今日は、防人の歌の紹介です。
万葉集巻二十に収載されている防人の歌のいくつかを、教科書でも習いました。白村江敗戦後に唐と新羅から倭国を守るために防人が徴集されたということでした。彼らは家族と別れて故郷を離れ、難波に集められました。そこから、筑紫に向かったのです。教科書で習う歌です。
4425 防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨(とも)しさ 物思(ものも)ひもせず
「今度防人に行くのはどなたの旦那さん」と尋ねる人、そんな人を見るのは羨ましい限り。なんのもの思いもせずに。(万葉集釋注・伊藤博)
国号が「日本」となるのは670年あたりだそうですから、百済救援に兵を出した頃は、倭国でした。白村江戦に派遣されたのは、九州の二万の兵です。畿内や東海からは兵士が出ていません。畿内の王権が、九州のまつろわぬ豪族の勢力を奪うために筑紫から兵を出したのだと、NHKの番組でゲストが話しておられました。もちろん、憶測でしょうが。そうしか考えられないほど、不思議な出兵だったということでしょう。畿内の王権が百済救援を決定したのに、出兵したのは九州の兵でしたから。
不思議なことに、防人もなぜか東国から徴集されました。九州の島々で防衛の任に就くのに、遠い東国から集められたのです。彼らは準備も全て自前で、十五日ほどかけて難波に集まったのです。拒否したら死罪だったとか。難波までの十五日間に病気になったりして、期日通りに難波まで辿り着けなかった人もいたようです。古代の旅は命がけでした。
ですから、東国から筑紫などの遠い所へ兵士を出すなど、考えられないほど大変なことでした。何故、防人が東国からだったのか、不思議です。
学者さんは「東国が朝廷の直轄領だったから防人が出せた」と言われます。でも、遠い東国から兵を出すのは容易ではありません。いつ直轄地になったのでしょう。
「防人」が日本書紀に出てくるのは大化二年(646)正月、孝徳天皇の改新の詔です。この時に、すでに「防人」という組織や考え方があったのでしょう。
白村江敗戦後に防人が徴集されました。敗戦後にさっそく徴集できたのですね。早いです。
それから、防人の悲劇は長く続きます。天平九年(737)に、防人を東国に返すということがありました。実は、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麿)が疫病死したからです。
軍事拡大路線が一時的にストップしたのでしょう。然し、東国の防人は再開されます。
東国の防人の停止は天平勝宝九年(757)です。この年は八月に改元され「天平宝字元年」となります。その閏八月「大宰府の防人に坂東の兵士を停め、西海道七国の兵士を充てる」ことになりました。やっと、東国からの防人が解放されたのです。
何があったのでしょう。664年から757年まで九十年間も続けていた東国からの徴集を変えたのです。
それは、大伴家持が集めた「防人の歌」を朝廷の重鎮が読んだからではないでしょうか。万葉集巻二十には、天平勝宝七年(755)に集めた「防人の歌」が八十四首、家持が防人を思って詠んだ歌が二十首、昔年の防人の歌が八首あり、計百十二首が収載されています。この歌は時の左大臣橘諸兄の目に留まったのでしょうか。
これを読んで、東国の防人徴集は止めるべきだと思った高官がいたのでしょうか。高官が家持の集めた防人の歌を読んだかどうか定かではありません。。755年、家持は橘諸兄の息子の橘奈良麿の宅の宴に参席しています。宴席にいた左大臣に、家持が「防人の歌」を披露したのかもしれません。それから朝廷において議論され、その二年後に東国の防人は停止された、のかもしれません。
防人の歌は、現代の私たちにも理解できる歌です。親子の別れ、夫婦の別れは悲しいものですが、夫を亡くした母親を残して旅たつ息子や、妻を亡くした父親を残して行く息子や、母親を亡くした我が子を置いて行く兵士など、いずれも悲惨な別れです。生きて帰りたいと元気に帰って愛しい人に逢いたいという恋人たちも悲しいです。その悲しみを家持は理解したのです。
そして、何とか朝廷にも分かってほしいと思った、そう考えました。
貴方は、どう思いますか?
この当たりのことを、9月6日に久留米でお話ししたいと思っています。
では、また。