら継体天皇になるからです。

しかし、考古学的には鉄剣以外の副葬品の年代が遡っても6世紀前半となるので、辛亥年は531年ではないかという説も根強く残っています。わたしも531年((稲荷山鉄剣の辛亥年)だと思います。

この鉄剣によって、雄略天皇の実在が確認されたというのです。

ホントでしょうか。(「宋書」倭国伝の倭王武も雄略天皇になるそうです。ホントでしょうか)

鉄剣の獲加多支鹵大王の宮は、泊瀬朝倉宮であり、斯鬼宮ではありません。金石文に残る斯鬼宮は何処にあったのでしょう。

更に、なぜ古代の詩歌集・万葉集の冒頭が雄略天皇の歌なのでしょう。

それも、名も知らない乙女に呼びかける歌で、しかも敬語で呼びかけていますので、儀式歌なのだそうです。

このような雄略天皇は、どのような神祭りをしていたと書かれているのでしょう。名を聞いて、婚約することになるのでしょうか。

古代の天皇はたくさんの有力な豪族の娘を娶り、婚姻関係で勢力を示したようです。

 またまた、明日

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倭は国のまほろば・古事記・倭建命の国偲び歌

2017-07-26 13:10:53 | 64木梨軽皇子の周辺に万葉集

平群を詠んだ古代の英雄・倭建命

平群で少し寄り道しましょう。奈良県平群町には長屋王墓だけでなく、様々な伝承があります。聖徳太子ゆかりの信貴山や、松永久秀の信貴山城もありますね。

倭建の国偲び歌ヤマトは国のまほろば

父の都は纏向の日代の宮です。命尽きる時、偲んだのはヤマトです。

そして、平群の熊白樫の葉をよみました。

なぜ平群の熊白樫なのでしょう。この人は、如何なる星の下に生れたのでしょう。

まず、小碓命は少年なのに西に熊襲建二人を討ちに行きました。女性に化けて兄を殺し、次に弟を殺します。その時、熊襲建の弟から「倭建御子」の名をもらうのです。上のものが誅殺される者から名をもらいました。名付け親とかは、ほとんどが目上の人ですが、不思議です。
この時の武器は剣です。

山の神、川の神、穴戸の神を言向け和し、帰りに出雲国で出雲建の友になり、だまして殺します。
この時の武器は大刀です。

大刀と剣は違いますね。弥生時代の初期は剣が威信財でしたが、後期には五尺刀などの大刀が移入しています。
さて、倭建命は九州の熊襲建、出雲の出雲建を倒したことになります。

では、古事記にある歌謡ですが、東西に遠征し疲れた倭建命の歌です。

 

「古事記」の倭建が詠んだ歌は、国偲び歌と呼ばれていますが、5・7・5・7・7の短歌の形式とは違います。もちろん短歌の形式の歌もありますが、様々ですね。

 

倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(こも)れる 倭しうるわし

やまとは国で最も優れた所 青垣のように山々に取り囲まれた所、 倭こそうるわしい

命の全(また)けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白樫の葉を 髻華に挿せ その子
わたしの命はやがて終わるが、無事なものは、薦を畳のように広げた平群の神山の熊白樫の葉を髻(もとどり)に挿して、神に感謝をするように、なあお前たち。

 倭建命は、続いて詠みました。


愛しけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も

ああ懐かしいなあ、吾家の方から雲が立ち、祖先霊が迎えに来た

 

嬢子(おとめ)の床の辺に我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや

あの子の(ミヤズ姫)の枕元に置いて来た剣 あの刀剣があったならなあ。 こんな目に合わなかったかも ああ

 そうして、倭建命は亡くなりました。「かむあがりましき」と崩の漢字が使われています。

「崩」は、天皇の死去に使われる漢字ですね

倭建命は白鳥となって飛び立ちました。妃や子供たちは竹の切り株の足を破られながらも必死で追いかけました。道々歌った四歌(ようた)は御葬(みはふり)の歌として、その後、天皇の大御葬に歌うというのです。

白鳥は河内の志幾に留まったので御陵を作りました。白鳥の御陵です。しかし、またそこを飛び去ったのでした。

と古事記には書かれています。

いったいどこへ? 平群の神を尊んだのに、倭にも帰らず…何処へ行ってしまったのでしょう。先祖の霊雲がお迎えに来ていましたよね。

 

古事記は意味深な歌が多いですね。

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長屋王に殉じたのか、丈部龍麻呂!大伴三中、挽歌を詠む

2017-07-23 21:35:14 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件の年・神亀六年=天平元年の己巳

丈部龍麻呂は長屋王の賜死に殉じたのでしょうか

万葉集巻三「挽歌」には、気になる歌が並んでいます

神亀六年己巳つちのとみ)左大臣長屋王賜死の後倉橋女王の作る歌一首」と、

「膳部王を悲傷する歌一首」に並んで、

天平元年己巳、摂津国班田の史生丈部(はせつかべ)龍麻呂自ら経(わな)きて死にし時に、判官(じょう)大伴宿祢三中(みなか)が作る歌一首併せて短歌」があります。長屋王事件の年の歌です。読んでみましょう。

443 天雲の 向伏す国の武士(もののふ)と 云われし人は 皇祖(すめろき)の 神の御門に 外重に立ちさもらひ 内重に仕え奉りて 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(親)の名も 継ぎゆくものと 母父に 妻に子に 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命は 斎瓮(いはひへ)を 前に据え置きて 片手には 木綿取り持ち 片手には 和栲(にぎたへ)奉り 平らけく ま幸くませと 天地の 神を祈ひのみ いかにあらむ 年月日にか つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさい来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 王(おおきみ)の 命かしこみ おしてる 難波の国に あらたまの 年経るまでに 白栲の 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに 思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて去(い)にけむ 時にあらずして

天雲の垂れる国の強い男子と云われた人は、皇祖の神殿のような立派なお住まいの警護に、外に立って仕え、又は内に入ってお仕えし、いついつまでも祖先の名を継いでいくものだと、父母にも妻子にも語り聞かせて、故郷を立って来たその日より、国の母は神祭りの甕を前に据えて、片手には木綿を持ち、片手には和栲を奉げて、どうぞ平安でご無事で居てくださいと、天地の神々に祈り、貴方はどうしているだろうか、いつの年かいつの日か、元気なあなたが 苦労を乗り越えて帰って来ると、立ったり座ったりしながら待っていたであろう。待たれているその人は、天皇のお言葉をかしこまって聞き、難波の国で何年も年を経るまで、濡れた衣も干さないで、朝夕務めていた貴方は、いったいどのようにお思いになったのか、たった一度のこの世での暮らしを捨てて、はかなく逝ってしまわれた、まだその時ではないのに。

反歌

444 昨日こそ 君はありしか 思はぬに 浜松の上に 雲にたなびく

 昨日こそ貴方は生きていたのに、思いもしなかった、貴方が浜松の木の上の雲になって棚引いているなんて。

445 いつしかと 待つらむ妹に 玉梓の 事だに告げず 去にし君かも 

何時だろうかとあなたの帰りを待ち続けているだろう愛しい人に、一言も告げずに逝ってしまった貴方なのだなあ。

わたしはこの大伴三中(みなか)の歌を読んだ時、ハッとしました。

丈部龍麻呂は何故自経したのか、もしや長屋王のために殉死したのではないかと思ったのです。

彼はごくごくまじめに主人の王の警護をし、内でも外でも懸命に仕えていたのです。

龍麻呂という人物について、何の落ち度もこの長歌からは窺えません。

難波で仕えたと云うことは、後期難波宮の役人だったのです。

行政職のトップは長屋王でしたから、当然その人を知っています。

大伴三中は、龍麻呂の自経を悲しみました。そして、その忠誠ぶりを詠みあげました。班田の史生(ししょう)ですから、班田司の書紀として事務的な仕事を懸命にしていたモノノフともいうべき龍麻呂が死んだことを、ただただ嘆いているのです。でも、それだけでしょうか。

この歌は、「442 世間は空しきものとあらむとぞ此の照る月は満ちかけしける」の次に掲載されています。

読者は、長屋王の死を嘆く441~2番歌と切り離して読むことはないでしょう。

一連の歌としてつづけて読むと思います、同じ年ですから。

神亀六年は天平元年と改元されました。読者はその意味も理解しています。

長屋王を倒したことで「天下は平らかになった」というのですから。

そのあまりな元号のおぞましさと理不尽さを、長屋王は無罪だったという真実を、長屋王事件が陰謀であったと、一連の歌は訴えていると思うのです。

大伴宿祢三中の歌は「意味のある自経をした男をモノノフと表現した」のだと思うのです。大事な家族がありながら、彼は長屋王の賜死に殉じたのだと。

長屋王は誰にも尊敬された人だったのかも知れません。

平群町の長屋王の墓は、古代氏族の平群氏が丁寧に葬ったのでしょう。前方後円墳の後円部の中に長屋王の墓は造られていると、何かで読んだことがあります。何であったか忘れましたが、たぶん平群氏は自分の先祖の墓を王の為に提供したのだと思います。

長屋王は謀反の罪での賜死ですから、大きな墳丘墓は築けません。だから、敢て自家の祖先の墳丘の上に王墓を造ったのではないかと。その傍らの微高地に吉備内親王の墓を築いたと思われるのです。

今なお、小さな墳丘に平群氏の心使いが偲ばれます。

万葉集の巻三の挽歌441~5は、非常に意味深な五首ですね。

貴方はどう読まれましたか?

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