弱い文明

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「BIUTIFUL」

2011年07月21日 | 映画
 生涯を通じて「一番好き」であり続けるだろう映画監督は、僕の場合、故・アンドレイ・タルコフスキーだ。「惑星ソラリス」を観て「映画」の概念を一変させられて以来、彼の全作品は僕の意識と無意識の双方に、背後霊のように寄り添って、離れない。
 ほかにも好きな映画監督はたくさんいるけれど、タルコフスキーは別格。決して完全なアーティストではなかったし、彼の作品も一つとして完全なものはなかった。きっと、彼より優れた監督、彼の個々の作品より偉大な作品は、いくらでもありえる。だけど、そういう問題ではない、タルコフスキーはタルコフスキーなのだから、好きにならずにいられない、そういう何かがある。共感するとか同意するとかではなく、ただ愛してしまう何か、抱きしめたくなってしまう何かが。
 僕が思う彼は、天才的に不器用な人だった。そして彼の映画は、いつも映画以上の何かに変態しようと、もがいている生きもののよう、であり。こういう映画を、僕はほかに知らない。そういう意味で、出会って20年以上経った今でも、特別な存在なのだった。

 ところがただ一人、現存の映画人で、タルコフスキーとは違う意味で、違うタイプであることは承知のうえで、それでも「同じくらい好きかも」と思える存在に、一昨年出会った。それがメキシコの映画監督、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥである。人から、「21グラム」という作品を教えてもらい、レンタルで借りて観て、衝撃を受けたのである。
 調べてみて、ケーブルテレビで昔偶然に観た「11'09''01/セプテンバー11」という、「9.11」をテーマにした11人の監督による短編オムニバスに、作品を提供している一人であることに気がついた。 真っ黒な画面に、途切れ途切れの記憶の断層のように、黒煙を上げるツインタワー、その窓から墜落する人の記録映像がカットインしてくる。その映像に、様々な人のささやき、声(アナウンサーの実況の声、政治家のスピーチなどを含む)が無秩序にかぶさってくるという、11短編中最も異色のものだったので、はっきり憶えていたのである。
 ちなみに、このオムニバスに監督として短編を提供していたショーン・ペンが、のちにイニャリトゥ監督の「21グラム」で主演を務めることになった(個人的に「セプテンバー11」では、このショーン・ペン監督の短編が一番好きなのだけど)。

 「21グラム」の次が、役所広司、菊地凛子らの出演で日本でも話題になった「バベル」だった。これはDVDが安く売られていたので、買って観た。「21グラム」と同じか、それ以上に好きになった。
 処女作「アモーレス・ペロス」だけは未見だが、概要を読む限り、後の2作品と共通する構造を持っているらしい。つまり、3ヶ所の異なる場所で進行する、お互いに無関係な人間達の物語が、いつしか一つの物語になっている、という構造である。
 無関係な、と言ったけれど、実はここがポイントで、彼の映画は、普通なら「無関係」と定義されるような人物達をつなぐ、見えない糸を見えるようにするのだ。そして見えてしまえば、結局のところ、この世に「関係ない」ものなど何もない、すべては関係し合っている、という、崇高な現実が立ち現れる。一種仏教的といっていい世界観、これが人物の背後に行き交う濃厚な死の影とあいまって、映画という舞台装置の上で、生き生きと躍動し始める、そこに僕は(仏教徒とは言えないけれど)、他の映画監督とは違う、特別な、太いシンパシーを感じてしまうのだった。

 そんなイニャリトゥ監督の最新作が、今公開中の「ビューティフル(BIUTIFUL)」である。が、今作では、前記3作で定番となった、その分散・並立の構造を捨てている。主人公はただ一人の男、場所も一ヶ所。オーソドックスな物語の形式に戻ったということだが、どうなんだろう?そのあたりを気にしながら、観に行った。
 主人公はバルセロナの裏町で、外国人労働者の(なかば非合法の)仲介・斡旋をして生計を立てている、二児の父親。末期ガンに侵されていることを知ってからの彼の足取りを、ほとんど彼一人を中心に追っていく。時にほかの登場人物、たとえば中国人移民たち、セネガル系移民たち、主人公の兄や子供たちの視点がはさまるけれど、その背後に常に主人公の動向があるので、あくまで彼を中心に据えた「時と場所の統一」は守られている、と言っていいのだろう。

 それでも、物語は独特な(異様な)展開をしていく。原因は、この主人公のもう一つの顔、隠れた重大な資質のせいだ。彼は、死んだ直後の霊と交信できる、一種の「送りびと」というか「聞き届け人」、なのである。なので、彼の住む町一ヶ所での話でありながら、彼の精神には常に「ここではない場所」の周波数が混線してくる可能性にさらされている。彼の亡き父との時間を隔てた「混線」も──しかも、彼はこの父と生前会ったことがない。その意味で、亡父は彼の人生にとって「無関係」のはずなのに、彼は感情的にこの父と深いつながりを自覚している。それが何を意味するのか、わからないままに──このあたりに、過去3作を撮った監督の、「関係」へのこだわりを見る思いがする。

 異様だったのはもう一つ、風景や情景の写し取り方だ。
 映画のタイトル「BIUTIFUL」は、英語のbeautifulをスペイン語式に発音した時のつづりだそうだ。つまり間違ったつづりである。それを、主人公はうっかり娘に教えてしまう。「ビューティフルのつづり?発音どおりに書けばいいんだよ」と言って。あるいは娘が勘違いして憶えてしまったというべきか。
 ところで、この映画には、beautifulな場面などどこにもない。少なくとも僕はそう思った。それがショックだった。
 一本の映画で、これだけ美しくない絵ばかりを延々見せられたのは、ほかに記憶がない。美しい建築物や海岸で有名な観光地バルセロナの面影は、時折遠景にかすかに臨めるくらい。あとはほとんど陰惨な町並みと、移民街の劣悪な住環境を浮き彫りにするような屋内の絵の中で、物語は進行する。レジャーに興じる暇もなく、日々の糧のために歯をくいしばって働くしかない労働者たち。彼らの間を縫うようにして活動する主人公もまた、光あふれるバルセロナとは程遠い、カビの生えた安アパートで子ども二人を抱えながら、余命が尽きようとしている。
 観ていてまったく心地良くない映像を通して、その映像に負けないくらい気が滅入るストーリーが展開していくなかで、思いもよらず、いなづまに打たれたように、揺さぶられてしまったシーンがある。たとえばたくさんの鳥が夕闇の中、飛び立っていくシーンで──この撮影カメラの動きはすごかった。カメラが、主人公のの形を、正確になぞってみせたようだった。
 こんなもの、映画以外で表現できるだろうか?しかし、映画という枠に収めて鑑賞して、はい、よかったねと言って済ませたくもないような、重要なもの。タルコフスキーの映画に僕がわくわくしながら感じ取っていたものは、まさにそういうものだった。beautifulではない、だけどbiutifulという、存在しない語を使ってなら、表現してもいいかもしれない。それを、イニャリトゥは提示しようとしたんじゃないか。
 本物の映画だ──観終わって、言葉にならない感動、というより、胸の中のどの引き出しにしまっていいかわからない種類の感動を抱えながら、思った。

 3.11以来、この国では「死」の感触を今までより間近に、切実に感じるようになった人が増えているのではないだろうか(僕もその一人)。
 それは決して後ろ向きなことなんかではない。僕らよりもっと具体的に死の影に怯えながら生きている人々だっている、この世界というものを、より愛おしく感じるための、もしかしたら必須の条件かもしれない。そんな感触を持っている人にとって、この「BIUTIFUL」は、福音とは言わないまでも、一つの道しるべではありうると思う。

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