巻一70 倭には鳴きてか来らむ呼兒鳥象の中山呼びぞ越ゆなる
なつかしい倭には、呼兒鳥がもう鳴いて来ているだろうか。この吉野では象の中山を吾子と呼びながら越えている。(いったい誰を呼んでいるのでしょう。やはり、あの方が別れた吾子を呼ばれているのでしょうね。)
謎の鳥・呼兒鳥(万葉集事典では下記のように説明されています)
かっこうか。郭公。渡り鳥。夏鳥。ほととぎすより大きい。灰青色。尾が長く白斑。蛾の幼虫を捕食。おおよしきり、ホオジロ、もず等の巣に托卵。声は人を呼び人恋しさを誘う。カッコウと鳴く。他に、容鳥(かおどり)、ほととぎす等の説も。
結局どんな鳥なのか分からないのです。「呼兒鳥」は万葉集に9首ほどあります。
巻八(1419) 神奈備の伊波瀬(いわせ)の杜の喚子鳥痛くな鳴きそ吾恋まさる(鏡王女)
巻八(1449)よの常に聞くは苦しき喚子鳥声なつかしき時にはなりぬ(大伴坂上郎女)
巻九(1713)滝の上の三船の山ゆ秋津へに来鳴きわたるは誰呼兒鳥(吉野離宮に幸す時の歌)
巻十(1822)わが背子をな越しの山の呼兒鳥君呼び返せ夜のふけぬとに
巻十(1827~8・1831・1941)
結局どんな鳥なのか分からないのだそうですが…
しかし、高市連黒人は「呼兒鳥」の意味を分かっていた。分かった上で持統天皇に献じたのです。
万葉集で詠まれる鳥は、人の思いを伝える存在であり、亡き人の思いであり、霊魂そのものでもありました。あこ―と哀し気に鳴く呼兒鳥は、別れた吾子を呼んでいる霊魂なのです 。その霊魂が誰なのか、持統天皇には分かっていると、黒人は理解して詠み献じたのです。鳥となって持統天皇を呼び続ける人は、藤白坂で刑死した有間皇子をおいて他にはないでしょう。その鳥は、紀伊国から吉野川を遡り、倭へ「あこー」と呼びながら入っていくのです。
持統天皇は高市連黒人の歌を誉めたことでしょう。そして、紀伊国の岩代の結松に通う鳥を思い出したでしょう。
巻一145鳥となりあり通いつつ見らめども人こそ知らね松は知るとも(山上臣憶良)
「結び松に通っていた鳥は、愛しい人を呼んでいた。あれは、呼子鳥だったかも知れない。あの方は鳥となって、松が枝を結んで共に幸い(命永からんこと)を祈った間人皇后の姿を求めて、幾度も幾度も松を見に来られたに違いない。人は気づかないけれど、松は知っていたと、山上憶良は詠んだのだった。そして、今日、呼兒鳥がわたしのことも忘れずに呼び続けていたと高市連黒人は詠んでくれた。何と嬉しいことだろう。」
高市連黒人は長忌寸意吉麻呂と並んで、持統帝を感動させ歌を認められました。
持統天皇のお気に入りの歌人として、近江朝を偲ぶ歌も詠みましたし、持統天皇の最後の行幸(東国)にも従駕して歌を献じました。もちろん、人麻呂は別格でした。万葉集を編纂できる歌人は彼をおいて他に在りませんでしたし、帝の心に深く入り込めた詩人は彼だけでした。
呼子鳥を詠んだ歌
「呼子鳥」にはいくつもの意味がありました。恋しいあの人を呼ぶ鳥、愛しい吾兒を呼ぶ鳥、誰か知らない人を呼び続ける鳥、ただならぬ因縁がある人を呼ぶ謎の鳥として、詠まれています。しかしながら、黒人の呼子鳥が何を意味するか、献じられた帝には理解できたのです。
高市黒人の呼子鳥の歌から浮かび上がるのは、癒されぬ持統天皇の愛・家族と哀しい別れをした心の傷だったのではないでしょうか。
自分を呼び続ける人がいると、持統天皇は深く思う所があったでしょう。それだから、最後の紀伊国行幸(701)はなされたのかも知れません。
大宝元年に有間皇子の霊魂を鎮め奉り(701)、次の年に参河から伊勢に行幸した後に崩御されるのですから。
女帝は何ゆえに最後まで凛々しく強く生きようとしたのでしょう。
何もかも手にしても、心が満たされなかった人でしたね。