藤原不比等とは何者か? その2
前回、藤原不比等(ふひと)(鎌足の二子)の母は誰とされているのか、を少々書きました。
「興福寺縁起」は、鏡王女(かがみのおほきみ)を不比等の母だとしました。その可能性がないわけではありませんが…。しかし、万葉集事典では「母は車持国子君女(くるまもちのくにこのきみのむすめ)」としています。興福寺としては、車持国子君女では「役者が足りなかった」ので、鏡王女としたのでしょうか。
が、鏡女王が高貴な女性であれば、鎌足の正室の位置にあって一族に采配しても、鎌足と寝所を共にしたとは思えません。わたしの勝手な考えではありますが。確かに、鎌足と鏡王女は歌をやり取りしていました。
鎌足と鏡王女の万葉集の歌は、公の場で詠まれたものでしょう。天皇の前で詠まれたものかも知れません。寵妃を臣下に与えるとはどういうことでしょうか。
平安時代も、高貴な女性であった皇女・内親王は皇族以外の男性に嫁することはできなかったのですから。その身分を冒すことは大変なことだったのです。そんな鏡王女が天智帝の子を身ごもり、男子を生んだ可能性はあります。たとえ鎌足の子として育ったとしても、世間には高貴な血だと知られたでしょう。古代では高貴な血筋は何にも代えられない意義と価値があったのです。豪族たちは自分の出自を粉飾し高貴な氏であることを主張しました。
平安時代に嵯峨天皇の勅により編纂された氏族名鑑の「新撰姓氏録しんせんしょうじろく)」がありますが、これは氏族の出自が乱れたので、それを糺そうとしたものです。淳仁天皇も桓武天皇も取り組んだのですが、完成に至らなかったのでした。嵯峨天皇の時代にようやく完成したのです。
定恵が高貴な血統だとして、その母は誰でしょう。「日本書紀」と「藤氏家伝」の双方に「軽皇子(孝徳天皇)が中臣鎌足を気に入り、宮処に泊めたりして朝夕の世話を寵妃の小足媛にさせた話」が書かれています。書紀も家伝も内容はほとんど同じです。では、小足媛が定恵を生んだというのでしょうか。世間では、定恵は孝徳天皇の皇子というのです。しかも、小足媛は有間皇子を生んだ孝徳天皇の寵妃です。鎌足は軽皇子の気持ちを嬉しく思う事はあっても、小足媛にたわけた真似はしなかったと思います。彼は超忠臣なのですから。もちろん、どちらにも小足媛が男子を生んだとは書かれていません。
同じように天智帝に忠義を尽くした鎌足は、鏡王女にたわけることはなかったし、鏡王女も鎌足を受け入れることはなかったでしょう。鎌足の子をもうけないことが、その身を護った証となるのですから。定恵が鏡王女の御子であれば、我が子を強く愛した鏡王が、国外に留学させたのは理由があると思います。また、不比等が鏡王女の御子であれば、壬申の乱の後も守られたと思います。
これで、天武帝が鏡王女を見舞った理由が明白になります。生涯を鎌足の正室としながら、天智帝の寵妃であった過去を守り続けたその意思に対しての労いです。世間にもこれほどの美女はなく、これほどの意志の強い女性はいなかったでしょうし、何より藤原氏を護った聡明さに対しての労いでした。薨去の後は、父・舒明帝の墓の傍に眠ったとなるのです。
皇女として生きること、天智帝の寵妃として生きることを世間も望んだということです。天武天皇の見舞いは、鏡王女が皇族だったことの証明にもなるでしょう。天武帝の異母妹だったかも知れません。
不比等の生涯を見ると、持統帝の即位の時期に合わせて台頭してきます。持統帝が藤原氏を重用するのは何故でしょう。藤原氏が天智帝の寵臣であったこと、天智帝に忠義を尽くしたことが大きかったのではないでしょうか。持統帝も天智帝を深く慕っていたのですから。
文武帝即位では、娘の宮子(みやこ)を夫人として皇室に接近し、翌年には、藤原の姓を承(う)けました。藤原の姓は「藤原鎌足」が天智天皇から賜ったものであるから、不比等の家系以外は中臣(なかとみ)に戻したのでした。
それにしても、不思議ではありませんか? 天武帝が極位に着いているのに「天智帝の寵妃として一生を送った」鏡王女を称え、「天智帝が贈った藤原の姓を不比等の家系だけに限る」など、あまりに天智帝の威光を強調していることが。何よりも不比等は律令政治に引き戻そうとしました。天武帝の天皇親政を終わらせたのです。もちろん、持統天皇も承知の上です。やはり、持統帝と天智帝の結びつきが見え隠れしてしていますよね。
不比等は、大宝元年には大納言、和銅(わどう)元年には右大臣です。養老(ようろう)元年(717)に左大臣の石上麿(いそのかみまろ)が没しますから、最終的に不比等が議政官のトップになるのですが、何故か、石上麿が没した後は、左大臣は空席のままです。
元正(げんしょう)天皇(文武天皇の姉・草壁皇子の娘・独身)は、不比等を左大臣には任官しませんでした。元正天皇の陰には母の元明(げんめい)天皇がいて、その意思が働いていたのでしょう。元明天皇は非業な最後を遂げた夫の草壁皇子の意思を守っていたのです。元明天皇には夫の意思を受けての信念がありました。さっそく、高市(たけち)皇子の長子である長屋王(ながやのおほきみ)を大納言に任じました。「天武天皇の皇統に極位を譲る 」それが、草壁皇子の意思でしたから、妻としての元明天皇は、大変けなげで賢い人だとおもいます。
養老二年(718)、長屋王が大納言に任じられる
高市皇子の王子がこれから権力の坐へ登っていくと、誰にもそう見えました。長屋王の妃は、文武天皇との元正天皇の妹(吉備内親王)だったのですから、これほどの皇位継承者としての宮家は有りませんでした。
ここから、長屋王家の滅亡計画が藤原氏により密かに進められていくのでしょう。
720年に不比等が没します。
没後に、不比等は太政大臣の称号を送られました。十年後、不比等の意志を継いだ長男の武智麻呂(むちまろ)が長屋王家を滅ぼすという展開になるのです。藤原氏は徹底的に天武帝の皇統を切り捨てて行きました。それは、不比等の遺言だったような気がします。そして、誰もいなくなった、のですから。
また、明日